神が個人に話しかける???

突然神の声が???

ある日突然神の声がして、、、そんな怪しい話が、、、神話などでありますね、、、、急にご先祖様の声が、、、今見かけ上の私たちが現実と呼んでいるこの世界、、これこそが全部神の顕現です、、、ですからそこで起こる音も全部神の顕現です、、、、神以外に顕現はないのです、、、ですから神の声が聞こえたというのであれば、、、鳥の声も、、友人の声も、、全部が全部神の声です。。。

それを聞くのも全部神

そしてその声を聞いているのは誰か????見かけ上の私か???違います、、、聞くことができるのが神だけです、、、神だけが感じることができます、、、すると神は、、、この体を利用して聞いているんですか??違います、、、神は音を現し、、、そのまま音に気づきます、、見かけ上のこの私はそこには全く関われないのです。勿論見かけ上の私が耳栓をすれば声が聞こえなくなるでしょう、、、しかしその動きも、この見かけ上の私も神の顕現です。

考え過ぎて、、、全く聞こえなかった

考え事をしていたら、、、声をかけられても全く気づかなくて、、、、聞くことができるのは神だけであって、、なぜその神が聞くことができなかったのか???神は無能なのか????違います、、、、神は考え事を感じていたのです、、、思考を感じていたのです、、、神は思考を感じる時に、、思考の意味を感じます、、思考の世界、、ファンタジーの世界を感じていたのです。見かけ上のこの私が居て、、、の世界です。

冷蔵庫の音に神々しさを感じる

真我から湧き上がる音

夜中にブログを書いていると、、、完璧な静寂な中で、、、冷蔵庫の音だけが微かに響きます。。。この音はどこから生まれているんでしょうか???真我です、、、真我からこの音がただ鳴り響きます、、そしてこの音に気づいているのは誰か???それは見かけ上の私ではなく、、真我です、、、何かに気付けるのは真我だけです、、、、つまり真我から湧いた音を、、真我が聞いています。。。悟とか悟らないとかそういう話ではありません、、、真実の話をしています。

冷蔵庫が真我から湧き上がり

冷蔵庫は真我から今湧き上がっています、、、そしてそこから音が鳴る、、、、この音も真我から湧き上がります、、、この音に唯一気付ける存在、、それも真我です、、、、見かけ上の私は一切ここに関わっていません。いやそんなことはない、、、耳に耳栓をすれば音は聞こえなくなりますよ、、、見かけ上の私にそのような動きが起きれば、、、ただ音が消えるが起きるだけです、、、その見かけ上の私に耳栓をさせたのは誰か??真我です。。見かけ上の私が関わったのではなく、、その動きが真我から起こったのです。

ただ音を感じているだけなのに

ただ音を感じているだけなのに、、、そこに神々しさを感じ、静寂を感じます、、、、誰が聞いているか、、、ただこれだけの違いで、、、音が神になる、、、、聞く者が神になる、、、、都会の喧騒の中に住んでいるはずが、、、静寂そのもの、、、これは静寂(真我)が音を感じているからです。全ては静寂(真我)から起こり、、静寂(真我)がそれに気づいているだけ、、、静寂(真我)の一人芝居、、

今迫り来る危機

突然の会社の倒産

例えば見かけ上の私が勤める、、、会社が倒産してしまった、、、このような時はどうのようにすればいいのでしょうか??最初には、、恐れ、、、不安、、、怒り、、、様々な感情が湧き上がると思います、、、その時にその感情がどこから生まれるのかを観察します、、、、その感情は真我から生まれて、、そして真我がそれに気づいています、、、、そのことを理解しますと、、、安心が即座に生まれます、、、この現象に対して安心が湧いてくるのです、、、起きる現象は真我が生み出しました、、、、そこを理解するだけで、、安心感が湧いてきます、、真我から、、、するとその安心感を真我が気づきます。

どの自分で対応するか????

