全体

全体は究極のマゾヒスト

全体は自らを弱くしてマゾ体験を堪能している

全体はマゾヒストです。全体は自らを分けて自分という存在を体の中に作り出しその最弱な体で自分劇場を生き始めます。全体は最大最強、自分は最小最弱です。全体がわざわざこの人間という体の中に自分を作り出し最弱体験をしているというのですからこれはマゾヒストとしか言いようがありません。ですがこのマゾヒストはこの体験を大いに気に入り、輪廻転生といってまさかの肉体の死をも超越してこの体験を継続させていきました。肉体が死んでも魂が存在しその魂が次の体を見つけてまた自分体験を継続するという例の流れです。

全体は徐々に自らを強くして成長を楽しむ

全体から分離した自分は最弱状態を体験します。最弱のままではこの体を生き伸ばすことができない、生きていけないと悟った自分は自分を強くするという道を歩むようになります。これが子供から大人になるということです。筋力を付けて、学力を付けてというのがこの時期です。そしてその自分の成長体験を楽しんでいるのは全体です。全体は成長するという体験をすることができません、全体は最初から完璧だからです。だからこそ全体は自分の成長ストーリーを大いに楽しむのです。

全体は強くなっても至福に至れない自分にヒントを与える

自分という存在になった全体は最弱経験から徐々に強い自分体験をしていきます。収入を得て信頼を得て、安定を得てとコツコツとこの経験を積んでいきます。ですが困ったことにどこまでいっても居心地の悪さが解消されない、それはそうです。全体という史上最強の存在が人間に成り切っているわけですから強さには限界があるわけです。ということで自分は強くなっても至福には至れないことを徐々に理解していくわけです。そこから自分は一体この世界でどこに至福があるのかを探し始めます。自分が強くなることで至福に至れないならばどこにそれがあるのかと、これがこの自分体験最大の山場です。

全体は自分に疲れた時だけ全体に戻る

全体は頻繁に全体に戻っている

自分で居ることは疲れます。自分とは自らを分けると書きますが、これは全体から自らを分けているのです。実際には分けることはできません、全体は一つのエネルギーですから。一つのエネルギーが全体を形成し、その中で諸行無常、様々な形態を表現しています。ということで自分とは全体から分かれているという錯覚(思考)が湧いている状態ということになります。実際に自分活動をしている最中は思考、感情が湧いてくると、、それはこの体、自分の感情であるという思考が同時に湧き、自分というプラットフォームを維持します。これはなかなか骨が折れる仕組みです。そして全体の中から自分として分離し続けている間、全体は狭苦しいこの状況を楽しんでいる一方苦しんでもいます。子供がTVゲームに夢中になっていても2時間ぐらいで力尽きる感覚を想像ください。ということで全体は自分で居ることに頻繁に疲れるためTV,映画、SNS、ネットフリックス、など没頭できること、無心にできることを使って全体に戻ります。その時だけは自分を辞めます。

全体はたまに全体に戻りながら自分を継続する

全体はたまに、もしくは頻繁に全体に戻ることで自分を継続していきます。何かしらの没頭できるアイテムを利用しながら自分を継続します。自分という存在はエキサイティングである一方で大変疲れるのです。とは言え全体はこの自分体験を愛しています、全体が全体のままでは絶対に経験できないことを自分が発見してくれるからです。だからこそ全体は常に自分を大切にしているのです。自分が地獄の苦しみを経験している時ですらも、自分体験を重宝するのです。

自分体験最大の喜びは自分が実は全体だったという気づき

自分体験とはエキサイティングだが疲れるという全体の経験です。この自分体験は喜怒哀楽、七転八倒、あらゆる感情を味わえる全体にとっての最高のエンターテーメントです。映画を5本連続で観ると疲れるようにこの人生ドラマ、自分劇場は楽しいが非常に疲れるわけです。ですがこの映画の最も面白い、最大のクライマックスとは何か?それは自分体験を行なっている全体が実は自分は居ないということに気づくことです。自分はなく全体だけがあったという大オチ、これです。だからこそこのブログは史上最低のネタバラシブログでもあります。勿論このようなブログに興味を持つ人間は既に準備ができているエンディング待ちの人々になります。

