真実

この世に真理を求める無駄

この世は個人個人全く違う

この世界は個人個人の価値観で構成されています、人口70億人全員が違う世界を生きているのです、ですからこの世界には真理は存在しません。それが答えです。ですが人はこの真理を求めます、とっておきの真実、とっておきの共通事項を求めるのです。ですがそんなものはないというのが真実です。これを聞いて困るという人はまだまだケツが青いということになります。真実を追い求めてきて疲れ果ててきた人にとってはこの言葉は救いなのです。

真理を求める理由は楽をしたい

とっておきのコツをこの人生に求めるのは当然のことです、もしもそれを得ることができれば一気に人生は楽になる気がします。ですから探究心が強い方はこの世の真理を追い求めるのは当然です。ですがそんなものはあり得ません、もしもあるならば早い段階でそれは発見され共有されているでしょう。これだけ幸福を追い求め幸福に飢えている人間が共有しないわけがないのです。ですが実際にはそれが共有されていないという事実がこれを証明しています。

唯一真理があるとすれば自分とは幻想であるということ

唯一真理なるものがあるとすればこの自分という存在、体、心、思考を自分と決めている取り決め、これが幻想であるということです。私はこの体、思考、感情であるというこの大前提が錯覚であるということこれだけです。この大前提が崩れますと歓喜、平和、安堵が押し寄せてくるということ、これだけが真実です。自分という存在がこの世界の中で発見したことは全てその方の価値観です。どこまで行っても幻想の域を出ません。

自我は「悟り」以外に興味を持たせ続ける

いつか〇〇になったら私は幸せになる、、、自我の常套文句

自我はいつでもこう言います。いつか〇〇になれたら幸せになれるよ、、いつか〇〇が達成したら楽しくなるよ、いつか〇〇を買うことができたら最高だよ、、こんな調子で延々とこの私に耳元で呟きます。私が今不幸なのは〇〇のせいなんだ、私が今満たされて居ないのは〇〇が達成できてないからだ、、、全部が全部この調子、いやこれ以外の手口を自我はできません。こうして我々は生まれてこの方ずっっとこのやり方で生きています。ラットレースのように。途中で「あれ、もしかして今回の問題が片付いても、、結局同じなのでは?」この疑問が湧くまでは延々とこの手口です。

いつか悟ったら「私」は幸せになる

悟りに興味を持ち始めた私は悟りの勉強をするようになります、悟りこそが自分を幸福にしてくれる、、、悟りだけは私を裏切るはずがない、、、そんな理由で悟り系の本を読むとビックリします。そこには「あなたは実は居ない」こう書かれているのです。これで99%の人は撃沈します、自分が居ない???なんのこっちゃです。悟りは意味不明、、、これは辞めとこう、、、、こうなるのです。自我は悟り以外には何にでも救いを求めますが「悟り」だけは意味不明、、これは頭に入りません。

そうではない「私の否定」こそが最後の真実

ですが本当に眼を開いて、、真実を眺めて見てください。。。成功者と呼ばれている人の自殺、幸福だと思っていた家族の遺産相続、、DV、夫婦喧嘩、、、世の中のトラブル、惨事は常に普通だった人々に起こっています。まともと思えるような人々が次の日は犯罪に巻き込まれ、巻き込んでいる、、、人間が生きていくことで本当に幸福になる方法などどこにも存在しないのです。。そこまで理解が進んだ時にもう一度悟り系にメッセージを読んでみます、、見事に真実をついています。幸せになろうとしていた「私」こそが幸せの邪魔をしていたということです。この「私」という絶対的大前提こそが勘違いだったというこのショッキング過ぎる事実がこの私を消滅し平和、至福、歓喜が押し寄せてきます。