見かけ上の自分に会社の倒産が起きたと思えば、、、、不安が真我から湧いてきてこれを真我が気づきます、、、見かけ上の私にそれが起きたのではなく、、、ただ会社が潰れるが起きたのだ、、、という観察が起きれば、、、真我から安心が湧いてきて真我がこれに気づきます。。全ての現象はただ湧くのであって、、それは見かけ上の私に向かっては起きていない。。。。鳥は見かけ上の私に向かって鳴くことはなく、、ただ鳴くが起きるのです。この鳴くに対して、、真我としてこれに気づけば、、、鳥の声が神の声に聞こえます、、声に神々しさが宿るのです。

倒産すらも真我の現象

会社の倒産、、見かけ上の私にとっての大事件、、、これも真我の現象、真我からただ起こっただけ、、、見かけ上の私も真我からただ起こっただけ、、、この現象に対してただ淡々と行動が湧いてきます、、真我から、、そして真我から湧いているという気づきは、、常に静寂、平和に包まれるのです、、、現象を生み出すのは真我、、それに気づくのも真我、、、これは真我、神の一人芝居です。この状況でどこに不安になる要素があるのでしょうか。見かけ上のこの私すらも、、、真我からの現象に過ぎません。

全現象に非関与な「私」

美味しい料理を食べる

美味しい料理を食べる際にこれを美味しいと感じているのは真我です、、、感じることができるのはこの世界で真我しかいません、、ですから美味しいを感じ続けている時、、真我が感じています。。。今までは美味しいと感じているのは自我だと思っていました、、ですが実際には全ての五感は真我が感じています、、真我、神が感じることができない五感があるのならば、、それは神ではない、、ということです。

神が感じた五感を「私」が感じたと勘違いの思考が起こる

神が感じる美味しい、不味い、良い香りがする、お腹が空いた、、、を個人が感じた、、、という思考が起きます、、この思考に気づくのも神です、、これによって同時に苦しいが湧き、、これを神が気づきます、、、神が全五感を感じ、、全五感の経験を個人がしたという思考が湧き、、それを神が感じる、、このサイクルをエンドレスに継続していきます。そしてそろそろ気づいて欲しいのがこの体の中の私は何も関与できていないということです。

現象を起こすのも神、感じるのも神

全ての現象を起こすことができるのは神だけです、、そしてその現象に気づくことができるのも神だけです、、、そうです、、この世界には神しか存在していない、、この世界に神とは関係のない私など存在するわけがないのです。私が居るというこの思考は神が作った思考であり、この思考に気づくのも神です。この世界に独立分離した「私」など存在できるわけがないのです。この世界には神が起こした現象と、それに気づく神しか居ません。

メカニズムを理解するだけ

そこに整合性があればそれで終わり

なぜこの体の中に自分が居るという大勘違いが起きるかと言えば、、、、この体が経験する全てを、、、感じる存在が居るからにほかありません。焼き鳥の味を感じ、お酒の味を感じ、音楽を感じ、照明を感じる、、、この感じる全てがあるからこそ、、、この体の中にこれを感じる存在が居るという大勘違いが起きるのです、、ですがその存在は体の中に居るのではなく、、、この見える世界全体がそれを感じていたのです。

感じるは神しかできない

感じることができる存在は神、気づきの意識、全体だけです、、、つまり酔っぱらったと感じているのは神であり、悲しいと感じているのは神、、全部神です、、その神がこの体の中に存在するというのは思考です、、、この神は神ゆえに、、、この体の中ではなく、、、全体に存在しているのです、、、神とは全部だからです。全部で在る神がこの体の中に居るという大誤解こそが苦しみを生み出しているのです。皮肉なことにその悲しみを感じているもの全体で在る神です。

雨の音を聞く

雨の音に気づく、、気づくことが出来るのは神しかいませんから神が雨の音に気づきました、、、神はこの音を音そのものとして今気づきます、、、この気づきを、、、体の中の私が聞いたという思考が湧きます、、この思考に神が気づきます、、、雨の音を起こしたのは神であり、、そこに気づくのも神です、、神が音を起こし、神がそれに気づく、、、そこにこの体の中の私は全くもって非関与です、、、この体の中に私は全現象に対し非関与ですから次第にこの私は消滅します。

強烈な不足感

強烈な不足感はどこから湧くのか?

