思考

神は夢の中で両親を作るがこれも夢

最重要脇役ですら夢の登場人物に過ぎない

これは夢です、神が見る夢です、神が人間(私)を主人公にして人間に成り切る夢です。人間の五感を利用してバーチャルリアリティーゲームを構築します。目がなければ見える物体は存在せず、耳がなければこの世に音楽は存在しません、触覚がなければ硬質の石も存在しません。つまり五感の存在=世界の多様化です。そこに思考、感情を加えることでバーチャルリアリティーショーに多様性を加えました。思考が変わるとリアルにこのバーチャル世界も変容します。神が作った夢、ゲームは複雑怪奇、多様性の鬼です。主人公として生まれてきた時に両親が存在しますがこれも夢の中での登場人物に過ぎません。両親という個別の独立した実在はいないのです、これは夢です。実在しているように間違いなく見えますが夢の中でという条件付けです。

両親絶対説の誤り

両親すらもこの夢の登場人物に過ぎません、登場人物ですからそこには個別性や独立性などあるわけがありません。夢の中の登場人物がもしも実在しているならばあなたが毎日みる夢にその実在は毎回現れなくてはなりません、ですがそのようなことは絶対にありません。これは神がみる夢ですからここの出てくる登場人物に実在はないのです、体に触れようが、話しかけれようが、声を聞こえようが、、、です。どんなに愛情深く、理解力のある両親に恵まれてもいずれその場所を離れたくなるのは本当のリアリティーがないからです。

溺愛してくれる両親がいて溺愛する子供に恵まれても、、、

この夢は神が見る夢であり神が主人公である人間になりきって人間活動をする夢です。神が人間になった時点で不足感全開、欠乏感全開です。だからこそ溺愛してくれる両親がいても、溺愛する子供たちに恵まれてもそれでもこの不足感は無くならないのです。妻からもっと理解されたい、子供たちからもっと評価されたい、会社でもっと出世したい、、愛人も欲しい、、、こんな調子で不足感は変幻自在に感情として出現します。

神は人間に成り切ってはいるが「私はある」というこの感覚は神の感覚でしかない

今ここに「居る」という感覚は神の感覚

これは神夢です、神が創造した夢です。人間を主人公(私)にしてこの夢を創造しました。神は人間に成り切ることでこの夢はスタートしていますがでは神感覚と人間の感覚はどのように区別すればいいのでしょうか?区別はできません、なぜならば人間も神の創造物だからです。思考が湧き、感情が湧き、五感を感じているのは全て人間扮する神です。神が今この瞬間も自身を人間と勘違いしながらこの夢、ゲームを堪能しているのです。

この世に苦しめる神など存在するのか?

この人間活動を認識しているのは神ですから苦しみも切なさも、息苦しさも、孤独感も神が感じています。人間のフリをして。神以外が認識することはできません、人間とは姿形の生命現象であってこれは独立したものではありません。神がこの夢の中を活動するための仮の姿です。マリオに感情はありません、マリオを使ってゲームをクリアした時に喜んでいるのはプレーヤーです。これはこの夢物語でも同じです。マリオを使ってに喜怒哀楽は全部プレーヤーが感じているのであってマリオではありません。マリオの使い勝手の悪さも、マリオのジャンプ力の低さに対する苛立ちも、マリオが横にしか動けないもどかしさも全部プレーヤーが感じています。

人間としての孤独感は、一番の勘違い

人間活動の最も大きな要素は孤独感をいかに感じないようにするか?これをクリアするために朝から晩まで我々は人と触れ合い続けています。どんなに人間関係が苦しくてしんどくても我々は人間を求めます。神が作ったこの夢で主人公はこの私ですがそれ以外は全部神が作った脇役です。主人公とは全くの別物、別次元です。ですからこの夢の中で多くの友人、知人、家族に囲まれてもこの孤独感が埋まることはないのです。神が扮するこの主人公(私)が実は神であったと気づくまでこの孤独感は続きます。