自分をやることに疲れた全体が取る行動

分離体験は最高で最低

自分とは自らを分けると書いて字のごとく全体からこの体を引き剥がす行為です。実際には一つのエネルギーしかありませんのでこの体を全体から分離させることは不可能です。とは言え今現在このブログを書いている「私」はこの体の中に居るではないか?こうなります。ですが私が居るというのは思考であってこの思考がこの体の中にあるという証明は絶対にできません。思考もエネルギーと捉えるならばそのエネルギーが体の中で発生したという証明はいまだにできていないはずです。感情も然りです。ではもしもこの体の中に思考も感情もエネルギーとして湧いていないならばどこに湧いているのか?ということです。

もしも体の中に思考も感情もないならば

もしもこの体の中に思考も感情もないならば、、この体の中には自分というものが存在しないことになります。この体の中に自分が居ないならばどこにいるのか?どこにも居ない、もしくは全部に居る、、ということになります。今もこのブログを書いていますが私は今だってこの体の中に居るように感じます。ですがこれが思い込みです。全体が私の体を借りてこのブログを書いているのです。そして出てくる感情、思考は全体が認識しています。書道家はなぜ毎日書を書くのか?花道家はなぜ毎日花を生けるのか?茶道家はなぜ毎日お茶を入れるのか?それは何かに没頭することでこれが自分であるという思考を湧かないようにして全体に戻っているのです。全体に戻ると歓喜、平和が湧いてきます。全体への一時帰還をしているのです。

全体への一時帰還で仕組みを理解する

人は何かに没頭すると全体へ一時帰還できます。この体の中に自分が居るという思考が湧いてこない時、自分はこの世にいません。全体だけがあります。この状態を何度も味わいたくて自分はTV,YOUTUBE,映画、ギャンブル、お酒、恋愛、SNSにハマっていきます。何かに没頭すると思考が湧いてこなくなることを知っている自分はこれを利用します。自分で居ることに疲れた時に自分はこれをやります。本当のことを言えばそれをやるのは自分をやることに疲れた全体です。

最大のタブーに切り込む

この体に自分が居ないならどこに居るのか?

この体の中には自分が居ません。浮かび上がる思考、浮かび上がる感情がこの体の中で発生しているという錯覚、認識があるだけです。この体の中で思考、感情が浮かび上がっているという証拠はどこにあるのか?勿論脳に何かしらの磁気を当てて調べれば思考、感情と脳の関係はデータとして上がるでしょう。ですがそれによって思考、感情はこの体のものだという考え方は極論です。思考と感情がこの体とは一切関係ない場所で湧いている、、そう捉えて見てください。不思議な気づきに襲われます。例えば思考と感情は別次元に起こっていてそれをこの体がキャッチしているという捉え方です。すると突然この体の中に自分は居なかったという気づきが起きます。

思考と感情は違う場所で発生しているとしてもこの体主体であることは事実ではないか、、、

仮に思考や感情が全くの別次元で発生しているとしても、この体が関わっているならば結局は自分は体ではないか?それは当然の見解です。感情、思考が湧き出る場所がどこだろうと体が主体になってそれが起こるならば何も変わらない、、、ここが重要なポイントです。全体が体に成り切っているのです、だからこそこの体の動きに反応して思考や感情が湧いてくるのです。この体はスーパーマリオのマリオのようなものスーパーマリオゲーム自体がマリオに成り切っているのでマリオを操作するとあらゆる感情、思考がゲームの中に湧き上がるという仕組みです。思考や感情がマリオの中に湧いている必要はないのです。

湧いてくる感情、湧いてくる思考をマリオの中だと認識する思考がゲームの中で湧いてくる

そろそろ気づいてきたと思います。スーパーマリオというゲーム本体がマリオに成り切ってこのマリオ人生を歩んでいく、マリオに起きる事件、事故によって思考、感情が湧くが、、、それはマリオの中で湧いたとする思考も同時に湧く(自我)ということでこの勘違いは延々に続いていくのです。人間というのは集団でこれを行なっている民族であるということです。

