真実

サナギの脱皮

幼虫から蝶へ

悟りは幼虫から蝶への変身に例えられますが、、まさにその通り、、これは原型が全く変わってしまう、、今まではこの体の中に自分が居ると思っていた、、、それがこの全部が自分だった、、この体も自分で、、この体の中に自分が居るという思考も自分、、、全部が全部自分、、、という自分のパラダイムシフトです。

ただその自分は全くの不自由意志

ですがその自分とは全くの不自由意志、ノーコントロール、、、自由意志など全く存在しない存在、、ただの化学反応、、この体も思考も、感情も、行動も完全にノーコントロールというとんでもない事実、、、これだけが真実、、変化、易、諸行無常、、ノーコントロール、、、

自分が居ないを分かった自分

自分が居ないことが分かったもう一つの自分を作り出せば、、、その自分が教祖になって、、、宗教を作ります、、ですがその自分とは全くのノーコントロール、大自然でしかないことが分かると、、、救うべき人、救わなくてはならない人も誰も居ないという気づきが起きます、、、これは自我の拡大ではなく、、自我の消滅なのです。

委ねる

本当の美しさとは

本当の美しさとは、、委ね切った動きです、、全体に、森羅万象に委ね切った動きこそが美しい動きなのです、、そこには計算がなく皮算用がなく、、動きに任せる動きが起こります、、、自我は計算に継ぐ計算、皮算用に次ぐ皮算用、小賢しさに次ぐ小賢しさ、、これしかない、、、全く美しくない、、、

委ねるには

委ねるには、、、真実を知ることです、、、真実に照準を定め、、真実を手放さないことです、、ギュッと握って、、、手放さない、、、そこにしか至福、静寂、平和がないことを悟ることです、、、この現実社会が100パーセント実在しないのは分かっているのです、、「モノがある」という感覚は100%錯覚なのは分かっているのです、、、なぜならば、、、理屈上ありえないから。

だとすれば

私など絶対に居ないことはわかり切っているのです、、だとすればこの全てが自分でしかない、、そこにしか可能性はない、、その感覚でこの世界を見渡します、、「在る」という感覚が間違いなくあり、、この感覚だけが真実、、、それ以外は全て錯覚、、エネルギーの現れに過ぎないことを悟ります、、その時にこの世界は完全無欠であることに気づきます、、、何も問題など起きたことがなく、、、これからも起きないことが分かります。

全員が病気

人間は病気

気を病むことを病気と言うならば、、人間は全員が病気でしょう、、、なぜならば真実ではないことを真実だと勘違いている状態が人間ですから。本来はHUMAN BEING 人間という形をとった存在、、ですから病気ではありません。ですが現実は、、、HUMANのみ、、、誰しも病気です。

意識がこの私物語に夢中になる

我々の本来の存在「意識」が私物語に夢中になっている状態、、これが現実と呼ばれる世界です。夢中とはまさに言い得て妙、、そのままです。意識が私物語に夢中になって夢の中に居ます。。。。このまま、、、夢中になって何がまずい、、、、まずくはない、、、ですが、、、、ちびまる子ちゃんになりきった子供はTV画面を見ながら、、至福に浸ることはないでしょう、、、なぜならば、、、ちびまる子ちゃんは実在しないために、、まるちゃんがどんなにアニメの中で人気者になっても至福感が継続しないのです、、毎回毎回、、まるちゃんに良いことが起き続けても、、退屈に苦しむでしょう。。。まるちゃんに良いことが起き続けたら子供は飽きてTVを切るでしょう、、なぜか???まるちゃんではないから、、まるちゃんに良いことが起き続ける=至福にはならないからです。つまりこの人間の体を自分だと勘違いしている間は、、10億円の宝くじに当たっても幸福になれないのです、、つまり人間はないからです、、、本当は。

TVを見るとは、、、

TVを観るとは実は、、、人間が見ているのではありません、、、人間は実在しないのでTVを観ることはできません、、本当は「意識』が中の丸ちゃんを自分だと勘違いするが起き、まるちゃんに意識がフォーカスしたのです。。人間にフォーカスが当たっていた意識が、、、まるちゃんに意識がシフトしたのです。。ただそれだけです。。そしてTVを見ていてもやはり至福にはなれないのです。。。TV番組を見終わって、、その楽しさが継続することはあり得ないのです。

意識が意識に意識する

悟りとはこれです「意識が意識に意識する」この状態です。。。意識が人間に意識するのではなく、、意識が意識そのものを意識するのです、、、、これが悟りの状態、、、人間というカゴに意識が向かず、、意識が意識そのものにフォーカスが行く状態、、、これで完璧です、、、意識が人間に意識しなくなりますと、、、至福に浸れます、、、いつでも静寂に包まれます、、、いつも平和です、、なぜならばこの現象はただ意識の中で起こり、気づきが起こり、、、それに気づく存在がいて、、、をただ繰り返す完璧なアートだからです。

