自分は美に憧れる

美とは全体の完璧な現れ

男性は美しい女性に惹かれ、女性は美を追求します。美とは存在の完璧な現れです。美を認識する時自分はそこに全体を見ているのです、自分が実は全体であったことを思い出しているのです。赤ちゃんを見ると誰しも笑顔になってしまうように美に関しても同じことが起きます。だからこそ人間は美に憧れます。人間が美に憧れる姿勢は全体に戻ることと同意です。

自分は美しいものを見る時に自分を忘れる

美しいものが視界に入ると自分を忘れます、自分を忘れるとは全体に戻ることです。全体に戻ることで歓喜、安堵、平和が訪れます。これが人間が美を追い求める真意です。男性も女性も常に美を追い求める理由はここにあります。美とは全体の完璧な現れでありだからこそ自分は美に酔いしれるのです。美に触れることで自分を忘れ全体に戻りたいという欲求から来ています。

部屋を美しい物で満たしたいのは全体への帰還、憧れ

部屋を美しいオブジェで満たすのはそれに触れることで自分を忘れたいためです、人は美しい物に触れたり、見たりする時に自分を忘れそこに関心が集まります。自分を忘れている時、そこには全体だけがあります、全体に帰還しているのです。美しいオブジェで部屋を満たすことで全体に帰還し叡智、歓喜、平和に戻ります。全体と自分、この関係だけで世の中の真実が見えてきます。美の意味も違ってきます。

するべきことは何もない

何かをして解決を望むのは全て自我

自分というのは常に何かをして目的を達成しようとします、問題を解決しようとします。これが自分の特徴です。自分は何かをしなければ何も変わらないと信じています。お腹が空けば食べて解決する、眠ければ寝て解決する、痩せたければダイエットする、部屋が汚ければ掃除する、、全てこの調子です。そこで自分は幸福になるためにも何かをして幸福になろうとするのです、これが今世紀最大の引っ掛け問題です。人間の「苦」の解消もこのスタンスで臨むがためにこの前で皆大敗してきたのが人間の歴史です。

不幸だけは何かをするだけでは解決しない

人間、自分というこの存在、この体の中に自分が居るというこの認識、これがこの苦しみを生み出しています。まさか主人公の初期設定がこの苦しみを生み出しているとは?ということで自分の人生とは苦しみのストーリーでありこれをいかに解消しようと24時間365日動きまくっても意味がないのです。ここに気づけるか、気づけないかで人生という意味が変わってきます。覚者が言う「するべきことは何もない」この言葉を言われた自分はただ困惑します、何を言っているのか?です。

何かをする時に、、それでこの自分の不足感がなくなるわけがない、という境地に立てるか

何かをする際に自分はこれで自分も至福になれるのでは?という淡い希望を持ちます。希望の会社に就職した時、希望の相手と結婚した時、希望の家を購入できた時、希望の年収を得れた時、、、ですがそれらの淡い希望はこの自分の前で木っ端微塵に打ち砕かれます。なぜならばこの自分こそが不足感製造機だからです。全体から分離してこの体の中に自分がいるというこの錯覚こそがこの不足感、苦痛を生み出しています。だから覚者は「するべきことは何もない」を伝え続けます。

美味しい料理に大金を払う理由

なぜお金持ちは美味しい料理に大金を払うのか?

美味しい料理に2万3万円を払うと言っても驚く人はいません。世の中では美味しい料理にはそれだけの価値があると普通に思われているからです。ですが冷静に考えてみてください、栄養分を取るだけならば500円をかければ人間の必要な栄養素は取れるでしょう。なぜ人間は美味しい料理にそれほどのお金を払うのか?です。そして銀座のクラブで一晩何百万円使う人が現れるのか?です。

人間は自分を忘れさせてくれるものに大金を注ぎ込む

人間というのは自分でいる時間が一番苦しい時間です、信じられないかもしれませんが自分がここにしっかりと居るという時間が最悪最低の時間なのです。例えば目を閉じて何もしないでいてください、、と言われれば多くの方は5分間と耐えられないでしょう。それほどまでに苦しい存在、それが自分です。そのためこの自分は自分を忘れさせてくれる場所に大金を払って行くのです。目の前に美味しい料理があるとき関心が料理に移ります、目の前に綺麗な女性がいればその女性に関心が移る、目の前に美味しいワインがあればそこに関心が移るという仕組みです。

