自己超越

ポケモンGO、人間GO

ポケモンGOは絶賛ネタバラシ

ポケモンGO、5年ぐらい前に大ヒットした任天堂のゲームです。スマホ越しにこのアプリを起動しますと、、、一般道、一般通路、私道、部屋の中、建物の中、、、リアルな現実の世界の中に、、モンスターが出現します。そしてそのモンスターをアプリの中で倒すのです。ゲーム業界の革命です。リアルな世界をゲーム化してしました。このリアルな世界のゲーム化、、、これこそが人間様が今絶賛やっていることです。このゲームは人間様が脳内でやっていることをまさかゲームとしてやってしまったのです。

人間GO

人間GOはゲーム内に出てくるキャラ(両親)が、、、あらゆる言語を、、、子供の脳に呼びかけることでインストールさせていきます。これはコップ、これはスプーン、これはおもちゃ、これは犬、これは猫、これは鳥、、、これを延々と行っていきます。これによって脳内に言葉がインストールされていき、、この言葉が、、、見える世界の中にその物体を作り出すのです。全体からそれを切り抜きます。日本語というプログラム言語です。ポケモンGOもエンジニアがモンスターを言語で作り出していきます。人間がやっていることと全く同じことをエンジニアはPC内で行っているのです。

人間GOその2

両親からあらゆる言語をインストールされた子供は生きる世界に名前がついた生物、植物、物体が出現していきます。川を眺めればそこにフナやコイ、金魚が現れ出すのです、それまではただ動く何かがあっただけです。名前を記憶することでそれが子供の世界に現れたのです。クワガタという名前を覚えることでクワガタが世界から切り抜かれ存在を認識します。カブトムシという名前を覚えることでカブトムシが子供の世界に切り抜かれ出現します。あらゆる登場キャラが揃ったところで、、小学校に入学しそこからはプロの先生がこれを引き継ぎます。

人間GOその3

名前を覚えることで子供が生きる世界にあらゆるキャラクターが登場し始めます。そして次にはそのキャラに対する解釈をインストールしていきます。背が高い、低い、太っている、痩せている、性別、年齢、暑い、寒い、、、これが陰陽・二元の世界です。言葉を覚えることでこの世界を解釈の世界にしていきます。そしてその解釈がまたこの見える世界を変化させていくのです。化させていきます。

人間GOその4

この世界にあらゆるキャラが登場しその解釈まで始まった人間はですが自身の言語、思考がこの世界を変えているということには気づきません。なぜならば大人すらも気づいていないからです。ということでこの延長線をひたすらに辿っていきます。マズローの欲求五段階を登っていきます、生存の欲求、所属の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求、自己超越欲求、、、動物から人間に進化し、人間独自の進化を繰り返し、最終的には全体に戻るというゲームです。

自己実現とは自我の緩みの証拠

自分が好きなことで食べる

自分が好きなことで食べよう!YOUTUBEが世の中を席巻した時のキャッチフレーズです。この自分が好きなことで食べるというスローガンに多くの方は  ????になります。なぜならば自分が好きな事など考えてきていないからです。そのような感情は自我ベースで生きていると感知していないのです。だから好きな仕事と言われても意味不明なのです、そんな事感じたことがない。。。。自我ベースで生きてきて、、自我の目的をしっかりと遂行していきますとマズローの欲求五段階ではないですが欲求のレベルが上がっていきます。すると最終的に自我に対する俯瞰した視点が養われ次第に自分の好きを感じることができるようになります。それが自己実現のスタートです。

自我は生き残ることに必死

戦後の日本で好きなことで食べようなど意味不明な発想でした、、、生き残るには何をするか???これだけです。ですが時代が進み生き残るを着実にクリアーし、社会的評価を得た、、、すると次に何かを達成しようと試みる中で自分の好きなこと、、、という感覚を感じることができるようになります。この感覚は全体から湧いてくるわけですがこれを強烈に感じることができるようになります。そしてこれを達成することに思考を使えるようになっていくのです。

