自我

成功者は自由意志をいかに駆使したかを語るが、、

実は自由意志はない

成功者は美談として自身の成功ストーリーを語りたがります。そしてあらゆる場面での自身の判断の優秀さを暗に匂わせるのです、ですが実際には自由意志はありません、ただその体を通じてそのような思考が湧いただけです。湧いてきた思考を自分が作り出したという事実とは異なった思考がさらに湧き出し自我を成立させるのです。ですがこれは事実ではなく本質はそのことを知っているからこそ周囲に成功物語を話まくることで真実であると信じたいのです。

周囲は称賛し認めてくれるが

周囲の人間も自由意志があると信じていますから成功者の美談には耳を傾けその人の判断力を評価します、これによって事実とは異なることが公然の真実であるかのように認識することができるようになるのです。自身の自我と周囲の自我との共同作業によって真実ではないことが真実であるかのようになるのです。こうして我々人間は自我と自由意志の存在を鵜呑みにしていくのです。

自我と自我の共同作業の崩壊

成功者の多くが自身の成功美談を語りたがるのは、、自由意志が真実ではないことを本質的には気づいているからです。だからこそ自我の功績という嘘がいつかバレるのではないかと恐れ慄いているわけです。周囲に自己判断を評価してもらうことで一時的にもこの嘘を嘘と気づかないでいられる、、ただそれだけのことなのです。そして聞いている周囲は自我を信じていますからいつか自分もと夢を描くのです。本当のところは自由意志など存在せずそれを統括する自我も存在しないのです、どこかでこの真実に至るわけですがそれを遠回しにする作業こそが自我の踠きです。

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。

死んだらどうなる??

死ぬ自分が存在しない

死んでしまったらこの「私」はどうなってしまうのか???これは永遠のテーマ、みんなが不安に思っていることです。ですがこの議題の前に大きな誤解があります、それはこの「私」は存在しないのです。。。。そもそも存在しないのだから死んだ後どうなるか???という疑問は成立しないのです。「私」という存在が実在するという思いは100%存在します、ですが「私」は実在しません。例えばこの「私」とは自由意志を所有しあらゆる行動を決めている「私」のことですよね???残念ながら自由意志はないのです。全て自動反応で起きているだけです。

そもそも存在しないのに

実際のところ、、この「私」を体内から出して発見した人は皆無です、体内から抽出して写真に収めたという事実は存在しないのです。これこそが「私」が実在しない100パーセントの証拠です。ですから死んだ後もこの「私」は存在しないというのが事実なのです、真実です。だから死んだ後のことは何にも心配しなくていい、肉体の死が起きればそれはただそれだけです。

だからこそ嫌われる

「私が居ない」なんてメッセージは「私」を救いません、、「私」が居ない世界など想像などしたことないしいつもこの体と一緒に頑張ってきた唯一無二の存在を否定などできるわけがない、、、これが事実です。ですからこれらのメッセージは嫌われるわけです、徹底的に。ですが本質はこのことを分かっていますからだからこそ拒絶反応が起きるわけです。どうでもいいメッセージならば拒絶反応は起きない、、反応が起きるということはそれが真実だからです。

AMAZON以外に、、

日本の出版界においてAMAZONが進出できたのは外資だったからです、アメリカ企業だったから進出できました。これが日本の企業であったならば恐らく潰されていたでしょう、既得権益に。なぜ既得権益から拒絶反応が起きるのか???それは分かっているからです、AMAZONのような会社が進出してきたら出版界が激変してしまうことが、、、これこそが悟りのメッセージです、、、悟りのメッセージが徹底的に嫌われるのはそのメッセージの内容が自我にとって壊滅的なメッセージでありそして真実だからこそ拒絶反応が起きるのです。

戦争は果たして終わるのか?

