自分

負の感情が湧いたらそこから不幸な自分を演じる自我

自我の作戦は常に稚拙

悲しい、苦しい、辛い、、、このような負の感情が湧いた時に自我、思考はどうするか?甘えることに慣れている思考は「不幸な自分」「大変な自分」「落ち込む自分」を演じます。なぜこれをするか?これをすれば周囲の大人が動いてくれることを学習しているからです。周囲の大人、特に両親が自分のために行動してくれることを自我は学習します。これによって自我は悲しい、苦しいなどの負の感情が湧いた時は塞ぎ込んで見せてこの感情解決を図るのです。ですがこの作戦には大きな落とし穴があります。それは感情の解消に思考(自我)を使ったということ、これによって自我は肥大化しさらに負の感情を生み出しやすくなるのです。

大人はこのような稚拙な行動を見抜かなくてはならない

大人が取るべき行動はこのような稚拙な行動を子供が取ったならば直ぐにそこを見抜き改善を図ることです。もしもこれを見抜かずにその作戦に乗ってしまえばその子供の自我はこの作戦を何度も使い続けることになるのです。何か落ち込めば落ち込んで見せるという演技に拍車がかかるどころか、、、無意識(常に)に感情と行動がセット化していきます。結果自我の肥大化は一途を辿り負の感情が毎日湧くような体質にシフトしていきます。

大人とは、、頭脳、IQとは何も関係がない

頭脳レベル、IQがその人の成熟度とダイレクトに関係するならば東大生は皆大人ということになりますがそうではありません。むしろ思考が発達していると負の感情の解決方法を思考に委ねる結果になり負の感情湧き出しからの思考フル回転が定番化します。思考が考えだす作戦は常に過去のデータから湧き出されそれは自我をさらに強化する結果になるのです。自我の肥大化はそのまま負の感情(ペインボディー)の肥大化に繋がり苦しみのメカニズムは完成します。

それでも苦しみは目覚めのためにある

負の感情とそれを解決する思考のメカニズムは勿論苦しみのメカニズムです。ですがそうは言ってもこのメカニズムは悪なのか?といえばそうではなくこのメカニズムは最終的には目覚めを経験させるための苦行のようなものです。宇宙には一切無駄なものはありませんからこのメカニズムは人間を目覚めに誘う荒療治のようなものです。私自身悟り、ノンデュアリティーの学びを始め、、、このエゴ、自我のメカニズムを学んできましたがこの核心にあってはなかなか理解が深まらない、、つまり自我の抵抗に相当に合いました。それだけ人を目覚めに渇望させる大きなポイントなのだと思います。

マリオは気づいた、苦しんでいるのは自分だけだ

マリオゲームで苦しんでいるのは自分だけ

マリオゲームの中で感情を持っているのはマリオだけ、マリオだけが苦しみ、楽しみ、喜び、落ち込んでいる。クッパもプヨプヨもノコノコもクリボーも苦しんでいるようには見えない、、これがマリオゲームの真実です。人間ゲームは違う、自分は確かに苦しんでいるが、、他の人間も苦しんでいる、、、いやそれは違います。この人間ゲームはそのようの見せているのです。苦しんでいるのは自分だけではない、、そう見せています。ですから覚者は問う者に伝えます。あんたがただ解放されればいい、あなたがただ真実に気づけばいいのだと。マリオにとってクリボーの存在が関係ないように、この人間ゲームも私が真実を知ればいい、ただそれだけです。

楽しめるのもマリオだけ

この人間ゲーム、自分だけが世界中の不幸を背負っているそのように見ることもできますが楽しめているのはこのゲームの中で自分だけです。だから楽しみを何も考えずに追求すればいいのです。他者は所詮ゲームの脇役キャラでしかないのです。ただこの楽しみを追求するのがまた厄介でそれはそれで骨が折れるのです。楽しみ続けるって実は難しいのです。買い物を追求しても、食事を追求しても、異性を追求してもハードルは上がるばかりです。もしくは途中で飽きます。

全体から分離しているのは自分だけ

この自分ゲームにおいては全体から分離してるのは自分だけです。この体と言い切るのも間違っています、例えば腸の動き、血液の動きなど自身が全く感じることができない動きは全体が行なっています。足を動かした時にそれを感じるのはそれを行なっているのは自我、自分だからです。体全部が自分が動かしていると思ったら大間違いでほとんどは全体がこれを行なっています。全体が全体としてそれを行う時、それを感じることはできません。例えば傷を負ったとしてもそれを治すのは全体です、ですから傷が治る感覚を得ることなく勝手に傷が治ってしまうのです。思考がわき起こる時にそれをしっかりと感じるのはそれについては異物(自我)が関係しているということになります。

