自分

本屋に行けばこの自分を幸福にするための本が並んでいる

「自分」を幸福に、快適に、楽しませてくれる書籍の数々

本屋に行けば入り口からあらゆる情報が揃っています。幸せの見つけ方、最高のパートナーとは?株の儲け方、起業独立の方法、新しい働き方、WEB3.0、動画時代のビジネス、働かない生き方、経済ってそうだったんだ会議、、まーとにかく全方位からこの自分を楽しませ、幸福にし、サバイバルさせてくれるノウハウが揃っています。どの切り口からでも全方位そこにはノウハウがあります。しかし少し冷静に考えてみますとなぜこんなに新書が次々に出版されるのか?これだけの切り口で個人を幸福にできるノウハウが既にあるならばもう必要なノウハウはないはず。。。にも関わらずなぜ次々に新書が出るのか?ということです。

「自分」を幸福にするためのノウハウでは幸福になれない

自分を幸福に、快適に、堅実に、安定的にしてくれるノウハウの書籍の数々が、、、毎年のように手を替え品を替え出版され続けてきます。なぜこれほどまでに「自分」とは幸福になるのが難しい存在なのでしょうか?時代は移り行くのだからノウハウも変わって行かなくてはならない、、これも理解できます。ですが本当でしょうか?そうではなく自分を幸福にするのが難しいのではなく自分とは幸福になれない存在なのだとそろそろ諦めをつけてもいいかもしれません。一瞬一瞬であれば幸福、快適、安堵を味わえますが、、長期的な幸福、快適、安堵は自分には手に入れることはできない、、、こう諦めてしまうのはどうでしょう。これをサレンダーと言います。

実は自分が居ない、、、

本屋に行けばあらゆる方法で「自分」を幸福にするノウハウを発見出来ますが、、、この全部を試しても我々は長期的な幸福を手に入れることはできません。それはこの自分こそが幸福を遠ざける存在だからです。「この体の中に自分が居る」という現代人であれば当たり前の発想こそが幸福を遠ざけているのです。勿論一瞬一瞬、ショートスパンでの安定、歓喜、幸福を手に入れる方法はありますしそれも可能でしょう。ですが自分とは直ぐに不足感に襲われ次の何かを探さずにはいられない存在なのです。この体の中には自分が居ない、、この絶望的なメッセージだけが根本解決を示します。

さあ自分を卒業しよう

自分とは人間ゲームの表面

ドラゴンクエスト3というゲームがありこれには表面と裏面が存在します。表面をクリアするとまさかの裏面に突入という流れです。私はこの人間ゲームの表面こそが「この体に自分が居る」という設定ゲームだと思います。そしてそこを見破り次第、次のゲームに裏面に突入すると。表面は非常にエキサイティングです、なぜならばこんな小さくて卑小で極弱な体の中に自分が居るという史上最低の初期設定だからです。勿論この体の中に自分が居ないということが分かってもこの体がパワーアップすることは絶対にありません。ですが少なくとも深刻さが消えます、マリオを自分と思っていた自分がマリアは自分ではないと気づく気軽さです。

裏面は「経験はあるが自分はいない」

この体の中に自分は居ないという気づきが起きても当然経験は続きます。朝起きてコーヒーを飲めば美味しいと感じるし、運動をすればスッキリします。人とコミュニケーションを取れば喜怒哀楽全部起こります。ですがそれを所有する個人が居ないという点が全く異なります。経験、感情、思考だけが起こり続けます、そしてそれを所有する個人が消えています。この体に向けてあらゆる人がアプローチをかけてきてもそれはこの体に向けてのこと、それだけです。個人としてそれを所有しないのですから周囲からすれば飄々と生きているようには見えるはずです。多くの方は全てを自分ごととして捉え重くなっているのです。

自分ごとと捉えないのは無責任?!

全ての出来事、感情、思考を自分ごとと捉えないわけですから無責任に映ることもあるでしょう。もっと深刻に悩むべきだ、もっと熟慮を重ねて行動すべきだ、、、と。ですが実際には、、自分ごとと捉えないことで頭脳を常にリラックスさせておくことができますから頭脳が明晰になっていきます。この体に起こる問題に対して迅速に明瞭に処理していくことができるのです。無責任どころか積極的解決に向かいます。

地動説以来の大発明「自分が錯覚」

自分が錯覚であることに気づいたら二度と戻らない。。。

自分が錯覚である、この感覚の気づきは、、天動説が地動説に切り替わった時の人類の驚きと同じです。そもそも地球は平坦で、その周りを宇宙が回っていると真剣に信じ込んできました、研究者が実は地球こそが太陽の周りを回っていると唱えても変人扱い、病気扱いをされたモノです。今回の提案、実は自分とは錯覚であるというアイデアはその当時と全く同じ扱いを受けます。この体の中に自分が居るというのは思考のアイデアです。思考と記憶が作り出した画期的なアイデアです。