戦争も幻想

今世界では戦争が深刻化しています、ですが悟りの観点から見れば戦争も幻想です、幻想として100%起こっているのです。この戦争を止めることはできるのか???答えはNOです、人間には戦争を止める自由意志は存在しません、自由意志がないのですから戦争を止めようという動きを作り出すことは意図してはできないのです。ですが自由意志がないということは全自動的に戦争が止まる可能性は常にあります。

多くの人が思うようには世界は動いていない

この世界は多くの人が想像するようには動いていないのです、多くの方が一致団結して戦争反対運動を起こせば、、戦争は止まるのでは???しかしながら意図してそのような行動を起こせるようには人間はできていないのです。全自動システムで機能しているからです。全自動システムで世界中が戦争反対運動を起こす可能性はあります、ですが意図してではなく自動システムとしてです。

全く新しい認識

この世界は100%幻想であり、100%自由意志も存在しません、、そして自由意志を所有するとされる自我も存在しない、、、この共通認識に立った時に全く新しい世界が広がります。騙し絵の新しい絵が浮かび上がってきます、老女だと思っていたら若い女性だった、、という騙し絵のように全く異なる世界は見えるのです。その世界こそが戦争のない平和な世界かもしれません。

日本経済危機

毎日ニュースで騒がしいが、、

この世界は幻想です、この世界は幻想以外にはありえません。ですから日本経済の危機も幻想として確実にあるのです。今後日本は少子化で厳しくなる、消費税アップで住みにくくなる、後期高齢化問題で労働者が減ってしまう、、それらは幻想としては事実です。ですがこれらは100%幻想ですから変えることは可能です。ですがこれを我々に自由意志で変えることはできません、なぜならば自由意志は100%存在しないからです。

みんなの力で経済を盛り上げる

若い力で日本経済を盛り上げよう、、日本を再び再生を!どのような綺麗なスローガンもそれを成し遂げるには自由意志が必要になります、ですがこの肝心の自由意志が存在しえないのです。存在しないのですから意図的に日本経済を再生させるのは不可能なのです。ではどうしたらいいのか????この経済は幻想であり、自由意志も存在しない、ゆえに自由意志を扱う自我も実はなかった、、、これを悟るほかありません。この時はリラックスが起こります、重さが取れます、、するとこの幻想に緩みが生まれる可能性がでるのです。

この世界が幻想で、自由意志もないのならば、、

この世界が幻想で自由意志もない、自由意志を扱える自我も存在しない、、、あれ???この世界って何にもないではないか??幻想以外何にもないではないか????という気づきが起きます、、力が抜けます、、なんとかしてこの世界を変えようと思っても、、その思いも勝手に湧いたものです、、、。個人はどこまでいってもこの幻想に対し無力なのです。完全敗北、完全降参、完全無関与です、、ですがその諦めこそが究極のリラックスを起こすのです。何にも頑張んなくていいし、何にも必死にならなくていい、なぜならば所詮はこれは幻想であり、自由意志もないのだから。この境地こそが日本経済を変える可能性があります。

環境問題

この世は幻想

環境問題に関して、、この世界は幻想です、今目の前に広がる世界は幻想以外ありえないのです、、そうなりますと環境問題という物理次元の問題も幻想ということになります。幻想として100%環境問題は存在しているのです。ですからこの世界の人々にとってはこの問題は深刻なのです、ですが幻想ですからこの問題を消し去ることもできるのです。

ただし消し去る自由意志は存在しない

幻想であることを100%理解したとして、、この環境問題をこの世界から消し去るには自由意志が必要になります。ところがその自由意志は存在しません、自由意志はこの世界には存在しえないのです。ですから意図して環境問題を消し去ることは不可能なのです。この世界が幻想であること、この世界には自由意志はない、故にこれを扱う自我も存在しないという真実を深く理解できた時にリラックスが生まれこの幻想が緩む可能性はあります。

この世が幻想である根拠

この世界が幻想ではなく確固たる物理次元として実在すると仮定してみましょう、ではこの物理次元はどこに存在しえるのでしょうか?この物理世界があるのならば存在するための場所、器1が必要になります。そしてその器1が確実に存在するならばその器が存在するための場所(器2)が必要になります。そしてその器2が存在するためにはその器2が存在するための場所(器3)が必要になります。これがエンドレスに続くのです、、つまり理論として破綻しているのです。この世界は幻想であるしか存在しえない理由はここにあります。

