意識

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。

全人生に失敗は一日もない

生まれて死ぬまで失敗は存在しない

全ての思考、感情、行動が、、真我からの起こりならば、、、失敗というのは存在しなくなります、、見かけ上の「私」が世間的には失敗したように見えても、、それはただ起こっただけということになります。世の中に失敗という概念があるのは自由意志が存在すると信じているからこそです。もしも自由意志が存在しないのならば、、失敗という概念はなくなります。

生まれて死ぬまで成功も存在しない

全ての思考、感情、行動が、、、真我、根源からの起こりならば、、、成功も存在しなくなります、、、成功は比較で起こりますから、、、出来事が全部真我からの起こりであるならば、、、実在の成功者というのは居なくなります。。自由意志がないにも関わらずあの人は成功者だ、、、という認識が起きない。。。成功者という概念が途端に稚拙に思えてくる、、だって個人が成功させたわけではないからです。

全人類の解放

悟りとは全人類のパラダイムシフトです、天動説から地動説にシフトしたように、、、自己意識が超意識にシフトする、、、自己意識から自己が抜け落ちる、、、意識そのものになる、、、これが人類に起き始めます。生死は決して怖いものではなくなり、、、この体の消滅でしかない、、意識は何一つ傷付かず、、意識のまま、、我々は個人を意識していた意識そのものだったという気づきが起きます。

集団意識とエゴ

集団意識とは?

集団意識、、これは人類の歴史からくる、、記憶の集積場、、あらゆる人が経験した記憶が集まる場所です、、ここに脳がアクセスしますと、、その記憶の影響を受けます、、、例えば日本人独自の恐怖心、、この影響を受けるのです、、、なぜ会社を辞めて好きなことをできないか?集団意識からくる恐怖心の影響を受けます、、、ここを乗り越えるには集団意識のカルマを超越する感覚が必要になります。

本当の自由とは

本当の自由とは、、集団意識を超越する必要があります、、、毎日会社に行って真面目に働かなくては、、、この集団意識の影響を脱出するにはそれを超える感覚を所有する必要があります、、今にいる時、、恐怖心を超越できます、、思考を観察する存在として居れる時に集団意識の影響から脱出できます。朝起きて寝るまでを瞑想状態で過ごせる時に集団意識の影響を遮断できます。

自由が私を再発見する

本当の自由とは偽りの自己が実は居ないという再認識です、いつも瞑想状態にあり、、偽りの自己に支配されなくなると、、、自由が私を解放してくれます、、、本当の自由とは自分そのものであり我々は自由であり明晰であり静寂です、、、、これが我々の本性です、、これを思い出すには思考に支配されない生活を取り戻すしかありません。

悟りとは思考の存在に意識的になるだけ

思考をどう扱うか

悟りとは思考との付き合い方である、、、そう断言してもいいぐらいに思考に左右されます、、、、というのは多くの方は思考癖がついて自分が今思考しているという事実に気づいていません、、、つまり思考に意識的であるということは、、、その時点で思考を観察する存在、、気づきの意識、全体、神に戻るということなのです。

思考を野放しにしない

思考の存在に対し意識的である、、、たったこれだけで、、、常に静寂、平和、歓喜に包まれます、、、こんな簡単なことで、、なぜ???そうです、、、我々は意識そのものであり、、静寂、歓喜、平和そのものなのです、、だから簡単にその境地に行けるわけです、、、ところが思考に簡単に取り込まれてしまうことでこの座を受渡してきたのです。だから幸福、至福を追い求めるのです、、おかしい、、そんなに遠い場所にあるとは思えないんだけど、、と。

絶対幸福が遠い場所にあるという罠

絶対幸福は遠い遠い場所、一部の一部の成功者だけが手に入れるもの、、、この発想が実は罠です、、、そうなるために思考をフル回転して、、獲得しましょう、、、全部罠、、、、絶対幸福とは、、思考に取り込まれていない状態、、ただそれだけ、、、、思考の発生に意識的である、、、ただそれだけで成就していしまう、、なんじゃそりゃです、、、、何も達成する必要もなく、、何も成就する必要もない、、、ただ思考に対して意識的であるだけ、、、それだけです。

思考が湧いたら気づきの意識に戻る

思考はただ湧き続ける

思考はただ湧いてきます、、、エンドレスに、、、思考が湧き上がることはこの体を持つ以上当たり前のことです、、、ですがこの思考が湧くことに無抵抗のままだと独り言を一日中話す老人と同じになります、、、これは苦しい人生へのシフトです、、、思考が湧いたら、、その思考を観察する存在になります、、思考を観察する存在とは気づきの意識です。。。これを癖付けします、、これを新しい習慣にします、、気づきの意識に1日に何度もシフトします。

気づきの意識へのシフトに思考も動く

最終的には思考は、、、気づきの意識へのシフトにも動くようになります、、、気づきの意識そのものならば、、どうしたら気づきの意識そのものとして生活できるだろうか???と思考が湧き始めます。関心の全てが気づきの意識になっていきます、、、そりゃそうです、、、この体の中に自分が居ると信じ切っていたのに、、違ったのです、、、今更今までの自分のために活動していられるか???という話です。