人生の勘違い

テクノロジー進化の秘密

人間というのは面白いものでこの体の中に自分が居るというこの感覚に絶対的な自信を持っています。なぜかと言えば、、、友人も親も、会社の同僚も、TVに映るタレントも、町内会のおじさんも、、みんなそう信じているからです。大統領も、ノーベル賞受賞者も、日本国宝者も、マザーテレサもです。みんなが全員そう信じて疑わないのだからそれが真実である、、、これが人間という動物の中の一種だけが頑なに信じることです。この体の中に自分が居る、、、一方他の動物はどうでしょう?鶏も猫も、ライオンも、魚も、虫も、、、どの種もこの体の中に自分が居るとは信じていません。断言できます。なぜかと言えば信じるには言葉が必要だからです。言語を持たない(発達していない)種に何かを信じるという芸当はできないのです。ということで地球の頂点に君臨する人間様だけがこの体の中に自分が居ると信じている、ということになります。一方、体の中に自分が居るというアイデアはこの人間という種の発展に貢献しました、他の種では絶対的にできないような繁栄を極めました。テクノロージーを発展させ地球に人間の住めない場所はない、、というところまで居住空間を広めていったのです。

その一方で人間のストレスは何も解消されていない

この体の中に自分が居るというアイデアは、人間に脅威の発展をもたらしました。ですがその一方で人間は果たして幸福になったのか?ということです。人間は確かに年々文明が進化し産業革命、IT革命と便利を極めています。ですが幸福度という点に関しては実はあまり変わっていない、、、ここを追求する科学者は中々いません。国家をあげて国民の幸福度調査に乗り出すということも今後ないでしょう。なぜか?調査をすれば壊滅的なデータがでてしまうからです。結論から言えば「人間が発展できたのは人間が不足感製造機だから」ということになります。人間とは不足感、孤独感、分離感製造機なのです。この体に自分が居るという誤認識は常に居心地の悪さを生み出します。それを解消すべくあらゆるテクノロジーが発展しました。

最大のタブー「この体の中に自分がいない」

人間は脳が発達して言語を操るようになりました、その結果この体の中に自分が居るという認識をでの人間全体で保有するようになりました。これは言語がなくてはできません。その証拠に生まれてきた赤ちゃんはその後何年にも渡って「太郎くん」と呼ばれ続けます、これはこの体の中に太郎という全体から分離した存在が居るという洗脳です。そこには勿論悪意はありません、言語を使いこなすことで人間という種はそこまで進化してしまったのです。つまり自分という存在をこの体の中に作り出すほどに進化したということです。湧いてくる思考も感情も、、この体の中で起こっているという認識を作り出したのです。スーパーマリオというゲームの中でクッパが進化を独自繰り返し、、突然意識を持ったようなものです。そしてクッパはまさかのマリオの邪魔をしなくなるという結末、マリオと一緒にピーチ姫を救うと言い出す始末。

自分が弱いと洗脳を受けたライオンは草を食べ続けて死ぬ

草を腹いっぱいに食べても居心地が良くならない

自身が弱いという洗脳を受けたライオンはシマウマ、象、虫すらも怖いと思い生きていくようになります。仕方なく草をコッソリと食べ続ける生活、草を食べても美味しくはありませんがそこは仕方がない、、徐々に草の育成に成功し大量の草を食べることに成功します。そしてその草を乾燥し寝床を完備、さらに草を燃やして暖を取ることにも成功。草から栄養分を抽出してサプリを完成、栄養価の高い食生活を維持。草を使って虫の繁殖に成功し大成功ライオンに。ですがなぜか居心地の悪さ、胸糞の悪さ、不足感が解消できない。。言葉にできないこの焦燥感は何か?そうです。自身が弱いという洗脳からくる気持ち悪さです。記憶の遠い部分に強かった過去ののことが残っていてそれが得体の知れない居心地の悪さを生み出しているのです。

全体が洗脳を受け、体の中に自分(全体)が居るという錯覚に成功する

この人間ドラマ、自分ドラマは実はライオンの洗脳と全く同じです。大いなる存在、全体が言葉の洗脳を受けこの体の中に居るという錯覚を起こしました。目の前にあるこの体の中に全体があるのだと、、これによって全体は自分はこの体だと勘違いして生きるようになります。体の中に入ってみたら何と脳の記憶力がありかつての勘違い行動が全て記憶されています。これによって全体の勘違い人間ドラマが誕生しました。この体の中に自分(全体)が居るという大いなる勘違いは居心地の悪さ全開です。人間として有名企業に就職し、ハイスペック伴侶を得て、ハイスペック住宅に居住、子供をハイスペック私立学園に入学させても癒えないこの居心地の悪さ、、という流れです。

全体よ、この夢から目覚めよ!