自己実現すら達成

自分の中から湧いてくる衝動を感じることができ、さらにそのために思考をフル回転できるようになるとその衝動すらも形に変えて生きていけるようになります。これが自己実現です。この境地を達成すると、、、自分とは何か???という疑問が湧いてきます、、これが自己超越、悟りへの入り口、誘いです。この段階では自我の最後の抵抗が起こります、湧いてくる衝動を叶えようとすると自分という存在に構っていられない、ですが自我は自己主張を繰り返します。こんなことをやったら恥ずかしい、こんなことをやったら周りに示しがつかない、、自我との最終決戦です。

朝起きた時の違和感は正常

朝起きると必ず違和感がある

人間は朝起きると違和感を感じます。熟睡時は神に戻りますが朝起きれば再び人間としての活動が再会します。神の人間体験が始まります。そのさいに通常の感覚、違和感が早速湧いてきます。そしてその違和感を思考が解消しようと、、お水を飲む、音楽を聞く、シャワーを浴びる、食事をすると、、、ひたすらに思考、行動が起き始めます。ただそれらが起きていきます。そして「それを自分がやった」という認識も起こります。これをひたすらに行っています。

神の人間体験は違和感がデフォルト

どんなに寝起きが良い人もやっぱり違和感を少し感じています。今日も人間活動が始まる、、これは絶望です。起きる前は完全なる神、全体だったのが突然この人間活動に切り替わるのです。五感+思考+感情の活動に切り替わります。神がこの人間の体に閉じ込められて人間としての活動に朝切り替わるのです、そして夜になるとまた全体、神に戻ります。

神の人間活動は面白いが疲れる

ほとんどの人はこの人間活動はしんどいはずです。神がこの小さい体に閉じ込められていますから基本が苦しいのです。この苦しみを回避するためにあらゆる気晴らしがあるわけですが、ですがそれが一時的な気晴らしであることは本質では分かっています。神はこの体に閉じ込められた時に神であること、全体であることを完全忘却していますからいかに違和感があってもなぜ違和感が湧いているか分からないのです。

違和感解消気晴らしに飽き飽きしたら直ぐ、、

違和感解消気晴らしを延々と行っていくのがこの人間活動ですがそれも徐々に徐々に辛くなっていきます。そこで人間に成り切った神は、、この違和感は一体どこから来てるのだろうか?気晴らしをこのまま継続しても意味がないのでは??と思考するようになります。神はそこから徐々に実は自身が神であることに気づき始めます。そうでないとこの違和感の意味が理解できないからです。これが自己超越、悟りの始まりです。

コンフォートゾーンと悟り

100万通りでの悟り解説

世界にあらゆる宗教が存在するのは真実を意表す方法は100万通りあってもいいわけです。ということで私もこのブログであらゆる例え話で悟りを解説していきたいと思います。その一つがコンフォートゾーンという切り口、この切り口は苫米地英人さんが行う苫米地式コーチングから学びました。彼のコーチングの最大の特徴はゴールをコンフォートゾーンの外に設定するということ、ここが他と圧倒的に違います。コンフォートゾーンの中のゴールは現状維持でしかない、こう断言します。例えば巨人軍の選手が巨人で四番を打つのはコンフォートゾーンの中にあるのです、ここを目標にしますと達成が近づくにつれ目標意識が落ちていきます、そうではなく巨人では絶対に達成できないような目標をゴールにせよ、、、これが苫米地式コーチングの特徴です。例えばヤンキースで四番を打つ、、これならば巨人に居ては達成できません。これを目標にせよ!ということです。

実はこれコンフォートゾーンをズラすトレーニング

このコンフォートゾーンの外にゴールを置くという真の目的はコンフォートゾーンをズラすことにあります。多くの方はコンフォートゾーンの中に居続け死にます。一生同じコンフォートゾーンの中に安住してそのまま死にます、しかもそこが居心地が悪くてもです。どんなに居心地が悪くてもそこで食べていけるのならばそこに居ます、これがコンフォートゾーンです。だからこそコンフォートゾーンの外にゴールを設定せよ!が生まれるのです。実はこれ自我の働きそのものです。自我は自身の存在を消滅させたくないので一度そこで食べてると知るとそこに居続けようとする働きがあります。ですが同時にそれはそれで苦しいのです。同じ場所に居て自我を存続させたい、だが本当は居たくない、、、なぜならば自我の本質は神だからです。神は神に戻りたいのです。

