植物は存在があるがままに顕現した姿

なぜ人は花や植物に魅せられるのか

人は植物や花、木々に魅せられます。そこには存在があるがままに顕現した姿があります。本当は全ての物、生命体は存在の顕現です。人間も勿論その一つです。存在の多様性こそがこの世です。それ以外はありません。ですから花も人間も植物も存在の顕現の多様性そのもの。人間が花や木々に魅せられるのは花や木々は存在の顕現をより美しく見せてくれているからです。自身が分離した存在ではなく存在の顕現であることを思い出させてくれるヒントになるのです。

なぜ人は子犬や赤ちゃんに魅せられるのか

なぜ人は子犬や赤ちゃんに魅せられるのか?それはそこに存在を強く感じるからです。個別の存在ではなくそこに無限の存在の顕れを感じるからです。そもそもそこには分離した存在はなく全ては存在の多様性であると。大いなる一つが自由に顕現しているだけだと本質が感じているのです。人間だけが自身を分離した存在であると錯覚しそれゆえに孤独、不足、欠乏を感じています。

なぜ人はピカソの絵に魅せられるのか

なぜ人はピカソ、ゴッホの絵に魅せられるのか、モーツワルト、ベートーベンの音楽に魅せられるのか。。それはそこに存在の顕を見るからです。大いなる一つの表現を感じるからです。そこには個別の個人が描いたただの作品ではなく大いなる一つが顕現した作品を見るからです。個別の自我がその絵や音楽に触れた時にその奥にある存在が存在に触れる、、そこに自我の介在が消える。だからこそ人は大金を払ってでもそれを手に入れようとするわけです。存在が存在に気づく出会いです。

真理は思考ではない

真理の場所はどこにある?

真理、存在を探してもどこにもありません。それは個人が探求して探すことで逆に真理、存在は隠れてしまうからです。探すという行為が真理を隠します。探すということは主体客体の世界、どこかに見つかる世界があるという矛盾を生みます。この二元の世界こそが分離の世界、この分離の世界に真理、存在はありません。分離の世界に存在するのは時間と空間という幻想がただあります。夢が広がるだけです。

真理は夢から覚めること

真理、存在は個人が存在するこの夢から覚めることを意味します。夢から醒めればただ存在だけがあります。そして夢から覚める張本人は個人ではなく存在自体です。個人の欠落、自我の欠落が存在です。存在を覆い隠してきた個人が欠落することで存在が存在を見つけるのです。個人とは存在を隠すための隠蓑です。自我とそしてそこから繰り広げられる夢舞台は存在が創造する夢です。

キリストも釈迦も夢の登場人物

キリストも釈迦も夢舞台の登場人物であることは間違いありません。つまり個人ではなくただの生命現象、存在の顕現でしかありません。ですが彼らが説いた内容は真理を説明していました。人間という誤解、錯覚を解いた先に真理、存在、大いなる一つがあると説きました。人間としていかに生きるか、何が正しいか、何を正義に生きるかを説いたとされる諸説は全て嘘です。どのような生き方が清く美しく、どのような生き方が不純で卑しいかという考え方は観念でありその観念に縛られている限り解放はありません。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。

ソウルメイトを探す無意味さ

ソウルメイトは自我が作り出したエンタメ

スピリチュアルの分野ではソウルメイトという魂の縁が深い関係の存在がいると言われています。例えば親や兄弟、親友や恋人、、、などなど現世での関係だけでなく過去世、来世と繋がる関係性。自我は延命措置、自己保存が大好きですから今世が終わっても来世とこの自我を持ち越したいのです。その中でもこのソウルメイトという考え方は自我の存在をより強固にできるアイデア、エンタメです。このアイデアを心から信じれば当然そのような現実を認知することもできます。それが観念です。