世の中のサービスは全てこの仕組み

なぜレストランは何千年万円もかけて空間にお金を使うのか?それは入ってきたお客さんの関心をその空間に向けさせるためです、お客さんが空間に没入すればするほどに自分を忘れれるという仕組みです。なぜ高級クラブは大きなシャンデリア、綺麗な女性、高級なソファーを用意するのか?それは関心を全てそこに移させたいからです。関心が自分から自分以外に移っている期間は自分が欠落し全体になります。全体とは歓喜、平和、安堵、愛そのものです。

全体の悪趣味「自分」

自分とは全体の苦しみ体験マシーン

自分と書いて「自ら分ける」自分とは全体から分かれる状態のことです。この体には脳があるのでこの体の中に自分が居ると錯覚をすることができます。錯覚という表現をするのはこの世には一つのエネルギーしか存在していないのでその中に独立した何かが現れることは不可能です。ピカソが描く絵の中の登場人物が突然意識を所有し、私はこのピカソの絵とは何も関係がないと言い出すようなものです。本人がどんなに大きな声を張り上げても絶対に独立などできません、なぜならばピカソが描いた油絵具で出来ているという事実は絶対に変わらないからです。その中の登場人物に意識が生まれてもそれは錯覚です。

ディズニーランドのミッキーマウスが突然意識を持つ

ディズニーランドのミッキーマウスに突然が芽生え私はディズニーとは何も関係がないと宣っても誰も信用しません。ミッキーマウスがいかにそれを本気で思っても今日もディズニーに居ます。ディズニーの外には出れません。我々も同じ、この全体の中に生まれた突然変異です、突然意識体です。全体の中から出ることは絶対にできませんし、勘違いを実感しているのも全体です。

全体は勘違いマシーンを作り出し苦しみ体験を今日もする

全体は全体のままでは苦しむことができません。全体が苦しみためには全体ではない存在を作り出す必要がありますが全体が作り出す存在は全体以外にはなれません。そこで全体は肉体に「これが自分だと勘違いする存在」を無理くり作ったのです。こっれによってこの存在は大いに苦しむことができたのです。苦しみためには苦しむという経験が必要になり自分と自分以外を作り出し自分体験記を作りました、分離した自分は全体とのギャップにより不足感、喪失感、欠乏感が湧き出しますから常に苦しむことができるのです。そしてこの苦しみを解消すべく様々な冒険を歩むことになります。

文春砲よりも強烈な自分砲

まさかの自分で自分の幸福を壊す

女優の杏さんと旦那の東出君、東出君の度重なる不倫で結果離婚に至りました。このエピソードは自我のメカニズムを顕著に現しています。東出君は杏さんと結婚する時、まさか自身が不倫をするとは思っていなかったはずです、なぜならばそのようなレベルの人と思ったから結婚したわけです。他によそ見をしたくないほどに魅力があると感じたから結婚したはず。杏さんをもしも他に目を向けてしまうようなレベルであると判断したら危なくて本人も結婚しなかったはずです。ですが現実は違った。東出君を不誠実であるとるメディアの対応は稚拙です。自我とは自分とは不足感発生器であり誰と結婚しようとその事実は絶対に変わりません。

東出君がこの自我のでのメカニズムを理解していなければ

自分、自我とは不足感発生器ですから結婚後もこの不足感は延々と沸き続けます、その際に不足感の原因をどこに向けるか?それがパートナーになるケースは多々あります。もしも彼がその矛先を杏さんに向ければ杏さんの粗探しに、もしくはその不足感を補うために他の女性に向かいます。杏さんに対し何も問題を見つけることができなければ他の女性によってその不足感を補おうとするわけです。彼がもしもギャンブルも、お酒も、ゲームにもその対象を見つけることができなければそれを女性で補おうとするのは当然です。

メディアの対応は常に稚拙

杏さん東出君の事件をどれほど大々的にメディアが取り上げようと夫婦間の問題が今後減ることは絶対にありません。なぜならば人間とは不足感発生器でありこの問題に切り込まない限り人間はこの苦しみから逃れられないからです。不足感をいかに解消するか?そして不足感を生み出すメカニズムを共有することでお互いに切磋琢磨するという姿勢がなければ全ての解決策は対処療法ということになります。もう人間同士、自分同士が罪の擦り付けをし合うのは辞めてもいいかもです。