マリオは気づいた、動いているのは自分ではない

マリオゲームをやっていても騙される

大人はマリオゲームをやっていると気づきます、動いているのはマリオではない、背景だ。ゲームクリエイターならばそれは常識、キャラがゲーム上を自由気ままに動いているように見えますが動いているのは背景です。これはこの人間ゲームも同じ、動いているのは人間ではない、背景です。ではなぜ人間が動く感覚は実感できるのに、全体、背景が動くのは実感できないのか?これはこのブログ史上最重要質問です、答えは簡単、自分自身が実は背景そのものなので自身の動きに気づかないのです。いやそんなことはないではこの私の動きを私が感じるとはなぜだ?これも最強の質問、自分自身が背景そのものだからこの体(自分)異物の動きを敏感に察知しているのです、全体が。いや全体が察知していない、察知しているのはこの自分だ、違います。全体が察知した経験を自分(異物)のモノとしているシステムこそ自我です。

マリオは何も知らずに今日も自分が動いていると活動する、呑気者

この地球に住んでいる人間の中でどれだけの人がこの事実に気付いているでしょうか?恐らく1%もいないでしょう。この自分の五感、感覚、経験には絶対的なモノがありこのカラクリを見抜くのは至難の技です。ですが覚者と呼ばれる人々の意見が一致していることからもこの新しい事実は真実です。天動説が地動説に切り替わった時の大発明、「動いているのはマリオではない、背景である」「動いているのは人間ではない、全体である」動いているのはマリオではなく背景だ、、、この事実を突きつけて驚く大人がいないのは当たり前だからです。ですが人間に置き換えると途端に納得がいかなくなる、なぜならばそれほどまでにこの人間ゲームは緻密だからです。

大人を信じるな、大人は人間の苦しみを全く解決できていない、、

思春期になり大人に近づく若者が親のことを絶対的に信頼していない理由は何か?それは両親が幸福そうに見えないからです。ほどほどには幸福そうに見えるかもしれません、ですが絶対的に幸福には見えない、むしろ日々のニュースに狼狽、振り回され、絶望すらしているではないか。若者が将来に対し日々不安になっていくのは当然です。答えは簡単、地動説を信じこの自分の存在を勘違いした状態で至福に至ことは不可能ということです。

全体は異物である自分が行うことを全部認識する

全体は全体の動きを認識せず異物の行動のみを認識する

全体は全体が行うことを認識できません、コーラがコーラの動きを認識できないように。ところが全体は全体でないモノの行動は認識できます。コーラは異物の存在のみ認識できます。全体にとってこの自分は異物です、ですから自分が行うこと食事をする時の感覚、会話をする時の感覚、音楽を聞く時の感覚を全部認識します。全体と異物の接点は全て認識します。これが人間の五感の真実です。人間は自分が感じていると信じていますが実は全体が異物(自分)を感じているのです。そしてその経験を自分が所有します。そしてまた自我(異物)が発達します。

全体は友人の感情を認識しない

ではなぜ全体は私の友人の感情を瞬時に認識していないのでしょうか?それは友人が全体の一部だからです、友人の中に湧いているだろう感情も思考も全体の一部だからです。そして私の感情だけを異物のモノとしているからこそ全体がそれを認識しているのです。そうです、この私が見ている世界には私しか異物は存在しないのです。他は全部全体です。私だけが異物で他は全部全体、だからこそこの自分の感情だけを全体が認識しているわけです。

全体は全体以外に接触して初めて感覚を作る

我々が所有している感覚の全ては全体が経験したモノです。全体がこの自分と接触し経験を積みました、その経験をこの自分が自分のモノとしているだけです。今私がコーヒーを飲みます、コーヒー(全体)が私に接触しました、感覚が起こります。美味しいという経験が生まれました、これを自分、私が所有します。全体が自分(異物)の美味しいを認識しているのです。私がお腹が空くとします、、これは全体が私(異物)の変化を感じたのです。コーラが氷の減少を感じたのと同じです。ではなぜ私は血液の流れを感じないのか?それは血液の流れは全体の動きだからです。全体にとって血液の流れは全体の動きです。

