経験

キャラ目線かクリエイター目線か

マリオが経験を回収するか、ゲームクリエイターが経験を回収するか

今この瞬間我々はこの二択を選択できます。スーパーマリオをプレイする際にマリオになり切ってマリオ体験をすることはできます。マリオに成り切るわけですからこのゲームは半端なく怖いことだらけです。ゲーム中敵しか出現しません。さらにジャンプに失敗すれば死ぬ可能性がある溝がやたらと多い、、、、心臓は常にバクバク、血圧は上昇、顔色は常に青ざめます。これがマリオ体験です、マリオ目線です。次の選択はゲームそのものがマリオを操作するという視点です、ゲームがマリオをプレイしますから正直怖くもなんともありません。マリオはゲームのキャラでしかなく何度でもコンテニューできます、ゲームそのものですからコンテニューしたい限り何度でもコンテニューは可能です。マリオではなくゲームとしてマリオの操作を経験し、マリオに起こるドラマをひたすらに経験していきます。怖さは強烈に少なくなりただ楽しむという感覚になります。

自分が経験を回収するか、全体が経験を回収するか

この自分劇場、自分ゲーム、人間ゲームもどの視点でこれを経験するかが重要になります。この体の中にいる自分がこの人生を経験していくという視点、この視点は非常にエキサイティング、TVニュースを観ればあらゆる事件が自分を襲いかかってきます。コロナ、戦争、人種差別、北朝鮮問題、直下型地震、、、全部が自分を襲ってきます。常に不安、恐怖、心配に支配されるのが自分視点ゲームの特徴です。一方これを全体が自分を経験しているという視点で捉えてみます。全体が体を使って何かアクションをする、全体がこの体を使って何かを考える、、、起きる経験の全ては全体の経験です。TVのニュースを観ても全体がそう発信しています、この体に起こる衝動は全体から起こりますから先のことを考えるという発想も起こりません。将来を心配しようとこの体が何をするかは全体が決めます、全体が何をこの体に起こすかは全体しか分かりません。将来に対し心配するという感覚が起こらなくなります。心配しようと5年後何をするか全く分からないからです。

この体が行動を選択できるという勘違いはエキサイティングだが苦しい

マリオが、この体が行動を選択できると考えるのは大きな勘違いです。マリオは今までもそしてこれからも何も決定権はありません。そしてこの体も今までもそしてこれからも何も決定権はないのです。マリオ、そしてこの体が行動を決定してきたと信じることはできます。ですがそれは事実ではありません。マリオの行動を決めてきたのはプレイヤーですし、この体の行動を決めてきたのはプレイヤーであり、クリエイターでもある神、全体、ワンネスです。これからもマリオ、この体が行動を決めていると錯覚し続けることは勿論できます。ですがそれは事実ではありません。

マリオが経験する感覚の全てはその場で回収される

プレイヤーはマリオの経験を瞬時に回収する

マリオがジャンプしてクリボーを倒す経験はマリオがクリボーを倒すその瞬間にプレーヤーが回収します。マリオがクリボーを踏んで倒す時効果音「ポン」という音が聞こえますがその音はマリオの聴覚に頼らずにそのままプレイヤーが回収します。この人間ゲームをこれと同じでして私が食事をする時に食事が喉を通る感覚を私の喉から脳にかけての電気信号を経験すると同時に食べた瞬間にその感覚を全体が回収します。体の中で起こる電気信号に頼らずにそのまま全体はそれを回収します。音楽を聞く時にもBGMが流れればその音を全体はその場で回収します。音楽が鳴っている振動そのものを全体がそのまま回収します。その際に人間の聴覚からの脳への電気信号には頼りません。頼るを経験することもできます。

