不足感

強烈な不足感

強烈な不足感はどこから湧くのか?

強烈な不足感を感じている人がいるとしましょう、、、この不足感はどこから湧いてきているのでしょうか???真我です、、、真我から強烈な不足感が湧き上がりました、、、ですが個人意識はこの強烈な不足感を個人から湧いたと感じます、、、そこでこの強烈な不足感をこの私が埋めよう、、が湧き上がります。。。次にどうやって私は埋めようか???が湧きます、、、そして、、不足感を満たしてくれるだろう対象を探し出し動き始めます、、この行動が真我から湧きます、、、ですがこれが私から起こったという思考が湧きます。

強烈な不足感が真我から湧いたと気づくと

強烈な不足感が真我から湧いたんだという気づきが起きますと、、、なぜ不足感が湧いたんだろう、真我から、、、という思考が湧いてきます、、、そうか、、、この湧き上がりを、、個人から湧いているという勘違いをしてるからこの感情が湧くんだな、、、全部が全部個人が思考、感情、行動を作り出しているという「大勘違い」をしてるから、、、不足感が湧くんだ、、不足とは、、、物質、精神的未享受のことではなく、、、主語が小さな小さな私になっていたから、、そのギャップこそが不足感だったんだー、、となります。

強烈な嫉妬心が真我から湧いたと気づくと

強烈な嫉妬心が湧き上がりました、、、自分から、、、違います、、湧き上がるのは全部本当の自分、真我から湧き上がります、、、この理解が起きると、、、嫉妬心が出た理由に興味が起こります、、、真我が嫉妬する、、これはない、、、真我は嫉妬できない、、、嫉妬できるのはこの「私」だけ、、、この小さな体の中にいることになっている「私」だけが嫉妬できます。。全思考、全感情、全行動をこの小さな私がやっているんだという思考が湧いている時に、、、セットで湧くのが、、、この嫉妬心です、、、なぜ私ではなく、、この人に、、となります。

つまりネガティブな感情は、、、

ネガティブな感情が湧き上がる時、、、人はこれを解決したい、、、が同時に湧きます、、、ですからこのタイミングは絶好のチャンスなのです、、、、この感情は、、そうだ、、真我、全体から湧き上がっているんだ、、、なぜ????全体からこのような感情が、、、、と感情が湧く原因に迫っていきます、、、どこから湧いているんだ、、、真我、、、でも真我から嫉妬、妬み、そねみ、、が湧くのはおかしい、、、この感情は「私」が居る時しか湧かないはず、、、、となるのです。

脳が分離を作り出し不足感が生涯続く

脳のメカニズムは全体が作った分離システムであり大発明

脳のメカニズムは分離を作り出します。実際には完全なる全体など作りれるはずがなくなぜならばこの世界はたった一つのエネルギーで構築されているからです。そうなればこの分離感覚はどこまで行っても錯覚でありにも関わらずしっかりと分離しているように感じることができるこのシステムこそがノーベル賞、国民栄誉賞級の偉業と言っていいでしょう。例えばいきなり誰かから殴られたら全員が怒るでしょう、、、これってもしも自分から殴られたと思ったらそうは行かない、、、地球上の人間全員が他人から殴られたと感じているからこそ怒りの感情が込み上げるのです。

究極の分離感覚は脳の進化の賜物

究極の分離感覚の局地が戦争です、、、他の国の領土、富を人殺ししてでもやるというこの行為は分離感覚なしでは絶対に成り立たないということです。こんな戦争が今でもまだ起きているというこの事実こそが人間の分離感覚がまだまだ残っていることを物語っています。この分離感覚は脳が作り出しているわけですがこの仕組みをまだまだ人間は盲信しているのです。