人間同士は自分の存在を共有し続ける

天動説が人間にとって当たり前の定説だった時、それに異を唱える動物は皆無でした。人間だけが人間同士で勝手にそう思いこんでいただけです。人間全員がそう信じればそれに異を唱えるのは誰もいないのです。今回の自分錯覚説も全く同じです、人口の99。999パーセントがそう信じていれば先ずこの理論が覆されることはないでしょう。もしも自分錯覚説に気づいた者が現実的に目の前に現れても病人か変人に扱われて終わりです。

自分というのはアイデア

人間がどれほどのテクノロジーの進化を遂げても体に中に「自分」を発見できることはできません。断言できます。なぜならば自分とは思考と記憶が作り上げたアイデアだからです。この体の中に思考も湧いてくるし、感情も湧いている、そして五感もガッツリ感じている、、、だからこの体の中に自分が居るというアイデア、理論です。この体無しに思考も感情も湧かないではないか!その証拠に熟睡中は何も湧いていない!ということです。ですが実際は思考、感情が湧いた時にこの体の中に湧いたのだと信じ込んでいるだけです。マリオがゲームの中で味わう辛酸はマリオのものだと言い張るのと同じです。スーパーマリオの中で辛酸を味わっているのはマリオではなくプレイヤーです。

自分を無視する生活を続けると自分が消えてなくなる

何かに没頭している時自分はいない

この世の苦しみは自分が作り出しています、自分という存在、この体の中に自分が居るというアイデア認識こそがこの自分人生、自分劇場のデフォルトです。この自分劇場の苦しみは自分というアイデアが引き起こしていますからいかに毎日自分がいない状態でいるかが鍵になります。自分という存在を満足させようと何かアクションを起こしてもこの自分の空腹が癒えることは絶対にありません。自分を置き去りにする、自分を忘れる状態を作り出すということが自分劇場から抜け出す唯一の方法です。

毎日何かに没頭する、毎日体に意識を向ける

何かに没頭している時、頭が没している状態を作り出しますと、、自分が消えてなくなります。歓喜、平和、安堵の波に襲われます。激しいトレーニングなどをして体に意識を完全に向けますと思考が剥がされ自分が居なくなります。この習慣を意図的に行なっていきます。このブログを書いている自分は基本、全てをルーティンで作り上げていくことで思考の介在を許さないようにします。このブログを書いている時も思考の介入を許しません。なぜそのようなことができるか?最初から思考を使わなけえばならないことをしないと決めているからです。もしもこのブログを書く際に思考を使わなくてはならないレベルに居るならば最初から書きません。書けるまで読書をして待ちます。

大きなことを成し遂げたいと思ったら

大きなことを成し遂げたいと思ったら思考を介在しないでいいルーティンで突き進めていきます。例えばエベレストを登ることになったら、、、毎日50メートル登れば160日間で登頂できる計算になりますから逆にそこからは戦略を練りません。戦略を練っていかに効率よく登るかを考えれば思考がシャシャリでてきます。これによって登山自体が非常に苦しい旅になります。もしも毎日50メートル登れているならばもう他のことは何も考えない、ただ没頭することでそのまま歓喜、平和、安堵が襲ってきます。エベレストに登る価値よりも歓喜、平和、安堵に至る方が遥かに価値があります。

自分は美に憧れる

美とは全体の完璧な現れ

男性は美しい女性に惹かれ、女性は美を追求します。美とは存在の完璧な現れです。美を認識する時自分はそこに全体を見ているのです、自分が実は全体であったことを思い出しているのです。赤ちゃんを見ると誰しも笑顔になってしまうように美に関しても同じことが起きます。だからこそ人間は美に憧れます。人間が美に憧れる姿勢は全体に戻ることと同意です。

自分は美しいものを見る時に自分を忘れる

美しいものが視界に入ると自分を忘れます、自分を忘れるとは全体に戻ることです。全体に戻ることで歓喜、安堵、平和が訪れます。これが人間が美を追い求める真意です。男性も女性も常に美を追い求める理由はここにあります。美とは全体の完璧な現れでありだからこそ自分は美に酔いしれるのです。美に触れることで自分を忘れ全体に戻りたいという欲求から来ています。

部屋を美しい物で満たしたいのは全体への帰還、憧れ

部屋を美しいオブジェで満たすのはそれに触れることで自分を忘れたいためです、人は美しい物に触れたり、見たりする時に自分を忘れそこに関心が集まります。自分を忘れている時、そこには全体だけがあります、全体に帰還しているのです。美しいオブジェで部屋を満たすことで全体に帰還し叡智、歓喜、平和に戻ります。全体と自分、この関係だけで世の中の真実が見えてきます。美の意味も違ってきます。