自分の経験の全ては人間の脳の電気信号に頼らずにその場で回収されている

道で誰かに話しかけられた際に、人間は聴覚が働き次に視覚が働き脳の中の記憶部位が作用してその人を誰か認識するというメカニズムが体内で起こりますが、、、同時に全体はその登場人物を認識し、話しかけられるを全体が認識し、話している内容を全体が認識します。自分の脳の介在を必要としません。自分(全体)と全体のダブル認識が起きているのです。自分(全体)が誰かを認識する経験、全体がそのまま誰かを認識する経験が起こります。

池に石が落とされる時、、、

音が鳴ります、この音の振動を全体はそのまま認識します。気づきの意識がこの音を音として認識します。気づきの意識はこの音が現れる源であり源が源としてそのまま音を認識します。禅の老子が扇子を「パシ」と叩く音を鳴らす時にただそこに音があると表現するのはこのことです。全体がそのままこの音を認識します。気づきの意識がこの音を認識します。人間はこの音を私の聴覚が察知し、脳への電気信号が起こったと解釈します。ですが自分がこの音を認識したという認識はこのドラマへの入り口になります。自分劇場への取り入れです。

マリオが経験した、自分が経験した、、、これらはドラマ、劇場への参加

マリオ、自分は起きる全てを自分ごととして捉える事は可能です。ですがそれは自分ドラマ、自分劇場への創造になります。本当は全体がそのままその経験を認識できます。なぜならばマリオ、自分の経験の全てはこの全体の中で行われているからです。全体の中の経験です、全て。ですからマリオ、自分の経験をそのままマリオ、自分の経験として捉えるか、全体の中にその経験が起こったとして捉えるかで全く意味が変わります。これまで人類はそのすべての経験を私の経験として捉えてきましたが全体の中で行われる経験は全体の経験として捉えることが可能です。

マリオのプレイヤーはどこに居る

マリオではプレイヤーは画面の外に居るが、、

スーパマリオゲームにおいてプレイヤーはどこに居るか?TV画面の外にいます。TV画面の近くにファミコンがありそこからコントローラーが伸びそこに人が居る。この人間こそがプレイヤーです。ではこの人間ゲームでは人間をプレイするプレイヤーはどこに居るのか?この視界の外に居るのでしょうか?答えは外には居ないということになります。ではどこか?ここです。今ここに居ます。目の前に広がる、花、テーブル、机、窓、空間、これらを形成するたった一種類のエネルギーこそがプレイヤーです。つまり目の前の全部ということになります。これが神です。

だからこそ人間の中に湧く感情は全部、全体から湧いている

人間ゲームにおけるプレイヤーは今目の前に広がる全部です。この全部が人間を操り、経験させ、感情を湧き出させ、思考を湧き出させます。そしてそれらを自分の中で湧いているという思考も全体から湧いてきます。これによって人間の体(自分)はそれを全て所有するという体験が生まれます。視界に見えるこの全体がプレイヤーですからそこから感情が生まれるのも当然です、思考も生まれます、そしてそれをこの自分が所有するという思考が生まれます。これが人間ゲームのカラクリです。この体が自分であるという思考が固定化していくと、分離感、不足感、居心地の悪さがやはり全体から湧いてきてそれを解消したいという欲求がそこから湧いてきます、これも全体から湧いてきます。ここから人生ストーリ、大冒険が生まれるのです。

神は画面であり、OSであり、ゲーム本体であり、主人公(自分)でありプレイヤーでもある

この人間ゲームでは神がプレイヤーであり、OSであり、ゲーム本体であり、このゲームの主人公(自分)です。そしてその全てが今ここに在ります。それぞれがバラバラに分離してして存在などせずに今ここに全部があります。だから神とは全体、全存在なのです。全ての感情、思考はこの全体、神から生まれ、それを自分のモノとするのも人間扮する全体、神です。神の自作自演、制作総指揮、自分劇場のカラクリです。

ランナーズハイとは?

