ドラマ

TV番組では朝から晩までタレントが喋くり尽くす

思考は今でもエンタメになっている

多くの方がなぜいまだにこの思考の罠から出ることができないか???それは我々のエンタメの主流がまだそのレベルにあるからです。我々はタレント、識者が話す独自の思考、価値観を観て聞いては楽しんでいます。私はこのニュースをこう解釈する、私はこの事件をこう解釈する、、、これを朝から晩まで行っています。このような番組を観て人々は楽しんでいるわけです。思考することを全く何も考えずに未だに行っているのはこのような大衆文化を見ても明白です。思考すれば思考するほどに世界は分裂を極め重く苦しくなっていくにも関わらず。

あの考え方を聞いて楽になった、、、、

あの考え方を聞いたら、、非常に楽になった、、、あの本を読んだら本当に心が落ち着いた、、、、これは何が起こったのか???それは散らかった思考がその事実によってまとまったことを意味します。その事実のお陰でしばらくの期間思考しなくても良くなったのです。思考の動きが緩んだという程度のことです、、、この事実を人は理解できません。思考のフル回転が実は苦しみの根元だったのです。

分裂製造機、思考はこれからも幅を利かせる

思考がこの自分を作り、思考が見える世界を作り出しているという事実を多くの方は知りません。自分も友人も、学校も、会社も、何もかもを思考が実は作り出しています。どうやって、、、モノの名前を暗記したからです。これがなかったらその人の人生にはそれは登場できないのです。我々はあらゆる現象の名前を付けることでそれを現実化しこの人生に登場させているのです。そしてそこから様々なドラマが生まれ人生劇場が始まるのです。

面白いも苦しいの一つ

TVゲームは楽しいの次の日に退屈が襲ってくる

TVゲームが好きな人は分かっていると思いますが昨日まで楽しかったゲームが次の日に全く面白くないということが起きることが多々あります。突然飽きて全く面白くなくなる、、、これ人間の本質を突いています。人間にとって楽しいはある日突然飽きるに変わる可能性があるのです。これは非常に辛いもの、苦しいものです。人間関係ではこれは顕著に出ます、、それまで楽しいの関係がある日突然苦しいに変わる、、、、絶対に誰でも経験したことがあるはず。人間の快不快は常にコインの表裏、快不快はどちらも苦しみの次元にあります。

人間の快不快が苦しみならば、、

芸能人の売れる売れないはどちらも苦しみです。自殺者が出ればそれは容易に理解できます。人間にとって他者評価の高低はどちらも苦しみです。人気者も不人気者も実はどちらも苦しみです。そうです「自分」という存在が引き起こす快不快はどこまで行っても苦しみにつながるです。これが人間の本性です。いかに早くこれに気づくかです。神が人間になり切ってこの人間ドラマを生きていますがこのドラマの卒業以外にこの苦しみを解消することは不可能です。

楽しいを追い求めるのではなく、、

楽しいを追い求める=苦しみの世界に移住です。そうではなく全作業から歓喜、平和、安堵に入れることを知ります。掃除、食事、仕事、エクササイズ、全作業が無心、無我に入る入り口になります。このことを知るのです。何かをしたら面白くなるかもではなく、、、全作業に集中して取り組みそこから無心、無我に入っていきます。全作業を花道、書道、剣道のように無我への入り口に使います。

苦しむことが難しくなっていく

真剣に苦しめない

二元の世界に生きていると真剣に思えている時は苦しむことができます。見える世界が実在していると思っているから何かを失うということも、何かに傷つけられるということも、自由を奪われるということもできます。ですがそのドラマを真剣に信じ込むためには実在していると真剣に信じないといけません。ですが実際は全くもってたった一つのエネルギーが織りなすアートであるこを今はもう分かっていますからそれができないのです。粘土細工で出来た指輪を貰っても真剣に喜べないように、やはり人から取られても真剣に落ち込めないわけです。

真剣に楽しめない

と同時にこれまでのように何かを手に入れて楽しい、何かを達成して嬉しい、、何かが成就して満足、、これもなかなか難しくなっていきます。そもそも全部が宇宙のアートであり手に入れるべき物も手に入れる人も存在していません。このことが完璧に理解できている今、他の人々が行っている楽しいと呼ばれる行為をしても同じようには楽しくありません。

