絶対から生まれた「我在り」

絶対から「我在り」が出現した

宇宙が出現したその瞬間、「我在り」という感覚が生まれました。宇宙は絶対、無、空からビッグバンを起こして出現したわけですがその時に「我在り」という感覚が生まれました。私たちが今感じているこの「在る」という紛れもない感覚はこの時から永遠にあります。というよりも「自分」以外には時間は存在しないので「我あり」がただ在るだけです。その中に自分が誕生し、時間が生まれました。これは全部錯覚です。

「我あり」の中で神羅万象が動く

我ありの感覚の中で神羅万象が動いていきます。森羅万象は我ありの中で起こります、そして森羅万象は我ありそのものです。そしてそれを生み出したのが絶対、空、無ということになります。覚者とはこの絶対、空、無の存在に気づいてしまった人たちです。我ありの根源、色の根源、神羅万象の根源、ビッグバンの根源です。今私たちの目の前には宇宙現象が広がります、それを支えて居るのが我ありです。我ありの中であらゆる現象が起こり続けています。その中に「自分」が居るが起こり、自分と自分以外が在るという認識が後付けで起こります。

「我あり」は「我あり」に気づく

自分の解消、解脱、解放とは「我あり」がこの感覚は「自分」ではなかったという気づきです。夢の中で主人公は自分そのものではないという気づきが起こるのと同じです。主人公はあくまで夢の登場人物であり自分とは夢そのものであった、、これが「我あり」の「我あり」で在ることの気づきです。自分などそもそもなく「我あり」の中でそれが起こっていただけなのです。ですがそれを仕掛けたのは我ありです、見かけ上。

目覚めとはビッグバンの個人的経験

個人が弾ける

ビッグバンとはたった一つなるエネルギーが弾けこの宇宙全体を構築することです。なぜビッグバンが弾けたか、それは絶対、無、空の投影、存在の再認識です。個人が目覚めるのも同じこと、個人という枠が壊れ全体の再認識が突如として起こることです。小さなビッグバンと言っていいでしょう。再認識とは個人がなくなった時に全体だったという気づきです、神の偉大さ、全体の偉大さの再認識のことになります。ビッグバンとは無、絶対が、絶対のままでは絶対の偉大さに気づけないということ始まりました。

自分の爆発

自分という存在があるからこそあらゆる体験を積むことができます、個人という小っぽけな存在であるからこそこの宇宙の大きさを確認できます。これが全体の全体確認です、全体は全体のままでは全体の大きさを経験できません、そこで個人という小さな存在を作り出し全体の大きさを体験するという試みです。ですがこの個人という存在を維持したままでは居心地の悪さ、退屈感、違和感を解消することはできません、そこで個人の爆発です、、個人が実はいなかったという気づきそれを起こします。すると全体は全体に戻るということを経験するのです。

絶対が弾ける

絶対が弾けたのがビッグバンです。絶対は絶対そのものですがそれでは絶対の偉大さを経験できない、、そこでビッグバンが弾け絶対の投影が始まりました。ビッグバンが弾けることでそこにはあらゆる生命現象が起こりそれを気づきの意識が気づきます。絶対の多様性を気づきの意識が認識します。その延長線上が人間です、人間は独自の進化を遂げこのビッグバンが作り出した世界の中にさらに世界を作り出すという発明を起こしました。これによって人間はこの宇宙全体の中にさらに世界を作り出したのです。人間が夢の中の住人と呼ばれる所以です。

本当の自分は誰か?

本当の自分は自分ではない

私は実は本当の自分ではない、、この事実を知った時に真から楽になりました、、、この何十年間と付き合ってきたこの「自分」が自分ではないと知った時に懐かしさ安堵感が込み上げてきました。やっぱりそうだ、、、これがその時の素直な思いです。やっぱり、、、なぜかは分かりませんがこの個人が生きているという単純な世界ではないことは昔から感じていました。でも個人ではないとしたら一体何なのか???神です。

なぜこれほど生きにくい世の中なのか???

