気づきの意識

エゴが一番恐れていること

動きを俯瞰されること

エゴは実は存在しません、、ですからエゴの動きに対し無意識であることがエゴ存続の絶対条件になります、、そうなりますとエゴにとって一番の脅威とは、、エゴの動きを俯瞰されてしまうことなのです、、、気づきとはその動きを俯瞰してしまうことです、、、究極のい気づきとは何か?それはエゴ、自我の動きを完璧に俯瞰してしまうことなのです。

エゴはエゴの動きに無意識だから存続している

エゴは実は実態がないのですがそこに気づかれてしまったらもう終わりです、エゴの終焉です。ですからエゴは常に無意識化で動きを起こします、、、そのために思考に取り込み、、思考していることすら気づかない状態を作ります。。。自身がどういった行動を取っているか気づいてもいない状態がエゴ最高の状態なのです。だから「あなたは無意識にこういった行動を取っているよ」という俯瞰をエゴは恐れるのです。エゴの動きを俯瞰する存在とは無我、気づきの意識、ワンネスだからです。

本当は居ないのに、、、

本当は居ないにも関わらず自分が居るという大前提の大ドラマをやっているのがエゴです、、ここを見抜かれてしまったら、、、もう大ドラマに没入できない、、これはエゴにとって一番恐れていること、、エゴの終焉はこのドラマの終焉です、、そこでエゴはエゴに対し無意識の行動を他人から発見されるのを恐れます、、、せっかく無意識で活動できていたのに、、意識的になったらエゴは存在を維持できないからです。本当は居ないのですから。

エゴの動きを説明すると動揺するエゴ

エゴの自動反応を伝えるリスク

相手のエゴの自動反応によって被害を受けた場合、、、その動きを相手に伝え、、、理解を促そうとすると、、逆上する場合があります、、、これはエゴの生存戦略で、、、自身のエゴの動きを理解するということは、、エゴの消滅を意味するからです。。あなたのエゴの動きがこうこうこうで、、私は被害を受けたんだというただの解説こそが、、相手のエゴが最も恐ることなのです。それを相手が理解するということは相手の無我が自我の動きを把握してしまうことになります、、つまり自我の消滅を意味するのです。

あの時あなたのエゴはこのような嘘をついたよ、、

あの時あなたのエゴは、、、こういった嘘をついていたよ、、、この解説を、、、、相手の無我が気づいてしまったら、、、相手のエゴは消滅します、、、気づきとは、、、一度起これば、、、もう騙されなくなる、、エゴの動きを見抜いた無我は、、、エゴの存在の有無を見抜いていきます、、、これはエゴの抹殺に近いのです。

激情するエゴ

エゴの動きを冷静に伝えられるほどエゴにとって苦しいことはありません、、、エゴは激情しその場をぶっ壊しにかかるでしょう、、、逆ギレという言葉がありますが、、あれなど、、、エゴが生存をかけたエゴらしい動きです。なぜ私はこんなことをやってしまったんだ、、、この冷静な気づきは無我、気づきの意識から起こるのです、、、ですからそのような気づきが起きないようにエゴは徹底抗戦するのです。

エゴの動きをただ観察する

人のエゴの動きを見抜けば

人のエゴの動きを理解できれば、、自身の中に存在するエゴの動きも理解できます、、、人間関係とはエゴ関係ですからエゴの研究そのものになります、、、それまでは必死に人間関係を頑張って維持してきたならばここからはエゴの研究だけでいい。なぜならばエゴの研究とは無我の確立でありただそれだけで大いなる一つ、無我、気づきの意識にシフトします。この状態が平和、安堵、静寂そのものです。

エゴ観察の場とする

人間関係はエゴ観察の場所です、、、エゴの動きを理解した上で人間観察をしますと自然とエゴの動きを理解することができるようになります、、エゴの動きを見破るのは無我、気づきの意識ですから、、、いつの間にか深刻さが消えていきます、、相手をこうしよう、ああしようなど一切しなくていい、、ただエゴを観察する無我でああればいいのです、、、この状態が平和、安堵、静寂です。

人間関係を作らなくていい

人間関係とはエゴ関係ですから、、、そこに平和、安堵、静寂は一切存在しません、、ここに人生の目的を求めても無駄なのです、、そうではなく人間を通じて自我、エゴをしっかりと観察できる存在(無我)になっていきます、、関係は作らなくていい、、ただ人間との対応を通じて無我をしっかりと意識していきます、大いなる存在、気づきの意識として、、観察します。ここが静寂、平和そのものの場所です。