とはいえこの分離感覚こそを神、宇宙全体は経験したかった

このブログでも何度もお伝えしていますがこの分離感悪は決して悪ではないのです。この分離感覚こそを神は全宇宙は分離体験として経験したがっています。これは戦争を容認しているわけではありません、ですがなぜこんな悲惨なことが今もまだ起こるのかといえば人間とは苦しみを味わうために生み出されてきたという事実があります。宇宙全体においてミスは絶対にありません、そうなればこれまでのあらゆる人類の争いすらもミスではないということになります。ミスではなく分離するということがいかに人間に居心地の悪さがあるか、そしてそこから宇宙全体、神に戻ることでいかにそれが偉大なことかを再発見できます。

自分は対象がなくては存在できない

何かを感じ、何かを思考するからこそ自分が居ると錯覚できる

自分が居るから、何かを感じ、何かを思考し、何かをすることができると思っています。ですが実際は逆です、何かを感じ、何かを思考し、何かを実行できるからこそ自分が居るのだと信じているのです。もしも何も感じず、思考もないのならば自分が居ると信じることはできません。対象があって初めて自分はこの世に存在すると信じることができています。主体客体セットで自分は存在できるのです。

五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、この体の中に自分が居るという思考も湧く

この体に五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、それらをこの体の中の自分が所有しているという思考がさらに湧くことでこの自分は存在できています。何かしらの対象があることでこのプロセスは成就します。コップがあって、それをこの体が視覚で確認し、この体が触って確認し、持ち上げて確認し、このコップは美しいという思考が湧いてきてきて、このコップが欲しいという感情が湧き、それらの感覚を所有するのはこの私であるという思考が湧くと、、この自分の存在を信じます。

この自分という存在を絶対的に信じる限り、苦しみは消えない

対象に対する五感プラス思考、プラス感情を通じて自分が居ることに絶対的な自信を持つわけですが、、、この錯覚を信じる限り、、不足感、欠乏感、欠如感が癒えることはありません。自分という存在は全体が作ったゲームであり、そこにのめり込むほどにギャップが生まれ苦しみが湧いてきます。全体がこの小さな体であると錯覚を起こせば不快感が湧くのは当然なのですが、、この分離の世界に一旦のめり込んでしまうとなかなか脱出できません。

自分が居なければ全体はこのドラマを創造できない

悟りの世界では自分、自我が悪の根源かのように扱われるケースは多々あります。自分さえ無ければ自我さえなければこの世の苦しみはない、、、その通りです。ですがそれを作り出したのは全体、神であり、全体、神が無駄なことをするわけがないのですから自我、自分には大きな役割があります。それがこの自分劇場、自我ストーリーの創造です。変幻自在のこの自分劇場があるからこそ喜怒哀楽、全体への憧れ、神への羨望、全感情を味わい尽くすことができるのです。全感情を味わい尽くすためにこの自分劇場は創造されました。全体は全体のままでは絶対にできないことです。

最初から自分劇場だと分かっていたら、、、

この自分劇場が最初から作り物、ノンリアリティーであることがバレていたら全く面白くもなんともない、、、子供の頃から学校でこのことを習っていて腹落ちでもしてしまったら受験も、就職も、結婚、出産というリスクあることを人はしなくなるかもしれません。要はマジになれない、、、ということでこの自分劇場は全知全能の全体が完璧に入れこむように完璧なのです。全く思い通りにならない、、、それが全体の狙いです。自分を創造している全体こそが自分がこのドラマで至福しかない生活を送ることを何よりも嫌います。それならばこの自分劇場はいらないと。

自ら進んで辛酸を舐める

外に出るとコスパが悪いから何もしないで一日中家にいよう、、、、このように自分が発案しこれでもしも自分が満足してしまったらこの自分劇場はしょうもないものになってしまいます。そのため全体はそうならないように自分に不足感を湧き出すように設定しました。家にいると退屈、喪失、孤独であるように不足感が湧き出るようになっているのです。結果コスパが悪かろうと自分は家を出てこの退屈、孤独、喪失をなんとか埋めようとドラマに参加していくのです。このメカニズムが分かってくると、、積極的に体験を積む方がこのドラマ劇場は上手くいくのが分かります。どうせこの不足感はどこに居ても襲ってくるのだから最初からコスパ無視して体験をしにいく、、ということです。

