悟り

目を閉じれば「我在り」が広がる

この幻想ゲームを見抜くのは難しい

目を閉じると「我在り」この感覚だけが続いていきます。そして目を開けると、、視界にはこの体を中心にした世界が広がる、私と私以外の世界、、、完璧にそう見える。だから人は死ぬまでこれを見抜けません。ただ目を閉じれば常にそこには「我在り」だけの世界が広がります。そしてその上で何か音が聞こえたり、人の気配がしたらい、香りがします、、、「我在り」の世界の中にそれがただ起こります。

この幻想の世界に疲れたら

もしもこの幻想の世界に疲れたら、、、目を閉じて「我あり」の世界に入り込みます。自分というこの体を消し去ってしまい「我あり」の世界に入ります。それでも思考は湧いてくるでしょう、それでも感情は湧いてきます、、、それをそのままにしておきます。我在りの世界の中で沸かせておきます、湧いては消えていきます。音が聞こえます、それも消えます。人の気配がします、それも消えます。「我在り」の世界の中でただあらゆる現象が起こっては消えていきます。

「我在り」の世界すらも幻想

本当のことを言えば我ありの世界すらも空、絶対、無からの現れです。そこから我在りという感覚が永遠に続くだけです。我在りはその他の現象とは全く異なるのはそれが永遠で在り永続だからです。そしてその「我在り」という感覚は絶対、空の影、反映です。その存在に入ること、その存在に馴染むこと、、それが真の悟りです。

自己超越とは自我を完全に無視した境地

自我を無視し続けると自我が死ぬ

男性の多くが坂本龍馬に憧れるのは彼の行動が完全なる自己超越の境地だからです。自分という存在を完璧に忘れていないとあのような行動は取れません。だから男性は一度は坂本龍馬に憧れます。大きな目標、今の自分では絶対に成し遂げられないようなゴールに向かっていきますと「自分」を忘れます。「自分」を覚えていたら大きな目標など達成できるわけがないからです。自分が達成できないゴールに向かうから「自分」を忘れることができるのです。自己超越とはそのような行動のことです。

現在の「自分」の延長線上を目指さない

現在の自分が達成できる可能性があることを目指せば「自分」を忘れることなどできません、目標と自分が密接に繋がっているからです。そうではなく今の「自分」では絶対に達成できないような目標を設定します。すると自分の存在を完璧に忘れてしまいます、自分が消えてなくなります、自我が消えてなくなります。悟りが起こります。全体になってしまいます、全体の一部としてのこの行動が起き始めます。

私の今のゴールは「悟り」をスタンダードにすること

私の今のゴールは悟りを新し時代のスタンダードにすることです。今の私では絶対にできません、ですが今の私でなければ出来る可能性があります。そしてこのブログを書き続けています。今の私ではできない目標だからこそ自己超越に辿り着けます、自分の存在を完全に忘れることができます。自分の存在を忘れると自分が死にます、悟りが開きます、全体が現れます、この体は全体の一部として機能します。

全力で神を追い求めることで神が隠れる

行動が個人を強化するという矛盾

ある時人はこの苦しみに終止符を打ちたいと神を求めるようになります。世の中に宗教がこれだけ多いのには理由があるのです。多くの方は神を求めます。ですが矛盾するようですがこの神を求めるという行為そのものが「個人」「私」を強化することになり「神」が隠れるという結果になります。なんという皮肉でしょう。ですがこれが事実です。個人は何かを叶えたい時に行動に移します、行動するのは「個人」「私」です。ですが神とはこの「私」という意識が欠落した状態です。私という収縮したエネルギーが解放された状態のことです。

我々はこの「個人」が何かを達成するよう訓練されてきた

悟りというものがなぜいかに難しいことかと言えば、、、これまで個人がやってきたこと、成し遂げてきたこと、成就してきたこと、努力してきたことと全く逆ベクトルな場所にあるからです。目標を達成した「自分」、周囲から評価を得ることができた「自分」、地道に努力して何かを築いた「自分」この自分というエネルギーが居なくなった状態が「神」意識です。このカラクリに気付ける「自分」こそが神です。