私自身は中学高校と比較的受験勉強を真面目にやってきました、何かしらも目標があった方が気分が楽だし、将来のために準備をしていた方が安心感があったからです。ですが将来に対する不安感は強く、普通に働いて生きていけるのかは常に疑問でした。なぜかは分かりませんが楽しく働いている社会人の姿が全く想像できなかったのです。

案の定

社会人になってみると案の定、恐ろしいほどのストレスを抱え込みました、なぜこれほどまでにストレスを抱えるかは分かりせんが普通じゃないストレスを抱えました。自由を奪われるストレス、将来が決められてしまうストレス、、檻に閉じ込められた感覚を覚えました。そして7年間の会社員生活を終えフリーランスの世界に入りました。すると本当に7年ぶりに呼吸ができている感覚を覚えました、食事を美味しく食べることができました、、生きている喜びが込み上げてきました。今思えば「自分」という檻の中に閉じ込められているだけでも苦しいのにさらに「会社」という檻の中に閉じ込められるストレスが苦しかったのだと思います。

檻から抜ける

会社という檻から抜けることができた「自分」は物理的自由、精神的自由を手に入れたわけですがそれも徐々に慣れていきました、するとこの「自分」という檻を抜け出したいという次の衝動が襲ってきました。会社という檻の次は自分という檻の脱出だ、、、この衝動は止まることがなく、、、今こうしてブログを制作しています。正直自分自身がどの程度「自分」という檻を抜けているのかよく分かりません。ですがこのブログを書きたいという衝動、これは凄まじいものがあります。もしかしたらこのブログを書き終える頃に「自分」という檻を完璧に抜けれるのか?そんな期待をしながら書いています。

カフェで聞こえてくる会話が作り話???

個別人間の世界

たった一つのエネルギーが爆発し、、ビッグバンを起こしこの世界を作り出しました。本当の宇宙は我々が見ている世界とは全く異なりたった一つのエネルギーがただ漂っている、、漂流している、渦巻いている、世界です。一個一個独立した存在が集結した世界では確実になく、それはたった一つのエネルギーが爆発を起こした世界が真実だからです。人間がこの世界を独自の視覚、脳で眺めますから人間独自の世界に変化して見えます。これが宇宙の真実、個別人間の世界です。

カフェに行くと聞こえてくる会話

そんな個別錯覚人間がカフェに行けば周囲からはあらゆる会話が聞こえてきます、そしてその「話し声」を聞けば独立した人格を持った分離した存在が思い思いの会話をしていると錯覚します。絶対的にそう見えるし聞こえます。ですがたった一つのエネルギーが爆発してこの世界を漂っているのになぜ完全分離司した人格、個性の人間がそこに居るのか??という話です。事実だけを伝えればそれは錯覚、幻想です。人間の脳がそう見せ、聞こえさせているのです。

幻想の世界、作り話が悪いわけではない

幻想の世界は悪い世界だ、神の悪趣味だ、幻想の世界に住む人間は正気の沙汰ではない、、そんなことを言いたいわけではありません。事実としてそれが幻想でありそこを事実として認めると、、、途端に深刻さが消えていきます。全ての会話が全く意味のない、、雑談に聞こえてきます。真剣なビジネスの話をしている周囲すらも面白く感じます。そして人間とは凄い進化、凄い錯覚の世界を築き上げるその脅威に感嘆します。

人類は進化の後退ではない

苦しめるというとこまで進化がきた

自分という存在、私という存在、、これらは錯覚ではありますがこの感覚を持てたのは生命の進化です。この私は苦しみ、居心地の悪さを感じ、違和感を感じる苦しい存在ではありますが、、だからこそ全体を再体験するというとんでもない経験をすることができる資格を持っています。これを体験できる植物は存在しません。人間だけが苦しみの先に全体への再統合というビッグプロジェクトを抱えることができるのです。このプロジェクトの最重要事項は個人としての苦しみです。

苦しい、楽しいを超えて

二元のストーリーの中での苦しい、楽しい、、は全部夢の中での一瞬の体験です、楽しいと思っていたら苦しいに変わり、、また楽しいに変わる、、、この安定しない状況こそが「苦しみ」です。だから人間は無理くり安定を作り出すために知恵を集め終身雇用などの制度を作り出したりします、ですがこれが人間の不安感を完全に払拭することなど不可能です。人間がこの夢の中で作り出した制度が人間を幸福にできないことは明らかです。この楽しい、苦しい、面白い、つまらない、、、の二局の世界にいても真の幸福はない、、ここにいかに気づきそこから抜けることに意識がむく時に人は再び全体に戻る準備をします。

二局の世界への諦め

楽しい、苦しい、快適、不快、面白い、つまらない、、、この二局の世界に可能性を感じている限り人間は苦しみからは解放されません。この二局の世界には真の安定は存在せずどこまで行っても不安定です。そうです、この二局の世界にいる限り真の安定、安心、安堵はないことに気づくことこそがこの二局の世界の真の目的です。そしてそれに気付いた生命体「人間」は意識的に全体に戻るという神そのものの行為にたどり着きます。だからこそ人間社会では神という言葉が普通に使われているのです。これは偶然ではありません。

「私は在る」は思考???