誰も生きていない

独立した個人はここには居ない

誰も生きていない、これは事実です。信じられない話かもしれませんがこれが事実です。世の中を見渡せばあらゆる生命体、人間、動物が存在しているように見えますが実は一つも独立していません。独立しているように見えます、確実に。ですがこの世に独立した存在は絶対に存在しません、なぜならばこの世は一つのエネルギーでできているので分離した存在は存在しえないからです。つまりどこまで行っても個別の存在は勘違いです。渋谷駅に行けば視界に何千人という人が見えますが一人として全体から分離した存在はいません、全員が分離していると錯覚を起こした生命現象です。

一つのエネルギーでこの世は誕生している

この世を浮かび上がらせているエネルギーを空と般若心経では説きます。そしてその一つのエネルギーが変幻自在に見える世界を色と称します。勘違いしてはいけないのはどちらも一つのエネルギーの表現だということです。キャンパスが色、キャンパスの土台が空です。そしてこれらは一つのエネルギーです。この一つのエネルギーがあらゆる表現をすることで渋谷駅に何千人の人間を出現させます、ですがこれは空が描くアート(色)です。自分がそのアートにいかに触れようと一つのエネルギーに触れているという事実は決して変わることはないのです。

誰もいない、だが誰もがいるように見える

本当はこの世には誰もいません、ですが自分から見れば確実に誰もがいます。これが色の世界です、究極のリアリティーの世界、それが色です。それを浮かび上がらせているのは空という一つのエネルギーです。自分という全体から確実に分離しておると錯覚できる存在が、色というあらゆる独立した生命現象が現れていると錯覚できるこの世を生きています。ですがやはりどこまで行ってもこの世はたった一つのエネルギー(空)で出来ていますから分離できるはずがないのです。

自分の強制解体作業

運動は思考の発生を抑え自分を緩める

体を激しく使うながら思考を使うことは難しいことです。激しいスポーツをしながら明日の予定について考えることは至難の技です。体を使うと思考が収まり、思考を使うと体が収まります。両方を同時に使うことは難しいものです。結論から言えば自分体験をする全体は常に一つの経験しかできません。お酒を味わいながら食事も味わい、さらに最良の音楽も同時に堪能し、さらに友人との会話に集中することは不可能です。つまり経験は常に一つなのです。これが自分劇場のルールです。ということは自分を緩めるのは簡単、体の感覚に意識を集中してしまえばいいのです。激しい運動をすれば意識が運動に集中し自分を形成する思考は無くなります。

激しい運動をした後なぜか安堵感の残滓がある

激しい運動をしますと強制的に思考の感覚が薄れていきます。本来激しく動くことはストレスフルなことでもありますがなぜか運動後安堵感に襲われます。運動をしている間、自分を作り出す思考が抜け落ちるからです。自分が居ない時に何があるか?全体だけがそこにあります、つまり安堵、歓喜、平和がそこにあるのです。頭脳を酷使する労働者が休日に山に登りたくなりのはこのためです。あえて山という厳しい環境で歩くことで思考が湧くのを落としその瞬間全体に戻っているのです。

全体に戻る方法を積極的に活用する

「この体の中に自分が居る」というのは思考です。この思考が随時湧いてくることで全体から分離した自分を存続し続けるのが自分劇場です。激しい運動をしますとこのシステムを壊すことができ自分が崩壊します、自分が崩壊しますと歓喜、平和、安堵が襲ってきます。なんという皮肉、ブラックジョークです。この事実を理解したならば積極的にこの自分の解体作業を行います、ルーティンで激しい運動を取り入れることで全体に積極的に戻るのです。すると思考を記憶する脳の疲労が取れ思考の活用が上手くなっていくのです。

自由が自分を発見する

自分が自由を手に入れるわけではない

この二元の世界では自分が何かを手に入れるのがデフォルトです。自分が幸福になる、自分が自由になる、自分が歓喜をえる、自分が安定をえる、、、全てこんな感じです。ですがこの自分が何かを得るという感覚で生きている限り得れる対象はすぐに消え去りまた次の何かを得ずにはいられません。自分という存在は、全体から分かれていると錯覚した存在でありこの感覚を解消しない限り延々と居心地の悪さを感じていくことになります。結果自分が幸福を得て、そこから自由を得て、そこから安定を得てとラットレースを繰り返すことになるのです。これは自由のようでいて地獄です。

本当は自分とは自由そのものであったと気づくこと

自分が自由を得ようとする限り自由は逃げ続けます。なぜならば不自由を作りだしている張本人こそが自分だからです。不自由を作り出してるのが自分というこの錯覚の存在でこの自分という存在が錯覚であることを腹落ちさせなくては自由は手に入りません。というよりもこの自分が居ないのだから自由を手に入れる自分はないのです。自分が居なくなった時にだけ自由がそこにある、自分とは自由そのものだったんだという大落ちです。