友人の話

内容は何も変わらないが、、、

友人との会話、、、、普段と何も変わらないやりとり、、、でも何かが完全に違う、、、それはその話が神様の会話に聞こえる、、神が自分というこの見かけ上の「私」に話しかけてくる、、、ただ話をしているだけなのに感動が起きてくる、、、神が私の会話に反応を起こしてくれている、、勿論、、、こちらの反応も勝手に起こる、、、、もう当事者はそこには居ない。。。。でもそれが気持ちが良い。

ただの会話

会話に中身を求める、、、ただの世間話では絶対に嫌、、、とれは当事者意識の強化が生み出している可能性がある。。。完全なる分離意識が、、、何かメリットのある会話をしたくなる、、、得をしたい、、が湧いてくる、、、、ですが真実に触れてしまうと、、、、会話は神のキャッチボール、、得をする神も損をする神も存在するわけがない。

会話が起きているというただそれだけ

会話が起きている、、ただそれだけが気持ちが良い、、、起こる現象に神を感じる、、、静寂(神)から相手の声が起こるのをはっきりと感じる、、、内容ではなく、、その声の起こることが気持ちが良い、、、現象そのものを気づくだけでそれでいい。。。こんな平和な、、日常が実はすぐそこにあった、、、ただこれを隠していただけ、、、完全なる曇りガラスで、、、終わらせていた、、、曇りガラスで覆っていただけの真実が、、白い光のように輝きだす、、、

無限の鏡

この世界には無限しか存在しない

この世界は無限の鏡です、、無限の等身大の姿、、、これが色、現象界です、、、ということはこの世界には全てのジャンルで無限の成功法則が存在します、、無限のジャンルが存在し無限の成功法則、失敗法則が存在します、、それを行う行為者も無限に存在し無限の経験を得るのです。なぜならばこの鏡は無限を映し出す鏡だからです。

悟り方も無限にある

悟る、真実に気づく、、、この方法も無限に存在します、、、なぜならばこの世界は無限が映し出す鏡の映像だからです。この無限の映像の世界では無限の体験ができる、無限の悟り方がある、、、となります。ですからやり方に固執する必要は全くありません。

感じ方は無限

悟りを得る感覚、目覚める感覚は無限大にあります、、これが悟りという感覚は実在しないのです、、、これだ!!が決まっていれば、、、もうここは無限ではない、、無限の遊び場ではなくなってしまいます。ただし真実は一つです、、それはここが無限という存在の鏡だということ、、無限が無限であることを知る場所です。無限が鏡を見て「無限だ!!」と感じる場所です。

全てはただ起こるという認識が起こすドミノ

最後の答えは決まっている

最後は決まっています、、最後の最後の気づきは、、「私が神だった」という気づきです。。。この気づきは必ず最後には起きます、、ですがその前に片付けなくてはならない観念があるのです、、それが後悔です、、あそこでこうしとけば、、あの時ああいう選択肢があったはずだ、、、となります、、、これを毎日毎日毎日繰り返すわけです、、、これを止めます、、、真実の力で止めます。

全ての思考、行動はただ起こった

全ての思考、行動は完全にただ起きましと、、、、最後に気づくこと、それが「私が神だった」から逆算すれば明白です、、、神が起こしたのです、全思考、行動を、、、、そして神は自由意志でこの80億人の意思を管理するなどするわけがない、、つまり全部が全部化学反応です、、、、因果、縁起、カルマ、ダルマ、、なんでもいいんですが、、つまりは化学反応がただ起きたのです。。。

ここに気づくと

反省が湧いてこない、後悔が湧いてこない、、将来に悩まない、、期待がないが安心だけがある、、、ただの傍観者という気楽な立ち位置、、、会社で言えば、、何も責任を追わず、、何も責められない、、社長のようなもの、、、最高のポジションがいきなり用意されている、、、、今までそんなポジションが無かったのではない、、、気づきなかっただけ、、、ここからドミノが崩れます、、全くの能天気、形崩れ、、期待も不安も何もない人生が始まります。

全く疲れないから、、、

この能天気な無責任ポジションに座りますと、、、とにかく疲れない、、全く力みがない、、、すると元気が湧いてくるのです、、子供時代の朝から晩まで遊べる元気が湧いてくる、、、、、だから動ける、、仕事も楽しい、プライベートも楽しい、、、となります。。。。これがドミノです、、、そして悟りの理解が進む、、、個人の不在に気づく、、他人の不在に気付く、、、全部が全部の現れに過ぎない、、に気づく、、、神に気づく、、、