新しい衝動

他人とは同じようなモノを持っていないからと言って悲しむことはできず、他人が羨むようなモノを手に入れても楽しいとは思えない、、、何か虚無的な感じがしますがそうではありません。この見える世界には宇宙アートしかない、、この認識になって生きていますとあらゆる重荷が落ちて中からの衝動が込み上げてきます。これをしたい、アレをしたいが込み上げてくるのです。本当はこんな感情があるんだ、、、そんな気持ちになるような衝動がこの体に込み上げてきます。この突き動かす衝動を叶えるための道具に自分はなります。宇宙というアートに参加する感覚です。

皆は分離の世界を生き、私は非二元を生きる

ただし非二元を生きる「今までの私」はいない

街を歩けば多くの人が「自分」が先ずそこに確実に居てその自分がこの分離の世界を確実に生きています。自分という体、思考、感情の寄せ集めである存在を生きながら他の人々の中で生きています。全員がこの「自分」に確信を持ち、名前がついた分離した物、人の存在にも確信を持ちながら生きています。これが幻想の中に住んでいると言われる所以です。ですが本当はこの自分も、、あの人も、この人も全て勘違い存在物であって実は何もにというのが真実です。真実とは何もない、、これだけです。何かが起きて、誰それがいて、、、全部後付けの空想劇です。私も他人にも実は境界線は皆無で境界線があると信じ込む後付けの存在達がいるだけです。実は何も起きていないのです、今目の前に広がる世界には実は何も起きていないのです、信じられない話です。自分にもその他にも名前を付け合って何かが起きているということにしているだけです。

非二元のみ

非二元のみがあるだけです、これがあるだけです。そこに名前が後付けで付けられ何かがあるように何かが起こったかのように表現する後付けの「私」がいるだけです。我々が見ているこの世界は名前が付けられた世界だというだけであり名前がついているから何かが起こっているように感じることができているだけです。このあり得ない解釈、解釈も後付けですが、、、この真実に気づいた人は唖然とします。この真実に気づいた人はこれを他の人に伝えたいと思うかも知れませんが思わない可能性も高いです。なぜならば伝えたいその人は後付けだからです。つまり誰もいないということが分かってしまうからです。

ピカソの絵をパズルのようにバラバラにしてみたらそれが動いているように見えた

もしもピカソの絵が流動的な物体であったとしてその各部分に名前を付けてみたとしましょう。そうすると毎秒、毎分ごとにそれが動く、、、元々何も存在せずただ動く絵があっただけだったのがその中の名称がついた物たちが毎秒ごとに動くように見えるようになります。そしてその動きの中でトラブルや衝突が起こることもあれば吸収や合体が起こることもあるでしょう。これらのドラマは名前が付いたから起きたのです、名前を付けなければドラマなど起きようがないのです。あるのが絵の中の動きだけです。これに気づくことを「悟り」と呼びます。悟りとはなんてことはない、、人間の活動の根源を明かしただけです。

先ずは空を知る、次に色の素晴らしさに目覚める

空を知って驚き、色の素晴らしさを再認識する

人はこの世の真実を知ったときに驚きます、実はこの世は空の現れで見える世界は空が色として現れているだけ。本質は空である、、だから実は何もないということを知ります。この衝撃は凄まじくこれまで超現実と思っていたこの視界が実は空の現れであるということです。何もない、、、ただそれを在るように見えているだけ。ということになります。

実は何もない、、、からの

究極を言ってしまえばこの世は無です。何一つ実態のないものの現れです、ですから我々のこの経験も体も思考も感情も何もかもが実態のないものから生まれてきているのです。この事実を知ることは虚無感の創出につながります。ですがよく考えてみれば実態のない世界に我々はいるにも関わらずとんでもない喜怒哀楽のドラマが日々繰り広げられているのは事実でありこれは虚無とは全く違います。

改めて色の織りなす世界の脅威に驚く

この世界は空から創出さているとしてこの色はその創造物ということになります。この色の創造物は凄まじくとんでもなくリアリティーがあります。実際には何一つ分離しているものはないのですがこの色の世界では各々が自由に動き回るのでそう見えます、完全に分離しているようにハッキリと見えます。だからこそこの分離世界を堪能できるわけです、ですがこの分離世界に分離体としてどっぷり浸かっていますと中々疲れるということになります。なぜならば全く分離していないにも関わらず分離しているという大いなる勘違いをしながら生きるからです。この居心地の悪さは無我を知れば知るほどに無視できなくなるのです。だから人はどこかのタイミングで色の幻想に興味を失い本質を知ることに興味が湧きます。色の世界での分離体験では本当の至福、歓喜、安堵にはたどり着かないことを知っているからです。

