自由意志

時間の中で結果をだすということ

この感覚こそが自分感覚

自分という存在は時間の中で結果を出そうとします、来週の試験のために今から準備をしよう、来年の入社に向けて今から就活をしよう、20代で結婚するために今から美容に力をいれよう、、などなど、、、これが自分という存在の通常行動です。ですが実際には時間はなく今を記憶したものに過ぎません、そしてこの自分という感覚も記憶に支えられて湧いて来た感覚であり実在では絶対にありません。だからこそ自分という感覚は将来目標を設定しそれに自分がなると思考し安心するわけです。

夢とは自分維持ツール

将来は何になりたいの???こんな質問を何回されてきたでしょう、、将来の夢は?将来つきたい仕事は???とですがこれらは全部自分という感覚を強める装置になります。この自分が居るという前提でこの質問はされます、この夢の中です。そしてそれによって将来の夢はあった方がいいのかと思考し何か夢を探すのです、時間の中です。夢を持ってそこに歩んでいる期間は確実に自分を維持できますから安心です。安心してこの喜怒哀楽の夢を自分が歩むことができるのです。

ある時気づく、この夢こそが夢に安住するための道具だったと

将来の夢は???その夢こそが自分をこの夢の中に安住させていました、なんとも皮肉なことです、夢というのは自分が歩む最終目標のことであり、、この夢こそが自分を夢の中に閉じ込めて来たのです。夢も思考、夢の中も根源の現象に名前がつけられた幻想の世界です。この幻想の中でさらなる夢を見るという大変面白いことをしていたのです、自分が。

ではどうするのか?

ではどうしたらいいのか???ほぼ全員からこの質問をもらうわけですがどうかできる自分という存在は感覚でしかなくその感覚も根源から起こっているだけです。どうかできるような自由意志がある自分など居ないのですからとにかく諦めるしかありません。もしも根源に触れるという衝動が起きるのならば自分から覚める根源の動きがこの体を通じて起こるのでしょう。

「自由意志がない」は最大のタブー

このメッセージは嫌われる

自由意志はない、このメッセージが広がらない理由はこのメッセージが人類最大のタブーだからです。魂、輪廻転生、前世、来世、ツインソウル、この辺りは信じる人は多くても「自由意志はない」は一気に人気がなくなるポイントになります。私自身このメッセージだけは受け入れるには時間がかかりました。それはありえないだろう、、そう当初は思いました、、ですが覚者と言われる人々のメッセージを噛み砕いてうちに自由意志があると断言する方が逆に不可能であることが腹落ちしたのです。

人間だけが自由意志があると考える方がおかしい

神羅万象、自然界において自由意志がある生物は皆無でありなぜ人間だけが自由意志があると言えるのでしょうか、宇宙の原理はシンプルで特例というのがありません。1+1=2でありこれがあてはまらない分野はない、、、これと一緒で宇宙の原理には特例がなくもしも人間に自由意志があるならば万物すべてに自由意志がないとおかしいことになります。そうなると人間だけが自由意志があると考える方が非常に難しくなるのです。

「自由意志がある」と勘違いすることができる

自由意志があると勘違いすることができる=人間です。明日渋谷に行こう、そして行った、、、これで自由意志があると99.99パーセントの人は勘違いします。事実は「明日渋谷に行こう」が根源から湧き、そして渋谷に行くが湧いた、、です。思考と行動を「自分」が作り出した、、とほとんどの人は思っていますが実はそれが根源から湧いただけなのです。全ては川を流れる葉っぱのように決まって動きが決められていきます。この事実に触れた時に心底安堵が湧いてきます。

ただやらされているだけ

なぜやらされているだけ、、が嫌いなのか?