人間扮する神が、、マラソン中にランナーズハイという状態を経験したします。走っていて全く疲れない状態、気落ちよくもあり、恍惚感が湧く状態。これは人間が走り続けている過程でこれが自分であるという思考(全体からの)が湧かなくなることで自分という存在を忘れてしまった人間の状態です。つまり全体、神が走っている状態なのです、この状態はだからこそ歓喜、安堵、平和そのものなのです。歓喜、安堵、平和を感じるランナーが居ない状態です。

本を読んだだけでは究極の気づきは起きない

悟りの本を一冊読んだら全部分かってしまった、、、はない

本を一冊たまたま読んだぐらいで究極の気づきが起きないのは、、、そんなことが簡単に起きるならばこの人間ゲームを作った意味がないからです。書籍一冊で用が済むならば大自然も、世界中の事件も、世界中の人間も、多種多様な動物も全部必要ない、、、こうなります。なぜ自分を取り巻く環境には多様性があり、夜空が広がり、空には星まで見えるのか?気づきの意識がこの体を使ってあらゆる体験を積み、感情を湧き出し、思考を湧き出し、、独自の気づきを作りたいからです。たった一つの真実がありそれを知れば究極の気づきが起きるならばたった一人それを経験する人間がいれば済みます。なぜこれほどまでに多くの人間が存在するのか?それはそれだけの各種気づきを気づきの意識が求めるからに他なりません。

100人いれば100人のマリオ体験がある

100人がスーパーマリオをプレイしますと100人の全く異なったマリオ体験があります。100人の人間がいれば100人の全く異なった気づき体験があるのです、100種類の歴史、固定観念、気づきがあります。これを気づきの意識は気づきたい。気づきの意識は気づきの意識のままでは何も経験できない。気づきの意識がたった一個の気づき体験を欲するわけがないということです。

上手くいかないを経験しなければ上手くいくを経験できない

上手くいった経験をするためにはその前に上手くいかなかった経験が必要になります。これを生み出すために人間は無知無能で生まれました。全知全能の神、気づきの意識が無知無能の人間(自分)を誕生させることで上手くいかない経験、上手くいく経験を作り出していきます。下手を経験し上手いを経験します。最低を経験し最高を経験します。そしてそこにはあらゆる感情、思考が湧き出しそれを自分のモノにしていきます。自分とは気づきの意識から湧き出る感情、思考を全て自分のモノにしていく自分所有体験です。感情・思考・経験・自分所有体験記ということになります。その体験があまりにもオリジナリティー溢れるからこそそこからの気づきもオリジナルなのです。

全体験、全感情、全思考を自分のものにしていくマリオは固定観念が形成される

マリオの固定観念

マリオはゲームをスタートしてあらゆる敵キャラに出会います。ノコノコ、パタパタ、メット、ゲッソー、、、などなど、、、これらの敵と対戦していくことでマリオは独自の経験、湧いてくる感情、湧いてくる思考を自分のモノとして取り入れていきます。脳にある記憶機能でそれらを積み上げていくのです。ノコノコは軽い相手だかが階段で出会うと厄介、パタパタは上から降りてくる時が危険、ゲッソーさえいなければあの時クリアできたのに、、、とゲーム中の経験、感情、思考を全部まとめていきます。これが重なり合って一つの固定観念が形成されていきます。

人間の固定観念

人間の固定観念も全く同じ原理で形成されます。出会う人々によって様々な経験を積みそれを自分のモノにする、出会う人々によって経験がありそこからあらゆる感情が湧いてくる、そしてそれを自分のモノとする。出会う人々によってあらゆる思考が湧いてくる、そしてそれを自分のモノにする。経験、感情、思考の全てを自分のモノとする。これによって自身の固定観念、価値観が形成されます。この固定観念、価値観はそれゆえ人によって全く異なります。価値観が全く異なる人同士がコミュニケーションをするわけですから当然理解できない部分が発生します。

