朝嫌なニュースが届いた、満員電車が窮屈だった、、全部嘘

不快な出来事は全部嘘

朝起きて早速TVを観たら嫌なニュースがやっていた、、そして通勤のために満員電車に乗ったら窮屈で不快だった、、コンビニでコーヒーを買ったら冷めていて不快だった、、、、人間はあらゆる原因で不快感を味わっていますがこれ全部嘘です。神が人間活動をしている時点で基本不快なのです、、、その不快さをあらゆる出来事が表面化しています。あらゆる出来事が現実に落とし込んでいるのです。基本に不快感、居心地の悪さ、窮屈感があり、、それをあらゆる出来事が表面化させている、、、これが答えです。

神が人間をやっているという違和感が変化しているだけ

あらゆる人間同士のトラブル、争い、紛争、、、これらの根源は神が人間をやっていることによる違和感、絶望、孤独です。皆ここから来るストレスと闘っています、このストレスが苦しすぎて、でもこの事実に気づいてもいないので人に対してそれをぶつけるのです。仕事が辛い、仕事の人間関係が苦しい、家族の人間関係も辛い、、、違います。。神が人間をやっているのが辛いのです。

この事実を受け入れると悩みがぶっ飛ぶ

この事実を受け入れますと悩みがぶっ飛びます。今まで様々なことに悩んできたかもしれませんが全部それは違和感の代替作業だったのです。神が人間をやっているこの違和感が大前提にあって、、、それが人間活動の悩みに置き換えられてきただけだったのです。受験が辛い、学校が辛い、塾が辛い、部活が辛い、会社が辛い、暇が辛い、結婚が辛い、一人が辛い、、、全部嘘です。

朝起きた時の違和感は正常

朝起きると必ず違和感がある

人間は朝起きると違和感を感じます。熟睡時は神に戻りますが朝起きれば再び人間としての活動が再会します。神の人間体験が始まります。そのさいに通常の感覚、違和感が早速湧いてきます。そしてその違和感を思考が解消しようと、、お水を飲む、音楽を聞く、シャワーを浴びる、食事をすると、、、ひたすらに思考、行動が起き始めます。ただそれらが起きていきます。そして「それを自分がやった」という認識も起こります。これをひたすらに行っています。

神の人間体験は違和感がデフォルト

どんなに寝起きが良い人もやっぱり違和感を少し感じています。今日も人間活動が始まる、、これは絶望です。起きる前は完全なる神、全体だったのが突然この人間活動に切り替わるのです。五感+思考+感情の活動に切り替わります。神がこの人間の体に閉じ込められて人間としての活動に朝切り替わるのです、そして夜になるとまた全体、神に戻ります。

神の人間活動は面白いが疲れる

ほとんどの人はこの人間活動はしんどいはずです。神がこの小さい体に閉じ込められていますから基本が苦しいのです。この苦しみを回避するためにあらゆる気晴らしがあるわけですが、ですがそれが一時的な気晴らしであることは本質では分かっています。神はこの体に閉じ込められた時に神であること、全体であることを完全忘却していますからいかに違和感があってもなぜ違和感が湧いているか分からないのです。

違和感解消気晴らしに飽き飽きしたら直ぐ、、

違和感解消気晴らしを延々と行っていくのがこの人間活動ですがそれも徐々に徐々に辛くなっていきます。そこで人間に成り切った神は、、この違和感は一体どこから来てるのだろうか?気晴らしをこのまま継続しても意味がないのでは??と思考するようになります。神はそこから徐々に実は自身が神であることに気づき始めます。そうでないとこの違和感の意味が理解できないからです。これが自己超越、悟りの始まりです。

人間に成り切った神がなぜ神を拝むのか?