自我が悟りに興味を持たない理由

悟りとは自我の消滅だから

自我は多くのことに興味を持ちます、スポーツ、レジャー、自己啓発、ファッション、エンタメ、旅行、、、なんでもです。ですがたった一つ、これだけには興味を持たないことがあります、それが「悟り」です。悟りだけは積極的に興味が持てない、、なぜならば悟りとは自我の消滅だからです。自我というのはこの思考、体を自分と捉えるメカニズムのことです。多くの方にとってはこの自我はメカニズムではなく真実であることになっています。ですからその自分が居なくなるなどというメッセージは意味不明、言語道断、完全拒否です。自分が実は嘘などというメッセージを積極的に受け取るなどあり得ないことなのです。なぜならば今もこうして自分が居るではないか?この確実完全にここに私は居るというこの感覚はなんなんだ?ということです。

「自分が居る」の自分は心身ではない

「居る」この感覚は間違いなく事実、真実です。ですが自分はという時のこの自分は錯覚です。自分はという時、、恐らく心身のことを言っているでしょうがこれは錯覚です。「今ここに居る」これは間違いない真実でありこの感覚は生まれる前、もしくは何ヶ月後で確実にあったはずです。ですがこの「自分」というのが付け足されたのはその後相当後になってからです。「自分」という存在が出来上がるには言語というものを覚える期間が必要だからです。この後付けされた「自分」これを実は錯覚、幻、後付けだという事実を突きつけるメッセージこそ悟りです。「在る、居る」この感覚を悟りは一切否定しません、ですが「私」「自分」というこの主語、、、この主語を心身で在るという約束、、これを完全否定するのです。

人間が考え出した「成功」も「幸福」も「平和」も絶対に人を至福にしない

私自身は結構真面目な人間で本屋に並んでいる成功哲学系の本はほぼほぼ制覇し、、「これが幸せだ」という賢者の意見を徹底的に模倣してしかも大体は達成してきました。だからこそはっきりと言えますが世の中で言われている「成功」「幸福」「平和」「安定」これらは人を至福には至らせません。あらゆる自称成功者、幸福者に会ってもきましたが「至福」には至っていなかったのです。あくまでも今現在世間的に成功者、幸福者になっているだけというのが印象です。そして自分自身も完全にこのパターンでした。自分が幸福になる、自分が成功する、自分が安定する、自分が愛される、、、これらは恐ろしい矛盾を抱えています。この「自分が実は居ない」という事実です。自分とは思い込みでありだからこそこの自分の同一化した大いなる存在は常に不安定、居心地の悪さ、脆さを感じているのです。この主語「自分」が永遠の至福を得ることは理論上不可能なのです。自分は本当は居ないのですから。

今ここに全体として在るから、今ここに思考として在るに

これはトリック

今ここに全体として在る、、、、これが本来の認識です。我々は確実に今ここに在ることを知っています。誰が何と言おうと私は今ここに在る。。。これだけは断言できます。この在ると言う感覚に何一つ疑問はないはずです。今ここに在ると言う感覚は全体として在るのです。ただしこの全体は諸行無常、移り変わる世界です。私は在る、、、の中で見える世界は移り変わっているのです。これが真実です。ですがこの在るという感覚を思考が乗っ取っている、、これが自我のメカニズムなのです。Iam 私は確実に在るを、、、思考が乗っ取り、、、私は今ここに思考として在るに書き換えているのです、常に。だからこそ思考は常に湧いてきて自身の存在を主張し「私は在る」を乗っ取り続けるのです。私は今ここに思考として在る、、は思考の乗っ取りですから、、この人間人生が幻想、ドラマと言われるのです。

思考は常に乗っ取り続ける

今ここに在る、、、これが本来です。本来はこれだけです、、この、、今ここに在る、、、のなかで諸行無常、万物は移り変わっていきます。今ここに在る、、、の中で森羅万象が起こり続けています。この中に体が起き上がり、思考が起き上がる、、、この思考の活動に今ここに在るが同一化し、、、今ここに思考として在る、、が誕生しました。思考の今ここに在るの乗っ取りでもあり、、、今ここに在るのい思考との同一化です。今ここに在る、、は平和歓喜安堵そのものです。これが今ここに思考として在る、、、になると違和感が湧き上がり続けるのです。なぜならばこれは完全なる誤解だからです。