「私は在る」は思考ではない

「私は在る」という感覚、これは生まれてきてから今まで一切途切れることはありません、こも感覚、、この世界に間違いなく「在る」というこの感覚こそが我々をhuman ではなくhuman beingにしている根拠です。何をしていても何を考えていても、、この「在る」という感覚だけは不変です。不変のものが思考であるはずがなく、、「ある」とは神の意識です。そうです、我々はいかに人間活動をやっていても神の「ある」という感覚の中でそれが行われているだけなのです。

「私の在る」と「他人の在る」は同じ

「私は在る」と友人が感じている「私は在る」は別人の在るなんでしょうか、、、、違います同じ人の在るです。そうです神の在るです。世界中80億人の「私は在る」は全部同じ存在が感じているのです。それを神、ワンネス、大いなる一つ、、と呼称します。個人は皆この「私は在る」の存在を深層心理では認識していますからここに戻りたいのです。恐ろしく楽しい時も恐ろしく辛い時もここに戻りたいのです。そして戻ることを「目が覚める」と表現します。

「熟睡時」の感覚は楽しい夢よりも偉大

夜、夢を見る際には皆わかっています、、、楽しい、楽しい、エキサイティングな夢を見るよりも熟睡後の恍惚感の方が間違いなく上であると、、、大金持ちになり、大有名人になり、全てを手に入れた男の夢を見るよりも、、熟睡後の幸福感が上であることを。。これは全員が気付いています。そうです、、この人間人生でいかに楽しく最高で快適な生活をしようとも、、「私はある」の感覚の場所に戻ることの方が偉大であることを皆知っています。だから多くの方が太古の昔から宗教を求め神を求め続けてきたのです。

全力で神を追い求めることで神が隠れる

行動が個人を強化するという矛盾

ある時人はこの苦しみに終止符を打ちたいと神を求めるようになります。世の中に宗教がこれだけ多いのには理由があるのです。多くの方は神を求めます。ですが矛盾するようですがこの神を求めるという行為そのものが「個人」「私」を強化することになり「神」が隠れるという結果になります。なんという皮肉でしょう。ですがこれが事実です。個人は何かを叶えたい時に行動に移します、行動するのは「個人」「私」です。ですが神とはこの「私」という意識が欠落した状態です。私という収縮したエネルギーが解放された状態のことです。

我々はこの「個人」が何かを達成するよう訓練されてきた

悟りというものがなぜいかに難しいことかと言えば、、、これまで個人がやってきたこと、成し遂げてきたこと、成就してきたこと、努力してきたことと全く逆ベクトルな場所にあるからです。目標を達成した「自分」、周囲から評価を得ることができた「自分」、地道に努力して何かを築いた「自分」この自分というエネルギーが居なくなった状態が「神」意識です。このカラクリに気付ける「自分」こそが神です。

それでも「個人」は神を追い求める

ただしこの「個人」が神を追い求めるのは全くもって自然なことでありそれが間違っているということではありません。それが普通です。個人は常に欠乏感、不足感を抱えて生きていますから、、それをどこかで解消したいと心底では強く願っています。そしてそれが何かを達成することでは成し遂げられないことも実は知っています。そうなるとその解決を神に求めるのは当然のことです。ですが真の理解とはこの当たり前に認識し続けてきた「自分」という存在こそが神を見えなくしていたという気づきです。「自分」という認識エネルギーの消滅が神を顕現させます。

各指は全行動、全思考を自分がやったと認識するメカニズム

各指が完全分離したわけではない

腕全体を神、全体、大いなる一つとした場合、指がこの人間、自分です。そもそもが指には何一つ決定権はなく腕の一部としての活動がありました。ですがある時に指に思考が湧き出し指を腕とは全く違う独自の存在とする認識が起きました。それが自我、自分です。自分は何かをする力があるのではなく、、起こった行動、思考を自分がやったと思い込むメカニズムです。そしてこの自分が見る世界は、、自分の価値観が反映され価値観に準じた世界に形成されます。

