自由意志

いつの時代も

新しい発見には抵抗が起こる

イエスキリストは十字架にかけられて最後は殺されました、、、いつの時代も新しい発見は既得権益に抵抗にあいます。。自由意志が個人にはなく、個人という存在も実は居ない、、、このようなメッセージは、、これまでの人類の歴史の土台をひっくり返すメッセージであり、、、嫌煙されるのです。。。そんなこと言われたってこれからどうやって生きていけばいいのか???という話です。

最後は真実にシフトする

いかなる抵抗があろうとも、、、最後は真実にたどり着きます。。どんなにか科学が発展しても自由意志を使いこなす個人、自分、私という存在を科学は証明できないでしょう、、、、この真実にどこで人類は認めるか、、、科学が脳に迫り、、脳の機能を完璧に把握することが起きるのか???人口知能がそれを証明してしまうのか???

社会人にこのメッセージが意味あるか???

普通に働いているけど、、意味を感じない

普通に毎日働いている方にこの悟りメッセージは意味があるのか???使い道がない、、、、違います、、天動説が地動説に切り替わる以上の影響力です。。。。意味があるのか??という質問が出ている時点でまだ理解が進んでいないのです。。。人間の多くは後悔、と心配を多くの時間を割いてしていますが、、、これが無くなります。。。。後悔も心配もこの私が自由意志で決断をするから、、起きるのです、、、、怖い、、、ですがこれをできる個人が存在しないのです、、、個人というラベルのはその実力がないのです、、、、後悔、不安全く関係のない話です。

何を焦り何を求めるのか???

焦りとは、、この今の決断が、、今後に影響するのでは????という大前提で起こります、、、ところが、、それができない、、、今起こる決断はこの個人というラベルとは全く関係なく起こり続ける、、、何を焦ることができるのか????勿論どうなるか分からない真我からの起こりは怖いのは確かです、、、ですがそれは全員が同条件。。。全員が全く平等に真我に振り回されている、、、終わり。

上手くいくもいかないも

見かけ上上手くいっている人は、、そのようにさせられているだけ、、、見かけ上上手く言っていない人は、、そのようにさせられているだけ、、、ここに何か感情思考は湧くでしょうか、、、、湧くわけがないのです、、、そこに個人の自由意志が働いていると信じるからこそ、、色々思考が巡るのであって、、それが湧かない、、、変わった、、、起きている時間の思考の反応が明らかに変わります。これが人類の新しいパラダイムシフトです。

自我の根っこをぶった切る

勘違いの大元

自我の活動、反応は、、勘違いという大きな土台の上で起こる化学反応です、、化学反応ですから、、これを静止できる個人、自分は存在しません、、、化学反応を止める唯一の方法は、、この勘違いという土台に完璧に気づく以外に道はないのです。。。その大きな勘違いとは、、、この自分が自由意志で物事を決めているという勘違いです。これが嘘だった、勘違いだった、、、という大どんでん返し、天動説が地動説に切り替わるようなパラダイムシフトを超こします、、すると自由意志がある個人を前提にした、、思考、行動が湧いてこない、、もしくは途中で気づくようになります。

地動説を信じ切った後に。。。

地動説を信じ切った後に、、今日の太陽は早く動くなーとは思いませんね、、全く同じメカニズムです、、、全ての言動は真我から勝手に起こっている、、、これを腹の底から信じた時に、、感情、思考、行動が変わってしまうのです、、、勝手に。蜃気楼を見て早くあそこに行きたい、、とは思いません、蜃気楼という気づきが起きたあとに、、その衝動がもう起きないのです。

これは人類の新しいパラダイムシフト

個人の思考、行動、感情が、、、全部真我からただ起こっていただけだった、、、この気づきは、、、人類のパラダイムシフトです、、この気づきは地動説後の人類の発展と同じです、、、それぐらいに大きな気づきです。この気づきが今人類に起きそうになっています。情報革命が進み、、悟り、ノンデュアリティのメッセージが徐々に世間に浸透し始めています、、これは奇跡です。

勘違いを起こしたのはユニフォームではない

ここで重要な

体が真我、、ユニフォームは自我、、、体が動きユニフォームは番号に過ぎない、、にも関わらずいつのまにか、、ユニフォームが体の動きを決めている、、、という大勘違いが起きました、、そして今も起きています、、、、その勘違いはユニフォーム(自我)がしたんではありません、、、体(真我)がしたんです、、そして今も。。。ですからユニフォーム(自我)には全くもって罪はないのです、、、

悟り業界では自我の悪口が多くなるが、、、

ここが非常に難しいところ、、悟り本では自我の悪口が列挙します、、、ですが本当のところ、、自我(ユニフォーム)には悪さをする力がない、、悪さをするのは体(真我)です、、、、しかしそこも本当のところ、、真我の動きも自由意志はなく、、、勝手に起こっています。。。ユニフォームが全部が全部を決めているんだ、、という勘違いが真我(体)から起きちゃった、、、ということです。この気づきが悟りです。

