悟り

大和田菜穂さんについて思うこと

全体がそのまま話をしている

彼女の話す内容を聞いていると、、、全体が全体のまま話をしている感覚を覚えます。人間に成り切ってしまった全体ではなく人間のふりをした全体がただそのまま話をしています。役者はその役に成り切って話をします、、キムタクは毎回その役に成り切って話をするわけですが、、大和田菜穂さんは全体がそのまま役にならずに話をしているような感じです。

全体が全体のままか、、全体が役に成り切っているかの違いだけ

大和田菜穂さんもそれ以外の人も、、、全部全体です、、、その全体が、、役(私)に成り切っているかいないかの違いがあるだけなのです。。。この違いはそれで大きく役に成り切れば、、苦しみが強制的に湧きます、、、役にならずにそのままの姿であれば、、苦しみは湧きません。。。本当にこれだけなのです。ですから大和田菜穂さんからは苦しみを感じない、、、

主語は全員が全体、、、

主語は全体です、、、全体が「〇〇○男」になって人生を生きるか、、、全体がそのまま全体としてただ今を感じるかの違いです。全体が「〇〇○子」になって人生を生きるか、、、、全体がそのまま全体としてただ今を経験するかの違いです。この違いが苦しいか絶対幸福かを決めるのです。。。解脱、悟り、サマディ、ブラフマンとは、、全体が役に没頭していた状態から、、役から降りた状態、全体そのものに返った状態なのです。

病気から悟りに入る

病気を感じているのは全体

今私が病気である、、だから辛い、、これを感じているのは紛れもなく全体です。病気になったら休みますよね、自分活動を一切しないはずです。それは全体そのものになって病気を感じているのです。病気になると寝ます、寝れば思考が抜け落ち自分が抜け落ち全体に戻ります。すると病気が治りやすくなります。ただ休んで体を治すのではなく全体になっているという自覚を持つことで病気から悟りに入れます。

辛いの根底に至福がある

同じ病気でも本当に辛い時と至福に包まれた感覚を持てる時があります。自分が病気をしている、、、これが辛い、、ただ病気が全体から起こった、、、これは辛いを感じる至福の存在を確実に感じます。なぜならば辛いを感じている真犯人は全体、至福だからです。個人はどんなに「自己主張」しようとも結局は至福が作り出した劇場なのです。

全員が至福からは逃げられない

至福(全体)が作り出したこの自分ゲームですから最終的には全体(至福)に帰るしか道はありません、どんなに今病気で苦しくても、、全体(至福)からは絶対に逃げることができないのです。個人は今全体から分離したという錯覚が起こされ、、そこから苦しみのループに入り込んだだけ、、全体(至福)という落下シートが常に常に張り巡らされた綱渡りをしているだけです。

あのタイミングで結婚しなければ良かった、、

離婚した人の多くは後悔をするが、、、

あの時もう少し考えていれば結婚を避けれたのに、、、、あの時もう一人のBさんを選んでおけば、、こんな悲惨な結婚生活を回避できたのに、、、、、残念!!!結婚するかしないかを決める自分は存在しません、全部全体からそれが起こりました。。もう少しだけ考えていれば、、、、違います、、、もう少し考えるが全体から起きなかったのです。

今回の離婚で多くを学びました、、、

いやー1回目の結婚では多くを学びました、、、やっぱり家庭的な奥さんが一番だと悟りました、、、、残念!!!今そのような思考が湧いていようと、、、それとは全く関係なくまた別の思考が全体から湧き、、、それとも全く関係ない誰かと結婚するが起きるのです、全体から。どこまでいっても学んだ「個人」は存在しないのです。学んで成長した個人は存在し得ないのです、、、この個人はこのゲーム、ストーリー上の見掛け倒しです。五感で感じる蜃気楼です。

結婚ってこういうものだから、、、君も気をつけて、、、

結婚生活10年の俺から言わせてもらうと、、、、「お金の管理は自分でやったほうがいいよ」、、、残念!!!結婚生活10年の俺も俺の奥さんも全ての言動は全体からただ起こっています。その結果として「お金の管理は自分でやったほうがいい」がただ起きたのです。誰一人この結婚生活に関わっていないのです、見かけ上はしっかり関わっていても。これで何を後悔し何を学ぶのでしょうか。

ゲーム上この「私」は悟っていい

悟りなんて滅相な、、

私如きが悟りなんて、、、私が悟りなんてとんでもない、、、私が悟りなんて時期尚早です、、、この一見謙虚そうな発言こそが悟りの罠です。自我の罠とも言えます。謙虚というのは、、この私は、、大そうな者ではありません、、、という意味ですが、、、「私」が居ると言っているだけこれは事実ではありませんから傲慢な考え方なのです。「私」など本当は居ないのですからにも関わらず「居る」と言っているだけで傲慢なのです、虚勢です、虚偽です。

私は大そうなもの

本当の私はこの全体、空、色、、、全部ですから、、、大そうなものなのです。大そうなものが見かけ上の「私」になりすまし生きています、謙虚に。滅茶苦茶ですね、、、大そうなものが、、、この見かけ上の体の中に「私」が居るという思考を起こし私ゲームをやっているのです。だからこの見かけ上の私は悟っていいのです。最初から大そうなものだからです、そして今もその大そうなものです、、最初から大そうなものだったのです。

偽りの謙虚を辞める

そもそも見かけ上の「私」は大そうなものですから、、、この「私」ゲームで謙虚に振る舞う必要はないのです。勿論このゲーム上横柄に振る舞えば様々な弊害が起きるでしょう、ゲーム上。だからといって本気で謙虚になる必要はない、、本当は大そうなものであるという自覚をしっかりともって謙虚風に生きればいいのです。「私」の謙虚はこのゲームでは偽りで十分です。なぜならば私は本当は大そうなものだからです。

苦行の末に悟りを開く??