ソウルメイトを追いかけている限り至福には至れない

ソウルメイトという考え方自体は素敵な考え方ですがこの考え方に執着していても至福には至れません。ソウルメイト、自我、個人という者がこの世には絶対的に存在するという考え方は分離を意味しますがこの分離こそが苦しみを作り出すメカニズムです。この世には分離した独自の存在はいないという事実を理解する以外に至福に至る方法はないのです。そして至福に至るのは当然個人ではなく個人の消滅です。

個人の欠落、魂の欠落、、、消えてなくなった時に至福がそこにある

まさか自分自身の存在がこの苦悩の原因とは、、こんな落ちはあるでしょうか。吉本新喜劇のズッコケです。自分自身の存在がただ苦しみを作り出していたとはこんなギャグ、ジョーク、、、信じられない結末です。一体この幸福を懸命に追い求め努力してきた我が人生は何だったのか。。。究極のどんでん返し、究極の勘違い、、究極の誤解です。

なぜ存在、大いなる一つを言葉で説明することができないか

言葉で説明できることは自我の説明

大いなる一つ、存在とは何かを言葉で説明するのがなぜ難しいのか。それは言葉を使っている存在(自我)自体が存在を見えなくしているからです。つまり存在とは自我がいない時に出現するもの、それを言葉(自我)を使って説明するのは至難の技なのです。ですから書道、茶道、剣道でも真髄は言語で説明できないところにあると説くのです。所作の中から存在、大いなる一つを感じるものであり言葉で説明できるものではないのです。もしもそれが可能ならば通信教育で事は足ります。

お味噌汁の美味しさを言葉で正確に伝えるのは不可能

外国人の方にお味噌汁の美味しさを正確に伝えることは不可能でしょう。外向人の方に納豆の美味しさを言葉で伝えるのは不可能です。あの味を正確に表現できる言葉などありません。つまり言葉には限界がありにも関わらず現代人はその言葉で至福に至る方法までも手に入れようとするところに苦しみが始まります。言葉で悟りを理解する、解放を理解できるのならば中学生は皆学校でこれを学ぶだけでいいはずです、ですがそうは簡単にいかにのはそれが言葉を超えた存在だからです。

マインドが必死に至福を探しても見つからない理由

マインド、思考、これを自分自身と絶対視することが自我の証明です。湧き上がるマインド、思考こそを自分自身と捉えることで苦しみが始まります。そのマインドを強化することで至福、存在、自由に至れると勘違いすることが苦しみです。マインドを自身と勘違いすることこそが苦しみの原因ですからこれを疑うこと、これを自分と勘違いしないことこそが至福に至る唯一の方法になります。

一番の興味の関心を解脱、解放、目覚めに向けれえるか

夢の中での損得に奔走される自我

多くの方はこの夢の中でいかに快適に、楽しく、できる限り苦労からは遠ざかり生きていくかに奔走しながら生きています。そしてその作戦は多くの場合良く働くこともあれば悪く働くこともありその間を行き来しながら生きていきます。人生楽あれば具ありを地でいくのです。そして人生のどこかでこの企みが不毛であると感じた人から夢から覚めるという常識から外れたチャレンジに興味を持ち始めるのです。

夢から覚めることに興味が湧くのはなぜか?

この夢から覚めたいのは誰なのか?自我に奔走されて毎日を慌ただしく生きほとほと疲れ果てた存在、意識がもう無意識では生きられないと諦めた時に夢から覚めることを心待ちにするようのなるのです。しかもそれがなんとなく夢から覚めたいではなく夢から覚める以外興味がないぐらいの覚悟に変わると後はただ変化が起きるのを待つだけになります。

これは観念の書き換えではない

観念の書き換えは、今後の人生戦略の変更です。思考を変える、哲学を変える、観念を変える方法は本屋に行けば山ほどのマニュアルがありますがこれは全て自我の書き換え方法です。より確実に自我が生存していくための創意工夫になります。ですがこのブログでお伝えしている内容は自我の生存戦略のためのノウハウではありません。これは自我の策略、自我の生存戦略を見抜き、夢から覚める方法をお伝えしています。