自分はこれが全てと聞いて絶望する

神は遠い彼方にいて欲しい

自分、自我は神という絶大な存在がこの世にはあってそれは遥か彼方に居るはずだと信じます。まさか6Kのアパートにそれが居るとは信じたくない。自分はこの広い宇宙のどこかに神がいてこの宇宙を創造していると信じたいのです。ですが実際は今目の前に広がるこれ、それが神です。そんなはずはない、神はもっと神々しい出現をするはずだ、6Kのアパートが神だったらショボすぎる、、、こうなるのです。ですが実際はどこまで行っても神は目の前『のみ』居ます。結論をお伝えすれば私たちが見ているこの視界は神エネルギーで構築されています。全部構成分子は神です。ということはこの私、この体、この思考、感情も構成分子は神です。神以外の分子でできるモノなど存在しません。もしもあったらもうそれは神(全部)ではない。神とは全部だから神なのです。神は遠く彼方にいるはずというその思考も神です。徐々に理解できたでしょうか。

空間とは神

見える世界、この空間は全部神エネルギーで構築されています。人間の体も神エネルギーです、そしてこの人間の体は五感がありこの空間を触れ、匂え、見れ、味わうことができます。これはこの体が神でできている証拠です。もしもこの体が神エネルギーで無かったらそんな感覚を味わうことができませんし、この神の空間に居れないでしょう。我々は神によって作られ、神でできたモノなのです。そして本質は神エネルギーそのものですからこの空間で起こる全てを神エネルギーとして認識できます。それはこの体(神エネルギー)を通じても全体(神)を通じてもです。自身(この体)を神エネルギーであると理解できたら、、逆にこの体のみを自分とすることができなくなります。なぜならば全部神エネルギーでできているからです。

もしも苦しくなったら

もしも苦しい時は、、、この体、思考、感情は何でできていたっけ?と自身に問いてみてください。この体は神エネルギーでできています。ということは自身は神エネルギーです。そしてこの体の外部全ては神エネルギーでできています。ということは自分とは全部だ、、、こうなります。構成物質のレベルでこの視界を眺めて見れば見ている独立した存在も見られている独立した存在もいません。なぜならば全部神エネルギーだからです。この事実を物理学者は分子解剖で発見します。全部が同じモノでできている、、、ということは自分はいない、、

自分というエネルギーの葛藤

全体が分離を作り出すという自己矛盾

お塩で作ったケーキを想像してみてください。なんか複雑な感情が湧いてきます。お塩は塩っぱい、辛い、、ですがそのお塩でかなり甘そうなケーキを作ることできますね。これお塩のケーキ体験です。お塩はお塩ゆえにどうやっても甘くなれない、、だからせめてケーキをお塩で作って甘そうな体験だけしてみる。これが全体の人間体験です。全体は全体ゆえに分離というのが分からない、力がにというのが理解できない、弱いということがどういう意味か分からない、、、孤独という感情をどうしても感じてみたい、、、これらの感情が爆発してこの人間体験を作り出しました。ただいざ人間を作り出してみても構成物質は全体です、この構成物質は全体そのものです。全体とは至福、歓喜、安堵です。この物質で孤独や苦悩、悲しみ、地獄を味わうってなかなかに難しいことです。人間体験とはどこまでもこの矛盾を抱えた体験なのです。

歓喜(全体)が苦しいを体験している

お塩がケーキを体験する、女性が男装して男を体験する、男性が女装して女を体験する、お金持ちが役で貧乏人を体験する、、、この人間体験は上記のように矛盾を抱えているのです。だからこそ常に衝動が生まれる、渇望が生まれる、歓喜、全体への帰還に憧れつつ、この自我を維持しようとする矛盾を抱えています。幸福に憧れつつも不幸を味わいたい、永遠の仲間に憧れつつ孤独を味わいたい、、全部このパターンです。

若者が実家を出る感覚

若者は実家にいれば安全で人間関係も楽、生活も楽と楽々続きです。ですが一部の若者はだからこそ家を出ようとする、、、若者は孤独を感じ、貧乏を感じ、不便をあえて味わいたい、、、これが全体から人間になった衝動と全く同じなのです。ですが心の奥底には間違いなく安全、安心、安堵への渇望を抱えている、、、この自己矛盾こそが人間です。人間の構成物質はどこまで行っても安堵、安全、歓喜であり、あえてそこから不安、孤独、危険に向かっていきます。そしてそれを味わい尽くしながら再び安堵、安全、歓喜(全体)に帰るのです。

自分活動が非常に疲れるのは記憶と一体化しているから

PCが重くなっていくように自分も重くなっていく

マリオはどのステージに進んでも行動が重くなることはありません。マリオはステージを変えていっても何かを背負っていくことは基本ないでしょう。ですがこの自分は経験を重ねていくた度に記憶が増えていき何か新しいチャレンジをしようとすればその記憶が作動します。何をしようとしても記憶の照会作業が始まり過去にはこういう失敗があったなど思考がグルグル回転します。さらにその時の記憶から感情が湧き出しその感情にも振り回されるという始末。大人になると気軽なチャレンジができなくなるのはこのためです。子供の頃はなんでもやってみたいで実践できたのが、大人になるとやってみたいの後に記憶に裏打ちされた情報が脳内を飛び回り結果やらないという思考が湧いてきます。何かを始める前から異常に疲れるという始末です。

