悟り

水に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

自分に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

幼少期のプール体験で人は誰でも水に顔を埋めれば苦しいのは分かっています。毎日顔を水に埋めるのが趣味である、、という人が少ないのは苦しいからです。これは人間も同じで自分がこの体の中に居る、この思考に埋まれば苦しさが湧いてきます。これは事実です。自分というアイデアが全く無ければ誰かに罵られても、馬鹿にされても、怒られても感情が湧いてきません、この人は何をどこに向かって叫んでいるのだろうと不思議な気持ちは湧いてくるかもしれませんが、、つまり自分が居るという思考があるから人間関係の苦しさが湧くのです。

誰も自分を評価してくれない

評価されない、もっと評価されたい、全員を振り向かせたい、、これもこの体の中に自分が居るから湧いてくる発想です。ですが事実はこの体には自分という存在は存在しないのです。むしろ本当は居ないからこそ相手をされないと不安が湧いてくるのです、誰にも相手にされないということは自分が居ないのでは?と湧いてきそうだからです。だから苦しいと分かっていても自分という思考に常に顔を埋めているのが事実です。女性が着飾るのも、男性が仕事を頑張るのもこの体の中の自分に注目してほしいからです。

その自分が悟りを開きたい

悟りを開く「自分」は最初から居ないわけですが自分を信じていれば苦しさが湧いてきますから悟りでも何でも開きたいわけです。ですがそれすらも自分が悟りを開くのだという思考を信じている間は悟りは開きません。この自分が記憶によって作られた思考であると見破らないと。見破ることが悟り、目覚め、覚醒です。目覚めるのは自分ではありません、この自分が記憶に依存した思考であると根源が気づくことが悟りです。主人公が私(思考)から根源(事実)にシフトすることがノンデュアリティーです。

理解の話ではない

何かを理解するのはいつも思考

サッカーが上手くなりたければ作家理論を学んで理解するよりもボールに触って感じることです。料理が上手くなりたければ料理本を読み漁って学んで理解するのではなく料理を作ることです。悟りも同じ、悟りも学んで理解するのではなく事実と徹底的に向き合って悟りが開くのを待ちます。こういったブログや書籍はそのための指南書にしかなれず本当に重要なことは事実に触れることにあります。

事実に触れるってどういうこと?

サッカーでいうサッカーボール、悟りでいうサッカーボールは一体何なのか?それが事実です。事実とは空想ではなく思考ではなく五感で感じること、この前に広がる世界こそが悟りでありこの悟りに直に触れることです。直に悟りに触れる方法が今この目の前のボール、食事、何かに触れることなのです。スポーツは五感の世界ですからそこに没入することで悟りに触れているわけです。

何も欲しくない、、

五感でこの事実に触れるトレーニングをしていきますと何も欲しくないという状態が作られてきます、何も欲しくない、、なぜならば悟り、事実、全体に今触れているからです。何かが欲しい、これが欲しい、あれが欲しいという欲望、思考が湧いているのは事実、根源に触れていないからです。何かが欲しい時人は必死になってその欲望を叶えようとしますがそうではなく根源に触れていくことです、何かが欲しいという衝動そのものが消えてなくなります。

成し遂げるべきことなど何もない

不幸だから目標が欲しい

本当のことを言ってしまえば「成し遂げるべきこと」も湧いていますからこれに優劣はありません。ですが個人という存在があるとういう思考に取り込まれますとこの目標というものが欲しくなってくるのです、それは苦しいからです。目標を叶えた自分は幸福になるはずだ、、、なぜならば過去にも目標を叶えた瞬間は幸福だったからだ。という理屈です。ですが事実は違います、不幸が湧いているから目標が欲しくなるのです。不幸こそが目標を欲しがる張本人です。

事実を徹底的に意識する

大切なことは事実に向き合うことです、空想の世界に詳しくなることではありません。自分を中心とストーリーは全部空想のことであり事実とは全く関係がないのです。だから苦しい、だから目標を設定するのです。このパターン、罠を見抜くことです。事実では私など居ませんし、相手も居ません、人間の体の中に何者かが存在することは絶対にないのです。ですがあまりにも居るかのように感じてしまうがために想像しているわけです。事実はあくまで五感で感じるリアルがあるだけです。空が広がり、風を感じ、日差しを感じ、香りを感じと五感で感じる事実だけが存在します。これが根元、悟りです。

