欲望

江原さんもビックリ!自分の生存戦略

自分を存続させるためなら死後も操る

自分とは全体から自らを分けた状態のことです。この全体から分かれた自分はこの自分をどうしても存続したという衝動があります。なぜかと言えば全体から分かれた状態は実は不足感、不快感、喪失感の塊になるわけですがこれが自分の感情として起き上がる時にもっと食べたい、もっと安定したい、もっと有名になりたい、もっと人気者になりたい、もっと自分として認められたい、もっと自分を築き上げたいと、、、違う欲望に変換されます。これによって分離という状態を結果永続させることになっていくのです。これは何という皮肉、ブラックジョークです。ということでこの欲求を持たすべく自分は自身の永続を願うようになっていきます。ただしこの体は永続ではないためいずれ死が訪れます、これが自分の消滅になるはずでした。ところがこの自分の思考は諦めません、自分というのは死後も永続できるという思考を持つことに成功したのです。そもそもこの体の中に自分がいるというのも「思考」です。この思考にオプションを加えて死後も永続できるという思考に切り替えました。この思考が肉体の死も全体から湧いてくることで「自分」は次の体を確保します。

江原さんのように思考のエネルギーを見れる人がそれをみると、、、

霊能者と呼ばれる人々は感情や思考など一般人には視覚化できないエネルギーを視覚として見える人々だと思います。この思考「自分エネルギー」を視覚から読み解いて人に伝えているのだと。これには欠点があり死後も自分が永続できるというアイデアを持った自分は必ずこの思考を自分に取り込むようになります。結果輪廻転生が自動的に行われるようになります。この部分に関しては自身もまだ調査中でいずれしっかりと解明したいと思います。

釈迦は言った、良い輪廻転生をしようではなく「解脱しかない」

お釈迦様も全体の表現でしかないので人間という実在ではありません。ですがこの全体の表現(釈迦)は良い輪廻転生をしよう!とは言っていません、「人間が苦から解放されるには解脱しかない」です。この自分劇場を終わらせる以外に苦からの脱却はないと説いています、これは刹那的、逃避的意見に聞こえるかもしれませんが私は真実を突いた優しいメッセージだと思います。もっと頑張ろう、いずれ幸福になれる、夢を持とう、、、というのは自分が大好きなメッセージであり的を外しています。これをイエスキリストは原罪と称しました。

人間関係のコツ、無我になる

人間関係とは自我と自我の交流

人間関係とは自我と自我の交流です、これが一般的です。自我と自我の交流、これを釈迦は地獄界、餓鬼界、畜生界、、などと説いて人間とは苦と説明しました。自我とは不足感、孤独感、欠乏感製造機です。この自我同士が交流すればどうなるか?交流を通じてお互いの不足感を補おうとします。つまりそこには利害がベースになるのです。人間関係は疲れる、これは当たり前のことです。自身の不足感を補うための人間関係ですからそこは苦しみの世界です。

その場で無我になれる人は人間関係が楽になる

無心、無我、無思考、完全燃焼、、、、行動でその状態になれる人は、、人間関係を使って不足感を埋めるという欲望が減ります。無心になって何かに取り組める人は、人間に頼る必要がなくなっていきます。そこには損得が発生しないのです。あえて言えばいかに無心に入るか、完全燃焼できるかの情報交流だけが楽しみになります。自我と自我の交流とは利用しあい、損得、孤独感の埋めあい、これがどこまで行っても土台になります。

年齢を重ねるほどに無心、完全燃焼に入る感覚を掴む

自我を大きくしていけば人間関係は地獄界、餓鬼畜生界のままです。自我を小さくしていく方法を学んでいけば人間関係は悟り仲間になります。いかに無心、無我、完全燃焼(自我)になれるかをコミュニケーションの基本にしていきます。自我の影響とは孤独感全開です。無我を知れば孤独感も減っていきますから人間に対する渇望も減っていきます。

都会とは何か?