本当の自我とは

悟り業界でいう自我とは、、、真我がユニフォームに全部を決める力があるという勘違いが起こりその勘違いを前提にした真我の反応=自我です、、、自我とは反応です、、、ここを覚えてしまう、、、あまり深く考えずにここを理解してしまいますと、、、悟り本で何回も出てくる自我という本性が見えてきます、、、すると、、、自我は実在などするわけがなく、、、それは真我の勘違いを前提にした自動反応(自我)であることは腹落ちします。。そしてその腹落ちは、、ユニフォーム(仮の私)でもなく自我(自動反応)でもなく、、真我そのものから勝手に起こるのです。

「自分」とはスポーツ選手のユニフォーム

ユニフォームは何もしていない

スポーツ選手はユニフォームを着てそこに番号を付けます。見かけ上の自分という存在はこのユニフォームです。自分は何もしていないのです、、走るのか、蹴るのか、歩くのか、、、これを決断しているのは体であってユニフォームは何もしていない、、、にも関わらず、、ユニフォームがしているという勘違いだけが起きます、、相手のユニフォームをみて、、なぜあのユニフォームはあんなプレイをしたのかと非難します、、なぜあそこで蹴ったのか??あのユニフォームは、、としかしユニフォームは何もしていない、、、これが見かけ上の人間の苦しみです。

最近のあの人(ユニフォーム五番)は頑張っている

最近あの選手(ユニフォーム5)頑張っているよね、、、違います、、ユニフォームは何もしていないのです、、、それでもそれを伝えます、、、いやー最近の君(ユニフォーム5)は凄い頑張っているね!素晴らしいよ!、、、ありがとうございます(ユニフォーム5)、、、なんか色々反省してみてやる気が湧いているんですよ(ユニフォーム5)、、、、、今度他の選手(ユニフォーム)にもハッパをかけてみます、、、

大いなる勘違い

全員(ユニフォーム)が何を考え何を行動すかにおいてユニフォームは全くもって無関与です、、にも関わらず全員でユニフォームが全部を全部決めているという夢を見ているのです、、ユニフォームはただ体(真我)の動きに従うだけ、、、ユニフォームはその動きに付いていっているだけです、、、外から見て、、ユニフォームが全部決めているように見えても全く関係ありません。

あの選手(ユニフォーム10)は何をやっているんだ!!

監督(ユニフォーム)が怒ります、、、今日の10番(ユニフォーム)は何をしていんるんだ、、全く動きが悪いではないか、、、違います、、ユニフォームは何もしていないんです、、、あとでしっかりと注意しなくては、、、ユニフォームは何もしていない、、、見かけ上の人間にはそう見えているんです、、、この事実がはっきると分かると人間関係(ユニフォーム関係)はまるで違ったものになります。

全く動かない仲間(ユニフォーム)にはどう伝える????

何を伝えてもいいんです、、もっと動いて、、もっと歩いて、、もっと守って、、、でもそれを決断する力がユニフォームにはないんです、、、では体(真我)にその力があるのか???実は体(真我)にも自由意志はありません、、体は勝手に動いています、、、つまり、、、、それを決めることができる存在は存在しないということです。

個人のお役御免

個人を辞めてみる

これをしなきゃ、、あれをしなきゃ、、、個人は自身に自由意志があると思い込み、、その大前提での思考活動が連続します、、、ですが本当は個人には自由意志がない、、、だったらばそれを確認すればいいのです、、、何も自分からは考えない、、ただ衝動にしたがって行動してみよう、、、です。

すると何も変わらない、、、

何も変わりません、、思考なんてしなくても全部行動は回る、、ただ衝動に従って動く、、、行動量は何も変わらず、、、ただ日常が過ぎていく、、、個人という存在はやはりラベルだった、、、そこに存在価値は全く無かった、、、となります。。。本当に面白い、、、こてまで自由意志を発揮してきたと思ってきた個人は、、実はラベルに過ぎなかった、、ラベルが実在するという前提の言動があっただけ、、、、

個人をラベルと見抜いて、、、

個人をラベルと見抜いて生活します、、ラベルですから自由意志も自由行動もありえない、、、ただ衝動にしたがって行動します、、、何もかもが変わらず回っていきます、、、自由意志の責任が抜け落ち、、、重さが抜けます、、、自由意志の責任が抜け落ち反省がなくなります、、、軽くなる分行動量が増えていきます、、、反省時間がない分気分が良くなります。人を批判する気持ちが無くなります、、人を称賛する気持ちがなくなります、、、人の上下がなくなります、、

自由意志がないことに気づくと

道ゆく人々への気持ちが変わる

この人はなぜこんなに疲れているのか??この人はなぜこんな格好をしているのか???この人はなぜこんなに急いでいるのか???これらの疑問が完全に無くなります、、なぜならば一人として自由意志がないから。。自由意志がないならばこればこれは真我からただ起こっただけ、、そこに意味は完全にない。。となるのです。。。意味を考えるのは無駄です、なぜならばそれは真我の現れ以上でもなく以下でもない、、