神は夢の中で不足感を貯蓄していく

不足感を体に蓄え続けてコップをいっぱいにする

これは夢です、神が作りその中で人間を主人公にした夢です。この夢物語、ゲームは人間の五感をベースに構築します。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、、これらは幻想にリアリティーを与えるツールになります。そしてそこに思考、感情を加えることでこのゲーム、夢はより一層リアリティーを強化します。主人公である人間を演じるのは神ですから圧倒的な不足感を感じます、神が。ということで主人公演じる神は不足感をあらゆる感情に置き換えてそれを蓄えてこの人生を歩んでいくことになるのです。孤独感、劣等感、疎外感、憂鬱感、、、これらを記憶し体に溜め込んでいきます。大人になるにつれて重苦しい空気が出てくるのはこの感情の蓄積です。

感情の蓄積はある時に爆発する

人間に成り切った神は不足感を噴出し続け、それは各種感情として蓄えていきます。人間には記憶機能があるため過去の悔しさ、惨めさ、辛さを記憶していきます。不足感のデパート、冷蔵庫、貯蔵庫のようになっていくのです。この貯蔵タンクが満タンになった時、人は爆発しこれまでの生活を完全に壊すのです。それが転職だったり、離婚だったり、病気、不登校だったりします。この人間ゲームは記憶機能があることでよりエキサイティングになる一方、辛さ、キツさ、しんどさ、もより一層強化されます。

コップいっぱいになった時に、、、

コップいっぱいになった時に人間が行動できることは2種類あります。それは限界まで耐え抜き、弾け、壊れ現状をぶっ壊してしまう方法、もう一つが人間のこの欲求不満ゲームから積極的に降りてしまうということです。欲求を満たし続けても埋まらないこの不足感に脱帽し人間の本質、神に迫っていくという方法です。書道、花道、禅、仏教、悟り、ノンデュアリティーなどはそれに当たります。ほとんどの方はこの中間を行くことになります。

神は夢の中で人間に恋愛を与えた

恋愛とは人間の救済措置の一つ

これは夢です、神が作った夢です。神はこの夢の中に人間を創造し人間の五感を使ってこのバーチャルリアリティー、立体型3Dゲームを作りました。人間が触ればそこに物があるように錯覚でき、人間が目線を動かせば見える世界が変わります、人間が匂いを嗅げば何かしらの香りを錯覚できます。そこにさらに感情、思考を+することでこのゲーム、夢は完全無欠な状態になっていきます。誰もこれが幻想、夢、ゲームとは見破れません。全員がほぼ騙されます。神が作ったこのゲームを見破れる人間などいるはずがないのです。子供は実はこのことを知っていますが伝える言葉を持ち合わせていないのでこの事実は封印されているのです。オープンシークレットという言葉は絶妙にこれを言い当てます。人間という極小の存在に成り切った神は不足感、絶望感、欠乏感を感じ続けるということになるのです。この不足感を一時的に満たしてくれる存在、それが恋愛です。

恋愛は不足感を癒してくれる

人間が恋愛に憧れるのは、この脈々と湧いてくる不足感を癒してくれることだからです。自分を好きになってくれる存在がいる、、自分を必要としてくれる存在がいる、、これは根本的な不足感を一時的に癒してくれます。自分は一人ではない、、、この地球上で一人で生きていない、、このように孤独感を癒してくれます。全部(神)が一部(人間)に成り切っているので再び全部に憧れます、渇望します。それを癒してくれるのが恋愛です。

問題はそれでも不足感が沸き続けること

ただしこの夢、ゲームは容赦無く人間に不足感を感じさせます。この不足感は神が人間になってしまったという根本的不足感ですから恋愛で全ての不足を満たしてくれるわけがないのです。ということで人間はこの不足感を埋めるために次の目標を定めるのです、自分には子供が足りない、自分には家が足りない、、自分には車が足りない、、自分には孫が足りない、、このようにこのゲームは続いていくのです。最悪にもこの不足感を相手にぶつけると大変、相手の粗探しになります。もっとこうして欲しい、もっとこういう態度をとって欲しい、もっと収入の良い仕事に変えて欲しい、、これは破綻に向かいます。ベクトルが内に向くか、外に向くかの違いです。