人間の欲望を叶えてくれる場所

いつの時代も若者が目指すのは都会です、都会とは人間の欲望を叶えてくれる可能性を感じさせてくれる場所です。多種多様な仕事、多種多様な人々、多種多様な生き方、多種多様な遊びを可能にしてくれる場所です。一方でこれは夢です、神が見る夢です。神が人間扮する主人公を演じる夢です。それゆえ人間は欲求不満を抱え自身の欲求を満たしてくれるだろう場所を目指します、それが都会です。都会は確かに若者の欲求を満たしてくれる要素はあります、あらゆる可能性を提案してくれます。ですがここでいかに欲求、不平不満を満たしても満足することはありません。目の前の欲求を満たしても直ぐに次の欲求が襲ってきます。それは神が人間に扮しているからです、人間の狭さ、弱さ、小ささに神は辟易しています。これが人間の欲望のメカニズムです。

都会であらゆる欲望を叶えたら

一方、都会はあらゆる欲望を積極的に叶えれる場所でもあります。地位名誉、仕事に異性、あらゆる欲望を叶えることができる場所であることに間違いはありません。ということは逆に言えばあらゆる欲望を叶えても人間は至福に至れないことを体験できる場所でもあります。あらゆる可能性を達成できるということはその時の人間がどのような感情に至れるかを体験できるのです。これは釈迦が王様から山に籠ったことに近い状況です。釈迦とは一国の王であることに辟易しそこから悟りに入りました。都会は釈迦の境地に至るのに近い状況を作れます。

欲望を叶えた後に分かること

神が人間に扮している限り欲望に限りはありません。神は神に戻る以外に欲求不満が癒ることはありません。神が人間に扮していればあらゆる不足感、欠乏感、孤独感、欲求不満が襲っていきます。都会とはこの欲求不満に正々堂々と向き合える人が集まる場所とも言えるでしょう。勿論それも夢ですが。欲望を否定して無いものにするよりも欲望を欲望と捉え満たしていくことで無限地獄の仕組みに気づきそこから夢から覚めるのも一つです。釈迦はそれを行いました。

人間とは神の欲望体験機

神では経験できないことを代わりに体験する道具

体験という言葉が非常に的を得ているのは、人間が行う経験は全部体験に決まっているわけでこの言葉に体が入る必要は本来ありません。ですがなぜ体験という言葉が存在するのか?それはこの現実が神の見る夢であり神が人間体験をしている場所であるということです。現実という言葉もやはり的を得ていて実が現れると書きます。現れるとは夢の中であらゆる登場人物、状況が現れることです。夢だからこそこの現れるという表現はベストです。神が人間としてこの現実を体験する、それが神の夢です。

神はそのままで完璧故に欲がない

神は完璧です、ゆえに何かになりたいとか何かを叶えたいという欲が湧きようがありません。だからこそ神が夢を創造しその中に人間という主人公を起きました。この主人公は神に比べてひ弱で、脆弱、知能も低く、想像力も低い、、ということで神は初めて欲を手に入れることができたのです、より強いもの、より優秀なもの、より大きなもの、より創造的なもに対してです。人間という体を自身と勘違いできている間はこの欲望をベースにした人生を歩むことができるのです。

この事実を分かったところで一体どうすればいいのか?

人間の欲望に限りがなくだからこそこの人間物語は延々と続いて行くわけですが、では今後どうしたらいいのでしょうか?私が推奨するのはこの欲望を叶えることで逆に神になってしまうということです。欲望を叶えることに無心、無思考になることで人間であるための条件、思考を抜け落としその場で神に戻ってしまうということです。神の人間体験を利用して神に戻るのです。意識を今に集中することで時間の世界(夢)から抜け出し神になります。神と人間を往復します。ほとんどの時間を神で入れる人間を覚醒者などと人は呼びますがメカニズムを知れば誰でもできます。TVゲームに集中している子供はその場で神になっています、思考が抜け落ちていますから。大人はこれを意図的に行います、大人はこれを積極的に行うことができます。