気づきの意識万歳、思考万歳

気づきの意識にシフトが起きますと、、、思考は気づきの意識の道具として気づきの意識の衝動を支える仲間に戻ります。。。機能としてのこの体の役割を支える道具に戻ります、、次に何をしよう、これをしよう、、明晰な頭脳で、、ミッションを遂行していきます、、、もはや思考は現状維持の機能ではなく、、目標達成のための機能になります。

自分は今疲れている、、と気づきの意識が気づいた

全部が全部

全部が全部このパターンです、、気づいているのは全て気づきの意識です。私はコーヒーが嫌いだとう思考が湧くのを気づきの意識が気づいた、、、、私はりんごが好きだ、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づいた、、、、です。。。この自分は、、、どんな思考が湧いても、、、それに気づくことはできません。気付くののは全て気づきの意識です。

あの人は元気だなー、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づいた

人のことも全部コレです、、、、あの人っていっつも元気だよなー、、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づきました。あの人って性格悪いよなー、、、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づきました、、、という感じ、、、そうです、、、全部気づきの意識の中で気づかれているのです、、、、この神羅万象は気づきの意識が気づくためのステージなのです。

だとしたら、、、目の前の体調が悪そうな老人の感情は??

目の前に老人が居て、、調子が悪そう、、、そのことに気づきの意識が気づいています、、、映像として、、、ですが老人の感情は分かりません、、、そうなると気づきの意識はそこは気づかないのか???そうです、、気づきはありません。。。。え???調子が悪そうに見えているだけで実際には老人に感情はないのか???はいありません、、あれば気づきの意識が気づきますよね。。。。

究極の諦めは気楽、、、

究極の諦めです、、、目に入る周囲の人々の感情は実在していない、、、芸能人が、、、TVで謝罪会見、、、ですが感情は実在していない????例えばVTRであれば当然、、映像のみですから、、見た瞬間には感情は湧いていませんよね、、、、ですがこれが生放送でも同じことです。。。これで他人のことを深刻に考えるのが不可能になりました。

瞑想で気づきの意識そのものになる

気づきの意識に目的はない

何かのために瞑想をする、、瞑想をして元気溌剌、、瞑想で願望実現、、、、、そういった瞑想の使い方もあるかもしれません、、、ですが瞑想とは自身が気づきの意識であった、神羅万象そのものであったという気づきです。集中とは、、、自分など最初から居なかったという気づきです、、、、瞑想は、、、集中とはまた違う形での、、、自己実現、、、瞑想そのものが、、、至福、、静寂です。

とりあえず、、瞑想しよう

色々嫌なことが1日中あったけど、、、とりあえず瞑想しよう、、、瞑想に帰ろう、、、です。。目を閉じて現象の世界を締め出し、、、気づきの意識そのものになるのです。。。感覚、意識だけになります、、、本当は気づきの意識しかなく、、、そこに戻る感覚です。1日に何度もここに戻ります、、、すると、、、現象界で起こる様々な事件に深刻さを感じなくなっていきます、、、これは、、、頭で考えるのではなく、、、そう感じるようになっていきます。

これが夢だと見抜いていく

これが夢だと見抜くためには真実に触れる意外に方法はありません、、真実に触れれば、、、これがファンタジー、夢であるこちが腹落ちします、、、夢だ、夢だ、夢だと、、、、1万回説明を受けるよりも、、、真実に触れる、、、真実になってしまう、、、これ以外にこれを夢だと見抜く方法はないのです。。。。何かに集中することは、、、まさにその一つ、、、そして目を閉じて、、、全く対象のない世界(ノンデュアリティ)に直接触れるのも一つです。

意識が昨日は無かった?

意識がない、、、

朝から意識がなくて、、、昨晩は意識の調子が悪くて、、、聞いたことがありません、、意識とは熟睡状態以外は必ず感じているはずです。本当は熟睡状態も意識はあります、ただ記憶がないだけ、、、調子が良いという認識、調子が悪いという認識、、、これぞ意識です、、気づきの意識です、我在りです、全体です、、、

この意識を、、自我が取り込んだ

この絶対的な認識、、気づき、、これを自分が、この体が意識している、、と思考する、、意識する、、のがこの自分劇場の始まりになります、、この自分が、、TVを見ていることに気づいている、パソコンを見ていることに気づいている、、アタッシュケースを見ていることに気づいている、、椅子に座っているのに気づいているとなります、、、違います、、、全部、、意識、気づきの意識、我あり、、が気づいているのです。

アタッシュケースを見ているだけなのに、、静寂

ただそこに在るアタッシュケースを見る、、その時にこの自分が見ているという思い込みを外します、アタッシュケースに気づきの意識が気づいているのを感じます、、気づきの意識としてアタッシュケースそのものになります、、すると静寂もそこに在るのに気づきます、、この体の手も視界に入るかもしれませんがそれはボヤけています、、焦点が合いません、、これは3D映像です。