それでも「個人」は神を追い求める

ただしこの「個人」が神を追い求めるのは全くもって自然なことでありそれが間違っているということではありません。それが普通です。個人は常に欠乏感、不足感を抱えて生きていますから、、それをどこかで解消したいと心底では強く願っています。そしてそれが何かを達成することでは成し遂げられないことも実は知っています。そうなるとその解決を神に求めるのは当然のことです。ですが真の理解とはこの当たり前に認識し続けてきた「自分」という存在こそが神を見えなくしていたという気づきです。「自分」という認識エネルギーの消滅が神を顕現させます。

最後はテクノロジーが人間を解脱させるのか??

テクノロジーの進化が解脱を生み出す

マトリックスという映画の大成功、ポケモンGOなどのリアリティーを取り入れたゲーム、バーチャルリアリティー、グーグルグラス、、、、あらゆるテクノロジーが人間というシステム、脳が作り出している世界に類似した世界を作り出します。テクノロジーが脳の機能をまるで模倣しているかのようなゲーム、ソフトが日々誕生していきます。悟りの学びをしてきた人間からするとこれってもう答えだよね、、という驚きです。

今までも人間を驚異的に変えたのは技術

考えてみれば産業革命が起こり人間の生活は圧倒的に変わりました、そして次が今起こっているIT革命、そこからのAI革命、、恐らく今回の技術革新は人間を悟らせる、解脱させるとこまでいくのではないか???そんな感覚を強烈に覚えます。バシャールが言うにはテクノロジー改革はハイアーマインドの物質化とのこと、、これも理解できます。オーバーソウル、集合意識との繋がりが強固になってくるとそこから情報が降りてきます。自我という思考の分断が緩めば全体との繋がりが強固になります。IT革命は人間としての生活を大きく変えていきますから自我の緩みを生み出す可能性があります。

悟り、ノンデュアリティがYahooニュースに載る時代が来るかも

YOUTUBEの視聴回数などを見ていても悟り、ノンデュアリティに関する動画の再生数はそれほど多くはありません。まだまだ世間のこの分野に対しての理解は少ないようです。これからどれほど技術が進みこれらの分野に対する関心が増えていくかが楽しみです。

視点が変わるだけ

PCとしてアプリ操作するかアプリとしてアプリを操作するか

我々はPC内のアプリとしてアプリを操作しているつもりになっている存在です。アプリがいきなりPC内で自由意志を持ち勝手に動き回りあらゆる体験をする(つもり)存在です。ですが実際にはアプリはアプリ単独で動けるわけがなくPCの機能に依存しているのは間違いありません、なぜならばアプリはPCの中のプログラム言語に過ぎないからです。アプリを紐解けば全部が全部プログマム言語でできています。そしてそのアプリに「私が全動作を行っている」という勘違い機能が付加されただけです。それが自分という意思を持ったアプリであり我々「人間」の真の姿です。

アプリは言語をインストールしていく

アプリはPC内で様々な経験をしていくわけですがその度に価値観が変わり、か情報も増えていきます。アプリ内のプログラム言語が増えかつ書き換わっていきます。これによりアプリから眺める全体(PC)の姿は確実に変化していきます。なぜならばアプリが見る世界とはプログラム言語で解釈された世界だからです。アプリとはプログラム言語のことでありそれが書き換わっているにも関わらず見える世界が同じということは絶対にありません。

自我=言語

つまり自我とはプログラム言語です。我々が覚える単語は全てプログラム言語なのです。そして我々が見ている世界はその言語、プログラム言語で形成された価値観(プログラムの集合)で眺められ解釈されています。真実を見ているつもりになっていますが実は全部が全部プログラム言語の解釈が加わっています。ポケモンGOというアプリがあります、、道を歩く際に スマホ越しに見ると、、、道の中にモンスターが出現します。実際は普通の道ですがそこにモンスターが登場します。これを我々はデフォルトでやっているのです。