欲望を安易に無視をしてはいけない

欲望とは神の渇望

これは夢です、神がみる夢です。この夢の中で神は人間(主人公)に成り切りこの夢物語を歩んでいきます。全治全能の神が人間という無知無能に成り切るわけですから強烈な不足感が湧いてきます。この不足感を経験しているのは人間扮する神です。この不足感を変換したのが人間の欲と呼ばれるものです。ですから欲望を無視するという作戦は失敗に終わります。仏教では足を知るという言葉で無欲を勧めますが上手くいかないのは当然です。欲の出どころを掴んでいないからです。

欲を安易に無視すれば欲に破壊される

人間扮する神が感じる不足感が変換されたものが欲ですからこの欲は延々に湧いてきます。欲が収まるわけがないのです。若者達の間で悟り世代といって無欲な若者が増えているという話も聞きますがPC、スマホ、タブレッドなどが普及して安易に欲を満たすことができているからだと思います。人間の欲望の根源は神から湧いていますからその欲が少なくなることはありません。ですから自分や欲が少ないと思って欲を無視し続けると無自覚に欲求不満が膨れ上がりいずれ潰されます。

この人生は欲望をいかに昇華し充実に持っていけるか

欲望は人間扮する神から湧いていますからこれを人間が止めるなどできません。どのような欲が湧くかもコントロールできるわけがないのです。そうならば逆に欲を肯定的に受け止め欲を満たすことに集中することで無心に入る、無思考に入る、無我に入ることが重要です。集中して欲望を叶えていけばそこから無心、無我、神に戻ることができますからその場で歓喜、安堵、平和になれます。欲望を積極的に叶えることでそこから神に戻るということです。

神は夢の中で天使や守護霊を創造しこの夢をエキサイティングにする

天使や守護霊は本当にいるのか?論争

これは夢です、神が作った夢です。神はこの夢の中に主人公(人間)を作りその人間に成り切ることでこの夢をスタートします。ただし神は神ですから人間に成り切っても本当は神です、そのため人間に成り切っている期間は不足感が滝のように流れてきます。欠乏感が嵐のように吹いてきます。これが人間という生き物の人生が苦と呼ばれる所以です。神の人間活動は苦しいので神はあらゆる欲望を叶えていきます、特に若い時期は現実的欲望を叶えていきます。ファッション、スポーツ、恋愛、受験、就職、、、と目に見える世界で欲望を叶えていくことでこの不足感を埋めようとしていきます。これらの欲望を叶えても不足感が埋まらないと気づいた人間が次に精神的欲求を叶えていきます、信頼、人格、承認欲求、好きなことで食べるなどです。それでも不足感が埋まらないと感じた人間は次に異次元のことに興味を持つのです、守護霊や、天使、などなど。

それらが居るという情報を心底信じた時にそれが現れる場合もある

これは神が作った夢です、夢ですから何が登場してもなんら不思議ではありません。天使や悪魔、守護霊に、天狗、、と異次元の存在を人間の目に見える形で表現することもあるかもしれません。ですがこれらも結局は神の夢の創造物に過ぎずこれらを信じても欠乏感が埋まることはないのです。何度も説明しますが神が人間に成り切っているからこその不足感を天使や守護霊、天狗や竜神が埋めてくれることはないのです。この不足感を埋めることができるとしたらそれは神が自身が神であったことを悟ることです。これしかありません。

高い壺、高い水晶、高い厄除

壺、パワーストーン、水晶、厄除、、、、これらの高価なアイテムが効果がないとは言いません。もしも自身がそれらに精通すれば効果を出すことは期待できます。ですがこの効果でいかに何かを達成したとしてもそれで人間の不足感が満たされることはないのです。それによって人気が出ても、それによって収入が増えても、それによって恋人ができても、、、全部これらは一時的な欲求達成でありそれでも人間からは不足感が吹き出てきます。不足感を生み出すメカニズムこれを理解することなく延々とお金を使って解決を求めれば無限地獄が続きます。