全体の悪趣味「自分」

自分とは全体の苦しみ体験マシーン

自分と書いて「自ら分ける」自分とは全体から分かれる状態のことです。この体には脳があるのでこの体の中に自分が居ると錯覚をすることができます。錯覚という表現をするのはこの世には一つのエネルギーしか存在していないのでその中に独立した何かが現れることは不可能です。ピカソが描く絵の中の登場人物が突然意識を所有し、私はこのピカソの絵とは何も関係がないと言い出すようなものです。本人がどんなに大きな声を張り上げても絶対に独立などできません、なぜならばピカソが描いた油絵具で出来ているという事実は絶対に変わらないからです。その中の登場人物に意識が生まれてもそれは錯覚です。

ディズニーランドのミッキーマウスが突然意識を持つ

ディズニーランドのミッキーマウスに突然が芽生え私はディズニーとは何も関係がないと宣っても誰も信用しません。ミッキーマウスがいかにそれを本気で思っても今日もディズニーに居ます。ディズニーの外には出れません。我々も同じ、この全体の中に生まれた突然変異です、突然意識体です。全体の中から出ることは絶対にできませんし、勘違いを実感しているのも全体です。

全体は勘違いマシーンを作り出し苦しみ体験を今日もする

全体は全体のままでは苦しむことができません。全体が苦しみためには全体ではない存在を作り出す必要がありますが全体が作り出す存在は全体以外にはなれません。そこで全体は肉体に「これが自分だと勘違いする存在」を無理くり作ったのです。こっれによってこの存在は大いに苦しむことができたのです。苦しみためには苦しむという経験が必要になり自分と自分以外を作り出し自分体験記を作りました、分離した自分は全体とのギャップにより不足感、喪失感、欠乏感が湧き出しますから常に苦しむことができるのです。そしてこの苦しみを解消すべく様々な冒険を歩むことになります。

文春砲よりも強烈な自分砲

まさかの自分で自分の幸福を壊す

女優の杏さんと旦那の東出君、東出君の度重なる不倫で結果離婚に至りました。このエピソードは自我のメカニズムを顕著に現しています。東出君は杏さんと結婚する時、まさか自身が不倫をするとは思っていなかったはずです、なぜならばそのようなレベルの人と思ったから結婚したわけです。他によそ見をしたくないほどに魅力があると感じたから結婚したはず。杏さんをもしも他に目を向けてしまうようなレベルであると判断したら危なくて本人も結婚しなかったはずです。ですが現実は違った。東出君を不誠実であるとるメディアの対応は稚拙です。自我とは自分とは不足感発生器であり誰と結婚しようとその事実は絶対に変わりません。

東出君がこの自我のでのメカニズムを理解していなければ

自分、自我とは不足感発生器ですから結婚後もこの不足感は延々と沸き続けます、その際に不足感の原因をどこに向けるか?それがパートナーになるケースは多々あります。もしも彼がその矛先を杏さんに向ければ杏さんの粗探しに、もしくはその不足感を補うために他の女性に向かいます。杏さんに対し何も問題を見つけることができなければ他の女性によってその不足感を補おうとするわけです。彼がもしもギャンブルも、お酒も、ゲームにもその対象を見つけることができなければそれを女性で補おうとするのは当然です。

メディアの対応は常に稚拙

杏さん東出君の事件をどれほど大々的にメディアが取り上げようと夫婦間の問題が今後減ることは絶対にありません。なぜならば人間とは不足感発生器でありこの問題に切り込まない限り人間はこの苦しみから逃れられないからです。不足感をいかに解消するか?そして不足感を生み出すメカニズムを共有することでお互いに切磋琢磨するという姿勢がなければ全ての解決策は対処療法ということになります。もう人間同士、自分同士が罪の擦り付けをし合うのは辞めてもいいかもです。

自分の強制解体作業

運動は思考の発生を抑え自分を緩める

体を激しく使うながら思考を使うことは難しいことです。激しいスポーツをしながら明日の予定について考えることは至難の技です。体を使うと思考が収まり、思考を使うと体が収まります。両方を同時に使うことは難しいものです。結論から言えば自分体験をする全体は常に一つの経験しかできません。お酒を味わいながら食事も味わい、さらに最良の音楽も同時に堪能し、さらに友人との会話に集中することは不可能です。つまり経験は常に一つなのです。これが自分劇場のルールです。ということは自分を緩めるのは簡単、体の感覚に意識を集中してしまえばいいのです。激しい運動をすれば意識が運動に集中し自分を形成する思考は無くなります。