神は夢の中で夢を見る

子供が見る夢とは本来の自分の姿とのこと

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間の体になりきり、同一化しこの夢物語、ハイスペックバーチャルリアリティーショーを始めます。神がドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーをスタートします。人間の五感はこのバーチャルを作り上げるための電気信号です、さらに脳が人間の行動、経験を記憶することでストーリー化するのです。記憶された経験からそれを価値観にしていき、そこから思考し、感情も生み出します。感情に関しては根底に不足感がありその不足感が他の感情に置き換えられていきます。神が人間という極弱の存在、極小の存在に成り切るわけですから圧倒的なストレス、不足感、欠乏感を感じ続けるのがこのゲームのデフォルトです。子供の頃は自身が神であったことを強烈に覚えていますから強い存在、スターに憧れを持ちます。夢の中で本来の自分を思い出しているのです。

小さい頃は神様がいて不思議に夢を叶えてくれた、、、

ユーミンの歌詞でこのようなものが曲がありましたが、これは真実、小さい頃は自身が神であったことを覚えていますから神として夢を叶えていきます。大人になると人間に成り切っていますから神であった記憶は遠く向こうに。人間活動に精を出すようになります。人間は努力すべき、人間はルールを守るべき、人間は人情に厚くあれ、人間は自由を守る権利がある、、、人間ルールにどっぷり浸かり始めますがこのルールは完全に的を外しています。

大人になって夢を諦めるのは自然なこと

大人になると大人しくなります、大人になると現実的になります、大人になると常識的になります。それは当たり前、自分自身が神であったことを完全に忘れていますからこの極小の存在、人間が自分であると腹の底から信じています。自信を失い、将来を失い、安心を失い、歓喜を失った状態、、これが大人の人間です。ですがそのような地に落ちた状態か少しずつ過去の記憶を取り戻していく、それが神が神を自覚していくことになります。なぜ子供の頃は毎日が新鮮だったのに今は退屈なのか?なぜ子供の頃は楽しい人間関係しかなかったのに今は間反対なのか?こうしてあらゆる疑問が自身の存在の秘密を解いていきます。

神はこの夢の中で人間を作り五感を授けた

人間は五感でこの夢を構築する

神はこの夢の中で人間を作り人間体験を積むことにしました。人間に五感+思考+感情という7つの感覚を授けこの夢を想像しその中での体験から思考、感情を湧き出すように設定しました。五感によってあたかもこれが先ずは現実であるかのように創造する超ハイスペックなバーチャルリアリティーショウを作り上げたのです。神が人間に成り切っているわけですからとてつもない欠落感、欠乏感が湧いてきます。神には人間は不自由すぎるのです。そのためこの不足感、欠乏感をなんとか埋めようと人間に成り切った神はこのバーチャルリアリティーを動き回る、彷徨い歩く、貪り続けるのです。この状態を仏教では飢餓、畜生と呼びます。なんのことはない神が人間になって驚くほどの欠乏感を味わい貪っているだけなのです。餓鬼、畜生とは貪った状態の人間の顔をした神です。神が人間のあまりの不自由さに驚くほどのストレスを感じている状態を地獄、餓鬼、畜生、菩薩と表現を変えたものです。貪った状態からいかにその欲求を次元上昇させていくかになります。

人間の五感+思考+感情はゲームの醍醐味

もしも人間に思考、感情を与えなかったらこの夢、バーチャルリアリティーは驚くほどに味気ないもになるでしょう。感情、思考があるからこそ人間は行動します。行動しない人間は神そのもの、そこに体験はありません。五感+思考+感情、これがこのゲームの基本デフォルト機能でありこの7つを駆使してこのゲームを貫徹することになります。経験によって思考が変わり、それによって感情も変わっていきます。人間は最終的に至幸とは何かを探索する主人公です。ゲームのクリアは究極、延々の至幸に行き着くことです。なぜならば人間とは欠落感発生器でありその対極が大満足、幸福の局地です。延々の至福を求め続けるこの大冒険は至福に辿り着くまで続きます。

