経験

どうせ夢ならば遊び倒す

夢だからこそ真剣に生きる

これは夢です、ワンネスの見る夢です、神が見る夢です。夢の中で人間扮する神が人間活動をする夢です。夢ならば本気になれない、夢ならばしらける、夢ならば適当に生きよう、、これも理解できます。ですがなぜこの夢を神、ワンネスが作ったかを考えればそれは間違いであることが理解できます。神は完璧、安全、安堵、平和、愛そのものでありだからこそそれ以外の経験を積みたかった、これが答えです。だとすれば適当に生きるよりも真剣に生きる方が様々な感情を得ることができます。この夢、ゲームを真剣に遊び倒すことでその目的は達成できます。

失敗、失望、落ち込み、は夢、ゲームの醍醐味

スーパーマリオを真剣にプレイしない人間はゲームで感動もありません。真剣にこれに打ち込むことで感動があります。真剣だからこそ失敗すれば悔しいし、落ち込むし、頑張れる、、そして上手くいったならば感動、幸福、歓喜も訪れます。ゲームは真剣だからこそ面白いのです。この夢、神が作った夢も同じ、真剣に遊び倒すのが正解です。夢ですからどうせ大したことがない、、だからこそ真剣に遊んでしまうということです。夢中になること、無心になること、無思考になることで遊びながら神になる、歓喜になる、平和になれたらさらに最高です。

夢だからこそ映画のように生きれる

人間がハリウッド映画に魅了されるのは信じられないほどにスペクタルな人生をそこに観れるからです。自分の人生では絶対にできないようなチャレンジをそこに観れるからです。ですがこれが夢であると分かってしまったらもう映画に負ける必要はありません。映画の主人公ばりに人生をチャレンジで満たすことは可能です。映画はなぜ深刻な気持ちで観なくて済むか?それは幻想、ドラマ、作り物だからですよね。そうしたらこれも夢です。これも幻想です。これも神が見る夢です。何を恐れる必要があるか?という話になります。

観念が変わると新しい問題が登場し最終的に神に戻る

観念は世界を変える

大きな体験をすると観念が変わります。例えば大病をする、大借金をする、倒産する、投獄にあう、、これらの体験は確実にその人の観念を変えます。この人間ゲームにおいて観念が変われば見ている世界が変わります、全く新しい人間関係、それに付随する問題が登場します。人間ゲームにおいてあらゆる経験がその人の観念を構築していきます。ゲームのOSが切り替わり次のゲーム展開が変わっていきます。

観念を変え続け最終的に「これが夢だ」という観念にする

ワンネス総指揮、人間夢物語はワンネスが人間に扮する夢です。この夢において人間はあらゆる体験を積んでいくわけですがそれによって観念、信念が書き換わっていきます。大きな病気に遭えば体を大切しにし、大好きなことをやって死のうとするでしょう。投資に失敗し大借金をすればお金中心の価値観が崩れるはずです。観念が変わるとこの夢物語が変わります、見える世界が変わります。これは夢です、そのぐらいは簡単に起こります。あらゆる体験を重ね、あらゆる目標、渇望を叶えたにも関わらずそれでも満たされない自分がいたときにこれが夢であることに気づきます。この夢の中で人間をしている限り至福には至れないと。

最終的に自分は実は夢の中の登場人物だった、、、という観念

良い大学に入らなくてはならない、良い就職先を見つけなくてはならない、良い伴侶を探さなくてはならない、、子供を良い学校に入れなくてはならない、、これらは観念です。観念は大きな体験とともに変化していきます。お金よりも健康、名誉よりも小さな幸福、仕事よりも生きがい、、、と観念は変わっていきます。これが神が見る夢のシステムです。観念が変われば世界が変わる、夢ですから。そして最終的な観念、それがこれが夢だと気づくこと、誰の夢か?神が見る夢です。これは神の夢で私は神が扮する主人公なのだという気づきです。

