アイデンティティ

アイデンティティのシフト

渋谷のスクランブル交差点

渋谷のスクランブル交差点で、、何千人もの人々が目の前を歩いています。そこに田舎からでてきた「私」が一人歩きます、、たった一人、、、孤独感、寂しさ、虚しさ、無力感あらゆる感情が湧き出します。これが私をやるということです。一方事業で成功し仲間を引き連れて渋谷で飲み明かしている人が居ます、、、、恍惚感、達成感、自信あらゆる感情が湧くでしょう、、これも私の人生です。多くの人々はこの両極の中を行ったり来たりしているわけです。

真の安らぎの中に

その中で孤独も感じず、恍惚感も感じない、不幸も感じることなく達成感も感じていない人が居ます。それがもうこの体の中には自分が居ないことに気付いた人です。気づきとはこの体の中で起こるのではなく、、本当の自分から直接くることに気付いた人です。全現象、見える世界を作り出し、それに気づく存在、、それが本当の私です。「別次元の何か」からこの現象が湧き出し同時に気づかれる、、この体もこの思考もこの感情も然り、、、、この気づきが起きますと、、、人間としての感情から解放され、、、ただ真の安らぎの中に居れます。

人間脱出が素晴らしいのではない

この体の中に「自分」が居て、、、という思い込みが悪いのではありません、、、全ての現象は「別次元の何か」から起きることでありその現象に優劣などありえないのです。ですから悪いとか良いとかは一切ないのです。ですが今ある苦しみ、今ある憤り、本当は誰だ????という真の疑問がもう湧いてこなくなるのは真実です。本当に我々が求めていたのは「これ」だったという気づきが起きます。

見た目を異常に気にする人の心理

見た目=自分自身

「この体この思考が自分」という思考を真実だと勘違いしている人は、、、見た目を異常に気にする、、という可能性が高くなります。この体=自分自身ですから、、この体の評価=自分自身の評価です。つまり見た目を異常に気にすることが起きるのです。そして見た目を否定されるということは同時に自分自身の存在そのものを否定されることになり生きていけない、、となります。年齢を重ね自身の見た目に自信が無くなってくると途端に老け込む、、という場合もあるでしょう。

見た目の誹謗中傷、賛否が異常に多い理由

SNSでは可愛い!!キュート!!神!!!と見た目への評価が異常に多いのはなぜか????皆この体を自分自身と定義しているので、、そこを評価したくなるし評価されたくなるのです。SNSで自身の写真が評価を受けると自分自身の自己評価が上がり、、酷評されれば死にたくなるほどに自己嫌悪に陥るのです。「この体が自分」という間違った固定観念がそうさせるのです。

大いなる存在=自分自身

大いなる存在=自分自身とアイデンティティのシフトに成功した場合、、、もう見た目の評価で一喜一憂することがなくなります。見た目の否定=自分自身の否定にはならないからです。見た目は大いなる存在の表現の一部になります、その時評価は遊びの一つになるのです。小さい子供が見た目を気にしないのは「この体が自分自身」という概念が強化されていないからです。大いなる存在の表現としてまだそこに居るのです。

思考の否定は「偽りの自分」の否定

絶対に負けられない戦い

人と議論をする際に、、、負け戦になりそうになると瞬時に逃げ出してしまうか怒り出してしまうか、、とにかく冷静な話し合いになれない人っています。こちらはただ議論を重ねて整理したいだけにも関わらずこのまま行くと自分の意見が否定されることになるという雰囲気を感じた途端に怒りだすか逃げ出すのです。結局重要な部分を話し合えないがために問題が解決しない方向に行くのです。なぜ、、、話の内容、意見を否定されることを極端に恐れる人が存在するのでしょうか????

思考=自分自身

「この体この思考が自分」という固定観念を持っていますと、、意見を否定される=自分自身を否定されるになります。自分自身の存在そのものを否定されることになることから、、負け戦には参加しないとなるのです。自分自身の存在(意見)を否定されるぐらいならば、、この場からは撤退させて頂きます、、です。意見を否定されると生きていく自信すらなくなる、、当然です、その人の全て(思考)を否定されてしまったら何を頼りに生きていけばいいのか???です。

偽りのアイデンティティ(思考)の過剰防衛

「この体この思考が自分」これが真実ならば、、、議論で負けたぐらいでは自分の存在はビクリともしない、崩壊しないはずなんですね!!ところがなぜ過剰防衛をしなくてはならないかと言えば、、それがフェイクだからです。フェイクだからこそ思考を否定されてしまうと存続できないのです。偽りの自分(体と思考)を維持していくためには「私=思考」を否定されてしまっては困るのです。急所をナイフで刺される前に怒り出して撤退するかそのまま撤退すかになるのです。

本当のアイデンティティに居る場合

「この体この思考が自分」という概念から脱出できて、、大いなる存在こそが自分という境地にいる場合、、この体この思考が否定されても全くダメージがないということになります。なぜならばそれは大いなる存在(真の自分)から湧き出た現象でしかなく全体の一部でしかないからです。そこ(体と思考)にアイデンティティがないからこそどれほど攻撃を受けても傷つくことができないのです。