人間という体を持った状態で至福には基本たどり着けない

神が自身を人間であると勘違いした状態で至福に至ことは不可能です。それは人間であるという思い込みこそが不足感を生み出すのでありその状態は至福とは対極です。相反する状態、矛盾状態にあります。パラドックスです。神が自身を人間であるという思い込みの呪縛を解き、自身が神であったことを思い出す時が至福です。なぜならば神=至福だからです。この五感+思考+感情という7感体験ゲームの中でいかに自身が神であったかを思い出すか、ということになります。

この夢の中でヒントばかりを追い求める必要はない

問題の解決方法は神に聞くのが一番

これは夢です。神が作った夢です、この夢の中で人間活動をするのも神です。神が人間に成り切って人間活動をしています。そしてこの人間活動ではあらゆる問題が起きます、その問題解決に多くの方は周囲に力、知恵を求めます。ですが冷静に考えてみますと神が人間に成り切って人間活動をしているのですからどう考えても答えは自分が知っています。神が作った夢の中の問題をなぜワザワザ夢の登場人物(脇役)に聞くのか?これは大変周りくどい方法です。神が作り出した問題は神に聞くのが一番です。

人間を止めればその場で神に戻る

人間を止める?意味不明な説明ですがそもそも神が人間に成り切って人間活動をしているわけですから役に没頭するのを止めればいつでも神に戻ります。この心身こそは自分自身であるという思い込みが外れた時、神は人間でいることはできないのです。物事に完全集中する時人は思考が抜け落ち神に戻ります。人間とは思考中は人間であり、思考が抜け落ちた時には神に戻っているのです。要は問題に対し無心になって取り組む時神になります。神は全ての答えを知っています。

ヒントを追い求めるならば、、、そこに無心になる

ヒントを追い求めることが悪いことではありません。ヒントを追い求めることに無心になって取り組めばいいのです。その時人は神に戻ります。正確に言えば神が人間活動から神に戻ります。なぜ人はオリンピックでアスリートの全力を見たいのか?プロ野球やサッカーで本気の戦いを見るのか?それはその瞬間人は神に戻っているからです。人間活動を止めた神を見て喜んでいるのです。何か問題が自分の前に立ちはだかったらその問題から神になる、、そのような習慣付けは重要です。

神にもどることを忘れた神は現実逃避を続ける

飲む打つ買うは全部夢からの脱出

これは神の夢です。今ここに繰り広げられている現実とやばれるこの世界は神が見る夢です。神が人間という役に成り切って人間活動をする夢です。夢ですから主人公以外の行動、脇役の行動全ては神が決めています。神がコントロールできないならば神の夢ではありません。神が見る夢ですから全て神のコントロール化にあります。主人公は神がこの夢を楽しむための道具です、この人間という体はそのために作られました。そして神はその主人公になりきりそしてこの夢の没入します。あまりに没入しすぎることでまさかの自身が神であったことすらも忘れてしまいました。当然神にもどる方法も忘れています。

夢の中は非常に苦しいから飲む打つ買うで夢からの緊急脱出をする

この夢の中は非常に息苦しい世界です。神が人間に成り切っているのですから異常に疲れます。全知全能の神が道無能の人間活動をしているのです、それだけでも想像を絶する地獄です。そうです、この夢の世界、人間活動は地獄なのです。ということで神(人間)はこの人間活動の一時をなんとかこの夢から脱出を図ります、それが飲む打つ買うなどの娯楽です。お酒を飲んでいる時だけ、ギャンブルをしている時だけ、キャバクラ、クラブで遊ぶ時だけ、、意識を強制的に人間活動から緩めて神にもどるのです。夢から脱出して酸素をいっぱいに吸います。飲む打つ買うをしている時だけは遊びに意識を全集中することで人間活動をしている自分を忘れます。神にもどるのです。

夢からの緊急脱出だけではもう酸欠が補えない

神は人間活動をしている間酸欠状態です。神は酸素抜きで人間をしています。途中途中遊びの中で酸素を補ってはいきますがいずれこの遊びでは酸素を補えなくなってきます。酸素を一時的に補うのではなく酸素を常に補いたいと思うようになるのです。その方法が書道、茶道、花道、剣道などの道の世界にヒントがあります。書になりきる、お茶になりきる、花になりきることで呼吸ができます。酸素を吸引できます。身体感覚に全集中することでいつでも酸素を吸うことができます。神が人間活動をする時には思考が必要になります、この心身こそは自分自身であるという思考が機能している時に人間活動を維持できます。逆に言えばこの思考が抜け落ちている時は人間活動ができません、花に集中する、茶に集中する、剣道に集中する、仕事に集中する、、、この瞬間自我が抜け落ち神に戻ります。呼吸ができるようになります。