全く異なった固定観念によるトラブル

人間とは固定観念を所有する動物です。人間とは自身の経験、感情、思考を全て自分のモノとして蓄積していく動物です。それによって固定観念が形成されます。この固定観念はそれゆえ人によって全くことなるのです。この全く異なった固定観念を所有した者同士がコミュニケーションをとるわけですから常に分かり合えない部分が発生しそこがトラブルになります。世の中から人間関係のトラブルが決してなくならない理由とはここです。

固定観念自体が錯覚

話を最初に戻しますと、、、人間が独自に所有する経験、感情、思考、、、これらは実は人間のモノではありません。人間が何かしらの行動を起こすと経験、感情、思考が発生しますがこれらの全てはただ湧いてくるのであって決して人間のモノではないのです。マリオが動いた時の経験、湧いてくる思考、湧いてくる感情はプレイヤーから湧いたモノです。これをマリオが自分のモノと勘違います。人間も全く同じで動くと湧いてくる感情、思考は気づきの意識、全体、神から湧いたモノです。これを自分のモノとすることから錯覚が生まれ、固定観念が生まれるのです。固定観念とは大いなる勘違いから発生しています。固定観念の相違によるトラブルとは大いなる勘違い同士のトラブルでありだからこそ解決が難しいのです。

セミリタイアしたマリオは絶望する

マリオはセミリタイアを夢みるが、、その後絶望する

マリオは毎日の大冒険に疲れてきます、毎朝起きれば毎日クリボーやノコノコ、ブクブクとの戦いの日々、これからの人生これが毎日続くと思うとゾッとするわけです。そこでマリオはゲームクリアーを夢見てセミリタイアを本気で考えるようになるのです。セミリタイアすることが一番の目標になります。そして無事ゲームをクリアしてセミリタイアに成功すると、、、、あまりの退屈にびっくりします。。マリオがただ毎日ソファーで横になっている時、それを眺める人間はどう思うか?退屈至極です。この退屈至極が、、、湧いてきて、、、それをマリオが所有します。。びっくりする事件が起きます、長年の夢だったセミリタイアを達成した翌週には退屈が湧いてくるのです。。。。。マリオは自分の感情を疑います、、、どういうこっちゃと。

湧いてくる感情を自分のものとするからおかしくなる、、、

長年の夢だったセミリタイア、、、ところがそれを達成した翌週から退屈という恐ろしい感情が湧き続けます、、、これは本当に自分の感情なのか?あれだけ苦しかった戦いの日々が終わりようやく安全な毎日を送れるようになったのに、、、まさか翌週から退屈の感情に襲われる、、、この感情をマリオが自分の感情だと思えば大変なことになります、自分という存在が理解できない、、、ですが本当はこの退屈という感情はプレイヤーから湧いています。プレイヤーはマリオがソファーで寝ているのを一緒になって楽しむようにはなっていないのです。なぜならばプレイヤーはマリオがどれほどの傷を負いながら大冒険をしている最中も全くの無傷、無傷、、命の危機など皆無だからです。多くの体験を積んだマリオはこの感覚を本能的に知ります、どうやら自分は活動していないのが一番苦しいようだと。ですが本当は違います、マリオを経験してるプレイヤーが退屈なのです。

マリオは常に恐怖心が満ちている、だがそれを経験するプレイヤーは恐怖心ゼロ

マリオは常に恐怖心が満ちています、クリボーもブヨブヨも、クッパを当たれば傷つきます、痛いです、、ダメージを受けて死んでしまいます。ですがその経験を回収するプレイヤー、気づきの存在は安堵そのもの、、、、むしろ恐怖心を積極的に回収したいぐらいに余裕があります。ですからマリオは恐怖心を抱きながらも冒険を続けることになるのです、そしてその方が充実感が湧いてくるから厄介です。この充実感は勿論、プレイヤー、気づきの存在から湧いてきます。