自我がここに居たい、、だが自我の本質は居たくない、、、

苫米地氏はコンフォートゾーンをズラすことを積極的にせよと唱えます。悟りの観点から説明するとどのコンフォートゾーンも居心地が必ず悪くなると説明します。なぜならば自我の本質は神であり神は人間であるというこのコンフォートゾーンこそが苦しいのだと。苫米地氏は目標を達成する前にゴールを常に上に上いに設定せよと説明します。そして自身のゴールは世界平和、戦争の廃止、差別の解消であると唱えています。これは自己超越です、悟りです。悟りの観点では、、、目標設定の最終ゴールを悟り、神と設定することで最初から今の苦しみの根源を解説していきます。

悟りへと導く「苫米地式コーチング」は凄い

脳科学は苫米地英人氏の方便では?

私は苫米地式コーチングに一時期ハマりにハマりました、、ハマっている当初は実はそこまで気づいていなかったのですが自身が悟り、非二元について探求を重ねていくに従い、、実は苫米地式コーチングは「悟り」への誘いであったことを強く痛感するようになりました。覚者が伝える「自我」というメカニズムを現代風に表したのが「コンフォートゾーン」、、コンフォートゾーンの外にゴールを設定するが「自己超越」「悟り」、、抽象度を高くする、、「分離の解消」、、、と気づけば全部悟りの世界のことなのです。

苫米地氏は映画「マトリックス」を制作する代わりに「苫米地式コーチング」を作った

あくまでこれは私の推測でしかありませんが、苫米地氏のコーチングは民衆、大衆を騙すための方便でゃないかと考えます。マトリックスという映画は監督による悟りへの方便です。苫米地式コーチングは自己啓発、目標達成、成功法則を謳った苫米地氏の悟りへの方便ではないでしょうか。脳とはこの人間の分離感覚を完璧なまでに強化するツールですからそこに責め込むのは素晴らしいアイデアです。

脳のトリックを見抜き悟りへ誘う

苫米地氏を著書の中で何度も抽象度の最高は悟であると述べています、、視座を最も高くした地点、全体を眺める視点とは悟りの状態です。この世は突き詰めればたった一つのエネルギーで構成されていますから分離というのは全くなく、、そこを苫米地氏は抽象度を上げていくことで情報を整理しそこに導きます。最終的には人間もその一つのエネルギーの構成要因であることは間違いがなく、、自分が消え失せます。その時に残るのは「無」であり「全体」であり「神」です。

脳の分離錯覚を見抜くと自然と衝動が湧いてくる

この衝動は面白い

私は「神との対話」という本を読んで自分が実は神であった、全体であったことを腹落ちさえました。確かにどう考えても自分が神であることは間違いながない、、、、この事実を腹落ちさせた頃から面白いことが起き続けています。とにかく体の中から衝動が止まらないのです。これを達成したいこれをこれを成し遂げたい、、、これは言葉では限界があるのですがその衝動にしたがって動いていると止まらなくなるのです。いつまでもやっていられる、、、今私の衝動はこのブログを書き続けることです。中から湧いてくるこの衝動をただ形にしています。

衝動を形にするだけで気持ちがいい

この衝動を形にしていきますとひたすらに面白い、楽しいが湧いてきます。そしてこれが形になればさらに面白いでしょうがそれは一瞬の達成感でありそれはその瞬間のみであることも知っています。ですからそれは一瞬のご褒美のみであってそれよりもこの衝動に従っているのが気持ちがいいのです。衝動に従って生きているとそれ自体が楽しいのでそれ以外を求める感覚が薄れていきます。そしてこの衝動に従うにあたっては全部無料です笑

自己実現から自己超越へ

自分が好きなことで世の中の役に立つというのが自己実現ならば、、、自分という存在が無くなりただ世の中のために生きることを自己超越と呼びます。例えば全くの無記名で大金を募金する方などの境地はそれに当たります。そこに自分はもう存在していないのです。なぜそんなことをするのか?多くの方は理解に苦しむとは思いますが実はこの自分という存在がいなことこそが一番の歓喜、平和、安堵なのです。ですがこれは言葉でいくら説明しても意味不明です。言葉を超えた場所にそれはあります。