やらされているだけ、、、これを伝えると多くの方は眉を潜め嫌悪感を出してきます。こんなに人生が苦し重いのになんぜ、、全部自分でやっていると信じたいのか???ここは最高に面白いところです、毎日やりたくない仕事、家庭の責任、老後の不安、子供の将来、、こんなに人生は苦しいのだから全部やらされているだけだと分かれば全部の責任から解放されて最高のはず。どうしてもこの「自分」という存在を手放せないのです。今まで苦労が多かったからこそ一緒に歩んできた「自分」が居なくなるなんて想像できないわけです。

いつ死んでも、、

結局のところ人が死ぬのが怖いのは、、、良い死に方ができなかったら嫌だ、、があるからです。孤独死、餓死、事故死、、、本望ではない死に方は絶対にしたくない、、そう思っているのです。ですが実際には全員死に方を選べずただなすがままに死んでいきます。死に方に優劣が一切ないのはそこに自由意志は全く働かないということです。大金持ちで死のうと、大貧民で死のうと一切誰にも責任がないのです、誰という存在がないのですから。

生きているだけで丸儲け

生きているだけで丸儲け、、という言葉がありますがこれは全くの嘘です。人が生きるという設定自体が地獄なわけです、その人には間違いなく自分が鎮座していますからこの自分が居る限り幸福などありえないのです。人が生きるではなく、、、ただ感じるがままにする、、主人公が抜け落ちた状態を続ける、、その時に湧いてくる幸福感こそが確かなものです。

自由意志が完全にない

宇宙のルールはシンプル

川に落ちた葉っぱは何の意思もなくただ川の流れに従って川を流れていきます。葉っぱにもしも思考があり右に流れる左に流れたいという思いがあったとしてもそれには一切関係なく川の流れに従います。これが自然界で行われているルールです。このルールは人間にも当てはまります、人間がどれほど思い思考を張り巡らせてもそれには関係なく行動が起こっているのです。頭の中で絶対に右に流れたいと思っても実際には左に流れることがあるのです。我々人間は思考こそが人間の行動を決めていると信じていますが実際には思考と行動には因果関係がないのです。

「自分」が思考を決定している

自分が決めたこと、自分が決断したこと、自分が英断したこと、、、この自分とはそもそも何でしょうか?自分はどこに居るのでしょうか?自分とは体の中にどのように存在しているのでしょうか?人類80億人の中でこの自分を見たことがある人は居るのでしょうか?答えはNOです。なぜならばこの自分は実際には存在せずただの記憶による想像物だからです。想像ですから実態がないのです、この実際には存在しない想像物が、、、決める、決断する、、という行為をおこなっているという想像をしているのです。思いは確実に湧きます、この確実に沸いた思いは「自分」という想像物が湧かせたと想像しているのです。

自分は記憶

友人から名前を呼ばれることでこの体の中には確実に「自分」が居るはずだと想像する、お客さんから喜んでもらうことでこの体の中には「自分」が居るはずだと想像する、警察から捕まることでこの体の中には「自分」が居るはずだと想像する、、これが自分の正体です。次から次へと湧いてくる思考は誰が湧かせているのか?それは自分であろうという想像をしているのです。その想像は誰がしているのか?それが根源です。根源が「自分」が居るはずだという想像を起こしているわけです。

根源による想像がただ起きている

この世界には根源にから湧き上がる現象しかなくそれ以外は存在しません。そうならばこの自分という想像も当然根源から湧き上がっています。「自分による意思決定があるという想像」もこの根源から湧き上がっています。ということでこの自分活動に悪いも良いもなくそれがただ起こっているのです。根源から自分という想像がただ起き続けそのまま死ぬまで起き続けるのが普通の人生です。自分という想像による人生がいつまで経っても幸福に至らないことによってこの自分を疑うという思考が湧き「自分ってただの記憶だ」という気づきが起こることが悟りです。自分がただの記憶ならばここには「これ」しかなくただ何かが起きているだけだという気づきが根源から起こります。そこにはもう「自分」という存在は居なくなりただ体だけが存在します。