アタッシュケースが在る、、、から

アタッシュケースが在る、、、このことに気づきの意識として気づく時、、静寂に包まれます、、そしてさらにそこにはアタッシュケースという名前すらなかったという気づきが起こります、これはこの静寂が導きます、、、ただ現象だけがあります、、空から浮かび上がる色です、、そしてそこに気づく空(気づきの意識)

天才画家は、、、

天才画家は空そのもの、気づきの意識そのものとしてアタッシュケースが在るに気づき、、さらにアタッシュケースという名前すらないに気づく、、そこにはただ生命現象、色が在ることに気づきます、、アタッシュケースとそれ以外の区別差別もなくなり生命現象そのものを画くが起きた、、そこには画家という存在は居ない、、描くという動詞も外れる、、色の生命現象としての動きが在った、、、

意識はたった一つにしか意識できない

意識は意識ゆえにたった一つのことしか意識できません、、今しかないこの瞬間は今何かに意識するのみです、、アタッシュケースをただ見る、、そこに自分を介在させないでいると、、アタッシュケースが在るに変わります、、主体客体が外れます、、そして本当は見る者など存在していません、、すると静寂そのものになります、、

全ては気づきの意識の中で起きている

気づきの意識の中以外では何も起きない

何かが起きた、、全部気づきの意識が気づいています、、、鳥が鳴いた、、、音を気づきの意識が気づき、、鳥という名前が気づきの意識から湧き上がりました、、それを私が見た、、という気づきが起こりました、、ただそれだけ、、、あらゆる生命現象に、、名前が湧き出すことで、、そこにドラマが起こります、、気づきの意識から、、生命現象も、、名前も気づきの意識から現れては消えていきます。

私が今歩いている

ただ揺れ動く生命現象が起きています、、そこに私という名前が気づきの意識から湧き上がり、、私が歩いているという思考が湧き上がり、、、花、、信号機、、カフェ、、と次々に名前が気づきの意識から湧き上がっていきます、、移り変わる生命現象に、、同時に名前が湧き上がるのです、、、これで私が歩き、、様々な物を見ているというドラマが起きるのです。

公園を歩くだけで

公園を歩くだけで、、、様々な生命現象が移り変わり、、、そこに名前が湧き上がる、、、すると猫、木、子供、老人、、昆虫が湧き上がってきます、、、最初に生命現象だけがあります、、次に「私」、、、猫、木、子供、老人、、、と名詞が付いた独立分別した存在が登場するのです、、、名前が全くついていない生命現象に、、、様々な名前がついた登場人物が登場します、、、

名前が付いたから登場した

名前が付いたから全部登場しました、、この私も、、猫も、子供も、、バッタも、蝶も、、木々も、、花も、、名前が付けられて初めて登場できます、、、気づきの意識が気づけるのです、、、そこに意識を向けることができるのです、、、名前が付いていないものには焦点が合いません、意識が集中できません、、この私が歩き、猫、バッタ、、蝶、、を見ているという錯覚を起こせるのは、、、気づきの意識が私にフォーカスし、猫にフォーカスし、蝶にフォーカスしたからです、、、気づきの意識の中に現れる移りゆく生命現象に対し順番に意識を向けているだけです。そういう意味では何も起きていない、歩いてもいない、、

今意識がある、、この意識が「自分」を意識することで苦しみが生まれる

自分という名詞を意識する気づきの意識

私を意識する気づきの意識、、自分を意識する気づきの意識、、〇〇○太を意識する気づきの意識、、、気づきの意識はたった一個しか意識を向けることができません、、、私に意識をすればそこにのみ意識が向きます、、、あらゆる経験は本当は気づきの意識がしていますが、、その経験の全てはこの私に意識が向いていきます。。。経験をしたことになった、、、私に意識が向くのです、、、

本当は経験しかないことに気づきの意識に気づかせる

目を閉じてコーヒーを飲めば分かります、、そこには飲む自分もコーヒーカップも存在せず、、、何かを何かが「感じる」しか存在しません、、何かは実はなく、、感じるしかないのです、、、どの辺り、、口になりますが、、それもないのです。口は名詞です、、、感じるは動詞です、、、感じるもない、、、経験しかないのです。。。経験も名詞、、経験という名前をついていない、、気づきがあるだけです。気づきの意識の気づきしかないのです。

これしか常にない

目を閉じて歩けば、、、足のアスファルトを踏み締める感覚だけがあります、、ですが足というのは名詞です、、アスファルトも名詞です、、ただ踏み締めるだけがあります、、、踏み締めるは動詞です、、ただこれがあります、、、、自分があらゆる物、人に囲まれてあらゆる経験を積んでいると思っていますが事実はこれしかありません、、気づきの意識がこれに気づいているだけです。気づきの意識がこれに気づくだけ、この世界に苦しみが湧きようがないのです。