自分が至福を見つけるのではなく、至福が自分を見つける

幸福のジレンマ

至福とは自分がそこに至るものではありません、自分の不在、自分の欠落、無我がそこに至らせます。無我が自分を至福に至らせるのではありません、自分の欠落時こそが至福です。至福の時には自分がいないのです。ここは非常に重要なポイントになります。自分が至福に至ろうと必死に頑張っている時は至福に至れません。至る自分がいなくなった時が至福です。ですから至福が自分を見つけるという表現も正確には間違いです。一生懸命幸福になろうと自分が頑張っている時は幸福には至れないということになります。自分が至れるのは刺激としての幸福です、この刺激は明日になれば消えてなくなります。

自分の不在を意図的に作るなどありえるのか

自分の不在など意図的に作れるのか?これについては面白い事実があります、例えば朝きて歯磨きをしてシャワーを浴び、朝食を食べるという流れの中で本当に自分を意識しているのだろうか、ということです。恐らくほとんどの人は自分を意識していないはずです。自分を意識して歯磨きをしている人間はよっぽどのナルシスト、自意識過剰人間でしょう。つまり多くの方は他人との関係の中でぐらいしか自分を意識していないのです。ですがこの後付けの自分というアイデア、概念、思想が不足感、欠乏感、渇望間を煽るのです。逆にいえば人はいつでもどこでも自己の不在、無我に入れる証拠でもあります。

何を希望に人は生きているのか

人間に希望などない

夢も希望もない話をすれば人間に希望などありません、いつか幸福になれるという幻想を抱き続ける人間に希望などない、これが真実です。極限を言ってしまえば人間=絶望です。なぜならば人間という初期設定が錯覚だからです。もちろんこの心身こそ自分という思い込むメカニズムも存在のなせる技です。ですから神が自分に技をかけている状態、その技とは必殺不足地獄です。一度この技を仕掛けれたら最後、この技を解けるのは人間である自分ではありません、それはこの技をかけている張本人、そう神、存在、大いなる一つだけです。

神よ、この技を速やかに解いてくれ

とはいえ人間にも全く光がないわけではありません。例えば眠りに落ちる際にこれをテクニックとして説明できる人はいないはずです。よし今から寝ようと覚悟を決めて寝ることはできませんが眠りに落ちる感覚がなんとなく把握しているはずです。これはこの必殺不足地獄も同じ、人は何かに没入することで無我夢中になることでこの必殺不足地獄から一時的に抜けれることを知っています。自我がない状態、無我に入る状態をどこかのタイミングで知ります。故にサーフィンやロッククライミング、レースなど極限状態に自身を追い込むことでこの状態に入る輩もいます。そうではなく掃除や仕事、子育てや、友人との会話、これら全て人間行為の中でこの無我に入る感覚を掴む人もいます、これを達人と世の人々は呼ぶわけです。

茶道や剣道、柔道など道がつく人間行為はこれを説いていた

日本に昔からある茶道や剣道、柔道などの世界は実はこれを説いていました。道を極めるというこの動作の中でそのまま悟りに入る、無我に入る、存在と共にあることを説いていました。感覚でそこを掴むことを道と説いたのです。道の先に神がいるのではなく道を歩むその道こそが神、存在、大いなる一つであるということです。仕事から悟りに入る、食事から悟りに入る、掃除から悟りに入る、、全て行為から悟りに入る、これしか人間が苦痛、絶望から解放される方法はありません。最後は悟りが人間を見つけ、自由が人間を見つけ、至福が人間を見つけます。

目標を達成してもしなくても地獄

不足感を解消してもしなくても地獄

人間は不足感を抱き続ける動物です。人間が私は人間であるという自覚を持った瞬間に不足感が生まれます。全存在、いや存在しかないこの世界に個人という錯覚、幻想を抱いた瞬間に個人以外の他が生まれます。極小の自分の誕生と同時に壮大な他の世界が誕生します。ですがこれは自身に対する無価値観も同時に生み出すのです。それはそうです、見える世界全てからこの体だけが自分に縮小化された存在は息苦しくて仕方ないのです。そしてこの自分と称する存在に浮かび上がる思考は自分では到底コントロールできないという始末、無価値にも関わらずさらに思考する全くコントロールできないという無限地獄に苛まされるのがこの人間ゲーム、自我ゲームの真相です。これで人生最高、幸福、ハッピーしかないと宣っている人間がいたらそれは大嘘つきということになります。