神はこの夢の中で人間に達成感という褒美を与えた

達成感とは小さな悟りである

これは夢です、神が作った夢物語です。この夢の中で神は人間を作りこれを主人公にしてこの物語を形成します。この夢物語はバーチャルリアリティーですが人間に成り切った神はこの物語の中で不足感を生産し続けこの不足感をあらゆる感情、欲望に切り替えそれを満たすために彷徨っていきます。神がこの小さな体である人間に成り切るわけですからそのストレスは尋常ではありません。そのストレスをあらゆる形で解消しようとする試みこそが人生です。希望大学に受かる、希望会社に受かる、希望住居に住む、希望の相手と結婚する、希望の年収を得る、、、ありとあらゆるこれらの目標は達成することで抱えたストレスを一時的に取り去ります。人間であることで生まれるストレスを一時的に消し去るのです、その瞬間だけは神が神に戻るのです。

悟りとは神が神に戻ること

悟りとは人間が神になることではありません。人間に成り済ました神が神に戻ることです。人間というバーチャルリアリティーにどっぷりと浸かった神が神に戻ること、バーチャルリアリティーから覚めて神に戻ることを言います。人間という役柄が抜け落ち神に戻ることを覚醒、悟り、ノンデュアリティーと呼びます。もしくは解脱です。人間という仮想の実態、マリオ、ピカチュー、から神に戻ることです。

達成感を通じて神は神に戻る準備をする

達成感とは人間に成り済ました神が、不足感を何かを成し遂げることで埋め、一時的に神の状態に戻ることを意味します。人間とは不足感製造機でありこの不足感が一時的でも解消された時は神の状態です。安堵、平和、歓喜です。この状態をどうしても再び感じたい人間に扮する神は目標を達成することでそれを成し遂げるのです。人間という形を取る以上次の瞬間からまた不足感が湧き出てきますから神に戻るのは一瞬です、、ですが自身は実は神であったという感覚をその瞬間思い出します。人間が達成感中毒になるのは神中毒のことです。人間は神中毒になることで神に戻る準備を重ねます。

夢の中で本当に目指しているのは戻ること

あらゆる欲望、目標は全てこの代替品に過ぎない

双対の世界に「私」は誕生しそこからこの私は色々と動き回っています。なぜかじっとしていられない、、、中から衝動が溢れてくるのです。退屈、暇、刺激が欲しい、安定が欲しい、認められたい、、何処かに属したい、、好きなことをしたい、、目立ちたい、認められたい、、、このような欲、目標が泉のように湧いてくるのです。どこまで行ってもこの欲がなくなることがなくこれを釈迦は「苦」と表現しました。この表現は人類で初めて真実を突き止めた人と称されるのは理解できます。ただし釈迦、ゴーダマシッダルータも夢の登場人物に過ぎないので人間ではありません。大いなる一つが人間錯覚ゲームをしているのですから不足感が湧くのは当然のことです。

自分がなぜここまで欲望につき動かされ続けるか分からない

希望の大学にさえ受かれば楽しくなるはず、希望の会社に就職が決まれば楽にらるはず、結婚相手が見つかればこの孤独感はなくなるはず、、人間はあらゆる目標を設定しそれが成し遂げられた暁には今の問題は消えてなくなると信じます。ところがそれが成し遂げられても一瞬で次の苦しみが襲ってくるから面白いものです。人間とはこのようにラットレースに乗せられ続ける存在なのです。それは私をこの体(人間)思考であると錯覚することからスタートします。