強烈な不足感を感じている人がいるとしましょう、、、この不足感はどこから湧いてきているのでしょうか???真我です、、、真我から強烈な不足感が湧き上がりました、、、ですが個人意識はこの強烈な不足感を個人から湧いたと感じます、、、そこでこの強烈な不足感をこの私が埋めよう、、が湧き上がります。。。次にどうやって私は埋めようか???が湧きます、、、そして、、不足感を満たしてくれるだろう対象を探し出し動き始めます、、この行動が真我から湧きます、、、ですがこれが私から起こったという思考が湧きます。

強烈な不足感が真我から湧いたと気づくと

強烈な不足感が真我から湧いたんだという気づきが起きますと、、、なぜ不足感が湧いたんだろう、真我から、、、という思考が湧いてきます、、、そうか、、、この湧き上がりを、、個人から湧いているという勘違いをしてるからこの感情が湧くんだな、、、全部が全部個人が思考、感情、行動を作り出しているという「大勘違い」をしてるから、、、不足感が湧くんだ、、不足とは、、、物質、精神的未享受のことではなく、、、主語が小さな小さな私になっていたから、、そのギャップこそが不足感だったんだー、、となります。

強烈な嫉妬心が真我から湧いたと気づくと

強烈な嫉妬心が湧き上がりました、、、自分から、、、違います、、湧き上がるのは全部本当の自分、真我から湧き上がります、、、この理解が起きると、、、嫉妬心が出た理由に興味が起こります、、、真我が嫉妬する、、これはない、、、真我は嫉妬できない、、、嫉妬できるのはこの「私」だけ、、、この小さな体の中にいることになっている「私」だけが嫉妬できます。。全思考、全感情、全行動をこの小さな私がやっているんだという思考が湧いている時に、、、セットで湧くのが、、、この嫉妬心です、、、なぜ私ではなく、、この人に、、となります。

つまりネガティブな感情は、、、

ネガティブな感情が湧き上がる時、、、人はこれを解決したい、、、が同時に湧きます、、、ですからこのタイミングは絶好のチャンスなのです、、、、この感情は、、そうだ、、真我、全体から湧き上がっているんだ、、、なぜ????全体からこのような感情が、、、、と感情が湧く原因に迫っていきます、、、どこから湧いているんだ、、、真我、、、でも真我から嫉妬、妬み、そねみ、、が湧くのはおかしい、、、この感情は「私」が居る時しか湧かないはず、、、、となるのです。

名前を呼び合う

子供の中で喧嘩が始まる

最初はただ、、名前を呼び合っていただけの子供達が、、、徐々に個人としての記憶が多くなっていくことで個人としての意識が強化されてきて、、、子供達がおもちゃの取り合いをしたり、ある子供をいじめたり、、頭を叩いて威圧してみたりするようになっていきます。。。個人であるという感覚は不快ですから、、この不快感は毎日のように大きくなっていくわけです。この意味不明な不快感を解消しようと、、子供達は喧嘩や争いを始めるのです。

校則やルールが生まれる

日に日に増えていく不快感からくる衝動をコントロールするために校則が生まれ、ルールが厳密になっていきます、、ですが個人としての記憶が増大するに従い、、、不快感は日増しに増えていきますからもうこれは大変なことになっていくのです。ただ生きているだけ、ただ個人として生きているだけで経験が増えそれらが記憶されていきます、、個人としての積極的活動が多ければ多いほどに、、その個人の記憶が増えますから、、個人が強固になっていき苦しいとなります。

就職する頃には、、

就職する頃には、、個人は完全に強化され、、毎日がしんどいが当たり前の状態に、、日々こんなもんだよなと諦めて生きていくようになるのです、、、ですがそれでも個人の経験は増え続けていきますから、、その記憶が自我を盤石に支え続けるのです。。。そして徐々に生への執着自体が減ってくる、、人生なんて、、つまらないのが当たり前、、、いつ死んでもそれほど後悔はない、、ぐらいのノリです。

死ぬ覚悟があるならば

死ぬ覚悟があるならば、、生への執着がないのならば、、、だったら悟りを開いちゃえばいい、、、これが夢だと気づいちゃえばいい、、、この自己を精神的な意味で解消しちゃえばいい、紛糾しちゃえばいい、撃破しちゃえばいいのです。この自己は作り物、便宜上作品ですから、、、本当は存在しないのです、、ですからそれを見抜いてしまう、、、ただそれだけです。

悟りとは個人の精神的抹殺

個人を抹殺する

悟りとは個人の精神的抹殺です、、、、個人がこの体の中に居るという思考、感覚を抹殺します。個人という存在が形成されたメカニズムを解説し、、個人が在るという思考が二度と出てこないようにすることです。天動説を真剣に信じ込んできた個人に、、地動説を解き、、、その個人が完全な理解を示した時に、、、それでも天動説を信じようという思考の動きが消えます。。。これが悟りです。個人の不在を完全に理解することです。