引き寄せの法則とは

個人、自我に何かを引き寄せる力は絶対にありません、なぜならば自分は幻想だからです。ただの思考です。思考に何か現象を引き起こす力はありません。思考もただの起こりだからです。ですが価値観はその人間が見る世界を価値観に準じたように見せることができます。本質を価値観に沿って切り刻むことができます、なぜならばその人間が見る世界だからです。価値観に準じた世界を作ることはできますからそれを引き寄せの法則と呼ぶこともできるかもしれません。

腕と完全分離した指はない

指はあくまで腕の中の一部であって完全分離した指などあろうはずがありません。指が完全分離してしまえば指の機能は消え失せます。人間もこれと同じで全体から完全分離した人間などあろうはずがなく、、それゆえ人間は完全分離しているという認識が強ければ強いほどに苦しむことになります。人間の姿形は指よりも分離しているように見える分その誤解は深刻を極めるのです。

各指は思考に支配されていることを知らない

思考が指を支配する

各指は思考に支配されています。腕全体であった神の中に指が勝手に独自の意識を持ち、我こそは自分なりとなりました。脳の発達によって思考が生まれこの思考が指だけで全部、指が分離した独立存在であることを可能にしました。これは全部思考が作り出した錯覚です。ですがこの作戦は功を奏し指は独自の独立した存在になったのです。独立分離した指は腕全体を動き回ることになります、なぜならば指は居心地の悪さ、違和感が湧き出し動かざるを得ないのです。そのため腕全体を動き回ることになるのですがこれが距離、空間を作り出しました。そして空間を移動するために時間が作り出されました。この大元にあるのが自分が居るという思考です。

にも関わらず思考を盲信する現代人

思考がこの自我を作り出し指は腕から切り離されます。指は独自の存在になることで全体の中を動き回ることになります。ですが実際には腕そのものであったわけですからこの指の動きは意味がありません。自分自身の中を動くという意味不明な行動をしているのです。自分が居るというこの感覚こそが不快感、居心地の悪さを生み出しそれを解消するために指は全体(腕)の中を動きまわるのです。これは究極のギャグです。ですが実際にはこの居心地の悪さを思考を使って解消しようとします。思考によって分離独立してしまったにも関わらず思考を使ってこの居心地の悪さを解消しようとするのです。

人間はいつまで思考を盲信するのか

指は思考によって全体(腕)から分離したわけですがその不快感、居心地の悪さを思考を使って解消しようという茶番、悲劇を繰り返します。思考を使えば使うほどに自我は強化されていくわけですから救いようがありません。ですが人類のほぼ全てがこのノリで生きているはずです。このメカニズム、自我を作り出すメカニズムを見抜けたならばもうこのトリックに引っかかる必要はありません。思考から離れる、思考を放置する、思考を盲信しない、、このように思考を手の平で転がせるようになります。

各指は自分が一番特別だと思う

特別になろうとする指

腕全体である神から指だけが独自に意識を持ち、この指は自分だと勘違いしたのが人間です。これによって指は独自の経験を積むことになり我が人生が作り上げられていきます。ですがこれは大いなる勘違いの上に構築された虚構ですから覚者はこれに気づきこれを幻想、ストーリーと称すのです。この指こと人間は、、自身をこの全体、腕から完全分離したという思考が機能しているので、、、常に心細い状態になります。心細い思考を自らこしらえておいてその心細さの原因に気づかないこの指は、、、周囲から注目を集めてこの心細さを癒そうとします、これも全部思考の策略です。要は特別であろうとするわけです。

競い合うように特別になろうとする各指

各指はそういう理由から我こそは特別だ、我こそは周囲よりも優秀だと自己主張を重ねていきます。ですが実際にどれほど特別だと思ってもらっても本来は指自身ではないのでこの心細さが消える事は絶対にないのです。そこでもっと特別にならなくてはもっと特別にならなくてはと必死になっていくわけです。これが思考の罠から抜け出せなくメカニズムです。

各指が自身を指だと勘違いしているのは思考

腕全体(神)から指だけが分離独立していると勘違いしているのは思考です。この思考が湧く出てくることで指は独自の世界を作り上げていきます。指は腕全体の中を動き回りそれによって空間、時間が生まれました。本当はそんなモノは存在しません。なぜならば「独立した指」自体が錯覚だからです。指は腕の一部でしかなく指という名称すら本来はないのです。ですが本来は無いにも関わらず指があると勘違いが進んでしまったわけですからこれはもうしょうがないのです。この事実を受け入れていくことでこのトリックに気づく以外にありません。