感覚だけを、、、

私は苦行というものがなんなのか分かっていないのではっきりした説明はできませんが、、苦行の末に悟りを目指す人々は、、、恐らく感覚を作り続けているのだと思います、、、山を上り、滝に打たれ、川を横断する、食事も粗食にし、断食し、、、、五感を作り続けていく、、、すると思考が自然と収まっていき、、思考が湧かなくなり、、全体と常に一緒になり、、、最終的に自我が崩れ落ちる、、、勿論これも現象ですから、、、そう見えているだけです。

ヨガも感覚を作る

ヨガは全身の感覚を作るのに最適です。ヨガは普段使わない筋肉を刺激し五感を開いていきます。五感が開くと思考が閉じます。五感を開きながら思考を湧かせ続けるのは不可能です。そして見かけ上のこの体の中に溜まって感情を発散していきます。見かけ上のこの体に溜まった感情を成仏されていきます。思考が湧きにくい体にするには五感を積極的に開いていくことが有効です。

五感が閉じれば、、思考が湧く

五感が閉じていきますと、、、思考が湧きやすくなります、、五感から通じた経験が無くなると、思考するという経験が起きるのです。思考という経験が悪いのではないのですがこの思考という経験は多くの場合「自分」という存在ありきであるために「自分」感覚を強化し結果苦しくなるのです。思考はこの「体」をサバイブさせるために発達したのでこの思考を野放しにすると「自分感覚」が強化され苦しくなります。

大谷翔平の存在

大谷翔平はいつでも無我に入っている

これはあくまで見かけ上の話です、本当は大谷翔平はただの現象ですからその中では何も起きていません。ですが中に中身が在るという想定で話を進めます。大谷翔平は勝負中無我に入ります、無我への入り方を知っています、練習中も無我に入る、恐らくオフの時も無我に入っています。彼の毎日の生活はほぼ無我なのです。ルーティンということをスポーツ選手はやりますがあれは思考を一切介在させずその場で無我に入るテクニックです。

無我が気持ちが良い

無我とは我がないこと、これは全体、悟りのことです。自分が全く居ないのですから、、全体に戻っているのです。スポーツ選手は練習を通じてこの無我への入り方を学ぶのです。無我の状態を覚えるとその場所が最も気持ちが良い場所であることが分かるので率先してそこに入ろうとします。そしてあらゆるスポーツはこの無我への入りで上達し結果が出やすくなります。

ただし大きな落とし穴が

スーパースターが破産、犯罪、、、これもニュースに付きものです。無我に入って出た結果を自我が抱え込むのです。無我に入って大きな功績を残したが自我がしゃしゃりでて威張り散らします。本当は自我が居なかったから結果が出たにも関わらず自我がそれを一人占めするのです。なんという茶番、なんという喜劇、なんという詐欺でしょうか。自我は詐欺師なのです。ですがこれも全体からただ淡々と湧き上がるゲームです。誰も悪役は居ないのです。全体は自我を作って、、このゲームを楽しんでいます。

自分とは記憶に依存した存在

記憶はこの現象界に存在しない

この現象界はどこまでいっても在るように見える世界です、、この現象界に「何か」が在ることは絶対にないのです。すると記憶はどこに在るのか???記憶は空(サーバー)にあります。そして会話のたびにこのサーバー(空)から記憶が湧き出し会話は成り立っているのです。そしてこの記憶を受け取る場所こそが脳です、、脳も見かけ上の物、実態はありません、あくまで見かけ上、ゲーム上、、脳が記憶を受け取ります。

自分の存在を絶対視できるのは記憶があるから

見かけ上のこの体を通じて得た経験の全ては空(サーバー)に記憶されており、、、ゆえにこの体の存在を絶対視するという思考が起こります。そしてこの体の行動を全て決める存在「自分」が居るという感覚が起こるのです、全体(空)から。この体は自由意思で(見かけ上)動きますからこの自分がこに体の言動の全てを牛耳っているという思考が起こります。事実からみればこれは勘違いですが、、「勘違いだ」が起こらない限りこの「自分ゲーム」は何の問題もなく進みます。ただし全体(空)がこの体が私だという成り切り(起こる)は、、、同時に閉塞感を生み出しこれが「苦しい」を土台としたこの人生ゲームになるのです。