関わる人間関係

なぜこの人はこうしないのか??なぜこの人は働かないのか??なぜこの人はいつも怒っているのか???これらの疑問が完全に断たれます、、、なぜならば、、、、その全ては真我からの現れだからです。。個人は何も関わっていない、、以上、、、になります。なぜこの仕事を始めたのですか????その人に聞いても実は意味がない、、その動きが真我から起こっただけです。。。

これは究極の手放し

見かけ上の私の言動の全ても、、、見かけ上の他人の言動の全ても、、真我からの起こりです、、ここに自分も他人も何も関与できない、、すると、、、この世界の今の状況は完璧な真我のアート、大いなる一つのアートです、、、何を個人が判断することがあるのか???という話です、、、その個人の行動の全てが真我に依存しているというのに。

責めるべき相手は居ない

全部が全部真我から起こっている

この世界の現象ではどのようなラベルが貼り付けられた人であっても、、、全部の言動は勝手に起きます、、例えば総理大臣というラベルが貼られた人でも、、、関係なく、、犯罪を起こすという現象が起きる可能性があります、、つまりこれはもぐら叩きと同じで、、どの穴から何が起きるか全くわからないのです、。どのラベルにもそれをコントロールできる力がないのです。

聖人君子

成人君子と呼ばれるようなラベルが貼られた人でも、、、、悪行が突然その人を通じて起きる可能性がある、、、ここは全くもって誰にもコントロールができない、、、成人君子にはそこをコントロールする力がないのです、、、ですから彼を叩くのも筋違い、、、になります。この世界においてこの体から起こる言動をコントロールできる人はいないのです。。

究極の脱力

この感覚を一生追い求めていました、、、自分に全責任がない、、自分には自由意志もない、、そして自分すらラベルに過ぎない、、、この脱力感、無責任感、、、、これを最初から求めていたのです、、、全部が全部大人であるあなたに責任がある、、、これを学習し、、重く重く考えてきた、、、だから失敗したくない、失敗できない、、が湧き続ける、、、、ここからの解放、、、無責任感

自分を許す、、の本当の意味

本当はこうやるべきだけ、、、まいっか、、ではない

自分を許す、、、というのは、、、「本当はこうやるべきで、、、だけどできない自分を許します」というのではありません、、、、この見かけ上の自分には一つたりとも自由意志はなく自由行動もなく、自由責任もないということを認めることが本当の許すです。この究極の許しが起きた時に、、他人を攻撃したいという衝動が完璧に終わります。自分を攻撃しまくっているから他人を攻撃したいのであって、、これが完全に終わります。自分を一切責めれず、、他人を責めれない、、、

今回だけは自分のことを褒めてあげたい

今回はよく頑張った、、今回の自分だけは褒めてあげたいです、、違います、、、全部全自動、、頑張っていない時も頑張っている時も、、、全部全自動なので、、、全部褒めていいのです、、、、朝から晩まで飲み歩いている日々も、、全部全自動です。。。神が行う経験、神が感じる経験に優劣があるならば神は神ではなくなってしまいます。。

全ての行動は神から起きる

見かけ上の私という体を通じて起こる全思考、全感情、全行動は神から直接起こります、、この全言動に対して判断を下せる存在は誰でしょうか???神です、、、神が自分で全言動を作り上げ、、それを自分で判断するとう動きが起きているのです、、、ですがこのメカニズムに気づいてしまったらもう判断は意味がない、、、だって判断したって、、どうしようもない。。判断を下しているつもりのこの私は神が作り出したイメージです。

絶対的理解はいつ起きるのか??

分からない

絶対的理解、これが夢であるという気づきはいつ起きるのでしょうか???分かりません、、、なぜならば絶対的理解は自分が起こすのではなく、、、本当の自分から勝手に起きるからです、、、ですから絶対的理解を起こそいという試みは、、、矛盾があります、、苦しみに入ります、、、絶対的理解を起こそうとしている時点で、、理解が全くできていない、、混迷の世界に入ります。

いつになったら悟れるのか???

それはただ起きることを理解できた時です、、、起こすのは本当の自分ですが、、その本当の自分である真我は、、自由意志で悟りを起こすのではありません、、、勝手に起きるのです、、、、本当の自分から。その事実、真実を理解できた時に、、早く悟ろう、、、という思考が湧かなくなります、、、「早く悟りたい」という思考はこの理解が完全に欠落していますから、、、矛盾を引き起こすのです。。。

悟りへの興味が湧いていることに気づく

悟りへの興味が本当の自分から湧いているなー、、これをただ感じます、、感じているのは勿論本当の自分です、、、これだけ、、、悟りへの衝動、本当のホームへの衝動、真我への衝動が、、、ただ起きている、、それを真我が感じているという理解、、からの気づき、、、全ては真我から湧き怒り、、真我が感じる、、、この時収縮したエネルギー自我が全く相手にされなくなり、、ついに消え去ります。