GOOGLEグラスの1億倍リアルなワンネスグラス

グーグルグラスはこの世のカラクリを暴く

グーグルグラスが注目を集めています。その中ではあらゆるエンタメを楽しめる、さも目の前にアーティストが居るかのようにゲーム展開されます。そのグラスを掛けるだけで3D展開された画像、音楽が聞け、本当に目の前に世界が広がっていきます。最終的には前に広がる何かに触れるような錯覚を作り出すようです。。。もしもこのグーグルグラスが10000億倍緻密で高性能のものが製作されたら、、、果たして人間はそれをゲームと見破ることはできるでしょうか。まずできないでしょう。目の前のキャラに触れて、体温も感じれ、香りも嗅ぐことができたときにそれをゲームと見破れるかということになります。この夢は神が作った夢です、人間様がこれを簡単に見破れるわけがありません。

ワンネスグラスは思考をインストールする度に見える世界を変えていく

この世界はグーグルグラスではなくワンネスグラスです。神がワンネスグラスをかけて人間体験をするゲームです。このワンネスグラスでは人間が何かを経験し信念を書き換えていくと見える世界が変わっていきます。思考がこのOSをアップデートしていき見える世界を変えていきます。経験し信念が書き換わるとOSがアップデートすることで見える世界が変化します。妊娠すると街中に妊婦さんが増えるように、ベンツに興味が出ると街中でベンツを見かけるように、買いたいスニーカーが出ると、町中でそのスニーカーを履く人が増えます。ワンネスグラスは信念の書き換えでいかようにも見える世界を変えます。

最後はワンネスグラスを外して神(ワンネス)に戻りたい

ワンネスグラスの問題点は、そのグラスをかけている限り本当の意味でストレスは解消できないということです。ワンネスグラスをかけている限りワンネスの状態(歓喜、平和、安堵)に戻れません。どこかでグラスをかけているというこの事実を発見する必要があるのです。どこかでグラスを外してやっぱ裸眼最高だよなと思い出す必要があるのです。ワンネスグラスはワンネスが退屈、ストレス、孤独感、苦痛感を楽しみながらもやがてか安堵、平和、歓喜を思いだすための道具です。

マリオは敵キャラの存在でキャラ立ちする

敵キャラの存在はこのゲームにのめり込むための道具

敵キャラがいなければマリオはスーパーマリオというゲームにのめり込めません。マリオは本当はゲーム上のキャラでありこのマリオに成り切るためにはどうしても敵キャラが必要になるのです。敵キャラが継続的に現れてくれるおかげでさもマリオが実在しているように感じるのです。まるでマリオが実際に生きているかのような錯覚を持つことができるのです。この地球ゲーム、人間ゲームも全く同じです、あらゆる敵が現れてくれるおかげでさも人間という個人が実在しているかのような錯覚を持てるのです。

あらゆるアイテムもゲームにリアリティーを持たせる道具

スターもキノコ、これらアイテムもスーパーマリオにリアリティーを持たせる道具です。これらのアイテムを手に入れることでゲームに多様性を持たせよりリアルにこのゲームを体感できるように設定されています。本当はマリオは実在しません、スーパーマリオゲームという夢の中にだけ存在します。だからこそあらゆるアイテムを用意することで夢に没入できるのです。さもマリオが実在するかのような錯覚を起こすことができます。

地球ゲーム、スーパー人間はリアリティーの塊

人間が主人公ですからゲーム名はスーパー人間です。このゲームの中で人間は多種多様な敵、多種多様な仲間、多種多様なアイテムと出会うことで圧倒的にリアルな経験を積んでいきます。スーパーマリオの10000倍リアリティーのあるゲームです。GOOGLEグラスというアイテムが出ましたがこの100000倍リアルにゲーム展開します。今後任天堂グラス、PLAYSTATIONグラス、アップルグラス、と様々なゲーム用グラスが売られるでしょうが神グラス、ワンネスグラス、大いなる一つグラスに勝てるものが出ることはありません。

自分が居るという錯覚ゲームの盲点

「自分が居ない」という理論で検証

カレーを食べている時、先ずはその食事を見ます、これは視覚です。カレーを口に入れます、その時に舌で先ずはその感触を確かめます。触覚が働きます。次にカレーの味がします、これが味覚です。次にカレーの香りがします。これが嗅覚です。噛んでいるときに音がします、これが聴覚です。この五つの感覚で人間は実際にカレーがそこにあることを確証します。実在していることに疑問を持ちません。逆に言えばこのカレーを食べているという事実があるのだから自分はいるのだと結論づけます。こうして人間の実在を確認しています。ですがこれは全て脳の電気信号で片付きます。 脳を細工すればこれは全て再現できます。ということは自分が居るという根拠が崩壊します。カレーを食べたのは事実だから自分は居るのだと結論づけましたがこれは電気信号で片付いてしまいます。これが全て幻想であるという理論も実証できてしまうのです。五感でカレーを感じた、これは紛れもない事実です。ですがこれ以外は全て推測、予想です。自分が居るというのは予想でしかありません。

