「我在り」の中で現れては消えていく、、色々

諸行無常とは、、

釈迦は悟りを開き、この世は諸行無常と表現しました。あらゆる現象が変化変遷を遂げていく世界、あらゆる物が現れては消えていきます。ただそれだけ。その中で絶対に消えない感覚「我在り」この感覚だけは絶対に消えません、私たちはこの体、この思考、この感情も絶対なモノだと思っています。ですがよく考えてみてください、この体、思考、感情は一日毎に日々変わっていきます。いやそんなことはない、、「私は在る」という思考は変わらない、、、その通りです。「我在り」これだけは変わらないのです、、、そしてそれは思考ではないのです。「我在り」の中でこの体、思考、感情こそが私だ、、、、この思考が湧き続けているだけです。錯覚という認識が消えないだけです。毎日変化する体、思考、感情を自分とする思考が消えないだけです。

「我在り」がある、だから「私」は居る

この間違いは当たり前に起きます、この「我在り」は絶対で在りこの感覚がなくなることは絶対にありません、いかに苦しい時もいかに楽しい時もこの感覚がなくなった時は絶対にないのです。だからこそ人は勘違いをします、この「我在り」が完璧永続ゆえにこの感覚がこの体に起きていると思うのです。「我あり」はこの体で起きているのだ、、、これで「自分」「私」という大いなる勘違いは絶対的なものになります。「我あり」の思考による乗っ取り、所有です。このトリックを見破れる人はいません。

それでも「我あり」は続く

思考がこの「我あり」を自分のモノにしようと何だろうと「我あり」は全く拒絶をしません、何も変化することなく在り続けます。そしてこれを思考は自分のモノにしていきます、我在りという絶対的感覚とこの体、思考が「自分」なのだと湧き続けます。これで自分劇場、私ストーリーは絶対的なモノになります。「我在り」という絶対的感覚、変わらないこの体、そして湧き続ける思考、感情、、、これぞ「自分」だ、、、です。

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