苦しくて当たり前、苦しくないとしたら頭がおかしい

全存在がこの人間という体、思考のみを自分自身と勘違いすることからこの人間ゲームはスタートするわけですから人間のデフォルトは苦痛、不足、欠乏です。苦しいのがデフォルトであって幸福がデフォルトでは決してありません。ですから人間は普通に生きていれば苦しさだけがあります、この事実を先ずは認めなくてはなりません。その上でいかにこの苦しみから解放されるかが唯一の目標、夢になります。なぜ人間はお金持ちと結婚したら、良い会社に就職できたら、良いパートナーに巡り合えたら、、、いつか幸福になれると幻想を抱き続けるのはこの苦しみから逃れる方法があると思い込んでいるからです。ですが実際はそのような不足感を埋めてくれるような対象などあるわけがないのです。なぜならばそもそも対象と苦痛とは何も関係がないからです。

対象と苦痛とは何も関係がないにも関わらず

対象と苦痛が何も関係がないにも関わらず人間はなぜ埋めてくれるだろう対象を探し続けるのか。それはそれにしか希望が持てないからです。目に見える何かしか私の欠乏を埋めることができないと信じるぐらいしか希望がないのです。故に人間は愛人、お金、地位や名誉、安定という対象を求め続ける人生を歩むのです。ではもしもこれらの対象が人間の不足感を埋めることができないとしたらどうしたら良いのでしょうか。そうです、不足感を対象で埋めるのではなく苦しみの根源である自我を追いやるしかありません。行為に没入することで無我の状態に入り徐々に無我の状態にシフトしていく。今ここで無我に入ることで自我を追いやる、これしかありません。夢から覚めた感覚、至福の感覚を今感じることで至福に見つけてもらうことしかありません。無我に入り込むことで無我に見つけてもらうしかないのです。

病気にしがみつく自我

病気は便利なアイデンティティー

病気に好きでなる人はいない、病気を手放そうとしない人もいない、これが世間の一般常識です。自ら好き好んで病気になるなどあるわけがないのです。ですが実際には違います、病気は自我にとっては大好物、病気になれば病気の私という強烈なアイデンティティーを築けるのです。そんなわけがない、、、多くの病気に苦しむ方は困惑するでしょう、ですが自我は病気の時の自分を強烈に意識できるのです。これが自我が病気を手放さないメカニズムです。調子の悪い私、体調不良の私は、、だからこそ大切に扱ってほしい、だからこそ慎重に扱ってもらえる、、、といった生存戦略が効果的なのを熟知しています。こうして自我は病気を利用して生存を継続していくのです。

体調が悪い=特別視してもらえる

自我は熟知しています、病人は特別視してもらえる、病人は大切に扱ってもらえる、病人は高待遇をえられると。ですから自我は病気をなかなか手放そうとしないのです。自営業者では有名な話ですが自営業になると風邪をひかない、、これはなぜかと言えば風邪を引けば売り上げが少なくなって損しかないからです。風邪をひいたお店のオーナーの店に好き好んで行く人はいないのです。自我は基本損得しかありませんから風邪を引くメリットがなければ絶対に風邪をひかないのです。

体調に悩む人は体調不良を利用する自我に気づくチャンス

体調不良は自我の大好物であることを先ずは気づくことが重要です、そして体調不良を直したいならば運動や食事を義務としてやるのではなくそこに無我夢中になることでそこから悟りに入ることが最重要です。運動や食事に集中することでそこから悟りに入るのです。そこから無我の境地、至福の境地に至ります。