視点が変わるだけ

PCとしてアプリ操作するかアプリとしてアプリを操作するか

我々はPC内のアプリとしてアプリを操作しているつもりになっている存在です。アプリがいきなりPC内で自由意志を持ち勝手に動き回りあらゆる体験をする(つもり)存在です。ですが実際にはアプリはアプリ単独で動けるわけがなくPCの機能に依存しているのは間違いありません、なぜならばアプリはPCの中のプログラム言語に過ぎないからです。アプリを紐解けば全部が全部プログマム言語でできています。そしてそのアプリに「私が全動作を行っている」という勘違い機能が付加されただけです。それが自分という意思を持ったアプリであり我々「人間」の真の姿です。

アプリは言語をインストールしていく

アプリはPC内で様々な経験をしていくわけですがその度に価値観が変わり、か情報も増えていきます。アプリ内のプログラム言語が増えかつ書き換わっていきます。これによりアプリから眺める全体(PC)の姿は確実に変化していきます。なぜならばアプリが見る世界とはプログラム言語で解釈された世界だからです。アプリとはプログラム言語のことでありそれが書き換わっているにも関わらず見える世界が同じということは絶対にありません。

自我=言語

つまり自我とはプログラム言語です。我々が覚える単語は全てプログラム言語なのです。そして我々が見ている世界はその言語、プログラム言語で形成された価値観(プログラムの集合)で眺められ解釈されています。真実を見ているつもりになっていますが実は全部が全部プログラム言語の解釈が加わっています。ポケモンGOというアプリがあります、、道を歩く際に スマホ越しに見ると、、、道の中にモンスターが出現します。実際は普通の道ですがそこにモンスターが登場します。これを我々はデフォルトでやっているのです。

アプリ独自からPCからのアプリへ

当たり前の話ですがPC内のアプリがPCの機能を使わずにアプリ単独で動けるわけがなくPCのOSから全ての機能でアプリは作動します。アプリを動かしているのはPCです。人間は悟りを開くと自身が実はPCだったという気づきが起こります。なぜならばアプリを起動させているのは事実としてPCだからです、何も不思議なことではありません。自分自身が独立分離した存在だという思い込みが(プログラム言語)そうさせていたことに気づきます。

最終的にはPCの中でアプリが起動していただけという気づき

アプリを動かしているのは機能的にはPCです。それは事実です。アプリはプログラム言語でしかなく機能のほとんどをPCに依存しています。人間も全く同じで人間独自で生きていると思い込まされています、本当はあらゆる機能を全体に依存しているのです。ですがその事実を気づかないようにプログラム言語が働いています。そして本当のことを言えばPCが自主的にアプリを起動させているのではなく操作するのが人間であるように、、、この人間を動かしているのは全体ですが(機能的には)全体が意思を持ってこの人間を操作しているのではなくただその動きが全体を通じて起こっているだけです。人間ー全体ー(操作する人)がいるわけではなく、、、、人間ー全体ー空という感じです。空からビッグバンが起こり、、その起こりを通じて人間はその中で起動しています。全てはビッグバンのごとく空からの爆発で起こっています。

空からの爆発=ビッグバン

ビッグバンとは宇宙の起源、爆発です。どこからこの爆発が起きたのか??空、THE ONE、絶対、無ということになります。ここからの爆発によってこの宇宙、色の世界、現象界、全体が起こりました、、、その延長線上で生命が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれ、、、と進化は続いていきます。そしてその延長線上で人間は言語、記憶能力を身に付け、、人間が居る世界すらも作り出したのです。ポケモンGOの世界(現象界に独自の視点を加える)、人間GOの世界です。