激しい運動をした後なぜか安堵感の残滓がある

激しい運動をしますと強制的に思考の感覚が薄れていきます。本来激しく動くことはストレスフルなことでもありますがなぜか運動後安堵感に襲われます。運動をしている間、自分を作り出す思考が抜け落ちるからです。自分が居ない時に何があるか?全体だけがそこにあります、つまり安堵、歓喜、平和がそこにあるのです。頭脳を酷使する労働者が休日に山に登りたくなりのはこのためです。あえて山という厳しい環境で歩くことで思考が湧くのを落としその瞬間全体に戻っているのです。

全体に戻る方法を積極的に活用する

「この体の中に自分が居る」というのは思考です。この思考が随時湧いてくることで全体から分離した自分を存続し続けるのが自分劇場です。激しい運動をしますとこのシステムを壊すことができ自分が崩壊します、自分が崩壊しますと歓喜、平和、安堵が襲ってきます。なんという皮肉、ブラックジョークです。この事実を理解したならば積極的にこの自分の解体作業を行います、ルーティンで激しい運動を取り入れることで全体に積極的に戻るのです。すると思考を記憶する脳の疲労が取れ思考の活用が上手くなっていくのです。

自由が自分を発見する

自分が自由を手に入れるわけではない

この二元の世界では自分が何かを手に入れるのがデフォルトです。自分が幸福になる、自分が自由になる、自分が歓喜をえる、自分が安定をえる、、、全てこんな感じです。ですがこの自分が何かを得るという感覚で生きている限り得れる対象はすぐに消え去りまた次の何かを得ずにはいられません。自分という存在は、全体から分かれていると錯覚した存在でありこの感覚を解消しない限り延々と居心地の悪さを感じていくことになります。結果自分が幸福を得て、そこから自由を得て、そこから安定を得てとラットレースを繰り返すことになるのです。これは自由のようでいて地獄です。

本当は自分とは自由そのものであったと気づくこと

自分が自由を得ようとする限り自由は逃げ続けます。なぜならば不自由を作りだしている張本人こそが自分だからです。不自由を作り出してるのが自分というこの錯覚の存在でこの自分という存在が錯覚であることを腹落ちさせなくては自由は手に入りません。というよりもこの自分が居ないのだから自由を手に入れる自分はないのです。自分が居なくなった時にだけ自由がそこにある、自分とは自由そのものだったんだという大落ちです。

自分が居なくなると平和、歓喜、自由がそこに広がる

自分こそが平和、歓喜、自由を遠ざけていることに気づきますとシンプルになります。自分という存在、全体から分離したこの自分こそが平和、歓喜、自由の世界から脱却する行為であり、これを辞めれば即座に平和、歓喜、自由になります。自分という勘違いした個人が自由を求めて右往左往している限りは自由を見つけることはできませんし、仮に見つかっても即座に消え去ります。なぜならば消し去っている張本人こそがこの自分だからです。

自分は錯覚だから常に虚しい

虚無感とはこの自分が虚であることから来ている

自分とは全体から自らが分かれた状態です。この体の中に自分が居るという感覚のことです。本当は全体しかなくその中に独立した風の自分を作り出しました。本当は全体しかなくその中に別個の確立した風の自分をこの体の中に作りました。実際には全ての体験を経験しているのは自分演じる全体です。全体の中に分離した存在を作ることはできません、あくまでも分離風個人ということになります。だからこそこの自分は常に虚しさを感じます。何かがおかしい、何か不足している気がする、何か孤独な気がする、、、これは間違いなく事実です。なぜならば自分とは虚だからです。

この虚しさを晴らすためにあらゆる試行錯誤をする

この虚無感を晴らすために自分は色々試行錯誤します。多くの試行錯誤は没頭できる何かを探すことです、TV、YOUTUBE、SNS、ギャンブル、友人とのお喋り、カラオケ、恋愛、旅行などなど、、、世の中には自然と没頭できるエンタメが溢れています。これを仕事など生産性のある分野で見出すことができる人もいます、好きな仕事で自己実現する人々です。もしくは母親として子育てに没頭することでこれをする人もいます。全ての行動の動機、それはこの虚しさを解消するためです。

虚しさ、孤独、漠然とした不安は自分劇場のデフォルト

何か虚しい、何か孤独、何か不安感がある、、、これはこの自分劇場のデフォルトです。精神病でも何でもありません。自分とは本来存在しないのですから当たり前です、自分とは全体から自ら分かれたと錯覚した存在です、エネルギーを解明すれば明白ですがこの全体(一つのエネルギー)の中に全く別物のエネルギーが存在することは不可能です。ですが分離したと錯覚する一つのエネルギーの存在は可能です。そして錯覚ですからどこまで行っても虚しさが拭えないのです。このメッセージはだからこそ絶望しろ、という内容のものではありません。虚しさ、孤独、不安感に悩む必要がないということです。ある意味自分の責任ですが笑根本的誤解から生じています。