成功者は不幸

目標を設定し次々にそれを成し遂げているように見える人がいます。これは不幸だから目標が湧き上がりそれを達成し一時的な幸福を感じまた目標を設定し成功者に見えているという現象が起きているだけです。それをみて私もこうなりたいああなりたいと衝動が湧くのは不幸だからです。そうではなくもうこの目標の世界では幸福になれないことを知り事実としっかりと向き合うことです。

自由意志が完全にない

宇宙のルールはシンプル

川に落ちた葉っぱは何の意思もなくただ川の流れに従って川を流れていきます。葉っぱにもしも思考があり右に流れる左に流れたいという思いがあったとしてもそれには一切関係なく川の流れに従います。これが自然界で行われているルールです。このルールは人間にも当てはまります、人間がどれほど思い思考を張り巡らせてもそれには関係なく行動が起こっているのです。頭の中で絶対に右に流れたいと思っても実際には左に流れることがあるのです。我々人間は思考こそが人間の行動を決めていると信じていますが実際には思考と行動には因果関係がないのです。

「自分」が思考を決定している

自分が決めたこと、自分が決断したこと、自分が英断したこと、、、この自分とはそもそも何でしょうか?自分はどこに居るのでしょうか?自分とは体の中にどのように存在しているのでしょうか?人類80億人の中でこの自分を見たことがある人は居るのでしょうか?答えはNOです。なぜならばこの自分は実際には存在せずただの記憶による想像物だからです。想像ですから実態がないのです、この実際には存在しない想像物が、、、決める、決断する、、という行為をおこなっているという想像をしているのです。思いは確実に湧きます、この確実に沸いた思いは「自分」という想像物が湧かせたと想像しているのです。

自分は記憶

友人から名前を呼ばれることでこの体の中には確実に「自分」が居るはずだと想像する、お客さんから喜んでもらうことでこの体の中には「自分」が居るはずだと想像する、警察から捕まることでこの体の中には「自分」が居るはずだと想像する、、これが自分の正体です。次から次へと湧いてくる思考は誰が湧かせているのか?それは自分であろうという想像をしているのです。その想像は誰がしているのか?それが根源です。根源が「自分」が居るはずだという想像を起こしているわけです。

根源による想像がただ起きている

この世界には根源にから湧き上がる現象しかなくそれ以外は存在しません。そうならばこの自分という想像も当然根源から湧き上がっています。「自分による意思決定があるという想像」もこの根源から湧き上がっています。ということでこの自分活動に悪いも良いもなくそれがただ起こっているのです。根源から自分という想像がただ起き続けそのまま死ぬまで起き続けるのが普通の人生です。自分という想像による人生がいつまで経っても幸福に至らないことによってこの自分を疑うという思考が湧き「自分ってただの記憶だ」という気づきが起こることが悟りです。自分がただの記憶ならばここには「これ」しかなくただ何かが起きているだけだという気づきが根源から起こります。そこにはもう「自分」という存在は居なくなりただ体だけが存在します。

観念が簡単には変わらないメリット

観念が現実を作り出し見せてくてる

観念が簡単に変わってしまったら、見える世界が簡単に変わってしまいますから混乱します。簡単には観念は変わりません、だからこそ多くの人は同じ世界を日々体験しているのです。毎日全く違う世界が広がっていたら人は混乱します。観念が簡単には変わらない=見せる世界も変わらない、、だからそこに集中して取り組めるという話です。

現実という鏡、投影を見て自身の価値観を知る

この世界は大きな神が小さな神体験をする世界です。人間という小さな神がその価値観に則った世界を生きています。小さな神である理由は価値観、観念が変わると見える世界も変わってしまうという変幻自在の世界に生きている、価値観を決めるのは小さい神こと「自分」です。これが小さい神体験です。価値観が変われば世界も変わり経験も変わる、、これを大きな神はやってみたかったということです。

小さい神体験

大きな神は小さい神体験をすることで神が神のままでは体験できなかったことを体験することができるようになりました。大きな神はこれによってあらゆる思考、感情、経験を積むことに成功したのです。だからこそ簡単に悟りを開いてゲーム終了など絶対にありません。簡単にゲーム終了ならばこの小さい神体験を構築した意味がないのです。大きな神は間違いなく小さい神体験を全部体験したいはずです、全部の感情、全部の思考も含め。ということで諦めるしかないのです、楽しいことだけして死ぬことを。

インターネットの世界はこの世を露わにする

ネット上の情報はどこにある???