自分が居なくなると平和、歓喜、自由がそこに広がる

自分こそが平和、歓喜、自由を遠ざけていることに気づきますとシンプルになります。自分という存在、全体から分離したこの自分こそが平和、歓喜、自由の世界から脱却する行為であり、これを辞めれば即座に平和、歓喜、自由になります。自分という勘違いした個人が自由を求めて右往左往している限りは自由を見つけることはできませんし、仮に見つかっても即座に消え去ります。なぜならば消し去っている張本人こそがこの自分だからです。

老人になると楽になる理由

悩むのはいつも若者

自分とは全体から自ら分かれた存在です。分かれたというのは錯覚ですから錯覚を起こし続ける必要があります。それには常にこの体の中に自分が居るという思考が必要になります。この思考が湧いてこないと自分の体の中に自分が居るという錯覚を維持できません。若者はエネルギーが溢れていますからこの思考を取り込むエネルギーも強烈、その分孤独感、分離感、虚無感も強くなっていきます。そしてこの感情を他人事には到底できません。だからこそ若い時期は大いに悩むのです、そこまで悩まなくてもというぐらいに悩みます、それはエネルギーが在るが故です。

不足感を解消しようという衝動も大きくなる

若者が不足感を解消するために学校のガラスを破る、モヤモヤした虚無感を解消するために非行に走る、、これが無くなることはないでしょう。悩む感情も大きければそれを解消しようとするエネルギーも大きくなります、手段選ばず解消に向きます。老人になるとこのような悩みも、そしてそれを解消しようという衝動も少なくなるのは当然なのです。エネルギーがあるということは悩みも行動もエキサイティングになっていきます。

受験勉強、部活動が忙しくなるのはそれを発散させるため

中学生になると部活動が忙しくなったり、受験競争が激化しますがこれって非常に合理的です。エネルギーを生産性のあることで発散させておかないとその分悩み、衝動的な行動をしてしまいます、若者は。国の教育機関がそこを理解してそうしているかは不明ですが実際には受験や部活には発散には最適です。そこから就職活動、婚活、妊活、子育てと、、、エネルギーを発散できるチャンスが年齢別に用意されているのは自分劇場の面白い要素です。

自分は錯覚だから常に虚しい

虚無感とはこの自分が虚であることから来ている

自分とは全体から自らが分かれた状態です。この体の中に自分が居るという感覚のことです。本当は全体しかなくその中に独立した風の自分を作り出しました。本当は全体しかなくその中に別個の確立した風の自分をこの体の中に作りました。実際には全ての体験を経験しているのは自分演じる全体です。全体の中に分離した存在を作ることはできません、あくまでも分離風個人ということになります。だからこそこの自分は常に虚しさを感じます。何かがおかしい、何か不足している気がする、何か孤独な気がする、、、これは間違いなく事実です。なぜならば自分とは虚だからです。

この虚しさを晴らすためにあらゆる試行錯誤をする

この虚無感を晴らすために自分は色々試行錯誤します。多くの試行錯誤は没頭できる何かを探すことです、TV、YOUTUBE、SNS、ギャンブル、友人とのお喋り、カラオケ、恋愛、旅行などなど、、、世の中には自然と没頭できるエンタメが溢れています。これを仕事など生産性のある分野で見出すことができる人もいます、好きな仕事で自己実現する人々です。もしくは母親として子育てに没頭することでこれをする人もいます。全ての行動の動機、それはこの虚しさを解消するためです。

虚しさ、孤独、漠然とした不安は自分劇場のデフォルト

何か虚しい、何か孤独、何か不安感がある、、、これはこの自分劇場のデフォルトです。精神病でも何でもありません。自分とは本来存在しないのですから当たり前です、自分とは全体から自ら分かれたと錯覚した存在です、エネルギーを解明すれば明白ですがこの全体(一つのエネルギー)の中に全く別物のエネルギーが存在することは不可能です。ですが分離したと錯覚する一つのエネルギーの存在は可能です。そして錯覚ですからどこまで行っても虚しさが拭えないのです。このメッセージはだからこそ絶望しろ、という内容のものではありません。虚しさ、孤独、不安感に悩む必要がないということです。ある意味自分の責任ですが笑根本的誤解から生じています。