支離滅裂な行為

人間とは神がそこに収納された姿です、この小さい体の中に神は見事に納まりました。ということで神は人間に収まって生活を続けるわけですがとにかくこの環境は狭くていけません、しかも力も弱ければ頭脳もそれほどでもない、、、ということで異常なストレスが溜まります。これが神の人間生活です。日々の生活にほとほと疲れ果てた神こと人間は、、、何かに縋らずにはいられません。ということで人間は神を崇拝するという行為に打って出ることになります。自分でこの小さな体に潜り込んでおいてそこから神を崇めるという支離滅裂な行為が神頼みです。

神が人間をやるのは疲れる

神にとって人間をやるのは非常に疲れます、なぜならばこの体は余りに小さすぎるのです。この宇宙全体であった神はこの小さな体に収まってしまうわけですからエスパー伊藤並に大変な荒技です。彼も体を壊したようですが当然神はストレス爆発状態になります。そして周囲もストレス爆発状態ですからそこに助けを求めるものお門違いということで神こと人間は神様を祀って崇めるという行為をすることに至るのです。

本当の崇拝は自身が神であることを思い出すことにあり

神社とは「自分」とは完全に分離した偉大な存在(神)を祀る場所ではなく、、、自分自身が実は神であったことを思い出す場所です。自分が実は神だった、この事実を思い出すために神社はあります。ですからそこで神様に何かを願うのではなく、本当の自分の姿を思い出すのです。何かを願っても叶わない理由は、、、叶える存在が自分自身だからです。自分自身が神であることをただ忘れそれで苦しんでいるのが人間です。

自分とは「絶望」の意味

自分とは絶望

自分とは絶望です、なぜか???神はこの体、思考、感情のみを「自分」と意識することに成功しました。その際に何を失ったか??全体としても、神としての自分です。これだけ偉大で壮大で広大な自分を捨てて、、、この「自分」になったのです。これはもう絶望でしかありません。さらにこの「自分」はそのことを忘れていますから絶望がどこから来ているか既に分からないというおまけがつきます。

この絶望感はなんだ????

全体としての自分、神としての自分、大いなる存在としての自分を完全に忘却し、、この体、思考、感情のみを「自分」とする行為は絶望でしかありません。完全忘却はこの絶望をややこしくします。この絶望の真意が分からないのです。この「自分」は常に絶望を抱えながら日々生きていくことになります、この絶望感を忘れるようにひたすらに気晴らしを求めるようになるのです。

気晴らしではこの絶望感を解消できなくなる、、

全体であること、大いなる一つであること、神であることを完全忘却し、、この体、思考、感情のみを「自分」とするのは絶望です。この絶望感を感じたくないから人間は日々気晴らしに精を出すのですがそれでも限界があります。どれほど気晴らしをしても一切無くならない絶望感に気づいています。体力が落ちてきてもう逃げきれない、、この絶望感と対峙するしかない、、そういう危機にどこかで陥ります。これは人間にとって危機ですが私からすれば自我の消滅、自分の解体の絶好のチャンスでもあります。

自分の一番の恐怖は自分の消滅

神はこの人間の体に閉じ込められさらにこれを消滅したくない

神とは本当に矛盾を秘めた存在です。この体に閉じ込められ非常に苦しい思いをしているにも関わらずこの自分を消滅させたくないと思っています。苦しいにも関わらず自己を存続させたいと願っています。なんという自己矛盾、ドM体質と言っていいでしょう。アメリカ南部で奴隷解放運動が起こった際にそこから奴隷を積極的に辞めた人間が少なかったという事実があります。つまりこの自我とはどれほど苦しくても今存続できているならばそれでいいのです。

コンフォートゾーンはそれを完璧に説明している

苫米地式コーチングのコンフォートゾーンは自我のこの働きを完璧に説明しています。自分に成り切った神はその状況がどれほど苦しくても「自分」が存続できているならばそれを維持したいのです。だからこそ進化することを嫌います。進化とは今までの自己の消滅だからです。自分が進化を継続していけば行き着く先は自分の消滅です、なぜならばこの自分は錯覚だからです。

自分のセルフイメージを上げ続けていく

自分とはこういう人間だ、このセルフイメージを常に進化させていきます。「自分」という存在をなくすのではなく「自分」を進化向上させ続けていきます、するといつの間にか「自分」=「神」になります。マズローの欲求五段階説のように自身の欲求を進化させていき、、最終的に「自分」は神であったという境地までセルフイメージを上げていくのです。このやり方ならば「自分」の消滅を極端に恐れる自我を上手くコントロールできます。