優劣が消える

どちらが優れているかは自由意志があってこそ

人は無意識に人と人との間に優劣をつけます、あの人は私よりも上だ、あの人は私よりも優れている、、勝手な物差しで人を天秤にかけ優劣をつけていきます。この優劣が生まれるのは、、人には自由意志があり自分が起こす行動には自分が責任を取るという大前提があります。ですが実際には自由意思はありませんから人に優劣をつけることはできないのです。すると自我は困ります、優劣をつけてくれないと頑張れないではないか、、と。優劣がつくから一生懸命努力してきたのに優劣がつかないならば頑張ってもしょうがないと。

それでいい

そうです、優劣をつけるために頑張るのは無駄なのです。そしてそのことを実は本質レベルでは誰でも分かっています。だからこそこのカラクリから目覚めるのが怖いのです、自我は。優劣の世界において自由意思で頑張る必要がある、そのためには自由意志を扱う自我の存在が決めてになると、その流れです。しかしながら真実では自由意志は存在しません、この世界には。だから競争による優劣を感じるのは無駄なのです。

いつも比較している

人間は常に比較して生きています、表には出さなくても間違いなく人間は常に比較して生きているのです。だから人は努力し頑張る、、ですが自由意思も間違いなく存在せず、それを操る自我も存在しない、、そのことは本質では分かっている、、だから疲れるのです。つまりもう競争の勝ち負けで、比較の勝ち負けで優劣を感じなくていいのです。優劣のために頑張る競争から抜けてしまっていいのです。自由意志が存在しない以上、勝った自由意志は存在せず負けた自由意志も存在しないのです。世界は常に自動反応でただ思考、言動が起こっているだけです。

苦しみの本質に迫る

条件が全て

こういう家に住んで、こんな収入で、こんなパートナーが居て、こんな仲間に囲まれて、、我々は無意識にそのような条件を幸福に求めます。私レベルであれば最低限こんな環境に身を置くべきだ、、、この思い込みを叶えるために人は生涯を注ぐわけです。そしてこれらとは全く異なる環境、理想とは程遠い会社、家、パートナー、仲間に囲まれてしまえば私は絶対に不幸になるはず、、、それを恐れて生き続けるのです。ですが実際にはそのような理想とは程遠い環境に身を置いた時に初めて気づくのです、いやそれほど悪いものではないなと。これが人間の苦しみの本質です、勝手に思い込みそれを恐れて必死に踠いているだけなのです。

理想を手に入れても

どんなに理想的な生活を手に入れても人が苦しみから逃れなれないのは手に入れた個人が存在しないからです、手に入れるまでの全功績を享受するはずの個人が実は存在しないのです。自由意志に基づいて確固たる結果を出したはずの個人、自分、自我が実は存在しないのです。そのことをどこかで分かっているから常に不安に苛まれるわけです。そして理想とは程遠い環境に身を置いた時にも、、、実は全ての責任は責任を取るはずの自分が実在しないことを本質では分かっています。だから軽いのです、だからそこまで苦しくないのです。理想を追いかけている時は存在しない自我が出しゃばるばるわけですが失敗した時にはその自我が存在を隠します、それで楽なわけです。

理想を追いかける時、、

理想を追いかける時「自我」は大仕事を担います、自由意志を行使して理想に向かって直走れるわけです。本当は自由意志はないにも関わらず起こる自動反応を「自由意思」と捉え続け走る続けていきます。だから自我には理想が必要であり恐るべき環境も必要なのです。ところが突然の災難に襲われ全てを失った時に実はそこまで苦しくないという事実を突きつけられ自我の策略が暴かれるという事故が起きるのです。大借金、倒産、闘病、、、などなどです。

自我に踊らされてきただけ

我々は実は自我に踊らされ、、、、理想を追いかけ、恐れから逃げていただけなのです。この自我主導での奔走逃避行動こそが苦しみの原因であったわけです。ではこれからはどう生きればいいのか??先ずは自由意志がないことを認めることです、自由意思がないということはそれを行使する自我も存在しません、、、そこが理解できますと嫉妬そねみが湧いてこなくなります、、、有名人の大豪邸を見ても、、、たまたま、、、、ホームレスを見ても、、たまたま、、、その事実が分かってしまうのです。なぜならば自由意志がないからです、この世には。