今ここに思考として在る、、はとてつもなく不安定

今ここに思考として在るは、、本来の形ではありません。今ここに在るがスケートボードに乗っているような状態です。そしてこのスケートボードに乗っているを本来と勘違いしている状態なのです。スケートボードは不安定ですから急に降りてしまったりします、、、するとまさかの大変安定感があって安堵が込み上げてくる、、それは当然ですよね。ですがスケートボードは直ぐに「今ここに在る」をボードの上に乗せてしまいます、これが本来だよと。ところがやっぱり何かアクシデントがあると、またボードから外れる、、、すると平和、歓喜、安堵が訪れる、、、、ところがやっぱりボードがしゃしゃり出てきて「今ここに在る」を上に乗せます。これが今ここに思考として在るです。ボードに乗っているのはエキサイティングで楽しいのですがやはりしんどいわけです。

不安定だから「今ここに在る」は楽しいが常に戻りたい

「今ここに在る」の思考同一化体験は大変エキサイティングで楽しい、、ですが同時に非常に疲れます。長くこの思考同一化体験を続けたい気持ちと、、早く「今ここに在る」に戻りたいの両方の気持ちで揺れ動いているのです。思考は「今ここに在る」との同一化により活動を活発化させ「今ここに思考として在る」を助長します。「今ここに在る」は思考との同一化を止めればいつでも「今ここに在る」に戻ります。この状態に意識的に居れる人を覚者と呼びます。「今ここに在る」が本来の姿です、むしろ「今ここに思考として在る」が後付け、錯覚、変異です。「今ここに思考として在る」が「今ここに在る」に戻るためにはあらゆる方法がありますが、全作業に集中することで思考を抜け落とすか、、、湧いてくる思考感情を観察し同一化から脱却する、、、そしてこのブログの内容のように「今ここに在る」しか最初から無かったんだに気づくことです。

幻の認識は幻の終わり

我々は真実をただ認識すればいい

「この自分は間違いなく居る」これは自我が作り出した錯覚のメカニズムです。このメカニズムをいかにしたら脱却できるか?探求者は自我の存在を知りながらもではそうしたらこれを脱却できるかに心酔します。幻の真実はそれを幻と見抜いた瞬間なくなるということです。つまりこれは幻であることを体現するほかありません。知識のレベルでこれをいかに知ったところでそれは知識であって概念です。お寿司とはこういう味だ、、、こんな情報を1万回聞いても本当のお寿司の味は理解できません。悟りもこれと同じ先ずは体感し自我が幻であることを理解するほかありません。

大ピンチの状態、、、自我が抜け落ちる

突然の交通事故、街での喧嘩騒動、隣家の火事、震災、、、こんな非常事態に実は人間は楽になっています。急に頭が軽くなり気分が晴れているのを知っているでしょうか?火事場の糞力ではないですが緊急時とは普段の数倍の力が出ます。この状態は思考が抜け落ち自我が抜け落ち無我、ワンネスの状態です。スポーツ選手ならば知っているはず、余談を許さないような試合中いつもは重苦しい頭が劇的に冴えている、、これが無我です。この状態は誰でも知っているのです、ただこれを意識的にできない。なぜか?それこそ自我の妨害です。

毎日積極的に無我になることで幻は消えていく

無我の状態の気づきとは、、普段は自我が気分を視界を重くしていたんだな、、です。自我がただ不平不満、負の感情を湧き出させていたのだなという絶望的な気づきです。この気づきを積極的に行っていきます。積極的に無我に入っていくのです。全ての作業、全ての仕事、全ての会話、全ての雑事に対し無我で取り組むのです。もしくは負の感情が湧いてきたらそれを集中して観察します、積極的に負の感情を観察する観察者になるのです。そこから無我に入ります。人間活動の全てを無我への入り口に変えるのです。その時に気づくのは自我こそが人間を苦しませていたのだな、、というジョークです。