無我を知れば知るほどに、、、自我に興味が無くなる

実はこの世界ではどこからでも無我に入れます、無我とは歓喜、平和そのものでありこの状態を知りますと人間関係、社会関係など色の世界に対する興味が失せていきます。なぜならばその世界の中を放浪しても本当の平和が存在しないことを知っているからです。ですがそうなってしまうとなぜこの色の世界があるのか?そもそも平和が無いならば色の存在理由は何なのか?ということになるのです。実はこの色の世界は空を知ることで逆に面白くなります、本当の自分として再びこの色の世界を遊び倒すことができるようになります。本当の自分がやりたいこと、情熱を傾けれることにこの体が使われるという主従関係の逆転が生まれるのです。

本当はバラバラではないのにバラバラであると確信を持って生きている人間ドラマ

この世界は今も一つの宇宙現象

我々が観ているこの世界は今も完璧なる一つの宇宙現象です。ですが我々にはそう見えていないはずです。完全にバラバラに解体されているように見えているはずです。目の前にペットの犬がいればその犬は完全に犬以外とは分離しているように見えているはずです。これが人間が観ている分離世界、分離映画、分離ドラマです。完璧なる一つの宇宙現象が人間というフィルターを通する完全に分離した世界に一変するのです。これを覚者は「人間は寝ていて夢を観ている」と表現します。人間は一つの宇宙現象に名前を付けることで分断し細分化し本当に分裂しているように見える世界に今も居ます。

名前を付けちゃったんだから仕方がない

一つの宇宙生命体が、人間という存在を作り出し人間に思考、脳を与えたわけですから人間が名前を付けて分離その世界を上映しそこに住うことに何の問題はありません。これは一つの宇宙生命体が営む遊びです。人間主人公の一つの宇宙生命体分離映画を楽しんでいます。ですが人間からしたら冗談じゃない、、一つの宇宙現象のままがいいに決まっている、、こんな面倒臭いこの世界は終わりにして欲しい、、それが本音ではないでしょうか。ですが実は違います、、多くの人間はそんなことすらも考えません、絶賛分離体験中です。実は見ている世界は一つの宇宙生命体であり分離しているように見えているだけだ、、、こんなメッセージはウザイの一言で終わるでしょう。

覚者は皆同じことを言う「目の前が全て」

覚者はこの分離の夢から覚めた時に、、皆同じことをいいます「今ここが全て」「これしかないんです」「これだけがある」と、、、、、何を言っているんだ??と言う話です。人間にはこの見渡す世界は完全分離、支離滅裂社会でありもはやジャングルと化しています。信じるものは自分だけ、頼れるものは自分だけ、、、同情するなら金をくれ、、のヤサくれ状態です。ですがこの分離壊滅社会を作り出したのはこの思考であり、一つの宇宙生命体には何の罪もないのです。人間の脳が発達しこの体をより確実に生き延びさせるために生命現象に名前を付け文明の進化に大いに貢献しました。そしてその副作用がこの分離壊滅社会です。

分離壊滅社会を抜け出したいならば

分離壊滅社会、分離生気皆無社会をもしも抜け出したいならば、、、簡単です。この分離は真実ではなく人間というフィルターがそう見せていることを見抜くことです。そうです、この分離壊滅社会は幻想、夢なのです。人間が見れば確実に分離分断壊滅意気消沈ですがそれは「自分」が見ているからそうなっているということです。目に目える世界がなぜそうなっているか?ここを完璧に見抜いてください。そうすると目の前に起きた現象にいちいち反応しなくなる「自分」が生まれ始めます。マトリックスをマトリックスと見抜く「自分」が出現し始めるのです。

「体験の主体」が「価値観」という「フィルター」を通じて映画を見ている

価値観は全員違うから見ている映画も違う

この世界は大変優れていて思考が変わると見ている世界が変わります。そして主人公も全員違いますから世界も主人公も異なる千差万別な映画が毎日上映されそれを「体験の主体」が楽しんでいるということになります。主人公の体験は記憶に蓄積されていき、さらに体験は思考と感情という反応を得ていきます。これら全てを脳は記憶して価値観を日々変換していきます。この価値観はこの映画のフィルター、映写機です。価値観が変われば映写機が変わり見える世界は確実に変わっていくのです、我々は生きて死ぬまで毎日変わり続ける価値観(映写機)で毎日移り変わる映画を見ているのです、そしてそれを体験しているのが体験の主体、気づきの主体、全存在ということになります。