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。

父親が怖くて、、、

父の存在に悩んでいます、、

残念ながら、、この父親は幻想です、、幻想としての活動があるだけ、、、この幻想の活動が気に入らないのならば、、、逃げればいい、、、、「いや残された父が心配で、、、、」ですので父親は実在しないのです、、、父親というアイデンティティーが存在しますが、、これは思考、幻想です、、、父親と呼ばれる幻想の活動があるだけです、、、ですからそれを心配するのはエンタメです。。。

母親が病弱で、、

母親が病弱で、、、今後介護をしなくてはならないのでしょうか????母親は幻想です、、母親という幻想活動をしています、、人格も、、性格も、、個性も、、、幻想です、、、この幻想を助けるのが楽しいならやればいい、、辛いならばやる必要は全く無い、、、幻想ですから、、、、見捨てろ!!と言うんですか????違います、、幻想を見捨てることができないのです、、居ないんですから。

悟りとは個人の精神的抹殺

個人を抹殺する

悟りとは個人の精神的抹殺です、、、、個人がこの体の中に居るという思考、感覚を抹殺します。個人という存在が形成されたメカニズムを解説し、、個人が在るという思考が二度と出てこないようにすることです。天動説を真剣に信じ込んできた個人に、、地動説を解き、、、その個人が完全な理解を示した時に、、、それでも天動説を信じようという思考の動きが消えます。。。これが悟りです。個人の不在を完全に理解することです。

どのようにして個人が築きあげられたか

個人という存在が確立することを自我が形成されると言います、、まさにその通り、、、元々人間には自我が存在しないのです、、徐々に徐々に自我が形成されるように周囲からの声かけ、学習が行われるのです、、、「水泳で一番を取った私、、テストで0点を取った私、学校で人気者になった私」という記憶の全てがその個人を強固にしていき、、その記憶の全てが、、、価値観になっていくのです。

自我の形成を俯瞰すれば、、、俯瞰する存在が真我

自我の形成がなぜ起きるかといえば、、生命維持にとって有効だからです。。。先ず自分の名前が言えなければ就職できませんから、、食べていけない、、、、この体の中には名前があって、、その名前を意味する、、アイデンティティー、自己が存在するという思考を築くのです。すっかりと自分という存在がこの体の中に居るという思考、感覚が馴染みますと、、、この体の中の自分というストーリーがそこから展開していきます。この体が感じる全てをこの個人の経験として蓄積していくのです、、この記憶が個人を確定的なものにし、、年齢を重ねれば重ねるほどに、、、記憶、個人は大きく膨らんでいくのです。その膨らみは同時に苦しみの膨らみになりますから、、、どこかで弾け飛ぶか、、、悟りへの理解に進むのです。

最後の気づきが個人を壊しこれまでの全てを壊す

人間として価値観を積み上げるのは正しい

人間はこの体の中にアイデンティティーがあるという思考を学ぶますと、、このアイデンティティー、自我を通じた世界を経験していくことになります、、、この自分が何を経験したかが全部が全部記憶されていき、、太い太い価値観を徐々に形成していくのです。。戦争を経験した個人は、、食べていくためのお金は絶対に大切だという価値観が築かれ、、、災害を経験した個人は、、全ての財産は一瞬で奪われるという価値観が深く刻まれます。全くもって反対の価値観を各個人が所有していくのは、、、個人は置かれた環境、状況によって全く異なった経験を積むからです。個人とは価値観製造マシーンなのです。

価値観の共有は不可能

個人としての個人体験が全員が全員異なるわけですから、、、価値観は全員が異なります、、これがこの夢の世界での絶対的真理です。。人間関係とは価値観が全く異なる同士の関係ゆえに難しいのです、、、そしてそれぞれの価値観がなんであれ正しい価値観は一切存在しないのがどこまでいっても価値観はその人の経験からしか生まれないからです。私の価値観、他人の価値観には完全なるズレが生じます。これが個人間の争い、戦争に繋がります。

価値観自体を壊す

つまり人間は各々の独自の価値観を所有し、、その価値観に沿った世界を今見ています、、全く異なった世界を今みんなが生きているのです、、、、そしてどのような価値観を持とうと、、、その価値観は個人という存在を絶対的なものにしますから、、、全員が苦しくなるという共通点があります。逆に言えば苦しくない人は存在しないのです、、、ですから個人の最終目標は全員が同じ、個人を終わることです、、、個人を終わるにはどうsればいいのか????簡単です、、個人が全くもって存在しないことを確認すればいいのです。この体の中に個人が居るという価値観を注意深く観察し、、実在していないことを見抜くのです。これで今までの観念、価値観、、個人が居るという大前提で起こった価値観を粉砕します。個人は何も経験していなかったのですから価値観、観念はビル崩壊のように砕け散ります。

何でもできるようになる???