「人と会話している」を検証

目の前の友人と話をしています。友人が見えます、これは視覚の確認です。友人が自分に話しかけています、これは聴覚と視覚の確認です。友人が自分に触りました、これは触覚での確認です。友人の香水を感じました、これは嗅覚の確認です。今回はこの4つの感覚を得ることがいました、それで自分がいると感じています。ですがこれも全て脳の電気信号だけの話です。これで自分が居るという証明にはなりません。もしも脳の電気信号を直接操作すればこの経験を体験できます。これが全て幻想だとしても説明がついてしまいます。ということは自分が居るという理論は証明できません。視覚、聴覚、嗅覚、触覚で感じたことは事実です。ですがだからと言って自分が居るというのは推測ですし、その友人の存在も推測の域を出ません。脳の電気信号で全て創作できてしまいます。

経験があるのだから経験者はいるに決まっている?

経験は確実にあります、スポーツをする、お酒を飲む、食事をする、音楽をきく、、、、これらを五感で確実に確認できます。それは紛れもない事実です。ですがその五感があるから自分が居るは嘘です、推測です、妄想です、夢です。これは神が見る夢です。この夢の中ではあらゆる体験をすることができます、踊って、歌って、飲んで、遊んで、、、全部体験できますが、、、だからと言って自分が居るは嘘です。経験があるのだから経験者が居るは、、暴論です。経験はどこまでも事実ですが経験者が居るはどこまでいっても事実無根です。

「お風呂に入っている」を検証

お風呂に入ります、先ず視覚でお湯を確認します。次にお湯の熱を感じます、これは触覚で感じます。次にバスソルトの香りを感じます、これは嗅覚の確認です。次にお湯の音を感じます、これは聴覚の確認です。次にバスソルトの味を感じます、これは味覚の確認です。この5つの感覚、確認で人はお風呂に入っていることに疑問を持たないし、それを感じている「自分」という存在にも疑問を持ちません。お風呂の存在も、自分の存在も疑いなく事実と感じます。ですがこれも脳の電気信号で全て同じ体験を作り出せます。ということでお風呂の存在も、自分という存在も全く事実とは言えなくなりました。

この小さい体に自分がいるという錯覚

世界中でこの小さい体の中に自分を発見した人はいない

ついにこの体の中に自分を発見しました!そのようなニュースを耳にした人はいません。そのような発見をした人がいたらノーベル賞でしょう。国民栄誉賞です。ですが実際はそのような発見が今後されることはないでしょう。というのはこの小さな体の中に自分はいないからです。今私はこのブログを自身の手を使って思考を使って目を使って書いていますがこの体の中に自分はいません。勿論体にナイフを刺してみれば血も出れば肉片も出るでしょう。ですが=自分がいる、とはならないのです。

経験はある、だが経験者はいない

このブログを書くという経験はあります、この文章を書いているという経験もあります、ですがこのブログを書いている経験者がいるというのは錯覚です。これは神の見る夢です、夢の中で人間と呼ばれる者が登場し、自分という者も登場します。ですがそれは全て夢です。夢の中の登場人物に実在の証明をしようとしても無駄です。般若心経では空即是色と言ってこの見える世界を色と表現しました。具体的には色であり、匂であり、触であり、味であり、音です。空がこれらの表現をしています。これを感じるから自分と感じる(錯覚する)人間がいます。バーチャル体験があるから体験者がいるという錯覚を持てます。これだけの多様な感覚があるのだからそれを経験する経験者(人間)がいるという錯覚をできる、これが神(一なるエネルギー)が創造した夢です。