一年間を通じて結果何もチャレンジできなかった、、となる

人間ゲームにおいてこの自分は記憶を溜め込んでいきます。これまでの何十年間分の記憶が溜まっているわけです、結果何か新しいことをしようかなとアイデアが湧き上がってもこの記憶からあらゆる感情、思考が湧き上がりグルグル状態に。そのまま疲れて何もしないが継続します。年々何もチャレンジできなかった傾向が強くなっていきます。そして最終的には何もチャレンジしないのがデフォルトになります。好奇心は消え去ります。

記憶を頼りにすれば結局何もしなくなるのが分かったら

人間ゲームにおいて記憶を頼りにすれば確かにこの体を安全に維持できる可能性は高くなります。ですが安全を確保した結果として人間が人間ゲームをプレイしている間は不足感が解消することは絶対にありません。安全だろうと危険だろうと不足感は絶対に無くならないのです。この二元の世界、ゲームの中で人間としてのゲームが継続する限り快楽も苦悩も不足感の根本解消にはならないのです。それが分かってきますと記憶を頼りに思考や感情に振り回されてもあまり意味がないことが分かってきます。マリオ同様にゲーム上は安全にプレイできてもそれが根本解決とは何も関係がないのです。身も蓋もない話ですがマリオも人間も記憶を頼りにこのゲーム上で上手く立ち回っても不足感、分離感、退屈感という罠から抜けれることはありません。このメカニズムを理解してキャラクターからプレイヤーに、プレイヤーからクリエイターへのシフトが大切です。

問題を起こすのは常に自分だがそれを起こしているのは神

起きる出来事を自分ごととして問題化していく自分

朝起きた瞬間に人間の体の記憶装置が起動することで、この体は私で、〇〇という名前で、、職業は〇〇である、、、と自分人間が誕生します。これは全体、神が変化した状態、全体、神の中から浮かぶあがった状態です。この自分人間は記憶力を持つのでこの体に起きる経験を全て自分の経験として記憶していきます。そしてその経験に基づき思考が固まっていきそれも自分の価値観として所有していくのです。こうして自分劇場が全体、神の中で形成されていくのです。悟り系の書籍ではこの自我形成を悪の根源と称するものも多いですがこの自我形成の成分、エネルギーは神、全体という一つのエネルギーです。つまりこの自我形成は神、全体が起こしているのです。

自我形成はどこまで行っても神の遊び

この視界に広がる世界は色の世界です。神が色として表現している世界です、この色の世界において人間は独自の進化を重ね脳を所有するようになりました。これにより思考が生まれ、その思考が記憶されていくことで人間は自分というアイデアを創造するまでに至ったのです、神が作った色の世界に自分が誕生したのです。これは神の表現の進化でもあります。この自分を作り出しているのは間違いなく神です、神は神自身が作り出した世界に自分というアイデアを所有する生命体を作りだしたのです。その生命体は活動のほとんどを記憶して「我が人生」を誕生させました。そしてそこに起こる様々な体験を自分に起こったとしてさらに記憶するという流れです。

この現象界に神でないものは一つもない

この現象界で起こる出来事で神が起こしていないものは一つもありません、ヒトラーもスターリンも、プーチンも、世界中で非難の的になっている人物の活動、思考の全ては神のエネルギーです。本人は自分が考え出したものだと言い張るでしょうが、、、神でないエネルギーは皆無です。神でないエネルギー、思考、活動があるならば一体それは何か?ということです。神とは全体のことであり全体の中で繰り広げらえる出来事、人間の活動、思考、感情において全体のエネルギーでないものなどあろうはずがないのです。全出来事は神が創造したものです。

道を行き交う人々の全ての行動は神の顕現

ということは私が街を歩く時に行き交う人々、人々の会話、行動、全てが神の顕現ということになります。飲み屋で喧嘩をしてるお客さん同士は神の顕現の一つです。全部が神の遊び、表現です。その出来事を見て自分はあらゆる判断を下すでしょう、、ですがその判断すらも神の表現ということになります。神の表現ということはこの判断は自分の判断ではないのか?ということになりますが判断を下しているのが神としての自分ということです。街を歩いていて不平不満、愚痴が自身の中から湧き上がったとしてもそれは神の顕現なのです。神が不平不満や愚痴などこぼすわけがないとあなたは思うでしょう。ですが神は愚痴や不平不満を吐きたくて人間を進化させたのです。