人間のこの人生とは完璧な作り物です。なぜならばそもそもこの体の中に自分は存在せず、この体を主人公にしたこの人生も錯覚だからです。強いライオンが自身を弱いと勘違いするストーリーが偽物のように、全体がこの体の中に閉じ込められているというこの人生ストーリーもまた偽物です。本当はこの視界に広がる全てが自分です。この視界(全部)がこの体の中に主人が居ると勘違いする強烈なジョークがこの人生です。過去も未来も人間の記憶が作り出したモノであり、空間も人間がここを動くことで在るということになりました。本当は全体の中でこの体がシフトしているだけです。

実際には分離できていないからこそ全体に戻りたい

自分とはどこまで行っても錯覚

自分というのは実際には存在しません。自分というのは全体から分離した独立した存在だと多くの方は思っていますが、もしも本当に独立したならば自分の欲には制限があるはずです。そして苦しみは存在しないはずです。なぜ完璧に独立した存在に悩みがあるのでしょうか?もしも個人が完璧に独立しているならば欲に制限がないこの人間という存在は何なんでしょうか?不完全過ぎます。自分とはどこまで行っても全体から分離していると思い込んでいる存在でしかなくだからこそいついも居心地が悪いわけです。

ライオンが自分は弱いと思い込めば苦しい

ライオンは百獣の王です。もっとも強い動物とされています。このライオンが洗脳されてもしも自身が非常に弱いと錯覚をしたらどうなるか?毎日草を食べ、シマウマに怯え、穴蔵に籠って生活する。雨の日は他の動物がいないからという理由で川に水を飲みに行く。こんなライオンは居心地が恐ろしく悪いはずです。本当は強いにも関わらず弱いと錯覚してしまっているライオンはどんに草を貪っても何かしっくりこないはず。もう分かりましたね。これが自分です、これが全体から分離していると錯覚している自分です。全体がこの体の中に閉じ込められた状態、この体の中に自分(全体)が居ると錯覚した状態、、、これこそが自分(人間)でありだからこそ居心地の悪さが消えないのです。

ライオンが自分の強さに気づくには?

自分のことを弱いと洗脳され錯覚を起こしたライオンはどうしたら本来の強さを取り戻すことができるのか?それは弱いということが錯覚であることに気づくしかありません。どのようにその錯覚が起こったのか?そこを理解する他ありません。自分もこれと同じ、自分がいかに全体から(自ら分かれた)存在になったのかを知ることです。この自分の人生の苦しさのカラクリを理解することです。それでもこの人間社会に馴染んでいると周囲は自分にあらゆる声掛けをすることで自分の存在を強化してきます。人間という周囲の存在こそが自分の存在を強化します、錯覚が溶けるのを妨害します。映画マトリックス同様に周囲の人間全員がエージェント・スミスになります。

全体はなぜ自分を作ったか?

自分とは分離錯覚ストーリー製作機

全体だけが実際にはありそれ以外は何も存在しません。全体は全体でありただそれだけです。全体はある時自分という独立した存在(錯覚)を作り出しました。思考というもので全体の中に独立した分離した存在があるということにしました、錯覚で。これによって全体は突然体の中に自分がいるというゲームをスタートしたのです。独立した個人が全体の中を暴れ回るゲームを作り出したのです。全体から分離した個人は常に喪失感を感じその喪失感をいかに埋めるかに右往左往します。この経験が全体にとって面白くて仕方ありません。

全体が突然自分ストーリーの舞台になる

全体から分離した自分にとってこの全体は分離ストーリーの舞台です。自分がそこあそこにいく時の舞台そのものです。自分という全体から分離した(錯覚)存在にとって全体は自分が暴れ回るステージです。全体は分離した自分が遊ぶための道具になります。ただし自分は同時に居心地の悪さを常に抱えます。なぜならば自分はあくまで錯覚で主体は全体のままだからです、全体が個人という極小の存在になるのは居心地が悪いわけです。この居心地の悪さの根本原因を分からず彷徨い続けるのが自分という錯覚存在です。

だが自分という錯覚にはあらゆる救済措置がある

TVもネットフリックスも、YOUTUVEもSNSも全部自分にとって楽しいのは没頭できるからです。没頭とは頭が没すると書きますがまさにここに信実が隠されています。頭とは思考や記憶のことであり自我が抜け落ちます。何かに没頭する時そこから自分がいなくなります、つまり全体に戻るということです。自分という錯覚が解かれ全体そのものになります。自分はこのような救済方法を無意識に知っていて多くの時間をゲームやギャンブル、パチンコや恋愛などに没頭します。

それが分かったところでどうするか?