映画だと気づいて生きているのはもう卒業間近

例えばあなたが強盗に遭おうとしましょう、すると次の日から強盗っぽい人間、風貌の人間があなたの視界に入るようになっていきます、それまでは全く気にもしなかった風貌の人間があなたが生きる世界に頻繁に登場するようになります。例えばあなたが白人の女性と大恋愛をしたとします、するとあなたの生きる世界、視界において白人がその日から頻繁に登場するようになります。街を歩いていても目に入るのです、確実に。同じ世界を生きているしこれからも同じだと思っていたら大間違いです、人間が大きな体験するとその日から確実に見える世界が変わっています。これを覚者は映画、夢、幻想と表現します。このメカニズムを理解するには人間として体験が必要になります、これを学校の授業で生徒に伝えても恐らく意味が分からないでしょう。

あまりにこの映画は優れている、、、

主人公の価値観で見える世界が変わってしまうような映画は巧妙すぎてこれを知ってしまうともうハリウッド映画を観ていられなくなります。この私が観ている映画の方が確実に完成度が高く緻密でエキサイティングです。ですからこれを映画と確実に見抜いた今でもこの映画への関心が全くなくなるということはありません、むしろ今後映画に出てくるだろう脇役の登場、ドラマの進行にワクワクします。ただし私自身は価値観の変換にはもう興味がなくということで見える世界が様変わりすることもないはずです。

今ここに全体として在るから、今ここに思考として在るに

これはトリック

今ここに全体として在る、、、、これが本来の認識です。我々は確実に今ここに在ることを知っています。誰が何と言おうと私は今ここに在る。。。これだけは断言できます。この在ると言う感覚に何一つ疑問はないはずです。今ここに在ると言う感覚は全体として在るのです。ただしこの全体は諸行無常、移り変わる世界です。私は在る、、、の中で見える世界は移り変わっているのです。これが真実です。ですがこの在るという感覚を思考が乗っ取っている、、これが自我のメカニズムなのです。Iam 私は確実に在るを、、、思考が乗っ取り、、、私は今ここに思考として在るに書き換えているのです、常に。だからこそ思考は常に湧いてきて自身の存在を主張し「私は在る」を乗っ取り続けるのです。私は今ここに思考として在る、、は思考の乗っ取りですから、、この人間人生が幻想、ドラマと言われるのです。

思考は常に乗っ取り続ける

今ここに在る、、、これが本来です。本来はこれだけです、、この、、今ここに在る、、、のなかで諸行無常、万物は移り変わっていきます。今ここに在る、、、の中で森羅万象が起こり続けています。この中に体が起き上がり、思考が起き上がる、、、この思考の活動に今ここに在るが同一化し、、、今ここに思考として在る、、が誕生しました。思考の今ここに在るの乗っ取りでもあり、、、今ここに在るのい思考との同一化です。今ここに在る、、は平和歓喜安堵そのものです。これが今ここに思考として在る、、、になると違和感が湧き上がり続けるのです。なぜならばこれは完全なる誤解だからです。

今ここに思考として在る、、はとてつもなく不安定

今ここに思考として在るは、、本来の形ではありません。今ここに在るがスケートボードに乗っているような状態です。そしてこのスケートボードに乗っているを本来と勘違いしている状態なのです。スケートボードは不安定ですから急に降りてしまったりします、、、するとまさかの大変安定感があって安堵が込み上げてくる、、それは当然ですよね。ですがスケートボードは直ぐに「今ここに在る」をボードの上に乗せてしまいます、これが本来だよと。ところがやっぱり何かアクシデントがあると、またボードから外れる、、、すると平和、歓喜、安堵が訪れる、、、、ところがやっぱりボードがしゃしゃり出てきて「今ここに在る」を上に乗せます。これが今ここに思考として在るです。ボードに乗っているのはエキサイティングで楽しいのですがやはりしんどいわけです。

不安定だから「今ここに在る」は楽しいが常に戻りたい

「今ここに在る」の思考同一化体験は大変エキサイティングで楽しい、、ですが同時に非常に疲れます。長くこの思考同一化体験を続けたい気持ちと、、早く「今ここに在る」に戻りたいの両方の気持ちで揺れ動いているのです。思考は「今ここに在る」との同一化により活動を活発化させ「今ここに思考として在る」を助長します。「今ここに在る」は思考との同一化を止めればいつでも「今ここに在る」に戻ります。この状態に意識的に居れる人を覚者と呼びます。「今ここに在る」が本来の姿です、むしろ「今ここに思考として在る」が後付け、錯覚、変異です。「今ここに思考として在る」が「今ここに在る」に戻るためにはあらゆる方法がありますが、全作業に集中することで思考を抜け落とすか、、、湧いてくる思考感情を観察し同一化から脱却する、、、そしてこのブログの内容のように「今ここに在る」しか最初から無かったんだに気づくことです。

明日震災で全てを失うかもしれないのに

形あるモノになぜしがみつく?

