自分が至福を見つけるのではなく、至福が自分を見つける

幸福のジレンマ

至福とは自分がそこに至るものではありません、自分の不在、自分の欠落、無我がそこに至らせます。無我が自分を至福に至らせるのではありません、自分の欠落時こそが至福です。至福の時には自分がいないのです。ここは非常に重要なポイントになります。自分が至福に至ろうと必死に頑張っている時は至福に至れません。至る自分がいなくなった時が至福です。ですから至福が自分を見つけるという表現も正確には間違いです。一生懸命幸福になろうと自分が頑張っている時は幸福には至れないということになります。自分が至れるのは刺激としての幸福です、この刺激は明日になれば消えてなくなります。

自分の不在を意図的に作るなどありえるのか

自分の不在など意図的に作れるのか?これについては面白い事実があります、例えば朝きて歯磨きをしてシャワーを浴び、朝食を食べるという流れの中で本当に自分を意識しているのだろうか、ということです。恐らくほとんどの人は自分を意識していないはずです。自分を意識して歯磨きをしている人間はよっぽどのナルシスト、自意識過剰人間でしょう。つまり多くの方は他人との関係の中でぐらいしか自分を意識していないのです。ですがこの後付けの自分というアイデア、概念、思想が不足感、欠乏感、渇望間を煽るのです。逆にいえば人はいつでもどこでも自己の不在、無我に入れる証拠でもあります。

(Visited 4 times, 1 visits today)