成就することは何もない

成就とは主語述語の世界

至福になる、幸福になる、安定になる、、、これらは何かしらを成就する世界の話です。主語があって述語がある世界です。これは二元の世界の話です、つまりストーリーの話になります。自分というのがあってその自分が何かをするストーリーの話になります。動詞というのは主語が必要です、主語が必要な世界は二元の世界になります。主語が必要な世界は幻想の世界です、錯覚の世界です、、、この錯覚の世界に居る限り本当の至福はありません。あるのは全て時間の中での一瞬の幸福、至福、安堵、平和、歓喜です。我々が本当に求めるのは時間を超えた至福、歓喜、平和です。それがあるのは主語述語の世界ではありません。主語が抜け落ちた世界、自分が抜け落ちた世界です。

それでも食べるためには働かなくてはならない、、

そうは言ってもこの自分は今日も生きるために働かなくてはなりません、これは事実です。この体というものがある限り生き抜いていくには食べなくてはならないのは事実です。ですがそのために自分が必要ということではないのです。この体の中に自分が居なくてはならないわけではないのです。野生動物が生き抜くために狩りをしなすがそのために自分という存在が必要なわけではありません。ただ狩りをして食事にありつくだけです。何かをするためには体の中に自分という存在が必要だというのは錯覚です。この体の中に自分という独自の存在が居るという錯覚を育てますとその自分は不足感を湧き出します。

名前を呼ばれても=自分と錯覚しない

この人間社会に生きていますと名前が必要になります、そしてその名前を呼ばれるようになります。相手が自身の名前を呼べばこの体の中に自分が居るという錯覚が強化されます、ですがそれは違います。相手がこの体に対して名前を呼んでも=自分が居ると錯覚しないことです。人は名前を呼ばれることでこのストーリーに浸かります。それによって不足感、孤独感、欠乏感が湧くというスパイラルに入るのです。

本屋に行けばこの自分を幸福にするための本が並んでいる

「自分」を幸福に、快適に、楽しませてくれる書籍の数々

本屋に行けば入り口からあらゆる情報が揃っています。幸せの見つけ方、最高のパートナーとは?株の儲け方、起業独立の方法、新しい働き方、WEB3.0、動画時代のビジネス、働かない生き方、経済ってそうだったんだ会議、、まーとにかく全方位からこの自分を楽しませ、幸福にし、サバイバルさせてくれるノウハウが揃っています。どの切り口からでも全方位そこにはノウハウがあります。しかし少し冷静に考えてみますとなぜこんなに新書が次々に出版されるのか?これだけの切り口で個人を幸福にできるノウハウが既にあるならばもう必要なノウハウはないはず。。。にも関わらずなぜ次々に新書が出るのか?ということです。

「自分」を幸福にするためのノウハウでは幸福になれない

自分を幸福に、快適に、堅実に、安定的にしてくれるノウハウの書籍の数々が、、、毎年のように手を替え品を替え出版され続けてきます。なぜこれほどまでに「自分」とは幸福になるのが難しい存在なのでしょうか?時代は移り行くのだからノウハウも変わって行かなくてはならない、、これも理解できます。ですが本当でしょうか?そうではなく自分を幸福にするのが難しいのではなく自分とは幸福になれない存在なのだとそろそろ諦めをつけてもいいかもしれません。一瞬一瞬であれば幸福、快適、安堵を味わえますが、、長期的な幸福、快適、安堵は自分には手に入れることはできない、、、こう諦めてしまうのはどうでしょう。これをサレンダーと言います。

実は自分が居ない、、、

本屋に行けばあらゆる方法で「自分」を幸福にするノウハウを発見出来ますが、、、この全部を試しても我々は長期的な幸福を手に入れることはできません。それはこの自分こそが幸福を遠ざける存在だからです。「この体の中に自分が居る」という現代人であれば当たり前の発想こそが幸福を遠ざけているのです。勿論一瞬一瞬、ショートスパンでの安定、歓喜、幸福を手に入れる方法はありますしそれも可能でしょう。ですが自分とは直ぐに不足感に襲われ次の何かを探さずにはいられない存在なのです。この体の中には自分が居ない、、この絶望的なメッセージだけが根本解決を示します。