思考が見せる世界の成れの果て

名前をつけた世界は生気がない

もしもあなたの前にある世界が曇っているならばそれは名前をつけた世界に生きています。もしも目の前の世界が生気を失っているならばそれは生気を奪っているのはその方の思考です。小さい子供が公園や家に居てもひたすらに楽しそうにしているのは見ている世界が輝きているからです。そこから少年は知識を延々とつけていき見える世界に名前がつけられラベルが貼られていくことで見える世界から生気が失われ行くのです。人は名前がつけられた世界にいると名前がついたモノしか見えなくなっていき本質から離れて行くのです。

例えば一日中ニュース番組を見ていてば

例えば朝起きてそこから一日中ニュース番組を見ているとしましょう、恐らく夕方ぐらいには目の前にある世界が曇っているはずです。どんよりと重苦しい世界が目の前に広がっているはずです。もともとどんよりしていたわけではありません、あなたの思考が世界を分裂させて生気を剥ぎ取ったのです。負の感情が湧く、それを思考で解決していく、、、この循環に陥っていきますと大人になればなるほどに世界は分裂していき生気を失っていきます。

本当に欲しいのは知識ではなく知恵

我々現代人に必要なモノは知識ではなく知恵です。この世の真実を照らす知恵が必要です、そうしないと知識ばかりが増えていき世界から生気が失われていきます。生気を奪うのはあなたの知識、思考です。知恵とは何か?知恵はこの世をシンプルに捉えていきます、シンプルに捉えていけば思考もシンプルで大丈夫になっていきます。必要な知識は徐々に減らせていけるのです。日経新聞の隅から隅まで読んでみてください、、恐らく見える世界から活気がなくなっているはずです。これは知識です。このブログを読んでもらいもしも視界に光が射してきたならばこの内容は知恵ということになります。

思考に絶対的な信頼を寄せる人間の愚かさ

思考はこの世の王者

思考とはこの世の王です、絶対的な権威です。その証拠にノーベル平和賞に選ばれる多くは最高権威の大学を卒業しています。ですが実際にはその思考が生み出したテクノロジーはこの世界を平和に導くどころか混乱を生み出しています。これに多くの方は驚かないのですが実はこれは思考の本質を見抜くチャンスです。思考とはあくまでもこの世界を構築する一つのエネルギーでしかなくそれ以上でもそれ以下でもないのです。思考というたった一つのエネルギーを絶地的王に据えることで人間も世界も不幸に至らせてしまいました。

思考=感情

思考と感情を完全に別に考える方は多い、、、女性は感情的で男性は思考的、、、、感情と思考は別物、、これが世間の一般常識でしょう。ですが実際は違います。思考のエネルギーが感情のエネルギーを生み出しています。私はこの世界でたった一人の存在だ、、これが自我ですがこの自我システムこそが人間に孤独感、分離感、喪失感、不安感を生み出し続ける元なのです。感情豊かなライオン、感情的なシマウマ、など自然界において感情が溢れておかしくなっているような動物はいません。皆淡々と生きています。苦しみという感情は生物のデフォルトではなく人間というこの自我を形成した動物だけがこれを所有します。

人間を辞めよう

野生動物は穏やかで人間は不幸、、こんな悲しい事実を人間は絶対に認めなでしょう。知能、思考というものを手に入れた人間様がなぜ野生動物よりも不幸なのか?あり得ない、、ですが真実です。人間様だけが負の感情を常に生産し続け全世界の不幸を一手に抱えています。人間様だけがこの負の感情を思考によって即座に解決しますが直ぐにまた負の感情に襲われ終始緊張感を漂わせているのです。これが人間の本性です。思考というものを絶対的に信頼しその思考によって裏打ちされた自分を絶対視することで負の感情を生み出し続ける存在、それが人間です。この人間を一瞬で辞める方法があります、それは感情を観察することです、思考を観察することです、湧いてくる感情、思考に、思考を被せてこれを解消するのではなくそのまま観察者になります。そのまま気づきの意識、無心、無我になるのです。自身から湧いてくる感情を自分のモノとして所有しこれをなんとかしなければと思考フル回転になるのではなくそこから悟りに入るのです。その時人間はいなくなります。