自我の研究は無我の再発見

自我を俯瞰できるのは無我

自我の動き、エゴの動きを俯瞰できるのは自我、エゴではありません、、これを俯瞰できるのは無我、気づきの意識です。ですからエックハルトは著書の中で徹底的にエゴの動きを解説しました、それを読む読者は自我の動きに詳しくなっていきます、そして詳しくなるのは無我、気づきの意識です。自我、エゴの動きに敏感になれば、、それは気づきの意識、無我が出現している証拠です。

自我の生存戦略を知る

自我はどうやって生存するのか???この体の動きをコントロールしているというこの感覚と記憶です、、これで自我は存在を維持しようとします、、、この体を通じて経験する全てはこの私がしたものだ、、、その証拠に記憶がしっかりと存在する、、、です。ですが実際には動きの全ては生命の動きであり、、全動きは生命に委ねています、、これを私がやったという生命の動きが起こり、、自分が存続できるのです。

自分が居るという感覚が存続し続けているだけ

自分が居るというのは感覚です、、この感覚が生命現象としてただ起きています、、コーヒーを飲んだのは自分だという感覚、、この感覚が生命現象として起きました。本当は全現象が全生命現象であり、、生命そのものの動きがあるだけです、、、心臓を動かす生命、血管を動かす生命、コーヒーをコーヒーたらしむ生命、花を開く生命、、全生命は同じ生命です。

気づく

気づくためには

気づくためには、、、気づきの意識でいないといけません、、、ですが人間は常に思考に取り込まれていますから気づくことができません、、、なぜか??気づきの意識が思考に取り込まれ、、気づくことができない気づきの意識になっているからです。これによって今起きていることに気づけない状態になっています、、ニュースを沢山見ることで思考に取り込まれ今起きている事実に気づけないのです。

気づきの意識が気づいていないだけ

我々が抱える苦しみは、、、気づきの意識(無我)が、、、思考に取り込まれ自我になり、、、気づくことができない状態になっていることから生まれます。思考が湧いたらそれを観察する存在(無我)になり、、思考に気づき続けますと、、、無我は気づきの意識ですから、、、全てに気付けるようになります。相手の反応、周囲の反応、今起きている現象に気付けるようになるのです、これが悟りです。

周囲を見渡せば、、、

周囲を注意深くみてみてください、、、多くの人は、、、自分のことで頭がいっぱい、、、頭がいっぱいとは、、、思考がぐるぐると回り続け、、、、思考に飲み込まれています、、、何が???無我、気づきの意識です。気づくことができない自我になり、、、気づけないゆえに苦しみ続けているのです。このトリックを見抜きます、、

思考に取り込まれる自動反応

自我は嘘を繰り返す

自我を観察する存在、思考を観察する存在でいれない時、、つまり気づきの意識が完全に思考に取り込まれている時、、思考を観察する存在が居ないのですから、、、、その人から出てくる言葉は、、何の整合性もなく、、、ただ湧いてくる思考そのものです、、、、その思考を観察する存在は存在しないのです、、相手は自分が何を言っているのか気付いていない、、そこに嘘も本当も一切ないのです。観察する存在が居ないのですから。

思考に取り込まれないトレーニング

思考に取り込まれない、、、これを毎日の習慣にします、、、思考に取り込まれない、、、これを心の中で連呼します、、、すると次第に思考に取り込まれなくなります、、、思考に対して意識的になる意識が出現します、、、この存在こそが、、、大いなる存在、気づきの存在、ユニティーです、、、思考を野放しにしない、、、思考を注意深く観察する存在を出現させます、、、

思考が湧くたびに瞑想になる

思考を観察する存在でいるということは無我になることでもあります、、自我を観察するのは無我です、、自我は観察されることで無我に変化します。なぜならば自我とは無我が思考に取り込まれた状態だからです。自我を観察したら無我になります。思考を観察することで無我が出現します、、、無我が思考に取り込まれ自我になり再び思考を観察することで無我に戻るのです。

私の居場所

私はどこに居る?

私の居場所はどこでしょうか?この体の中???違います、、、この体の中に自分は居ません、、では一体どこに居るのでしょうか???今ここに居ます、全体としてここに居ます、、、変化が起こるこの場所そのものが私です、、、そして変化が起こることに気づくためには変化がない場所でもある必要がある、、絶対的存在そのものでもあります。

変化すらしない場所

変化する存在が居て、それに気づく存在「アイアム」がいます、、変化はアイアムの中で繰り広げられるわけですがこのアイアムを生み出す場所こそが絶対の場所、空です。空の場所から色(森羅万象)が生まれ、、、それに気づく存在(アイアム)が生まれます、、

アイアムも空の投影

アイアム、、私が居るという絶対的感覚、、、この感覚は空の投影です、、何もない場所から鏡のようにこの存在が現れました、、、しかしこの存在には実態がなく、、、変化に気づくことで、、、気づきの意識としてそこに居ることを実感します。そしてアイアムが居ることでこれを生み出す場、空が再発見されるわけです。