「何もない」は「自分」が困る

世界は何もない

この世界は突き詰めれば「何もない」です。何もない「意思決定」する個人は存在せず人間を含めた全生命がただただ自然現象として行動が起きています。意思決定する個人が不在のままただ現象だけが起きる世界、それこそが今我々が眺めている世界の本質です。その本質の世界が、、、あらゆる自由意志を持った人間によってコントロールされているように「見える」世界が幻想の世界です。ですがこの真実は「個人」にとっては実に都合が悪い、それを認めてしまえば「自分」が出る幕が無くなってしまうのです。

問題解決請負人「自分」

世界は自由意志を持った人間が集まり構築されている、あらゆる問題は個人が解決に当たる、解決能力が高い「個人」は尊敬され豊かになり満ち足りた人生を歩むことができる、、、これがこの世界の風習です。にも関わらず実は自由意志を持った個人、自分など存在せず、、ただただ全自動運転で人間は運営されていることが広まってしまえば、、「個人」「自分」「自我」はたまったもんじゃない、、、存在が消滅してしまいます。みんなで集まって公然の事実として「個人」は存在していたのですから、、認識が無くなってしまったら存在しえないのです。

周囲はどうでもいい

周囲は「自我」「個人」「自分」大前提の暮らし社会をこれからも構築していくでしょう。ですがそれも全く問題ありません、どう周囲が認識しようと真実は一つ、自由意志を持った個人は存在しないのです。ですからその事実だけを認識しながら生きていけばいいのです。どのような社会問題が起きようとそこに個人は何も介在していない、、つまり全てが自然現象だということです。雨、嵐、台風、猛暑、と何も変わらない、、解決方法は皆無、なぜならば解決できる「個人」は存在しないからです。そしてそれらの問題によって苦しむ「個人」も存在しません。

今からスタバに行こう

この感情はどこから?

今からスタバに行こう!この感情、思考が突然自分の中で湧いてきたとしましょう、ではこの感情、思考を湧かしたのは誰ですか?当然自分自身だと思っっています99.9999%の人は。ですがもしもスタバに行こう!という思考を自身が作ったならばこの思考を作り出す材料が必要になります。この思考の材料を手配しなくてはならない、思考を作り出すのですからそれには材料、要因が必要になるのです。それを例えばエネルギーとしましょう、その思考を作り出すエネルギーを自分が作り出したのだと。

ではそのエネルギーの原料は?

ではその感情、思考を作り出したエネルギーの原料は何でしょうか???そのエネルギーをこの宇宙に誕生させるにはそのエネルギーの原料が必要になります。それを使って自分がそのエネルギーを作り出したのですから。そのエネルギーをエネルギーAとしましょう。私がエネルギーAを使って「スタバに行こう」という思考、感情を作り出したのならば、そのエネルギーAを作り出した原料エネルギーBが必要になるのです。

エネルギーCも必要になる

エネルギーBが宇宙空間に突然湧かせることは「自分」にはできませんからエネルギーBを作るにはエネルギーCが必要になります。エネルギーCを宇宙空間に突然湧き上がらせることは「自分」にはできませんからエネルギーDが必要になります。つまりエンドレスにエネルギーは必要になるのです。そこでおかしなことが起きます、「スタバに行こう」は瞬時に湧いてきていますから、、スタバに行こう!に莫大なエネルギー重層構造を構築する時間が必要であっては困るのです。ということでこの理論は破綻しているのです。

スタバに行こうは突然湧いただけ

つまり「スタバに行こう!」という思考感情はただ突然湧いただけということになります。「自分」という存在は作り出したのではなく、、突発的に、事故的に湧いたのです。そして全て思考感情は「自分」という存在とは全く関係なく湧くのです、すると意志決定してきたとされる「自分」という存在が崩壊し始めます。何も思考感情を作り出していない「自分」はもはや自分ではなく存在すらしていないのではないか?となるのです。これが自我の終焉です。