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

言葉の脅威

落語を聞けば

落語を聞いたことがある人は分かると思いますが、彼らは、、一人で4役、5役と完全にやってのけます。聞いている方はその世界観に嵌まり込み、、、時に笑い、時に大泣きまでしてしまいます。。これはいったい何が起きているのでしょうか????言葉だけ、べしゃりだけで、、なぜこんなことが起きるのか????言葉とは実はただの音の違う形態をただ連呼しているだけです、、ひとつ一つの音には当たり前ですがなんの意味もありません。。。ところがこの音を組み合わせることで、、意味が生じ始めます、、、この音の組み合わせを利用して、、我々の脳は意味を作り出し、、その意味、イメージ、概念を想像し、、、その想像の中に閉じ込めることができるのです。

優秀な落語家とは

優秀な落語家とは、、音の違いを利用したこの言葉を駆使し、、、、言葉が作り出すイメージの世界、幻想の世界に聴衆を一気に引き込み、、その世界の中にさもいるかのように導くことができます。下手な落語家とは、、、本人がイメージする力が弱いがために、、、、イメージを相手に共有する力がないのです。聞き手もこれは同じで言葉をイメージする力がなければ、、、落語を楽しむことはできません。

一人落語をしている

我々は実はこの一人落語を毎日やっています、、、何か物を見れば、、その物に対するイメージが湧き上がってきます、、、誰かに会えば、、、、その人に対するイメージが同時に湧き上がります。。。。このイメージを実在と勘違いすることで、、、本当にそのイメージに沿ったコミュニケーションを展開する、、、、相手を大金持ちとイメージしていれば、、、大金持ち対応の対応をするのです。

真実などには生きていない

我々は現実の世界にしか生きることはできません、、ですがこの現実の世界の中でイメージをガンガン言葉で作り出し、、、一人落語をしているのです、、、その落語が喜劇ならば楽しいですが悲劇ならば辛い、、、全ては自身が作り出した言葉の意味がこれを生み出してします。人は皆裏切る、、このようなイメージを人に重ねれば、、、そのようなイメージの中で生きることになるのです。

我が人生の終焉

我が人生に興味なし

我が人生、、に一点の悔いなし、、、、という言葉がありますが、、、残念ながら、、、我が人生は、、、苦しみの連続、、悔いしかないのです。。。。我が人生は実は無かった、、これが真実です。。。我が人生と思っていたこの物語が、、、実は実在していなかった、、物語という幻想以外。

我が人生が終わると

我が人生が実は無かったという気づきが起きますと、、、本当に気楽になります、、、なぜならば心配しないといけない個人が完全に居なくなるのです、、、、この体も、家族も、全部が全部その体の中には個人が居なかった、、、なんという真実、これは完全なジョークです。

誰を心配するのか???

個人という存在が居ないのですから、、、誰を心配する必要があるのでしょうか????全くありません、、、これはとんでもなく気軽な世界です、、、そして孤独???な世界にも見えます、、、ですが、、孤独も何も全体しかなく、、、この全体は無限の全体です、、、、これは孤独とは全くの逆、、、広大無辺な世界、、それが我々の本性です。

時間がないのに動く????

この現象界は、、、

我々が見ている世界は変化します、、、変化するからこそ、、時間がある、、、という思考は最強に安定します。時間とは思考、概念ではなく事実であると多くの方は信じています。間違いない、、、と。ですが真実は異なります。真実は時間はなく、、ただ変化だけがある、、、となります。そんなことがあり得るのか???ありえます。今という瞬間の現れが、、、異なった表現に変わり続けるということです。漫画のレタッチと同じ、、異なった画像の連続が動きを作るのです。

一方で

一方で、、空は全く動きません、、空は何も起きない、、ただ無限の存在のみ、、空の中で何かが起こることはない、、、それが空、絶対、、、、この現象界はあくまでその反映、反射、鏡です。。。空が全く動かないのになぜ鏡である色(現象)は動くのか???それは空とは無限の存在だからです。。無限の存在である空の鏡である色は無限を表現するのです。つまり無限の動き、無限の経験、無限の輝き、無限の香り、無限の感触、無限の味を表現します。

色(現象)が全く動かなければ

色、現象界が全く動きを見せないことがあるのか???絶対にありません、なぜならば、、それでは無限の存在の鏡ではなくなってしまいます、、色は無限の存在の鏡である以上、必ず変化を起こすのです。色は有限の世界ではなくやはり無限なのは、、無限の鏡だからです。そして今現在有限に見えているという事実がこれが夢である証拠です。変化が絶対原則のこの鏡の世界で、、全く変化が起こっていないように見えるという事実、、これが夢出である証拠です。