他人の小賢しさといかに付き合うか

相手の小賢しさからエゴを見抜く

小賢しい行動をエゴは取り続けるわけですがこことどう付き合うかは重要になります、先ず一番重要なことはエゴの小賢しさと不幸をしっかりと見抜くことです、、エゴは小賢しさをフル発揮して生き延びようとしますが、、これが幸福に繋がっていないことを見抜くのです。エゴの小賢しさは幸福に繋がらないのです、本当に幸福になれていれば小賢しさを手放すはずです、ところがそうはならない、、、不幸の本質にエゴは切り込めないのです。

小賢しさには堂々とNOでいい

エゴは自身が小賢しさを駆使していること自体に気づいていません、ですからエゴと付き合う時にはこの小賢しさに付き合わなくてはならなくなります、、だからと言って小賢しさの被害にあってもいいというわけではありません。エゴを観察する存在、気づきの意識として明晰さの中で小賢しさをシャットアウトすればいいのです。無意識にとってくる相手のエゴの小賢しい行動に明晰さでもって堂々とNOと言います。

賢さで小賢しさをシャットアウトする

本当の賢さとは、、本質的に生きている時に芽生えます、、本質として生きるとは自我が偽りであることを見ぬき自我を観察する存在として生きることです。この時本質は賢さそのものですから他人の小賢しさを見抜くようになります、、これは生きにくくなるとも言えますが、、他人はその小賢しさに気付いてもいない、、ただ思考に飲み込まれそう動かざるをえないだけなのです、、すると他人の小賢しさに寛容になれます。

悟りなんて別次元の話でしょ、、、

自我は悟りを宇宙旅行ぐらいの話にしたがる

悟りなんて、、、宇宙旅行や、宇宙人に会った、、ぐらいの話にしたがります、、、、悟りなんて、、、どこまでいっても悟りをマジに話すことにしようとしません、、、この動きこそが自我の常套手段、自我の戦略、、、です。ですが、、、、悟りはあまりに近くに鎮座しています、、、悟りは今もここにあるのです、、、無視できない至近距離に、、、

私が居る、、、という絶対感覚

私という主語は横に置いておいて、、、居るという絶対的な感覚は誰しも持っています、、、この居るという疑いようがない感覚、、これこそがIAM、気づきの意識、大いなる存在です、、、この体のことは忘れることはあっても、居るという絶対感覚が無くなることはありません。この感覚の中に全てが起きているという絶対気づきが起きるのが悟りです、、、、体の中の自分に起きているのではなく、、、、体の外に絶対感覚を持つ存在がいて、、その中で全ての現象が起きています。

悟りのことは横に置いて、、先ずは現実を

自我は悟りを現実問題とは切り離そうとします、、、そうはいっても先ずは現実問題を、、、、です。ですが、、、現実と思っているこの問題こそが幻想なのです、、、この問題こそが、、思考の渦に自分を巻き込み、、偽りの自己を永続させる動きなのです、、、ここを見抜きます、、、ここで思考に巻き込まれないようにします、ここが勝負の分かれ目です。

苦しいことにホッとする

思考との同一化に安心する

信じられないことに、、苦しいことに安心するという状況があります、、、思考と完全同一化した意識は、、、、苦しいという感覚に安心します、、、、色々問題が無くなったりすると逆に不安になる、、、何か問題があるのでは???と必死になって問題を探すのです。思考している=偽りの自分の存続ですから、、こうなります、、、何か問題があるのでは????です。

人間関係も揉めることに安心する

人間関係に関しても、、、揉めていることに自我は安心します、、揉めるということは強烈に自分を意識できますから実は安心しているのです、、敵が居て自分が際立つわけです、、、ですから無意識に敵に飢えているわけです、、相手が気になるような言葉をかけることで相手の自我を刺激し、、敵になってもらえるように無意識に促すわけです、、こうして思考の渦にどっぷりと浸かっていきます。

問題があることを無意識に求める

偽りの自己が実は問題をかき集めています、、、問題が全部無くなってしまったら、、自分の存在価値が無くなってしまう、、、問題があればその問題を所有するのがこの偽りの自己だからです。。仕事が上手くいきそうになれば、、問題が起きるように導く、、、、こうして偽りの自我、自己は常に問題が起きるように起きるように動くのです。

状況を問題に変え続ける天才

自我というのは状況を問題に変える天才なのです、、、、無ければ無理やり作ってでも問題化していきます、、この動きに自覚的になることです、、、自我は思考が湧いてくれないと、、、存在が危ぶまれるために、、問題に飢え続け、問題を生産し続けるのです、、、この動きに自覚的になるのです、、気づきの意識として自覚的になっていきます、、、