ポジティブシンキングの危険な罠

自己啓発の定石

30代になって仕事で独立した際に売上げ、利益、収益、、、何でもが自己責任にシフトしました。そのため多くの自己啓発本を読み漁り成功を夢見て邁進しました。全部自分の責任ということは成功すれば全部自分の実績ということです。これほどに涎が出るチャレンジはありません。その時に読んだ本、ナポレオンヒル、本田宗一郎、中村天風、斎藤一人、松下幸之助、、、、事業家で成功した人間の多くが説くポジティブシンキング絶対肯定論に強く惹かれたのを覚えています。そしてこれらの考え方で事業に向かうと確かに成功に近づきます。ですがどれほど成功し利益を出し、あり得ないほどの自由を手に入れても一向になくならないのが不足感でした。おかしい、、これほど上手く行きすぎているのに何も変わらないこの焦燥感、、、絶望、、、とりあえず見ないようにしよう、、、

成功など何の穴埋めにもならない

ポジティブシンキングは確かに成功に近づく定石です、どれほどまでに失敗してもチャレンジを続ける、、、何度も立ち上がりチャレンジを永続すればどこかで結果は出る、、その通りです。確率的にもそうなります。全失敗を成功の種と捉え続けることで必ず結果はどこかで出るものです。それは間違いありません。ですが埋まらない不足感、焦燥感、、、、結果が出ているにも関わらず埋まらない不足感を味わった人はどれほどいるでしょうか?おそらくあまりいない、、、だからこそ誰にも相談できない。。募る焦り、孤独、、、反比例するように上がる自尊心、特別感。

ポジティブシンキングを所有するのは自分

ポジティブシンキングというぐらいですからこれは考え方の話です。思考ですね、この思考こそが自分自身から負の感情を湧き上がらせているのです、、、びっくりします。松下幸之助、ナポレオンヒル、中村天風がこんな引っ掛け問題にやられますかね、、人間の思考、観念、哲学こそが不足感を湧き起こしている、、、これでは人間は至福に至るわけがないのです。なぜならば人間とは考える葦ではないか、、、つまりこういうことです、この自分を自分と思い続ける限り真実の幸福は絶対に来ないのです。自分がポジティブシンキングを所有している限りそのシンキングこそが不足感、居心地の悪さを生み出すという仕掛けです。

負の感情が湧いてきたら、、、

負の感情が湧いてきたら、、それをポジティブに捉え直し、、、、これがポジティブシンキングですが、、、これをしている限り、、負の感情が湧き続けます。そうではなくその感情を観察する存在になる、その感情から逃げずにその感情をじっと観察する、、観察することに集中する、、観察することに無心になる、、、観察することに無我になる、、観察する大いなる一つになる、、、観察から歓喜、安堵、平和に入って行きます。人間活動としては当然湧いてくる負の感情を観察することから悟りに入ります。

選択を失敗したマリオはいない

選択を失敗したと思い煩うマリオ

マリオがどれほど思い煩い自身の失敗を悔やんでいたとしてもそれは茶番です。マリオがクッパとの対戦で大間違いを起こしジャンプするところをダッシュをしてしまった、、このことについて10年以上悔やんでいる、、これは無意味です。なぜならばジャンプボタンと間違えてダッシュボタンを押したのはマリオではないからです。それはプレイヤーです。もしもマリオに記憶機能があり過去の失敗を悔やんでいても無駄です。記憶機能が作り出した幻想ということになります。記憶ははっきりとマリオの失敗を記憶します、ジャンプではなくダッシュをしてしまったマリオ自身を。ですがこれは記憶違いです。本当はプレイヤーがジャンプボタンの代わりにダッシュボタンを押した、、、これが真実です。