人間のふりをしている神がそのことを忘れる瞬間

人間に成り切っている神がそのことをウッカリ忘れる

これは夢です。神が見る夢です。神は自身が人間に成り切ってこの夢をスタートします。人間であると世紀の勘違いをすることでこの夢は始まります。知識をつけて思考を回し、吾輩は人間であると信じ込むことで人間に成り切ってこの人間物語をスタートするのです。神が人間であると信じ込むためには人間であると意識し続ける必要があるのですが、、、何かに没頭する時、何かに真剣に向き合う時、何かに無心になって取り組む時、意識が外れます、人間であるという意識が崩壊します。すると神は人間から神に戻ります。

サーフィン、スノボ、スケート、、横乗り系のスポーツは熱狂的信者が多い

サーフィン、スノボ、スケート、、、横乗り系のスポーツは熱狂的信者が多いのには理由があります。あれらのスポーツの特徴は難しいことにあります。あえて不安定な板に乗ってスポーツします。自由な足を封印することでこのスポーツは難易度を上げています。すると全神経を集中できます、全神経、全意識を板に集中することでスポーツが成り立ちます。その瞬間自身は人間であるという意識が抜け落ちます、全意識が波、山、パークに向くのです。人間のふりをした神が一瞬神に戻ります、その瞬間人間が抜け落ちます。この感覚を味わうために多くの人が熱狂的になります。

もしもこの感覚を仕事に応用できたら

達人、偉人、人間国宝と呼ばれるような人々はこれを仕事に応用した人たちです。全意識を仕事に向けることで自身が人間であったことを忘れています。人間が抜け落ち神だけがそこに残ります。神が神が作った夢の中で自由に表現をしているのです。時間、空間という制限が取り払われ神そのものをただ表現する神になります。

知の権威の自殺は夢から覚めるポイントになる

大学教授の自殺は人間の知がいかに浅いかを証明する

大学は教育機関の最高権威、東大教授となったら最高知能の持ち主ということになります。IQなどで言ったらそれは本当でしょう。ですがなぜ彼らの中に自殺者が出るのか??最高の知性を持ち合わせる人間がなぜこの人生に絶望し死を選ぶのか?人間とは手に入れた知識を自分のものと所有していきます。この所有物が最も多いのが大学教授など知識で食べている人間です。この所有物の量はそのままそれを所有する自分を強化します。自分の存在を確固たるものにするのです。本当はいないのに。これだけの知識を所有する特別な人間様になるのです。この人間ドラマ、夢の中にどっぷりと浸かることができるのです。そしてこの夢にどっぷりと浸かると不足感が湧き出てきて無限地獄に入っていきます。最高権威、最高知識を所有しているにも関わらず無限地獄に突入していくわけです。

そうはいっても大学教授は穏やかな人が多い

実際には大学教授は穏やかです。彼らは勉強、研究を通じて無心、無思考、無我に入れる人が多いです。学ぶことを愛し、学ぶことに無心になって取り組むことでその場でワンネス、大いなる一つになれている人が多い印象があります。知識を得ることを通じて無心、無我を到達している人が多いのです。ですがこの事実を認識できず知識取得、研究結果の優劣に執着し始めますと思考ループに突入し無限地獄に入っていきます。

何かに無心になって取り組める人は気づく

何かに無心になって取り組むことができる方はこのメカニズムを本能的に知っています。取り組むことで得る収穫物よりも無心になって取り組む行為そのものに価値があることを。無心になって人が何かにとり組む時、その瞬間神になっています。無心無我とは人間の形をした神のことです。そもそも人間という独立した存在はこの世に存在せずそれを自分自身と勘違いする神がいるだけです。神が行為に没入することでその錯覚を忘れ神に戻ります。