私=探求

私とは探求のこと

私とは探求です、というよりも探求するために作られたのがこの私です。私とは神が勘違いしてこの体、思考、感情を「自分」だと認識する存在です。神の意識がこの体、思考、感情にフォーカスされきった状態こそこの私です。故にこの私を支えているのは神の勘違いでありだからこそ常に違和感を感じ続けることになります。この私が居るというこの認識こそが不快感を生み出し私はこの不快感を解消すべく探求し続けることになります。

探求は悪くない

私とは探求ですから探求は決して悪くありません。ですがこの探求を続けている限り「私」は存在し続けますからこの違和感は消えないということになります。私は常に探求し、その探求が私を存続させ続けるというメカニズムに入り込んでいきます。けれどこの探求を継続させ続けていきますと、、徐々にこの探求には終わりがないことを知ります、肌感覚で理解できてきます。そこで私はこの探求の旅を終え、なぜ私は探求してきたのか?という疑問の解消にシフトするのです。

私はこのエネルギー全体、神、ワンネス

この私が探求するという旅には終わりがないことを薄々ながら理解できてきた私は、、この探求の根本解決に乗り出します。そもそも探求で答えが出ないならば、、私にはこの解決は不可能ということになります。そうしますと「悟り」系と言われる書籍にすがるしかない、、、「私が居ない」という身も蓋もないメッセージにすがる以外に解決がないことを悟ります。

人間に閉じ込められた神は都会を目指す

なぜ若者は都会を目指すのか??

人間に成り切った、人間のこの狭い空間に閉じ込められた神は、、、常に欲求不満です。見える世界である神がこの極小の体、思考、感情のみを「自分」と勘違いするわけですからこれはとんでもないことです。不快感極まりない、退屈感極まりない、孤独感全開です。これが人間の本質です。ここを勘違いすることでったのです人間の苦悩が継続されます。人間はそれゆえ欲望の塊です、私には欲が無い、、、としたら悟っています。恐らく嘘です。そこで若者は欲に突き動かされて都会を目指すのです。自分の欲を満たしてくれるのではないか、、、、という期待からです。

都会は確かにあらゆる欲望を満たしてはくれるが

都会は確かにあらゆる欲望を満たしてくれます。人との出会いも多く、チャンスも多い、何かアクションを起こそうとすれば、、そのきっかけがある。ですがそこでいかに欲望を満たし続けても一向にこの不足感は消えない、、なぜならばこの体を自分だと勘違いしているのが神だからです。神は神に戻らない限り絶対にこの違和感、不足感を解消してくれないのです。

あらゆる欲望を満たしても満足しない「自分、神」がいるという気づき

ここにいかに早く気づくかです。何を成し遂げても満足しない自分、何を成就しても満足しない自分、、、、この自分とは一体何か?化け物か???化け物どころか神です。餓鬼畜生の本質は神です。ここを理解しないと恐ろしいことになります。餓鬼畜生とは恐ろしい化け物ではなく、、、人間のこの体に閉じ込められた神だということ、、、つまり閉じ込められ切っているということです。勘違いがマックスに到達しているだけです。

神は人間という狭い箱に閉じ込められ孤独になる

孤独の意味を履き違えるな

人間とは神がこの狭い空間に閉じ込められた存在です。人間の中には神が閉じ込めらえています。そして人間の外には自分以外が広がっています。神はこの人間の体の中だけでありそれ以外は、、、全くの別物、、、、この状況に対し神は孤独を感じます。これが人間の孤独の真相です。孤独とは友人や、親友、彼女、パートナーがいないことではないのです。数人の親しい存在が居るから孤独ではない、、、そんなことはあり得ないのです。そうではなく神がこの人間の体に閉じ込めらえて孤独感を感じています。

たくさん友人が居るから孤独じゃない、、は嘘

友人の数=孤独じゃない、、が成り立たないのは孤独のメカニズムが全く違うからです。孤独とはこの体の中に神が閉じ込められているというこの勘違い、錯覚こそが生み出しています。そこが分かれば簡単、、この体、思考、感情が自分というのではなくこれからは神として生きればいいのです。神がこの体に入り込んでいる、そして神ですからこの見える全部が神だ、私だ、、、です。この瞬間歓喜、平和、安堵が押し寄せてきます。