どのようにして個人が築きあげられたか

個人という存在が確立することを自我が形成されると言います、、まさにその通り、、、元々人間には自我が存在しないのです、、徐々に徐々に自我が形成されるように周囲からの声かけ、学習が行われるのです、、、「水泳で一番を取った私、、テストで0点を取った私、学校で人気者になった私」という記憶の全てがその個人を強固にしていき、、その記憶の全てが、、、価値観になっていくのです。

自我の形成を俯瞰すれば、、、俯瞰する存在が真我

自我の形成がなぜ起きるかといえば、、生命維持にとって有効だからです。。。先ず自分の名前が言えなければ就職できませんから、、食べていけない、、、、この体の中には名前があって、、その名前を意味する、、アイデンティティー、自己が存在するという思考を築くのです。すっかりと自分という存在がこの体の中に居るという思考、感覚が馴染みますと、、、この体の中の自分というストーリーがそこから展開していきます。この体が感じる全てをこの個人の経験として蓄積していくのです、、この記憶が個人を確定的なものにし、、年齢を重ねれば重ねるほどに、、、記憶、個人は大きく膨らんでいくのです。その膨らみは同時に苦しみの膨らみになりますから、、、どこかで弾け飛ぶか、、、悟りへの理解に進むのです。

大人とはこの夢を現実だと信じる人たち

大人になる

大人というのは、、、この夢を現実だと信じて生きる人たちです、、それだけ、、、子供とはこれは夢だと見抜いている人たちです、、、、子供から大人になるとは、、、夢を現実と勘違いすることです、、、、悟りとは再びこれは夢だったという気づきが起こることです、、、この体は夢の中の登場人物に過ぎない、、、たったこれだけ、、、、神、大いなる一つ、ユニティー、ワンネス、、、、言葉で出てくる偉大らしき存在の数々、、、なんのことはない、、、、、この夢を見ているこの私のこと、、、という大オチ、ギャグ、残念な結末、、、

こんな簡単なトリック

簡単すぎる、、、これが夢だった、、、集団洗脳、、、これは現実ですよ、、、という集団洗脳、、、騙された、、まんまと騙された、、、、、、この目の前の視界以外、、、何も起きていない、、夢だから、、、、さっきまで一緒に遊んでいた友人は、、、家に帰れば存在していなかった、、、騙された、、、こんな簡単なトリックに、、、やられた、、、

夢は完璧

この夢は完璧なのです、、、本当は家に帰ればクラスメイトは存在していないのに、、、次の日に学校で会えば、、、一人一人が家での活動を教えてくれる、、、この夢で、、、、完璧すぎる、、、これでは騙される、、、試しにこっそり一人の友人の家に押し掛ければ、、、ちゃんとそこに居る、、。騙される、、、この夢は完璧過ぎて騙されます、、、、集団催眠に全員でかかっている、、、

人格者になれば、、

霊的進化も何もかも

この夢の世界で物理的欲求を満たせば幸福になれるという試みは完全に打ち砕かれます、、欲しいものを手にした瞬間だけが幸福になり次の瞬間にはもう元に戻ります、、これを何度も繰り返すうちに人は物理的欲求ではなく、精神的欲求を追い求めるようになります、、地位名誉称賛などです、、ですがこの試みも完全に打ちのめされ、、次は霊的進化、人格者の道に入っていくのです、、ここまで辿り着く人は稀です、、、ですがこの道も全くもって不毛な戦い、、辿り着くゴールなどない、、、となるのです、、、

何かを成し遂げるではない

何かを成し遂げるという試みは全部打破され、、ほとほと困ったときに悟りのメッセージが響くようになります、、個人の達成では何もなし得ない、個人は不在である、、これは夢である、、今この瞬間しかない、、これらのメッセージは達成達成を試みてきた人々に届きます、、何かここに最後のチャンスがあるのでは、、、もう山を登りたくはない、、、です。

実はこれが夢

この現実の世界で、、という大前提が間違っていた、、これは完全な夢、、そしてこの夢を見ているのは誰???この私、、、そしてこの体の中に居るつもりだった私は、、実は夢を見ている存在だったというシフトチェンジ、、だとすると、、、この体はただの乗り物、、そして周囲の人間もただの乗り物、、何一つ深刻な事件はなく、、ただ淡々と夢が展開していく世界、、、ここが私のいる場所、、、、という気づきが起き始めるのです。