アプリ独自からPCからのアプリへ

当たり前の話ですがPC内のアプリがPCの機能を使わずにアプリ単独で動けるわけがなくPCのOSから全ての機能でアプリは作動します。アプリを動かしているのはPCです。人間は悟りを開くと自身が実はPCだったという気づきが起こります。なぜならばアプリを起動させているのは事実としてPCだからです、何も不思議なことではありません。自分自身が独立分離した存在だという思い込みが(プログラム言語)そうさせていたことに気づきます。

最終的にはPCの中でアプリが起動していただけという気づき

アプリを動かしているのは機能的にはPCです。それは事実です。アプリはプログラム言語でしかなく機能のほとんどをPCに依存しています。人間も全く同じで人間独自で生きていると思い込まされています、本当はあらゆる機能を全体に依存しているのです。ですがその事実を気づかないようにプログラム言語が働いています。そして本当のことを言えばPCが自主的にアプリを起動させているのではなく操作するのが人間であるように、、、この人間を動かしているのは全体ですが(機能的には)全体が意思を持ってこの人間を操作しているのではなくただその動きが全体を通じて起こっているだけです。人間ー全体ー(操作する人)がいるわけではなく、、、、人間ー全体ー空という感じです。空からビッグバンが起こり、、その起こりを通じて人間はその中で起動しています。全てはビッグバンのごとく空からの爆発で起こっています。

空からの爆発=ビッグバン

ビッグバンとは宇宙の起源、爆発です。どこからこの爆発が起きたのか??空、THE ONE、絶対、無ということになります。ここからの爆発によってこの宇宙、色の世界、現象界、全体が起こりました、、、その延長線上で生命が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれ、、、と進化は続いていきます。そしてその延長線上で人間は言語、記憶能力を身に付け、、人間が居る世界すらも作り出したのです。ポケモンGOの世界(現象界に独自の視点を加える)、人間GOの世界です。

PCの機能は全部プログラム言語で成り立つ

言語は言語ではない

人間は日常生活で使う言葉を無意識に使います、言語とは仕事やプライベートを円滑に進める道具だと思っています。ですが実際にはそんなモノではありません。言語とはこの世界を構築しているのです、この世界は実はあなたが使っている言語でできています、意味不明ですね。なぜならば、、、もしもあなたが言語を何も知らなかった場合、、、、全くの別世界に住んでいるからです。そんなはずはない、、、同じ人間が見る世界が、、異なるはずはない、、そう思っていますよね、、全然違うのです。実は我々はたった一つのエネルギーを言葉によってモノ化、者化しそれを見ているのです。例えば宇宙人が地球に降り立ち人間を見れば眼鏡は体から特出しているように見え、洋服は体の模様として移ります。そしてスマホは完全に体の一部、、、全く分離していないのです。靴を脱げば、、、足が取れたと驚くはずです。

価値観は、、、

それらの言語、そして自分としての積み重ねが、、、価値観として形成されるわけですが、、、これらは我々が世界を見る際に大きく影響します。例えばBMWを買いたいと思っていると街中にBMWが溢れてきます、ミニクーパーを買いたいと思うと街にミニクーパーが溢れます。ナイキの靴が欲しいと思うとナイキの靴が街で溢れます、、、つまり人間とは意識したモノしか視界には入っていないのです。価値観とはそのままその人の世界なのです。何に注目するかで視界に入る情報が全く変わってしまうのです。言語、そして言語で成り立つ価値観は、PCのプログラム言語と全く同じでPC内の環境を全く違うモノにします。

最後は言語を超える

悟りとはこの言語を超えた場所になります。言語は単純にこの大いなる一つ、まっさらなPC環境を独自の世界に変える力です。言語には半端ない力がありますがその言語を超えた場所こそが悟りです。見ている世界、構築されたシステムが言語、プログラミング言語で設計されていることを見抜くことが重要です。どの言語を選ぶか、どの言語で新しいシステムを構築するかに意識が向かっている間は人生ゲームのデザインに興味があるということです。これは悟りの本質ではありません。