芸能人の孤独死について

芸能人の自殺が問題になっています。芸能人は周囲からチヤホラされて孤独とは無縁では??そんなことはないのです。芸能人はこの体、思考、感情を自分自身であるという誤認識が強い、神がまさかこの体の中に閉じ込められているとは思いにくい、、つまり特別意識が強いのです。特別意識が強いということは周囲とは自分は違う、、この感覚は実は私は神そのもの、全部が神だに移りにくくなります。この人間の体を自分であるという勘違いを神は継続しやすくなります。

神は人間という狭い箱に閉じ込められ快楽に飢えている

この世のエンタメは神のためにある

お金がある人間はなぜ快楽のために1日で何百万、何千万という金額を使うという狂った行動をするのか???信じられないような大金をなぜ使うのか???この疑問について深く考えた人はあまりいないでしょう。カジノなどで豪遊する富豪が大金をドブに捨ててもなぜまたカジノに行くのか???答えをお伝えしましょう。神が人間という小さな箱に閉じ込められ快楽に飢えているからです。

人間の体に閉じ込められた神は飢える

カジノに狂う、異性に狂う、、、これは決して金持ちの特権ということではなく誰でもこの傾向はあります。なぜならば全員の体には神が収納されていて怒り狂っているからです。なぜこんな小さな体に閉じ込められているのか??と。勿論神は確信犯的にこれを行ったわけですが問題なのはそれを忘れているということです、だから神は狭い空間に閉じ込められて怒り狂っているのです。自作自演のオチです。

人間の欲望を甘くみない方がいい

私は20代の最初、、、仕事なんて何でも同じだから安定したホワイト企業であればいいだろうとそこに苦労して就職しました。ですが入社してみてビックリ、、、自分自身のストレスが尋常じゃないのです、、もっと面白い仕事があるのでは???ひたすらに湧いてくるこの焦燥感、、、この焦燥感には本当に手を焼きました。だから断言できますが人間の欲望は甘くみない方がいいということです。神が人間の閉じ込められて怒り狂っている、その怒りの矛先こそが欲望です。

神はコンフォートゾーンを人間にシフトして人間でしかできないことを楽しむ

人間体験はシンドいが楽しい

人間体験とは凄い体験でこの体を全体から完全に切り離し、、この体だけが「自分」だと決めて生きることです。この体を全体から切り離すために7年間ぐらいの歳月をかけて両親から声がけを受けます。そして7年間で完全分離(錯覚)をすることに成功します。逆に言えば7年ぐらいの歳月をかけなければ完全分離錯覚を起こせないということです。つまり完全なる神から人間になるには7年間の歳月がかかるということです。そしてこれはあくまで錯覚であり勘違いです。ですからこの体験はどこまで行っても苦しいということになります。

自殺する人間をバカにできない

幼少期は自殺をする人間が世の中にいることが信じられなかったですが今は全く違います。何が正解か全くわからないこの人生を歩んでいくのは茨の道でしかありません。これさえ手に入れれば後はある程度幸福、、これがないのです。びっくりします。それもそのはず、、神が自身を人間であると勘違いしているわけですからこの不快感たるや半端ない、、、神であったことを思い出すまでこの不快感は延々に続くということになります。

私はこの事実を理解して救われた

実は自分は神だった、、、この事実を目の当たりにしたときに心底私は救われました。なぜか???これまでの居心地の悪さがハッキリと解明できたからです。これまでの人生の努力とは、、この居心地の悪さが原動力になっていたのは間違いありません。この居心地の悪さをなんとか小さくしたい、、この衝動が自身をあらゆる対象への努力に向かわせました。ですが今は理解できます、私自身が神だったわけでそんな神が小さな成功、小さな達成、小さな評価ぐらいで満足するわけがないのです。この居心地の悪さの真の原因が分かった以上もう焦燥感はありません。

神はこの焦燥感を利用した

神は人間にどのような人参をぶら下げて活動に向かわせるか?それがこの居心地の悪さ、そしてそこからくる焦燥感です。誰もこの居心地の悪さの根源を知りません、だから焦るのです、、だからどこまでも狂うわけです。ドラッグ、お酒、ギャンブル、マリファナ、異性、お金、名誉、地位、、、この世界には人間を狂わせる要因がたくさんありますがこれらはこの根源がわからない居心地の悪さが原因です。