「これが私だ」は強烈なプログラム

7年間近い歳月のインストール

PCの中に生まれたアプリAには「これが自分だ」という認識はありません、なぜならばそのようなプログラムがされていないからです。アプリはただ普通に起動し疲れたら休止します。ただこれだけです、自動でアプリが立ち上がそしてアプリAの機能を果たします。ただこれだけが延々に続きます、、、ある時に他のアプリBからそのアプリAに対してあなたは「Aちゃん」「Aちゃん』と呼ばれるようになります。最初はアプリAは何が起きているか全く分からないのですがこれを数万回継続されることで、、、アプリAは、、、「このアプリは私だ」という認識がインストールされます。アプリAは私はアプリAというこのPCとは全く関係なく独立した自由な存在であると認識するようになります。ですが実際にはアプリAを動かしているのはPCですからアプリに自由意志は一切ありません、アプリの機能にそのような機能は組み込まれていないのです。画面上のアプリに操作機能は一切ない。PCがアプリを常に機能化させているだけです。ですがアプリAは動くこと全てを自分がやっていると勘違いする機能がインストールされています。

もう自由意志を疑わない

思考、動きの全てを「自分がやっている」という錯覚機能がこのアプリにはインストールされていますからこのトリックを疑うアプリは存在しません。ですがアプリは常にPCによって操作されています。そしてアプリ自身も元々は「これが私だ」という認識はなくこの認識は後付けされたインストールによってです。アプリにはこのPC画面内を動く機能が(歩行)がインストールされたために画面内を自由に歩くことができるようになりました。歩くと行っても画面内で動くのは画面の背景であり、、アプリは常に画面の定位置に存在します。そしてアプリから眺める視界はインストールされる言語によって日々変わっていきます。新しい言語を覚えることでアプリからの視界は徐々に変わっていくだけでなくアプリがあらゆる経験を積むことで経験が価値観になりそれがプログラム化されていきます。

無くならない居心地の悪さ

アプリを作り出しているのは全部プログラム言語です。これによってPCが「私はアプリだ」を体験できています。ですがPCはPCでありそれ以外には本来なれません。ということでこのアプリ体験は疲れるのです。PCがアプリになり切るのはどんな感じかを味わうためにこのプログラムをPC自体が構築したはいいが、、非常に骨が折れる経験になってしまいます。ということでアプリ体験をするPCは徐々にこの居心地の悪さを根本的に解消したいと動き出します。そして、、どうやら「これが私だ」というプログラムのインストールこそがこの苦しさの原因ではないか??という気づきにまで届きます。しかしそこに気付いてもこのプログラムは自動反応のように起き続けるのでこれを止めることができません。

「これが私だ」が立ち上がっても無視することでこの機能が落ちていく

「これが私だ」の自動反応は、、、あらゆる思考(言語)と一緒に立ち上がることが分かってきました。そこであらゆる思考が立ち上がってもそれを気にしないという方法を覚えていきます、思考(言語)の無視です。この思考の立ち上がりに意識を向けると、、これが私だも同時に起き上がっていき苦しくなる、、、思考(言語)の起き上がりに囚われると延々にアプリの活動が続いてしまいます。

独立国家「指」は腕全体の中を彷徨う

指は腕全体の中にあって理由もわからず彷徨う

腕全体から完全独立(錯覚)した指はなぜか焦燥感、孤独感に襲われ動き回るようになります。それが時空間です。時空間とは腕全体なのですが腕全体には指は見えません、、、なぜか独立した指はそこに両眼がありその「両眼」を通じてこの世界(腕全体)を見ることになるのですが本質とは全く異なった世界に写っています、なぜならば指には価値観というものが発達しているのでその価値観を通じた世界しかもう見えないのです。だからこそ目の前にホーム、全体、腕全体があるにも関わらず全くの幻想の世界を歩き回ることになるのです。これが独立国家「指」の地獄のストーリーです。