釈迦は悟り「人生とは苦である」と語った

人生とは苦なのです、、人生が無くなると絶対幸福になります。人生がない瞬間は熟睡と死です。もしくはこの自我、自分のメカニムを完全腹落ちし、、全体としてこの体を操るという全体主体のゲームに戻すほかありません。見える現象は全て蜃気楼、3D画像でありそこには中身はなく、、ゆえにそこには思考も感情もない、、これを虚無と捉えるか、、面白いと捉えるか、、、それすらも全体から湧いてきます。

悟りとは経験ではない、、

経験とは個人がするもの

我々が使う経験という言葉は個人が個人として掴んだ感覚のことです、、これを経験と呼びます、、そうなると悟りとは全体だった、、主語が「自分」から「全体」の完全シフトですからこれが経験ではないということになります。騙し絵のように老婆だと思っていたら、、若い女性だったに似ています。個人がこの世界を見ていると思っていたらこの世界が自分だったという突然シフトです。

自分と世界が逆転し

見ている方が「自分」で見られている方が世界だと信じていたら見られている方(世界)が自分で見ている方が自分以外だった、、、いや違う、、、見ている自分も、、見られている自分(世界)も全部自分だった、、という完全シフト、、自分がお風呂に浸かっている思ったら、、お風呂が自分だった、、そして浸かっていた自分も自分だった、、、お風呂、自分合わせて自分、、、

経験とは主体客体がなければできない、、

この世界は主体客体の世界、、二元の世界、、、ですが自分が居て、それを取り巻く環境が無ければ経験は誕生しません、、、りんごを食べる「自分」とりんごが無ければ食べるという経験は成り立たないのです。お風呂に入る「自分」とお風呂がなければこの経験は成り立ちません。そうすると独立した個人など存在不可能であることが分かります。「自分」と「環境」の完全なる二人三脚で経験を積んできました。全体から「自分」を切り離し経験が生まれました。自分とは経験強制体験装置なのです。この装置のスイッチを切った時に、、、全体への強制シフトが起きます。

「今ここ」に居ようとしてはいけない

全ては「いまここ」ですよー、、の罠

覚者の言葉がそのまま鵜呑みにするとまんまと思考の罠に取り込まれます。「いまここ」と言う言葉もその一つでいまここが全てと聞くと、、一生懸命「いまここ」に居ようとするわけです、、、これは全くの誤解、思考、幻想です。いまここは結果です、、、今こことは「居よう」とする場所ではなく、、、結果的に「いまここ」しかなかったという気づきなのです。

今ここに居ようとすればするほどに、、、

今ここに居ようとすればするほどに今ここから完全に離れます。なぜかいまここは個人がたどりつく場所ではないからです。個人は完全にいまここから離脱しています、自分という言葉は全体から自ら分かれた存在でありこの存在はいまここを探すのは不可能なのです。いまこことは全体のことであり、、、全体から完全離脱した自分が全体を探すのは不可能なのです。いまここを探す自分を完全否定した時に「いまここ」はバコっと登場します。

自分を完全否定????

自分なんて居ない、、、、自分など居るはずがない、、、この言葉を放った主人が「自分」ならば何の意味もありません。自分という存在を探してみても、、どこにも見つからなかった、、、これが悟りです。誰が自分を探したのでしょうか、、誰が自分の居場所を見つけようとしたのでしょうか、、、最初は「自分」が探したのでしょう、、「自分」で「自分」を証明しようとしたのでしょう、、、そうしたら証明できなかった、、、ヤバイ、、マジか、、、、これが悟りです。その時にいまここがニョキッと現れます。自分が完全に居ないならば、、ここがどこだ、、いまここです。

ほどほどの幸せでいい、、?

特に欲しい物ないから、、

悟り世代問という言葉がありますが、、、特に何も欲しい物ないし、、特別何かなりたい職業もない、、別段お金持ちになりたいとも思わない、、といった感覚、、これが今多くの方の正直な気持ちでしょう、、一生懸命頑張ったて、、それに見合うような幸せになれるわけじゃないし、、、その通りです、、、まさに真実、、ですがこの状態も苦しいのです、、ほどほどに執着しているのです、、まーまーに執着しています。

今私は「ほどほどだろうか??」を終日気にする

私は今ほどほどかなー、私は今まーまーかなーこんなことを実は日々気にすることになっていきます。子供がテストで100点を取ると、、、これはまずい、、ほどほどから外れてしまう、、、子供が学校でモテまくるようなイケメンであったならば、、、これはまずい、、ほどほどじゃない、、、こうなるのです。頭で考えるほどほどは、、全然「ほどほどの幸せ」じゃないのです。

本当の悟りは違う

悟りとは「ほどほどでいい」みたいな中途半端な感覚では全くありません。悟りとは全部が自分の所有物であったことを肌感覚で掴むことです、、目の前に居る、秀才もイケメンも、美女も、金持ちも、、全部自分の表現だったということです。この時に目の前で起きる現象にいちいち反応できなくなるのです、、周囲かた大称賛されようが大批判されようが、、、反応できないのです、、だって称賛する周囲も批判する周囲も自分自身、自分の表現、自分の現象そのものですから、、そこから本当のほどほどが生まれます。