最大の中毒「自分」

自分中毒こそが最強の中毒

中毒とは意識していないにも関わらずそこに依存してしまうこと、、、いつの間にかそれを手にしている、、、お酒、タバコ、ギャンブル、買い物、異性、、、、これらはこの自分劇場では中毒の対象です。ですが本当の中毒とは「自分」です。いつの間にかこの自分を意識しています。自分という実際には存在しない記憶上の概念、これに中毒するのです。「自分が居る」「自分が言われた」「自分は何をしよう」「自分になぜ不幸が」とこうなるのです。すべてを自分ごととして捉える、、中毒です。これを解消しようとする動きこそがタバコ、お酒、異性、ギャンブル、買い物などです。この瞬間は自分を忘れることができます。

要はこの体を自分と思い込みすぎる、、、

マリオを初めてプレイするプレイヤーはマリオに成り切ることはできません、なぜならば思うようにプレイできないからです。全然自分の思うようにプレイできないマリオに感情移入できないのです。ですが何時間も何日間もプレイを続けるとまるでマリオになり切ったかのようにプレイがスムーズに進むようになります。そうなるとこのスーパーマリオが楽しくて仕方がない、、マリオになり切ってプレイするようになるのです。そしてどんどんステージが進みかなり難しいステージに至った時に壁にぶつかった時に非常に苦しい時期を迎えます。もうすでにマリオになり切っている、だがこの壁を突破できない、、、帰る場所がない状態です。八方塞がりの状態です。人間もこれと同じでこの体が大人と同じように成長していくとやりたいことを何でもできるようになっていきます、この段階は全体が人間に成り切る状態です。最初のうちは何でもやりたいように動けるこの体が楽しくて仕方がない、、、ところが徐々にステージが上がり責任が増えていく、、、壁にぶつかる、、、そんな時にもう戻れる場所がない、、、こうなるのです。

人間になり切った全体は、、壁にぶつかり、、、諦める

マリオになり切ったプレイヤーはステージが進むにつれて難易度が上がり、、途中で我に帰ります。俺はマリオじゃなかった、プレイヤーだ。。これが人間ゲームでも全く同じように起こるのです、人間になり切ってゲームを進めていくうちに徐々にステージが上がる、就職、結婚、出産、出世、お受験、転勤、大病、、、、とステージが上がっても上がってもどこまでも続くこの人間ゲーム、、、責任だけは以上に増えて重さが増していきます。もうこれ以上は重さに耐えられない、、、そんな時に我に返るのです、、、それが悟り、一瞥体験、目覚めです。自分はこの体ではなかった、、、全体、ワンネスだった、、、

自分という記憶をしっかりと持ちながらこの世のカラクリを解明する

悟とは子供に戻ることではない

悟るとは、ただ子供に戻ることではありません。しっかりとした自分という記憶を所有しながらこの世のカラクリを理解することです。マリオに成り切ってクタクタに疲れたプレイヤーが実は俺はマリオではなくプレイヤーだったと気づくことです。その時にマリオになり切っていた記憶はあります。マリオになり切ってこんなこともあんなこともやったなと。。はっきりと記憶しています。ですがもう自分の存在はマリオではないという気づきが完璧にあります。これが悟りです。

人間も全く同じ、、、自分は人間ではない、、

この身体の中の自分も全くこれと同じです、この身体の中に自分が居るという自分劇場のことははっきりと覚えています。幼少期はこんな子供で、中学時代はあんな苦労を自分はし、大人になってからは七転八倒だった自分、、、ですがそれは神の思い込み、全体の思い込みであるという完全な気づきです。この体が経験することすべてを自分が所有し記憶し、それによってこの体人生が始まります。この体をより逞しく生きながらえるために思考が湧きそれも自分のものにしていきます。寂しい、嬉しい、楽しい、辛い、、あらゆる感情も自動反応で湧いてきますがそれも自分のモノとしていくことでこの体人生、自分劇場は続いていきます。

自分ごと捉えてきた人生から、、自分ごとと捉えさせられてきたという気づき

この世には完全に独立したこの体、自分が存在していてこの体、自分が生き抜いて行く道こそが我が人生。これがこの世に住んでいる人々の共通認識ですが、、、これはマリオをプレイするプレイヤー同様に、人間をプレイする神によって作られた人間物語です。人間物語は確実に経験できますが、、この物語の中に何も知らずに居続けるのは実は大変。どこかでこのカラクリに気づきプレイヤーに戻るのもいいかもしれません。