自由が自分を発見する

自分が自由を手に入れるわけではない

この二元の世界では自分が何かを手に入れるのがデフォルトです。自分が幸福になる、自分が自由になる、自分が歓喜をえる、自分が安定をえる、、、全てこんな感じです。ですがこの自分が何かを得るという感覚で生きている限り得れる対象はすぐに消え去りまた次の何かを得ずにはいられません。自分という存在は、全体から分かれていると錯覚した存在でありこの感覚を解消しない限り延々と居心地の悪さを感じていくことになります。結果自分が幸福を得て、そこから自由を得て、そこから安定を得てとラットレースを繰り返すことになるのです。これは自由のようでいて地獄です。

本当は自分とは自由そのものであったと気づくこと

自分が自由を得ようとする限り自由は逃げ続けます。なぜならば不自由を作りだしている張本人こそが自分だからです。不自由を作り出してるのが自分というこの錯覚の存在でこの自分という存在が錯覚であることを腹落ちさせなくては自由は手に入りません。というよりもこの自分が居ないのだから自由を手に入れる自分はないのです。自分が居なくなった時にだけ自由がそこにある、自分とは自由そのものだったんだという大落ちです。

自分が居なくなると平和、歓喜、自由がそこに広がる

自分こそが平和、歓喜、自由を遠ざけていることに気づきますとシンプルになります。自分という存在、全体から分離したこの自分こそが平和、歓喜、自由の世界から脱却する行為であり、これを辞めれば即座に平和、歓喜、自由になります。自分という勘違いした個人が自由を求めて右往左往している限りは自由を見つけることはできませんし、仮に見つかっても即座に消え去ります。なぜならば消し去っている張本人こそがこの自分だからです。

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