「指」は朝起きるとなぜかやることが沢山

指は朝起きるとやるべきことが沢山あります、会社に行く、学校にいく、買い物にいく、地域の集会に行く、会合に行く、、、、、ととにかく忙しいのが指の特徴です。ですが冷静に考えるとやるべく事など一切なく、、、腕全体の中で指が動き回るのはおかしな事です。老後の心配、年金問題、就職問題、結婚問題となぜか独立した指には解決すべき問題が恐ろしい勢いで襲ってきます。そもそも独立などしなければこれらの問題は皆無にも関わらずなぜこんな問題を抱えてまで独立したのか?という話です。しかも独立は錯覚です。

腕全体が、、、指体験をしてみたかった

腕全体は腕全体では腕の偉大さ、大きさ、力強さを感じることができません。腕以外の存在があればそれも比較検討できるのですが腕は全体ゆえにそれができません。そこで腕全体は指を形式上完全独立させて指体験を積ませたのです。完全独立と言っても指は構造上指自体では何も動くことはできず、、、決定権も一切ない、、、そこで独立したと錯覚させてその感情を味わい尽くすことにしたのです。人間が最終的に全員が至福に戻るのは、、、人間には何一つ自由意志はなく至福に帰る以外の選択肢がないということです。指が最後には腕全体であったことに気づくように、人間も全体であったということに気づくことになります。

「私は在る」は空からの反映

我々は空の影の世界を生きる

ゼロ、無、空、絶対、、、この究極の存在の影が色の世界です。色の世界は「私が在る」という絶対的な感覚があります。我々も人間活動をやっていますがその大前提にこの「私は在る」が確実にあります。この揺るぎない感覚こそがゼロ、無、空、絶対の影である色、神、大いなる一つの感覚です。その中にさらに人間が在るという感覚が芽生え我々は人間活動をしているのです。

指の動きが人間

腕全体を神としましょう、すると人間とは指の動きぐらいの感覚です。指が独自に意識を持ち「私は自分」という感覚を所有しました。これが自我です。思考です。本当は指の動きですから全くもって自由意志はありません、腕の先としてコントロールされているだけです、ですが指は「自分」で動かしていると錯覚を起こします。で絶対的な自由意識はどこから来ているのか???厳密に言えば自由意志はどこにもないでしょう。神すらも絶対の影ですから影に意志は作りようがないのです。究極的にはただ動き、思考が起こっているだけということになります。それが影の宿命です。

集団意識、オーバーソウル

人間が指だとしたら手のひら全体は何になるのか??これが集団意識、オーバーソウルと呼称されるような存在です、ですがここにも自由意志は存在しません、これも腕の一部でしかないからです。ただしこの手のひら全体の起こりは在るでしょう。日本人の特製、民族の特製、有色人種の特製、、、などです。

神、ビッグバン、大いなる一つ

宇宙が発生した際にビッグバンが弾けたということになりますがここに個別意識はあるでしょうか。。恐らくないはずです、、、ただ爆発があった、、、これが神の本質です、大いなる一つの本質です。これが絶対、空の影、反映です。ですから実はどこにも自由意志はない、、ただ空からの反映、、そしてそこからの起こりがある、ということになります。我々はそんな中で腕(神)の中の指としてそこに自覚をもって、錯覚を持って生きています。

指から腕を見ている

人間が見る世界は指に目がついて腕(全体)を見ている感覚です。指は思考に支配されていますからありのままを見ることができません、思考というフィルターを通じて腕(全体)を眺めます。そして指がこの腕の中を動き回ることで空間と時間が発生しました、これが時空間幻想です。本当は腕の動きがあるだけでありそこには時間も空間もありません。指に自我が芽生えたので指が動き回るために時間、空間が生まれました。指の動きとは何も関係なく、指の意志とは何も関係なく腕は動き続いけますから指にとって都合の良い世界(腕)など作られるはずがないのです。もしもあるならば指の存在、指の動きは実は腕の一部であったという気づき、諦めしかありません。そして指が思考というフィルターを通さずにこの腕を見ることで全体の一部に戻ります、これが悟りです。

自分というものが幻であるのになぜ自由意志があるのか?