自分というのは錯覚ですからこの錯覚が抜ければ終わります。上記の救済措置を理解したところででは今後の人生をどうしたらいいか?このように自分は考えますがこれこそが自分のトリック、錯覚を解く以外にこの自分から覚める方法はありません。なぜ自分は苦しいのか、なぜ自分は時々楽しいのか、なぜ何かを達成するときは一瞬歓喜なのか、、、これらが腹落ちしてくると自分の錯覚が緩んできます。

全体が自分を生み出した

自分は全体の最高傑作

全体が今ここにあります、全体だけがここに存在します。全体以外はここにはありません。そんな全体の中に自分という分離した(錯覚)存在が誕生しました。全体の中に独自の個性を持つ存在が錯覚ではありますが誕生したのです。これによりその自分は自分を生き伸ばすために思考を駆使していきます。ですが実際には全体しかなく自分はその中での錯覚でしかありません。この自分は全体の中を逞しくサバイブしていくことになります。

自分錯覚ゲームは全体の遊び

全体は全体しか存在できませんから全体以外を経験することはできません。それゆえ全体は全体の中に個別の分離した存在を無理やり作り出しその分離した(錯覚)存在に経験を積ませました。この経験は全体が全体としては経験できないものです。だからこそ全体は個別の自分を起こし積極的にその経験を引き起こすのです。全体創作個別自分ストーリーです。全体総指揮自分ストーリーの始まりです。この個人とは全体の遊びです。

自分は全体の遊びだが苦しい

自分とは全体から分離した(錯覚)存在です。この存在が成立することで自分ストーリーが始まります。自分が見る世界(全体を)はエキサイティングそのものです。なぜならば自分は喪失感の塊でありその喪失感をいかに埋めるか?全体に戻る方法を知らないこの自分は全体の中でヒト、モノをかき集めることで不足感を解消しようと躍起になるのです。

全体とは同価値の世界

全体とは優劣のない世界

全体だけがあります、全体しかありません。この見える世界が全てです。この見える世界において自分という全体から独立した存在が生まれました(錯覚)。それによってこの自分はこの世で一番価値のある存在になりそれ以外の存在は自分以下の存在になります。つまり自分という独立した存在が誕生した瞬間から価値観に優劣が生まれるのです。存在の優劣は独立した自分という存在の登場からスタートします、逆に言えば全体において重要、重要じゃないという価値の優劣は存在しません。独立した自分は価値がある、価値がないの判断をし始めます。なぜならば独立した自分は不足感の塊でありいかにその不足感を効率良く埋めるかを考えるからです。結果価値があると思う物を優先してかき集めるということになります。

一方全体には優劣がない

この見える世界、全体には優劣がありません。全体として変化し続ける何かはありますがそこに優劣が発生することはあり得ません。全体は全体ゆえにその中に分離した何か絶対にないのです、だからこそ価値の優劣が起こることはありません。価値の優劣とは分離した自分という存在が出現したことによりその自分が何かを得たいという欲求が起こりその対象物に優劣を付けました。つまり自分という存在の確立こそが物事の優劣の諸元です。自分という存在が無ければ見える世界に優劣などあろうはずがないのです。

体は体以外よりも価値が高い、、

この体は体以外よりも価値が高い、、これは人間であれば誰もが思うことです。自身の体以上に価値がある物などあろうはずがない、、これが多くの人の信念です。だからこそ美容整形に何百万円と費やしたり、健康食品に数十蔓延を費やすのです。ですが実際には全体に優劣は存在しません、全体は全体であってその中に優劣はないのです。分離したという錯覚、自分が存在した瞬間から優劣が生まれそれこそがこの苦を生み出す原因になります。