何者かになろうとしなくていい

自分は直ぐに何者かになりたがるが、、、

自分とは全体から分離しているという錯覚です、この自分は体の中にいるという感覚を持っています。この自分は自分のままでは(錯覚ゆえに)不安感、不足感、孤独感の塊りです。そのため自分は何者かになろうとします、その何者かは今の自分よりも豊かで幸福そうで、自由に見える何かです。そこで自分は毎日その何者かになれるように日々努力を重ねるわけです。ですがその何者かに何年かかけてなれたとしてもその時には次の何者を目指さなくてはなりません。なぜならばその何者かになっても不足感が全く癒えないからです。

自分が理想とする何者かは、

若者は将来こんな大人になりたい、、と夢みますがそれは今に対して居心地の悪さを覚えているからです。もしも今が至福そのものならば絶対にそこから離れようとしません。将来の夢に向かって、、、、このように若者を鼓舞する大人はなぜ夢を追いかけるかの本質に気付いていません。若者が将来の夢、目標となる大人を目指す時目をキラキラさせますが大人になるうちにその目が曇ってきます。自分はどうやら今世そんな大人になれないと諦めるか、道半ばでそこに至っても幸福になれないことを悟からです。夢を叶えたつもりでいる大人はそんな若者に努力が足りないと叱咤激励します。ですが実際は夢を叶えたつもりでいる大人も不安を常に抱えているのです。

成功者の末路が幸福になっていないことは歴史が証明している

「知っているつもり」というTV番組を子供頃頻繁に観ていましたが、、ここに出てくる偉人、成功者の多くが晩年寂しい人生を送って死を迎えているのを覚えています。現代でもハリウッドスターの薬物乱用、野球選手の引退後の転落、芸能人のスキャンダルからの末路、、、我々は有名になるほどの優秀な人々が決して至福に至っていないことを実は知っています。ですがそこには目を伏せて自分は自分と言い聞かせ毎日を必死に生きることにします。自分というこの体の中に存在する錯覚感覚を見抜き、本質に迫ると決めた時に真実が顔を出します。実は真実しかなかったことが分かります。真実の中で「自分」はドラマに入り込んでいたのが分かります。

子育てはとてつもなく大変なのに子供を作る理由

実は気付いていない、子供を欲しがる理由

子育ては大変です、朝から晩まで24時間労働、常に目を光らせていないと何をするか分からない。家に恐竜の赤ちゃんがいるようなものです。結婚したら子供を作るのは当たり前、現代はそのような時代ではありませんがそれでも3、4、5人と子供を育てる家庭があるのは事実です。なぜこの少子化の時代に子供を沢山欲しがる家庭があるのか?そこは気になるところです。悟り、ノンデュアリティーの観点から見ればこれは簡単です。子供を作ると両親の自分が居なくなるということになります。子育ては半端なく大変だからこそ自分のことに構ってられない、、つまり子育て中、無我、無心、全体になれるということです。

自分を意識しながら子育てできるのはセレブだけ

子育てはスーパー肉体労働、かつ頭脳労働、、、自分に構っている時間などあろうはずがありません。常に子供に意識を向けていなければ子育ては出来ない。その子供が三人、四人、五人と増えていけばとんでもないことです。ですがそれが自分にとっては非常に良いのです、自分を忘れて没頭できるのです。このブログでも何度も伝えていますが自分こそが苦の根源、この自分を忘れて入れる状態は歓喜、安堵、平和そのものです。子育てに忙しいお母さんは常に安堵、歓喜、平和に埋没しています。