神はこの人間活動の経験の全てを回収する

自分が経験している全ては神が回収する

この体を自分とするならば、、、この自分が経験する全ては神が回収します。マリオの経験の全てを人間が回収するようにマリオの全経験を人間が回収します。これは神と人間の関係も同じで人間が経験する全てを今神が回収します。喜怒哀楽、寒い暑い、怖い楽しい、最高、最悪、、全感情、全体験、全五感を神は回収します。外で鳥の声がする、、、声を回収するのは人間であり神です。神は鳥の声を人間の聴覚を通じて回収し、さらに声そのものから回収します。マリオをプレイするプレイヤーはスターの効果音をマリオの聴覚、スピーカー同時に回収します。

朝から晩まで頭の中で思考がぐるぐる、、

朝から晩まで考え事を自分がしている、、、、その全てを神が回収します。朝から晩まで苦しみ悩み、鬱積する感情の全てを神が回収します。もしも神が回収できない人間の経験があるならば、、神は神でなくなります。神は全経験を回収するから神なのです。全体なのです、ワンネスなのです。マリオがピーチ姫を救うために大冒険をすることができるのは記憶力があるからです、もしもマリオに記憶がなければ当初の目標であるピーチ姫を救うことを忘れます、すると冒険をしようという気持ちもなくなります。大冒険が破綻します。人間も記憶という機能があるゆえに今日起きると昨日の続きを行うことができます、だから人間は自分劇場、ドラマを生きることができるのです。この劇場経験、ドラマ経験こそが神が人間を誕生させた理由です。動物にはドラマがありません。

マリオの大冒険は動物ではできない

マリオが未知の世界に冒険をできるのはマリオの記憶力ゆえです。一般の動物は未知の世界に進むことを怖がりますし、冒険をしていたことなど寝ると忘れます。ところがマリオは記憶力がしっかりしているので冒険を辞めることをしません。この経験はマリオだけのものです。人間もこれと同じ、人間には記憶力があるために自分の存在、昨日までの経験の全てを覚えています、だからこそ今日また人生を続けることができるのです。これを神は大歓迎するのです。人間の未知への大冒険は神の大好物です。

いつから人間は自身の死を深刻に受け止めるようになったのか?

マリオの死を深刻に受け止める人はいない

スーパーマリオをやっていてマリオの死を深刻に受け止める人はいません、ですがこの体、この人間の体の死に関しては恐ろしく恐れます。それだけこのゲームにマリオとして没入している証拠です。もしも没入してなければこれほどまでに死を恐れることはないでしょう。それはそのはず、このゲームは神が作ったゲームですから超絶リアリティー、五感も半端なく鋭敏で、思考や感情も恐ろしくリアリティーがあります。ですからこのゲームに登場する人間はその五感で感じる経験、感情、思考を全部自分のものにすることができるのです。

もしもスーパーマリオがこの現実社会よりもリアリティーに溢れてたら、、、

もしもスーパーマリオというゲームが、人間の目を覆うゴーグル型になり、、圧倒的なリアリティーを再現できたならば人間は恐らくゲームばかりをやるでしょう。この現実よりもリアリティーに満ちさらに楽しかったらなおさらです。そのゲームの中でマリオが何かを達成すればマリオとして喜び、もしもマリオが失敗すればマリオとして悲しむことができます。もしもクッパに攻撃されればマリオとして腹が立ちます。もうその時には自身が人間だったことは忘れているはずです。これが今気づきの意識に起こっています。自分をこの体であるという大錯覚が起こり、全体験を人間として所有しているのです。

それでもマリオに愛着があるのはこのゲームは素晴らしいから

マリオが居なかったらスーパーマリオをプレイすることはできません。マリオ無くしてスーパーマリオなしです。この人間劇場も同じ、私無くしてこの自分劇場は成立しないのです。私無くしてこの人間ゲームは成立しません、ということで気づきの意識、全体はこの私に愛着を持っています。この私を無下にすることは断じてありません。もしも私にとって最悪最低の事件が起こったとしてもそれも気づきの意識が起こしています。その経験を愛しているのです。