自分=思考、感情、体

自分とはこの体、感情、思考を自分自身であるとした意識です。これによってこの自分は全体から分離しました、この感覚がなければ全体からの分離はありません、つまり分離は分離意識が起したものでありこれが無ければ全体のままです。分離しているという錯覚がこの分離意識を起こしているだけであって本質は全体のままです。分離はあくまで錯覚でありゆえにこの自分の中に起こる思考は全体からの現れであることに違いはありません。そういう意味では個人の自由意志はないと断言できます。ただし全体からの意思の現れはあります。

自分を命名した瞬間に全体から分離が起こっただけ

我々は生まれてから、、、両親からどのように扱われるか、、、、とても重要なここポイントです。名前を呼ばれ続けるのです、、、ひたすらに名前を呼ばれ続けます、、、太郎くん、、太郎くん、、、、これを1万回ぐらい呼ばれ続けます。。これにより子供はこの体、思考、感情を太郎君であると認識します。この1万回の声かけによって我々はこの体、思考、感情を、、、全体から分離させることに成功するのです。意識にはこのような力があります。他者からの声かけによって分離錯覚が生まれます。。

そして視界に入る全てのモノの名前を覚えていくことで全てを全体から分離させていく

そこからはモノの暗記が始まっていきます、目に入るあらゆるモノの名前を暗記していくことでそのモノが全体から分離していきます。これをそこから何十年とかけて行なっていくのです。自分が先ずは他者からの声かけで分離し、あらゆるモノの名前を覚えて視界に入るあらゆるモノが分離していきます。これにより分離幻想のストーリーが完成します。自分の分離に関しては何万回と名前を呼ばれることでこの分離意識を解消するには恐ろしいほどの気づきが必要になります。それゆえ多くの人は生まれて死ぬまでこの分離錯覚を見破ることができません。

宇宙が行う能力は実は私のモノ

自然治癒力は自分の力

なぜこの私は強い者に惹かれるのか?強いボクサー、強いアスリート、強い政治家、強い実業家、、、とにかくこの私は強い存在に憧れます。それはそもそもこの私とは全宇宙でありこの世の全ての力だからです。自然治癒力、血液を回す動き、消化から排泄、とこの体の中で行われる全ては自分の力でありさらに太陽、地球の自転、公転、大気の流れ全てを動かす力こそが自分です。だからこそ人間という自覚を持ちながらもあらゆる強さに憧れるのです。

この私が行うことは自覚できているだけ

この私が行うこと、例えばこのブログを書き、読書をし、仕事をし、会計をし、生活を回す、、、このことを自分の力であると我々は思っています。ですがこれは自由意志が及ぶ範囲のことを示しています。本当はこの自由意志が及ばない全ての行為が自分の行為です、その中のごく一部、自由意志が働く分野のみを自分の力であると錯覚するのがこの人間です。だからこそ違和感を感じ力強い者に憧れを抱き続けるのです。本当はそうではなく宇宙が行う全行動、全能力こそが自分の力です。この体が行う、しかも自由意志の範囲で行う行為はその極々一部ということになります。しかしこれも私の能力の一部です。

何を達成しても満足できない理由

過去のオリンピック金メダリスト受賞者の中でも自殺者が居るかもしれません、、、金メダルを受賞するぐらいの達成をしても満足できないのがこの人間です。なぜかと言えば金メダルを受賞する以上のこと、この地球を自転させる、公転させる、気温を保つ、海流を動かす、万物の全行為を動かしている存在こそが自分でありだからこそ金メダルを獲得するぐらいでは満足できるわけがないのです。万物を動かす存在がこの体、心を自分であると意識することがこの人間活動です。人間として幸福になる、人間として安定する、人間として歓喜を味わう、、これらが全て刹那的、一時的、短絡的なのはそもそも自分が人間でないからです。