色即是空、空即是色

先ずは空の理解が起きる

先ずは空の理解が起きます。普通に生きている我々は空の存在など、本当の自分の存在など全く興味なく生きています。目にする全てが新しく、目にする全てが輝いている、、この色の世界でただできる限り楽しく生きることだけを考えて生きていくようになります。ですが途中でどうも雲行きが怪しい、、どうも苦しいことが多い、、、こんな人生を今後も生きていき何か意味があるのだろうか?そのような疑問を持ち始める人が現れます。そしてその人はいつの日か実はこの世は幻想で(色)本当は空が本物であるという悟りに入るのです。

次に色の世界の再確認

この世は実は空の現れに過ぎない、、この気づきを得た人は、、実は私の存在すらも幻想で私が居るように感じているだけだという悟りを開きます。実は私も私以外もあった一つのエネルギーでできていて、ただ在るだけ。この気づきが起きます。ですがたった一つのエネルギーの様々な表現があるだけという世界は虚無でもあるわけです。ではこの私と感じるこの体、思考、感情は一体これから何をするのか?という話です。

空からの衝動

そこは心配はご無用です、私の本質を本当に理解し始めますと、、元私のもとに全体、本当の私からの衝動が起こるようになってきます。興味は湧くテーマが次々に湧いてきます、そしてそれをやるための恐怖心というのが全く湧いてこないのです。ただやりたいだけ、だからやろうが延々と続きます。自己超越状態の行動だけが続くのです。そこには駆け引きも腹のさぐり合いも無い、、ただ本当の自分からの衝動だけがあります。そしてそれを実行に移すとき、色の世界のこれまでの知識が非常に役に立つ、まるで王に使える最強の戦士のように思考がフル回転するのです。

悟りという言葉こそが自我の策略

悟りは遠い世界にあるという作為的思い込み

自我にとって悟りとは自我の消滅です、こんなことが頻繁に起こってしまったら自我は壊滅状態に。自我は考えました自我の壊滅を「悟り」という言葉で表しこんなことは釈迦やキリスト以外達成できない代物という印象を与えようと。「悟り」などこんな胡散臭い世界は遠い先にあると思い込ませようと。自我のこの策略は完全成功し悟り、自己超越などという言葉をTVで聞くことなど先ずありません。自我は臆病ですからみんなが話をしないことなどに興味を持ちません、怖いからです。

この体、思考、感情を自分だと思い込む思い込みを思い込みだと見抜くだけ

ギャグのようなタイトルになってしまいましたが上の文は真実です。我々人間はこの体、思考、感情をひっくるめて三点セットで自分であると思い込むことに成功しました。自我の完全勝利、自我何千年間の勝利です。人類が生まれてきてこのかた自我はこの思い込みを完璧に人間に刷り込み勝利を収め続けてきました。大なる一つ、全存在、全宇宙の「自分」体験です。この自分体験はもちろん幻想ですが一度この幻想に取り込まれたら最後多くの方は死ぬまでこのトリックを見抜けなくなります。

ではこの確実に湧いてくる思考、感情は誰のモノだ?

誰のものでもないのです、、それがこの体の中で起こっただけです。ですがこれを自分のもの、自分だと思い込むことで次から次へと思考感情が湧き出してきます。鶏の卵が先か鶏が先か?理論のように、、、この思考、感情を自分であると思い込むことで、、次から次へと思考感情が湧き出してくる、、泉のようです。そしてこれは不思議なことにこれは自分ではないと気づくと自然と思考、感情の泉が少なくなるのです。そうですこの感情と思考は自分を維持するために湧いてきていたということです。

坂本龍馬の行動は自己超越

「自分ごと」がない

坂本龍馬の行動は自己超越を上手く表現しています。彼は「自分」の損得を完全に超越して行動を取り続けていきました。もしも彼が「自分の損得」にこだわっていたらあのような偉業は達成できなかったはずです。自我とは損得でしか動けません、この自我を超越しなければ損得を超えた行動を取れないのです。彼は日本という国が海外の列強国に狙われていると危機感を感じ国のために行動を続けていた結果「自己」「自我」「自分」が消えてなくなりました。自我は放置しておくと消えてなくなります、なぜならば実在しないからです。そうなるともう全てを「自分ごと」にできなくなります。