諸行無常を経験できる、、だから経験者がいるという錯覚

スーパーマリオというゲームは非常に楽しい、クリぼうには手こずるし、クッパの動きは読めない、ヨッシーは頼りになる、、ピーチ姫は可愛い、、と感じる、、だからマリオは絶対にいる、、、こういう錯覚です。我々はこの空想、幻想の世界で明らかな体験を経験しています。疑いようのない感覚、経験です。だからこそ自分(人間)は実在しているという錯覚ゲーム、神の夢を見ることができるのです。地球に裏側まで飛行機で行けばそこにはブラジル大陸があって、間違いなくブラジル人がそこにいることを発見できる、だから自分は居るんだ、これが夢です。

人間とは神の欲望体験機

神では経験できないことを代わりに体験する道具

体験という言葉が非常に的を得ているのは、人間が行う経験は全部体験に決まっているわけでこの言葉に体が入る必要は本来ありません。ですがなぜ体験という言葉が存在するのか?それはこの現実が神の見る夢であり神が人間体験をしている場所であるということです。現実という言葉もやはり的を得ていて実が現れると書きます。現れるとは夢の中であらゆる登場人物、状況が現れることです。夢だからこそこの現れるという表現はベストです。神が人間としてこの現実を体験する、それが神の夢です。

神はそのままで完璧故に欲がない

神は完璧です、ゆえに何かになりたいとか何かを叶えたいという欲が湧きようがありません。だからこそ神が夢を創造しその中に人間という主人公を起きました。この主人公は神に比べてひ弱で、脆弱、知能も低く、想像力も低い、、ということで神は初めて欲を手に入れることができたのです、より強いもの、より優秀なもの、より大きなもの、より創造的なもに対してです。人間という体を自身と勘違いできている間はこの欲望をベースにした人生を歩むことができるのです。

この事実を分かったところで一体どうすればいいのか?

人間の欲望に限りがなくだからこそこの人間物語は延々と続いて行くわけですが、では今後どうしたらいいのでしょうか?私が推奨するのはこの欲望を叶えることで逆に神になってしまうということです。欲望を叶えることに無心、無思考になることで人間であるための条件、思考を抜け落としその場で神に戻ってしまうということです。神の人間体験を利用して神に戻るのです。意識を今に集中することで時間の世界(夢)から抜け出し神になります。神と人間を往復します。ほとんどの時間を神で入れる人間を覚醒者などと人は呼びますがメカニズムを知れば誰でもできます。TVゲームに集中している子供はその場で神になっています、思考が抜け落ちていますから。大人はこれを意図的に行います、大人はこれを積極的に行うことができます。

欲望を安易に無視をしてはいけない

欲望とは神の渇望

これは夢です、神がみる夢です。この夢の中で神は人間(主人公)に成り切りこの夢物語を歩んでいきます。全治全能の神が人間という無知無能に成り切るわけですから強烈な不足感が湧いてきます。この不足感を経験しているのは人間扮する神です。この不足感を変換したのが人間の欲と呼ばれるものです。ですから欲望を無視するという作戦は失敗に終わります。仏教では足を知るという言葉で無欲を勧めますが上手くいかないのは当然です。欲の出どころを掴んでいないからです。

欲を安易に無視すれば欲に破壊される

人間扮する神が感じる不足感が変換されたものが欲ですからこの欲は延々に湧いてきます。欲が収まるわけがないのです。若者達の間で悟り世代といって無欲な若者が増えているという話も聞きますがPC、スマホ、タブレッドなどが普及して安易に欲を満たすことができているからだと思います。人間の欲望の根源は神から湧いていますからその欲が少なくなることはありません。ですから自分や欲が少ないと思って欲を無視し続けると無自覚に欲求不満が膨れ上がりいずれ潰されます。

この人生は欲望をいかに昇華し充実に持っていけるか

欲望は人間扮する神から湧いていますからこれを人間が止めるなどできません。どのような欲が湧くかもコントロールできるわけがないのです。そうならば逆に欲を肯定的に受け止め欲を満たすことに集中することで無心に入る、無思考に入る、無我に入ることが重要です。集中して欲望を叶えていけばそこから無心、無我、神に戻ることができますからその場で歓喜、安堵、平和になれます。欲望を積極的に叶えることでそこから神に戻るということです。

神はなぜこんな夢を作ったのか?