自己実現とは自我の緩みの証拠

自分が好きなことで食べる

自分が好きなことで食べよう!YOUTUBEが世の中を席巻した時のキャッチフレーズです。この自分が好きなことで食べるというスローガンに多くの方は  ????になります。なぜならば自分が好きな事など考えてきていないからです。そのような感情は自我ベースで生きていると感知していないのです。だから好きな仕事と言われても意味不明なのです、そんな事感じたことがない。。。。自我ベースで生きてきて、、自我の目的をしっかりと遂行していきますとマズローの欲求五段階ではないですが欲求のレベルが上がっていきます。すると最終的に自我に対する俯瞰した視点が養われ次第に自分の好きを感じることができるようになります。それが自己実現のスタートです。

自我は生き残ることに必死

戦後の日本で好きなことで食べようなど意味不明な発想でした、、、生き残るには何をするか???これだけです。ですが時代が進み生き残るを着実にクリアーし、社会的評価を得た、、、すると次に何かを達成しようと試みる中で自分の好きなこと、、、という感覚を感じることができるようになります。この感覚は全体から湧いてくるわけですがこれを強烈に感じることができるようになります。そしてこれを達成することに思考を使えるようになっていくのです。

自己実現すら達成

自分の中から湧いてくる衝動を感じることができ、さらにそのために思考をフル回転できるようになるとその衝動すらも形に変えて生きていけるようになります。これが自己実現です。この境地を達成すると、、、自分とは何か???という疑問が湧いてきます、、これが自己超越、悟りへの入り口、誘いです。この段階では自我の最後の抵抗が起こります、湧いてくる衝動を叶えようとすると自分という存在に構っていられない、ですが自我は自己主張を繰り返します。こんなことをやったら恥ずかしい、こんなことをやったら周りに示しがつかない、、自我との最終決戦です。

自我の全力の抵抗

自我は全体に戻ることを全力で阻止する

悟りに関する情報、メッセージが巷ではほぼ出回らないのはこのメッセージが自我から圧倒的に嫌われるからです。自我は全体への帰還を全力で阻止しします。もしも全体への帰還に成功すれば自我は消滅します、これは実は自我の死を意味します。ですから自我はどんな手を使ってもこの帰還を阻止するのです。私も悟り系のメッセージを学び始めて15年以上になりますが本格的な悟り本は全く読む気になれませんでした。自我の全力の攻防にあったのです。

自我は分離の世界に気晴らしを作り自我維持に努める

人間として生きていくことはこんなに楽しいよ、こんな楽しみが人生にはあるんだよ、、、、と自我は自我存続のための努力を惜しみません。気晴らしという名の娯楽がこの世には山のようにあり、それが自我存続を可能にします。ですがその気晴らしは何かといえば無我を垣間見るような仕組みになっているのです、皮肉にも。ギャンブル中は思考が吹き飛び無我になります、歓喜がそこにあります。異性に夢中になるのはその期間思考が停止するからです。買い物に夢中になるとはその期間思考が抜け落ちるからです。

自我の動きが愛おしくなるまで理解する

自我とは分離を引き起こす思考です、この思考を愛おしくなるまで自我を俯瞰していきますと、、、自我に苦しまされてもそれが面白くなっていきます。お笑い芸人などは自我観察のプロフェッショナルです。どの分野でも一流と呼ばれるようなプロは実はこの自我観察を無意識に行っています。自我を観察し無我にウェイトを置いた生き方をしっかりと行っているのです。自我を観察するのは自我ではなく無我です。

腕全体であったという気づき後もひたすらに思考は湧く

指ではなくなっても思考は続く

腕から完全独立したと錯覚した指も途中でこれは錯覚で本当は腕全体でしかなかったという気づきが起こります。これによって指の完全独立錯覚は消え失せるわけですが、、、それでも思考は湧いてきます。この思考の湧き出しをまた腕全体が掴みとってしまうとまた腕全体の中に指という独立国家が誕生します。ですから気づき後の後も思考の湧き出しには注意が必要です。私自身無我の状態を意識的に作れるようになった後もその成果を我がモノにしようとする思考の取り込みに何度も負けてきました。