マリオからゲームそのものへの視点の転換

自分はマリオだ、からの脱却

これは視点の転換です、自身をマリオとするか、ゲームそのものとするかの転換です。今まではゲームの中での効果音はマリオが聴いていました、ですが今はゲーム全体として聴いています。今まではマリオがクッパに出会いました、ですがこれからはクッパの登場をゲームが認識します。今までは失敗が続くとマリオが落ち込みました、ですがこれからはゲームがマリオの失敗を認識します。今まではマリオがピーチ姫を救い歓喜に沸きました、これからは歓喜をゲームが認識します。音楽、感情、キャラの登場をゲームとして認識します。スーパーマリオをしているプレイヤーは皆これをしています、違いがあるとすればプレイヤーは個別に存在せずゲーム本体がマリオを動かし様々なドラマが起こっています。

これまでは個人の行動の結果を個人が所有してきた

人間のほとんどは起こる事件の全部を個人が所有します、感情が湧けばそれを自分の感情と認識し、思考が湧けばそれも自分の思考と認識します。何かが目に入れば自分が見たと判断します、ですが実際はこの体を通じて気づきの意識が見ています。何かが聞こえれば個人がそれを聴いたと判断しますが体を通じて気づきの意識が認識しています。個人の人間が感じる全ては気づきの意識が認識しています。これを全部個人が所有してきたと誤解し続けただけです。マリオが体験した全てをマリオが所有してきたと誤解するのと全く同じです。本当はマリオは何も経験していません、プレイヤーが経験しています。

子供の頃はみんな全部の経験をゲームレベルで感じていた

子供の頃はみんな自身の経験をゲームぐらいに感じていました、自分を経験する経験者という概念すら無かったはずです。その証拠に昨日喧嘩したお友達との争った原因など次の日になればすっかり忘れていたはずです。喧嘩は起こったかもしれませんが次の日には何も無かったかのようにそのお友達と遊びます。経験を個人が所有していないのです、そして個人という概念も薄いのです。これって自分をマリオだという思い込みが薄い状態でゲームをしている感覚です。

相手と喧嘩をする時、、、

喧嘩をしている時はこの体の中に自分が居ると思える

マリオがクッパと戦っている時、マリオの中に自分が居ると最大限に錯覚を起こすことができます。攻撃されれば悔しいという感覚、攻撃が上手く行けば嬉しいという感覚を持てるのはマリオが自分と同一視できているからです。所詮ゲームだからと思いながらあんなに面倒な操作など集中してできるわけがないのです。あそこまでなぜ子供はゲームに集中できるのか?それはゲームの主人公になり切っているからに決まっています。

友人と喧嘩をしているとき

この体が友人と喧嘩をしている時、友人はさもこの体の中に独立した自分が居るかのように人格否定をしてきます。あなたが悪い、、、そのあなたとはこの体の中に居る「自分」のことです。相手が強く、強くこの体に対し人格否定をすればするほどに私はこの体の中に自分が居ると錯覚を強化することができます。絶対に居るだろうこの体の中の私に向かって相手は攻撃の手を緩めません。そして私が相手に何かをいう時も確実に相手の体の中に確固たる「自分」が居ると思って攻撃を加えます。この攻防は体対体ではありません。体の中に居る自分対体の中に居る「相手」です。体の中に自分が居るという感覚を強烈に強化できます。

本当は体に向かってただ攻撃をされただけ

友人との喧嘩は自我、自分を強化します、ですが本当はこの体に向かって相手がただ攻撃してきただけです。その事実とこの体に自分が居るという錯覚は何も関係がありません。つまり何を言われようと、何を攻撃されようと、、ただそれを気づきの意識が認識、経験するだけです。相手がこの体の人格とやらを否定しようとも本当はこの体の中には自分は存在せず、、、ただ内容を聞くだけになります。もしくはとりあえずこの体の中に自分が居るという体で話を聞くことはできます。