先ずは欲望に騙されない、、ここから深刻人生から脱却する

これは夢です、そしてその夢の中にいる時苦しみが湧いてきます。夢の中に自身はいるんだと勘違いし続けている間だけこの苦しみが湧いてきます。そしてその苦しみを解消するためにあらゆる欲望が湧いてくるのです。大いなる一つに戻る代わりにあらゆる欲望が湧いているのです。この事実から逃げなければもう欲望がそれを叶えてくれるとは信じないはずです。湧いてくる欲望に振り回されるのではなく欲望を通じて無心に入る、無思考に入る、もしくはこの事実を直視するという次元に入ります。

思考の優劣という不毛な勝負から抜ける

人間ゲームは思考の優劣勝負

これは夢です、ワンネスが見る夢です。この夢の中では登場人物は思考の優劣勝負を頻繁に起こします。偏差値勝負、学歴勝負、要領勝負、出世勝負など、、これはどれも思考の優劣を勝負しているようにも見えます。この思考勝負の弱点は思考こそがこの自分(主人公)を夢の中に閉じ込めるツールだということです。思考を駆使すればするほどに自身をこの夢に閉じ込めます。夢の中は不足感、欠乏感、孤独感を湧き出し続ける空間です。時間、空間の世界とは不足感製造時空間なのです。

思考は観念であり夢物語を書き換える

これは夢です、その中で思考はこの夢物語の書き換えを行います。この世界はこうなっているという思考はそのままこの世界、夢を書き換えていきます。ですから思考には力があります、思考とはそのような力があります。ですがこの夢物語に居る間は不足感が湧き出してきます。それがあらゆる欲望に代替され人間はその欲望を叶えるために動き続けるのです。どこまで行っても夢物語の中で至福に至ることは絶対にないのです。常に欲望を叶えるために動き続けるのがデフォルトです。

崇高な欲も下衆な欲も所詮はワンネスの代替品

これは夢です。そしてこの夢の中にいる限り不足感を湧き続けて生きていきます。この不足感はあらゆる欲望として代替されていきます。ワンネスが見る夢ではワンネスは人間に生まれ変わっているのですが同時に不足感を抱えます。広大無辺なワンネスがちっぽけな人間としてこの夢を生きるのですから当然です。そうなると人間はあらゆる欲望を抱えることになります、ワンネスの代替品を求めて日々動き回るようになるのです。その欲望は崇高なものから下品なものまで様々でしょうが全てはワンネス、大いなる一つの代替品に過ぎません。

自我と自我のお喋りが無駄に思えたら

登場人物同士の会話に勿論意味はない

夢物語の中での醍醐味の一つが他の登場人物との交流があります。他愛もないお喋り、これは分離する前の全存在には不可能なことゆえに他人がいるという錯覚はこの夢物語を刺激的にしてくれる大きなファクターです。他愛もないお喋りすら分離経験上エンタメです。ですがこのエンタメもひとしき行えば途中で飽きてきてもおかしくありません。その時はもうこの遊びは卒業、次の遊びへのシフトが始まるはずです。

他人とのコミュニケーションはそれほど重要でもない

友人は多ければ多いほど素晴らしい、友達100人できるかな、、あれは幼稚園児の話であってその遊びがそのまま大人にまでなっても楽しいとは限りません。これは夢物語ですから友人をたくさん作ろうという思いが湧けばそれもそれ、友人をたくさん作りたいという思いが湧かなければそれもそれです。夢物語の中でどうやって自身から湧いてくる欲望を叶えていくかは登場人物によって全く変わってしまうのです。

コミュニケーションは自分がいることを腹落ちさせてくれる

この夢物語においてコミュニケーションは登場人物の存在を確固なモノにしてくれます。夢ですから本当は確立した登場人物は存在しません、だからこそ他人とのコミュニケーションはその不確実性を払拭してくれるように思えるのです。深いコミュニケーションと同時に湧き上がる安堵の感情は自我を安堵させるとともに、実は相手に向き合うということに無心になれたときに訪れる無我からくる安堵です。コミュニケーションも無心になって相手と向かい合えばそれはコミュニケーション道に入ることができます。そこでは虚しいおしゃべりではなく人間関係道があります。そこからでも無心、無我、真我に入れます。