インターネットを我々は何気なしに使っています。今ではもう若者、大人の生活においてメインになったのは間違いないでしょう。特に子供など遊びのほとんどがネットを介しています。では我々が普段親しんでいるネット上の情報はどこにあるのか???という話です。答えはサーバーということになりますが、、サーバーの中をかっぽじって見れば一体何があるのか???恐らく無機質なチップしかないでしょう。間違いなく情報を閲覧できることはありません、物理的に。つまり我々が普段親しんでいるこの画面、ソフトは物理的には実在していないのです。

我々が見ているこの物理的世界も実在しない

覚者は悟り、、この物理的世界は実在していないことを理解します。インターネット情報と同じ画面上には間違いなく見えますが、、、実在していない、、あるように見えるだけ、、、、これが我々が普段接している世界そのものです。見えるし、触れれるし、香れるし、味わえる、、だけど実在はしていない、、、どこまで行ってもインターネットの世界と同じなのです。幻想だけど楽しめる、幻想だけど苦しめる、、これはネットもこの世も全く同じです。

ネットの中身は実在しないから無視???

ネットの中身は実在していない、、、だから無視でいい、、この意見はピントがズレています。誰もネットを強要されて遊んでいないはずです、皆好奇心、怖いもの見たさでネットを始めたはずです。今では携帯電話にデフォルトでネットがついており使い倒しています。それは便利だから。この人間世界も同じ、大きな神が人間体験をしたくてやっています、実在していないからヤらない、、という話はピントがずれています。

個別体験を積むための機能=エゴ

エゴ、自我は悪者ではない、、

自我、エゴとは個別体験、小さな神体験を積むための機能です。この機能を機能以上に負荷をかけていくとネガティブな反応を起こすようになります。これが人生を苦しめる要員です。とはいえこのエゴ、自我を敵対視すれば人間としての生活ができなくなります。そうではなくこの自我を機能以上に働かせない、これが大切になります。エゴとの調和、自我との調和が整った時にエゴ、自我はまるで無いのでは?という状態になります。これが覚者と呼ばれる人の境地です。今までの自我、エゴとは決別できている状態です。

自我、エゴに余計なことをさせない

自我、エゴが悟りの世界では絶対的に敵対視されてしまうのはこの自我、エゴにあまりに多くの仕事をさせているからです。思考がフル回転、常に作戦を立てる、、全部が全部思考重視、これによってアンバランスを生み出しそのアンバランス分が苦しみを生み出します。人間はエゴ、自我に対し無自覚であるため、、思考フル回転に陥りやすく結果自らバランスを失います。思考する回転は自我全開になりアンバランス全開です。

自我拡大、エゴ拡大に無抵抗

多くの人間は自我拡大、エゴ拡大に無意識です。思考すればするほどに苦しみが生まれますがそこを自覚していません。そのため何か問題があるとすぐに思考をフル回転させ自ら首を締めるのです。そうではなく思考フル回転は自我フル回転であり、、、これこそが苦しみを生み出すことを自覚すべきです。そうすればバランスの取れた自我活動にシフトします。

完全な知、経験、感情の先に気づき

先ずは知ること

非二元、悟りに関して重要なこと、それは究極の目的に目覚めることです。これによって究極のエネルギーが入り込んできます、ですがこれだけでは究極の気づきには至りません。重要なことはそれをこの体を通じて体験していくことです。究極の世界を体を通じて感じていくことです、何かに集中することで無我を知る、体の感覚に集中することで無我に入る、あらゆる体験の中から究極に触れていくことです。