神のこの悪趣味はなぜ起きたのか?

これは夢です、神が見る夢です。色即是空、空即是色という言葉が般若心経というお経にありますが空が神、色が夢です。これは夢ですがなぜこんな夢を神が作ったのか?ということになります。結論から言えば完璧、安堵、平和そのものである神が違う形で完璧、安堵、平和を体験したかったということになります。いやいや、この夢において完璧、安堵、平和などどこにあるのか?どこを探しても不安、危機、戦争、争い、災害しかないではないか?ということになります。そんなことはありません。不安を解消できた時、危機を克服できた時、戦争を回避できた時、争いを解消できた時、、、その一瞬それが訪れます。そうです、この夢は神が一時的神を人間を使って体験するという機会なのです。

神は神ゆえに神を体験できない

神は神ゆえに神の偉大さを知りません。そこで神はこの夢を作り人間を創造しそれに成り切ることで縮小体験、極弱体験、弱小体験をしたわけです。全知全能の神が無知無能の人間になってこの夢物語を逞しく生きるという夢を設定しました。人間は神に比べて最弱であるがゆえに神は不足感の塊、フラストレーションの塊になります。人間とは基本ストレス塗れなのです、だからこそ幸福になりたい、成功したい、豊かでありたい、人気者でありたい、、、と無限の欲求が湧いてきます。そんな神は何かを達成した瞬間だけは神に戻れます、目標を達成した瞬間自身は人間であるという意識がなくなり神になります。こうして人間は目標を達成していきなりながら神という感覚を思い出していくのです。人間に扮した神は徐々に神にであることを思い出していきます。

神→人間→神

人間という独立した存在がこの夢には実在しません。夢の中に実在した存在は皆無です。ですから今見ている現実とは全てが幻想です、この体も全部幻想です。夢ですから。ただし神というものが人間こそを自分自身と勘違いしている、このことは事実です。これは錯覚ではありますが紛れもない事実です。神は人間になりきってこの夢物語を堪能しているのです。夢物語は夢ですから全ては幻想ですがこの体験は事実です、神はこの体験を経験することで再び神に戻るのです。

神は夢の中で夢だと気付かせるヒントを出す

神のヒントは完璧

これは夢です、神が見る夢です。この夢では主人公(人間)を登場させ神は主人公に成り切ります。そしてその他の登場人物も登場させこの夢を完成していきます。人間には絶対にバレないようにこの夢は設計されていますから人間に成り切った神はこの夢のドラマをほぼ死ぬまで継続することになるのです。夢だと知らずに。ですがこれは神が作った夢ですから神が夢から醒めたくなったら覚める方向に持っていきます。例えば宗教、スピリチュアルなど目に見えない世界があることを適宜主人公に気づかせていきます。年齢に応じ理解できるよう形を変えてヒントが出されていきます。例えば私は25歳で仏教の本に触れ27歳でスピリチュアルに、30歳で神との対話、、35歳でノンデュアリティー40歳で悟り系の書籍やYOUTUE動画などです。

だから何も考えずにこの夢、ゲームに没頭すればいい

この夢、ゲームは神が制作総指揮で完成していますから主人公(私)にとって間違ったタイミングでヒントが送られることはないし、そのヒントを主人公が見逃すなど絶対にありません。主人公は神が成り切っている人間でありヒントを出すのも神です。なぜすれ違いが起こるのか?ということです。自作自演のこの夢、ゲームですれ違い、見過ごしなど起こるはずがないのです。だからこそ主人公は安心してこの夢、ゲームに没入すればいいのです。

もしもこの夢、ゲームに疲れ果てなたらば

もしもこの夢、ゲームに疲れ果てたとしてもそれは神がそのような人間体験を積みたかっただけのこと、本当に疲れ果てこのゲームを終わらせたいと思ったならば確実にヒントが出ます。この夢、ゲームのカラクリを教えてくれる人や書籍、動画などでストレスを軽減してくれます。不完全、地獄、奪い合い、駆け引き、腹の探り合い、裏切り、、これらの行為を望んだのは神自体であり決してこれらの経験は失敗ではありません。ただしもうこの体では耐えれない、もうこの体には荷が重いという限界がくれば人間に成り切った神がその経験をストップします。