無我に入るとは腕全体になっているということ

悟りという決まった形式というのは当たり前ですがあるわけではなく、、意識的に無我に入れることが悟りと私はしています。思考に乗っ取られ、思考に振り回されている状態が悟りが閉じている状態、、、思考の湧き出しに意識的になりいつでも無我の状態をキープできることが悟りを開いた状態です。友人と話をする際には当たり前ですが相手はこの私に話しかけてきますから、、、私という独立国家を演じなくてはなりません。ですが会話が終わればまた独立国家「私」から無我に戻ります。指から腕全体に戻るのです。そんなことは可能なのか???という話ですが「私」というのが思考でありそれを維持する方が大変なのです。

無我は虚しい???

自我ベースで生きている人は、、無我なんて虚しいのでは???と思うはずです。ですがこれはおかしな感覚で指という独立国家として生きるのと、、腕全体として生きるのとどちらが虚しいか??という話です。本当は独立していないにも関わらず指という独立国家があると信じ込んで生きていく方が虚しいのです。腕全体よりも指の方が、、、快適で安心で楽しい、、、というのは幻想です。

「私は在る」は空からの反映

我々は空の影の世界を生きる

ゼロ、無、空、絶対、、、この究極の存在の影が色の世界です。色の世界は「私が在る」という絶対的な感覚があります。我々も人間活動をやっていますがその大前提にこの「私は在る」が確実にあります。この揺るぎない感覚こそがゼロ、無、空、絶対の影である色、神、大いなる一つの感覚です。その中にさらに人間が在るという感覚が芽生え我々は人間活動をしているのです。

指の動きが人間

腕全体を神としましょう、すると人間とは指の動きぐらいの感覚です。指が独自に意識を持ち「私は自分」という感覚を所有しました。これが自我です。思考です。本当は指の動きですから全くもって自由意志はありません、腕の先としてコントロールされているだけです、ですが指は「自分」で動かしていると錯覚を起こします。で絶対的な自由意識はどこから来ているのか???厳密に言えば自由意志はどこにもないでしょう。神すらも絶対の影ですから影に意志は作りようがないのです。究極的にはただ動き、思考が起こっているだけということになります。それが影の宿命です。

集団意識、オーバーソウル

人間が指だとしたら手のひら全体は何になるのか??これが集団意識、オーバーソウルと呼称されるような存在です、ですがここにも自由意志は存在しません、これも腕の一部でしかないからです。ただしこの手のひら全体の起こりは在るでしょう。日本人の特製、民族の特製、有色人種の特製、、、などです。

神、ビッグバン、大いなる一つ

宇宙が発生した際にビッグバンが弾けたということになりますがここに個別意識はあるでしょうか。。恐らくないはずです、、、ただ爆発があった、、、これが神の本質です、大いなる一つの本質です。これが絶対、空の影、反映です。ですから実はどこにも自由意志はない、、ただ空からの反映、、そしてそこからの起こりがある、ということになります。我々はそんな中で腕(神)の中の指としてそこに自覚をもって、錯覚を持って生きています。

指から腕を見ている

人間が見る世界は指に目がついて腕(全体)を見ている感覚です。指は思考に支配されていますからありのままを見ることができません、思考というフィルターを通じて腕(全体)を眺めます。そして指がこの腕の中を動き回ることで空間と時間が発生しました、これが時空間幻想です。本当は腕の動きがあるだけでありそこには時間も空間もありません。指に自我が芽生えたので指が動き回るために時間、空間が生まれました。指の動きとは何も関係なく、指の意志とは何も関係なく腕は動き続いけますから指にとって都合の良い世界(腕)など作られるはずがないのです。もしもあるならば指の存在、指の動きは実は腕の一部であったという気づき、諦めしかありません。そして指が思考というフィルターを通さずにこの腕を見ることで全体の一部に戻ります、これが悟りです。