自分のことは二の次、三の次、、、それが至福

信じられない話ですが、、、自分のことを二の次、三の次にできる状況は幸せな状況です。自分は常に自分を一番にしておきたい存在ですが実はこの状態が一番苦しい、、、自分とは不足感発生器であり自分でいると不足感が湧き出てきます。子供が沢山いる家庭では両親は自分のことなど構っていられない、、、、実は一番至福を味わっているのは両親なのです。自分を忘れ子供のために一生懸命になる、、、これはそのまま全体、至福になっていることと同じです。

するべきことは何もない

何かをして解決を望むのは全て自我

自分というのは常に何かをして目的を達成しようとします、問題を解決しようとします。これが自分の特徴です。自分は何かをしなければ何も変わらないと信じています。お腹が空けば食べて解決する、眠ければ寝て解決する、痩せたければダイエットする、部屋が汚ければ掃除する、、全てこの調子です。そこで自分は幸福になるためにも何かをして幸福になろうとするのです、これが今世紀最大の引っ掛け問題です。人間の「苦」の解消もこのスタンスで臨むがためにこの前で皆大敗してきたのが人間の歴史です。

不幸だけは何かをするだけでは解決しない

人間、自分というこの存在、この体の中に自分が居るというこの認識、これがこの苦しみを生み出しています。まさか主人公の初期設定がこの苦しみを生み出しているとは?ということで自分の人生とは苦しみのストーリーでありこれをいかに解消しようと24時間365日動きまくっても意味がないのです。ここに気づけるか、気づけないかで人生という意味が変わってきます。覚者が言う「するべきことは何もない」この言葉を言われた自分はただ困惑します、何を言っているのか?です。

何かをする時に、、それでこの自分の不足感がなくなるわけがない、という境地に立てるか

何かをする際に自分はこれで自分も至福になれるのでは?という淡い希望を持ちます。希望の会社に就職した時、希望の相手と結婚した時、希望の家を購入できた時、希望の年収を得れた時、、、ですがそれらの淡い希望はこの自分の前で木っ端微塵に打ち砕かれます。なぜならばこの自分こそが不足感製造機だからです。全体から分離してこの体の中に自分がいるというこの錯覚こそがこの不足感、苦痛を生み出しています。だから覚者は「するべきことは何もない」を伝え続けます。

全体の悪趣味「自分」

自分とは全体の苦しみ体験マシーン

自分と書いて「自ら分ける」自分とは全体から分かれる状態のことです。この体には脳があるのでこの体の中に自分が居ると錯覚をすることができます。錯覚という表現をするのはこの世には一つのエネルギーしか存在していないのでその中に独立した何かが現れることは不可能です。ピカソが描く絵の中の登場人物が突然意識を所有し、私はこのピカソの絵とは何も関係がないと言い出すようなものです。本人がどんなに大きな声を張り上げても絶対に独立などできません、なぜならばピカソが描いた油絵具で出来ているという事実は絶対に変わらないからです。その中の登場人物に意識が生まれてもそれは錯覚です。

ディズニーランドのミッキーマウスが突然意識を持つ

ディズニーランドのミッキーマウスに突然が芽生え私はディズニーとは何も関係がないと宣っても誰も信用しません。ミッキーマウスがいかにそれを本気で思っても今日もディズニーに居ます。ディズニーの外には出れません。我々も同じ、この全体の中に生まれた突然変異です、突然意識体です。全体の中から出ることは絶対にできませんし、勘違いを実感しているのも全体です。

全体は勘違いマシーンを作り出し苦しみ体験を今日もする

全体は全体のままでは苦しむことができません。全体が苦しみためには全体ではない存在を作り出す必要がありますが全体が作り出す存在は全体以外にはなれません。そこで全体は肉体に「これが自分だと勘違いする存在」を無理くり作ったのです。こっれによってこの存在は大いに苦しむことができたのです。苦しみためには苦しむという経験が必要になり自分と自分以外を作り出し自分体験記を作りました、分離した自分は全体とのギャップにより不足感、喪失感、欠乏感が湧き出しますから常に苦しむことができるのです。そしてこの苦しみを解消すべく様々な冒険を歩むことになります。