真逆

悟れば何でもできるようになる???真逆です、、、、機能としての自分しかそこに居ないという気づきです。。体が強い自分は、、この体を機能としとしてより役に立たせる方向に行くかもしれません、、、言語が得意な自分は、、言語を生かした機能といて役に立っていくかもしれません、、、自分とは機能に過ぎないという徹底的にドライな捉え方です。

機能になるのが気持ちが良い

歯車の一部、、、社会の歯車の一部になるのが面白くない、、、エゴはそう考えるでしょう、、、全く満足できないからです。。この自分を機能ではなく、、アイデンティティーとして捉えれば、、もっともっと自分を大きくしたくなるわけです、、、ですが機能に過ぎないのです。。この体は、、、、ですが今まで思っていたエゴとしての自分はこんな小さなものではなく全体、森羅万象全部、気づきの意識そのものなのです、、、体は機能に過ぎません、、ですから歯車の一部でしかありません。

意識と体の徹底分離

意識は壮大で全部、ですがこの体は社会の機能の一部でしかない、、これが事実、真実です。、、、ここを徹底的に分離させます、、、ここを分離できない場合、、、この体を大きく大きく見せようとする動きが始まりますがこれが苦しみのもとです。意識はこの宇宙、見える世界を今作り出している張本人です、、ですがこの体はその中の現象の一部でしかない、、どこまでいっても機能でしかありません。

神羅万象とは、、

神羅万象しか無かった、、、

この世界を表現する時に、、、神羅万象という言葉を使います、、、この言葉は本当に核心を突いています。神が万物の形のような姿をしている現象界です。。。本当にその通り、、そのままです。。。そうなると一つだけ問題があります、、それはこの「私」はどうなるのか????ということです。この私は何なのか???というわけです。。。神羅万象が広がることは分かった、、、ではこの私は何ものか????これこそが神羅万象の一部に過ぎません、、、神羅万象以外が存在してしまったらこの世界は神羅万象ではなくなってしまいます。

この私も神羅万象

この私も神羅万象、、、そうです、、この体は神羅万象の一つです、、その証拠にこの体は毎日変わります、体調は毎日変わるし、髪も毎日伸びる、、気分も毎日変わる、、、、これぞ神羅万象でしょう、、、じゃあこの自分というアイデンティティ、人格、自我は何なのか????これも森羅万象です、、、神羅万象の表現です、、、いやいや、、、この思考は自分が独断と偏見で行っていますけど、、、、違います、、その錯覚が起こってるのです、、神羅万象として、、、

神は神が作った神羅万象の中で遊ぶ

この自分もこの世界も神羅万象、、、そしてこの世界の中に自分を作り出し右往左往を起こし遊んでいきます。この自分も当然森羅万象の一部、、この経験も神羅万象です。。。神は神であることに飽きて、、、神以外を作った(神羅万象)、、これは神のアートです、、そしてその中に自分というアートを作り、、この自分人生というアートも作ったのです。主人公は神ですからこの自分人生はしんどいわけです、、だからこの自分は悟り(神帰り)を目指すのです。

この体が蜃気楼ならば今この目で見ている景色はなんだ?

あなたは今何を見ているのか???

この体が蜃気楼で友人の体も蜃気楼、妻の体も蜃気楼だということは分かった、ではなぜこの蜃気楼であるこの私の体はしっかりとこの目で景色を見ることができるのか???蜃気楼ならば見ることが出来るのはおかしいではないか???答えをお伝えします、、この体が蜃気楼なのだからこの体が景色を見ることなど絶対にできません、そうではなくただ今目の前に広がる現象(蜃気楼)をこの蜃気楼(自分)が見ていると錯覚が起こっているのです。移り変わる蜃気楼をこの蜃気楼(自分)が見ているという錯覚が起こっています。自分が右を向いたから景色が変わったのではありません、景色が変わったから右を見ているという錯覚が起こっているのです。

歩いたから景色が変わったのではない

自分が歩いたから景色が変わったのではありません、景色が変わったから自分が歩いたと錯覚を起こしているのです。自分が走ったから景色が急速に変わったのではありません、急速に景色が変わったから走ったと勘違いが起きたのです。景色が変わるのは分かった、だがこの体の動きは確実に在るではないか???違います、この体という映像が動きているだけです。景色の映像変化とこの体の映像変化の合わせ技で歩いたり走ったりしているような錯覚が起きるのです。

これってグーグルグラスと同じでは?

そうですグーグルグラスの完全版こそがこの現実と呼ばれている世界です。グーグルグラスの中にこの自分の体、自分という存在が登場しているのがこの世界です。グーグルグラスの中にこの自分の体も自分も居ますから全部ファンタジーなのです。この体もファンタイジー、この自分というアイデンティティーもファンタジーです。悟りとはこのグーグルグラスを外して、、この体も自分も居なかったと気づくことです。では誰がこのグーグルグラスを外すのか??それは根源です。実際にはグーグルグラスを外すような行為はなく、、根源からこの体も自分も幻想だったいう気づきが起きるだけです。