無我が行動している

自分ごとがない人の行動とは自分がいない人の行動です、自己超越した行動、宇宙全体の行動の現れです。そこには体や思考、感情はありますがそれを「自分のもの」とする感覚が抜け落ちています。そんなことは出来るわけがない、、いや出来るのです、、、優秀な役者さんは演技中「自分」を完全に忘れています、なぜそんなことが出来るのか?それは元々「自分」はいないからです。「自分」がいるという思い込みはあります。坂本龍馬は国ためにと動いていたら「自分」という思い込みが完全に外れ「無我」「大いなる存在」になってしまっていた、、こんなところでしょうか。

「自分ごと」がない人は気持ちがいい

「自分ごと」に溢れている人は苦しい、、自分こそが苦しみを湧き出す根源ですからこれが強化されればされるほどに苦しみが湧いてきます。ですがこの「自分ごと」が抜け落ちている人は気持ちがいい、、苦しみを携えていないからです。これは人畜無害とは違います、本当に本人の中から苦しみが湧いていないのです。なぜならば苦しみを湧き出させる「自分」が抜け落ちているからです。「自分」という思い込みが壊滅状態にあります。

10人の子供を育てるお母さんは自我が皆無

戦後の日本では一人の女性が五人、六人と子供を育てていましたが、、その当時の母親には自我が欠落していたはずです。朝起きて寝るまで子育てに追われ「自分」に構っている時間など皆無だったはず。「自我」は構ってもらえない、注目されていないと自然消滅してしまいます。なぜならば本当はそんなモノはないからです。この体、思考、感情を「自分のもの」と思い込む認識があるだけです。この認識が吹っ飛べば誰でも自己超越に入ります。この世界が認識する自己が居ないならば全体、全宇宙、大いなる一つ、神ということになります。「自分」をうっかり忘れた神になります。

自分=体、思考、感情の罠から抜けると自分ごとにできなくなる

他人から何か言われても自分ごとにできない

芸人が舞台で他の芸人からいじられる、「お前太り過ぎや!!」これに対して真剣に怒る芸人はいません。なぜならば自分に言ってはいるが「芸人としての自分」にいってきていることを理解しているからです。この体、思考、感情を自分と捉えなくなっていきますと他人から色々言われても自分ごとにできなくなります。どうやら他人はこの体の中の思考、感情を含めた「私」というものに意見があるらしい、、こんなノリになっていきます。色々「私」に不満があるらしいがその私は実は幻想でいない、、こんなすれ違いコントのような状況になります。

自分ごとにしない「私」に周囲はイラつき次々と罵詈雑言を

多少の皮肉を言われれば怯むのが「自分」人間ですがその自分が実は幻想でいないことを理解してしまうと皮肉ぐらいでは止まることができません。そうなれば周囲はさらなる皮肉を言って行動を止めにかかるかもしれません。「あなた」にしっかりと届くようにとより強い口調になるかもしれません。すれ違いコントがギャグでは済まなくなっていくということです。そうなったならばここで初めて思考を使いその皮肉、雑音に対応すればいいのです、冷静に。

全てを「自分ごと」にする周囲とは基本すれ違いだが

全てを「自分ごと」にできない覚醒者と、全てを「自分ごと」にする周囲とはすれ違いが当たり前になっていきます。ですが覚醒者は周囲が全部を「自分ごと」にしていることを百も承知ですからそこは冷静に対応できるようになります。自我を超越した人が自我を超越できていない人の対応を間違えるわけがないのです。自己を超越した人が自己を超越していない人をコントロールできないわけがないのです。

自己超越とは自己を散々味わった人に訪れる

この分離の世界は基本「自分」「自己」を味わいにきています。ですからここではこれが基本、ほぼ全員が「自分」「自己」「自我」からスタートします。ですから散々にこの自分にが苦しまされています、これに苦しんでいない人は100%いません。よって自身に自己超越が訪れたとしても自己に苦しむ人の気持ちが分からないわけがないのです、むしろ誰よりもその苦しみに敏感でもあります。