記憶とは勘違いを明確に刻んだモノ

記憶機能とはマリオの行動を完璧に記憶していきます、記憶が重なれば重なるほどにマリオの失敗傾向、気分の浮き沈み、マリオの長所、マリオの交友関係、マリオの対キャラ別成績表が刻まれていきます。最近のマリオは調子がいい、過去何年間は気分にムラがあり失敗が多かった、、、と反省もできるし喜ぶこともできる。ですがこれは全部幻想です。マリオは一度たりとも自身でプレイしたことなどないのです。記憶がそう確実に見せているだけです。5年前のマリオは頭がキレキレで冴えていた。という感じです。残念ながら我々人間もこのパターンです、自分で全部決めていると思っていますが実は決めていません、そう思わされているだけです、記憶と自我のメカニズムによって。

だったら徹底的に自暴自棄になってやる、、、

自分の意思でプレイしていなかったと突然気づいたマリオは、、、絶望し、呆気にとられ、、もうプレイする気力がなくなります。そんなバカな、、、、もうプレイはしない、、、もう冒険はしない、、冗談じゃない、、、こうなります。ヤサくれます。さじを投げます。焼け酒に走ります。、、、ですがまた次の日に冒険に出ました、、、なぜか?マリオに自由意志はないからです。マリオの感情に関係なくプレイは続きます。これは人間も同じ、今日まさかの真実に気づき自分は何も選択していなかったと分かっても明日も何か選択をしていきます、明日からも選択の日々が続きます。ただし人間自分としての選択は皆無です。ただ選択したと思いこまされる日々が続くだけです。

マリオは気づいた、苦しんでいるのは自分だけだ

マリオゲームで苦しんでいるのは自分だけ

マリオゲームの中で感情を持っているのはマリオだけ、マリオだけが苦しみ、楽しみ、喜び、落ち込んでいる。クッパもプヨプヨもノコノコもクリボーも苦しんでいるようには見えない、、これがマリオゲームの真実です。人間ゲームは違う、自分は確かに苦しんでいるが、、他の人間も苦しんでいる、、、いやそれは違います。この人間ゲームはそのようの見せているのです。苦しんでいるのは自分だけではない、、そう見せています。ですから覚者は問う者に伝えます。あんたがただ解放されればいい、あなたがただ真実に気づけばいいのだと。マリオにとってクリボーの存在が関係ないように、この人間ゲームも私が真実を知ればいい、ただそれだけです。

楽しめるのもマリオだけ

この人間ゲーム、自分だけが世界中の不幸を背負っているそのように見ることもできますが楽しめているのはこのゲームの中で自分だけです。だから楽しみを何も考えずに追求すればいいのです。他者は所詮ゲームの脇役キャラでしかないのです。ただこの楽しみを追求するのがまた厄介でそれはそれで骨が折れるのです。楽しみ続けるって実は難しいのです。買い物を追求しても、食事を追求しても、異性を追求してもハードルは上がるばかりです。もしくは途中で飽きます。

全体から分離しているのは自分だけ

この自分ゲームにおいては全体から分離してるのは自分だけです。この体と言い切るのも間違っています、例えば腸の動き、血液の動きなど自身が全く感じることができない動きは全体が行なっています。足を動かした時にそれを感じるのはそれを行なっているのは自我、自分だからです。体全部が自分が動かしていると思ったら大間違いでほとんどは全体がこれを行なっています。全体が全体としてそれを行う時、それを感じることはできません。例えば傷を負ったとしてもそれを治すのは全体です、ですから傷が治る感覚を得ることなく勝手に傷が治ってしまうのです。思考がわき起こる時にそれをしっかりと感じるのはそれについては異物(自我)が関係しているということになります。