無我に入ると歓喜が襲ってくる

無我に入ることに慣れていくと、、歓喜、平和、安堵が襲ってきます。その状態こそが目指すべき究極の場所であることを体、感情を通じて分かってきます。その場所はホームであり、神であり、大いなる一つであることを肌感覚で感じていきます。自身が小さな神で小さな神体験を今はやっているだけ、その事実を体験を通じて感じていくことが出来ます。

究極の気づき

先ずは知識として大いなる存在の世界を理解しそこから体を使ってそこに近づいていきます。そしていかに長い時間をその場所で過ごせるかをやっていきます。小さな神体験での大きな神への帰還を自主的に行っていきます。体は徐々に大きな神に馴染んでいきます。すると大きな神の方から小さな神に近づいてきます。これが究極の気づきです。打ち震えるような感動、感嘆、衝動を覚えるようになると究極の気づきは早いです。

私は体、思考、感情でもない

移りゆくものが自分であるはずがない

我々はこの体、思考、感情を「私」と決めつけて生きています。決めつけるためには確固たる保証が必要です。何かしらの決定だがなければ本当はそれはできないことです。これが自分であるという決定的保証、これを求めます。それが「我在り」です。間違いなく存在しているというこの感覚、この感覚を「自分」が居るという決定打にしているのです。ですがこれは間違いです、在るという感覚は間違いなく在りますが、、「自分」という感覚は嘘です。全部思考です。

「自分は嘘」だから疲れる

冷静に考えてみれば、、自分自身でただ居るだけならば疲れないはずです、、、そのままだから。でも会社に行っても学校に行っても夜になれば疲れを感じ寝ます、もしくは会社に居る間も疲れを感じています。なぜ疲れるのでしょうか??それは自分という存在が錯覚、嘘だからです。自分という存在は思考が考え出したアイデアです、自分という収縮した思考パワーです。

自分が溶ければいつでも全体

自分という存在は本来ないのでこの全体の中に溶けてしまえば自分は終わります、これが悟り、解放、解脱です。ではどうしたら自分は溶けてなくなるのか???それはこの自分という存在がなぜ今まで存在していたかを見抜くことです。自分を維持するメカニズムに気づくことです。自分を維持するために思考はこの自分が確実であるという思考を絶えず湧かせ続けています。本当を言えばただその思考が湧き続けています。

「我在り」の中で現れては消えていく、、色々

諸行無常とは、、

釈迦は悟りを開き、この世は諸行無常と表現しました。あらゆる現象が変化変遷を遂げていく世界、あらゆる物が現れては消えていきます。ただそれだけ。その中で絶対に消えない感覚「我在り」この感覚だけは絶対に消えません、私たちはこの体、この思考、この感情も絶対なモノだと思っています。ですがよく考えてみてください、この体、思考、感情は一日毎に日々変わっていきます。いやそんなことはない、、「私は在る」という思考は変わらない、、、その通りです。「我在り」これだけは変わらないのです、、、そしてそれは思考ではないのです。「我在り」の中でこの体、思考、感情こそが私だ、、、、この思考が湧き続けているだけです。錯覚という認識が消えないだけです。毎日変化する体、思考、感情を自分とする思考が消えないだけです。

「我在り」がある、だから「私」は居る

この間違いは当たり前に起きます、この「我在り」は絶対で在りこの感覚がなくなることは絶対にありません、いかに苦しい時もいかに楽しい時もこの感覚がなくなった時は絶対にないのです。だからこそ人は勘違いをします、この「我在り」が完璧永続ゆえにこの感覚がこの体に起きていると思うのです。「我あり」はこの体で起きているのだ、、、これで「自分」「私」という大いなる勘違いは絶対的なものになります。「我あり」の思考による乗っ取り、所有です。このトリックを見破れる人はいません。

それでも「我あり」は続く

思考がこの「我あり」を自分のモノにしようと何だろうと「我あり」は全く拒絶をしません、何も変化することなく在り続けます。そしてこれを思考は自分のモノにしていきます、我在りという絶対的感覚とこの体、思考が「自分」なのだと湧き続けます。これで自分劇場、私ストーリーは絶対的なモノになります。「我在り」という絶対的感覚、変わらないこの体、そして湧き続ける思考、感情、、、これぞ「自分」だ、、、です。