人間は形のある動物です。だからやはり形を信頼します。人は見かけが9割という本がありますがまさにそれ、、、内面を見る力がない人間はとにかく形にこだわるのです。日本人はロリコン、、これは最悪な評価しか日本人ができないことの証明です、形でしか判断がつかないのです。この状態は人間発達における機能不全と言っていいでしょう。西洋の文化がここ100年以上日本に流れ込んできて形あるモノへの関心がとてつもなく高くなってきました。これは同時に人間が人間として生きているとても苦しい状況なのです。

形が形に興味を持っている期間

人間という形あるものが形に興味を持つのは当然といば当然です。小さい子供は一日中オモチャで遊び倒すように形あるモノへの興味は尽きることがありません。ですが人間はある時この形あるモノの限界を知ります、それは自分自身の形への限界かもしれません、もしくは形あるモノをかき集めても満足できないという限界かもしれません。形あるモノの宿命とは形の限界に突き当たるということです。これが絶望であると同時に無への開眼なのです、無という広大無辺な存在への開眼が人間の絶望にあたります。

無は常にここにある、興味を示さないのは常に有(自分)

有(体)は常に有(物質)に興味を持ちます、有をかき集めれば幸福が続くと真剣に考えるのです。ですがその道中にあって何度も絶望的な体験を繰り返すことに、それは大失恋かもしれない、大失敗、倒産、投獄、大借金、裏切り、、、有を信じ切った有(体)の絶望体験です。もう有に頼る、依存するのは辞めよう、、、これをいかに早く気づけるかが無への入り口になります。形あるモノへの関心興味が壊滅的になくなった時に自分(有)の中にとてつもない偉大な無があることに気づくのです。有(自分)を常に観察し認識し続けてきた存在、、確実に私はいると言い切れる根拠こそが別次元の自分(無)です。全てはこの自分(無)の中でこの有としての自分ドラマが繰り広げられてきただけだったという驚異的な気づきが起こります。

感情解消に思考を使うとドラマから逃れられない

思考とはこの「世」を作り出す機能

負の感情が湧いてきた時に多くの方は思考をフル回転してこの解消を行います。思考に絶対的な信頼を寄せる人間は負の感情が湧いた時こそ思考の出番、これを行います。ですがこれには大きな落とし穴が、、、思考とはこの世界を作り出す張本人だということです。この分離した世界は世の中の現象に対し名前を付けることで形成されているのです。例えば渋谷のセンター街に行くとしましょう、もしもそこに知り合いがいたらあなたはどうするか?確実に相手を見ます、相手に注目します。その瞬間にその相手以外は景色になるのです。このメカニズムを理解できたでしょうか?何千人という他の人間が風景になり名前を知っている人間だけがあなたの世界に飛び込んでくるのです。つまり人間とは名前をつけたモノだけが視界に飛び込んでくる世界なのです。この世は名前世界なのです。

思考はこの役目を担う

思考はこの視界に名前をつけこの人間に名前がついているモノに注目させます。名前がついているモノを毎日見て人間は生きているのです、逆に言えば名前がついた世界の中に生きているのが人間なのです。負の感情が湧き出した時に思考をフル回転してこの解消に臨むとどうなるか、、思考が強化されていきます。つまり人間は益々あなたの思考の世界に住むことになるのです、そしてその世界には居る自分自身は違和感を感じその違和感が負の感情になって湧き出してくるのです。そしてその感情をまた思考を駆使して解決を図ります。これが人間を苦しみのループから逃さない方法です。

人間ドラマからの脱却

負の感情を思考を駆使して解消すれば思考世界に人間はより没入するようになります。この世界は活気がなく退屈で生気がありません、居心地の悪い世界なのです。この世界から脱出する唯一の方法は負の感情が湧いた時に思考に頼らないことです、思考に頼ってその場しのぎの解決をするのではなくその感情をしっかりと観察します。その感情観察に集中します。その感情観察をするために今に在るようにします。感情観察から無心無我に入っていくのです。これで思考のループから脱却できます、思考の無限地獄から脱却できます。