真実

筒人間ならば野生動物と同じではないか???

その通り

人間がただの筒で、、全体からの起こりを通すだけの存在、、言動全て全体からの起こりを通すのみ、、だとするならば、、、意志を持たない野生動物と同じではないか????意思を持たない昆虫と同じではないか???その通りです。全くもってその通りです。人間の方が昆虫よりも優れて、、、全体の表現、アートに、、優劣などあるわけがないのえす。人間も野生動物も昆虫も自由意志など一切なくただ全体の起こりを表現しているのです。

それが素晴らしい

自由意志がなく、、ただ全体からの起こりを全現象が表現しています。ここに「自分」が居るという思考が全体からやはり起こることで、、自分劇場がスタートします。この「自分」はあらゆる経験をかき集め、あらゆる知識をかき集めることで、、価値観を形成していきます、、、この価値観は記憶ですから、、全体、空に収められていきます。そしてこの価値観を通じてこの現象界を眺めることで、、、エネルギー、生の揺れ動きの中に別個分別しているかのうように見える存在(現象)が現れるのです。

価値観を通じた現象に善悪はない

「自分」の価値観を通じた現象に善悪は全くありません、、ですが「自分」にとっての善悪は存在します、自分にとっての良否は存在します、自分にとっての優劣が存在します。これが分別です。この分別で周囲を縛り自分を縛ることでこの自分劇場は生き辛くなっていきます。よくわかんないけどなんか生きるのって辛いよね、、になります。

価値観分別劇場

この世界、価値観分別劇場から離脱するためには、、本当は何が起きているかを知って触れるしかありません。価値観分別劇場の中で真実にもう一度触れて、、真実を思い出すしかないのです。マトリックスの中でNEOは徐々にこの気づきを得ていきます、現象(エージェントスミス)に何度も取り込まれそうになりますが、、その中でも徐々に真実を発見していくのです。

全体からの起こりに全体が判断するという喜劇

昨日は飲み過ぎてしまった、、失敗した、、残念!!

昨日飲み屋であのボトルさえ空けなければ、、、次のもう一軒が余計だった、、、残念!!全ては全体からの起りでからそれ以外の選択肢は一切なかったのです。それ以外の選択肢があったのならば全体以外の存在が居ることになってしまいます。全体は全部だから全体なのです、その全体が下した決断に間違いなどあろうはずがないのです。しかし個人はその決断に対して反省なんかをしちゃったりします、、、残念!!その個人の反省すらも全体から起こっているのです。それでは反省する意味はないのか???全体が下した決断に一切の誤りがないことを腹落ちできると反省が自然と湧いてこなくなります。

では人間は失敗から何も学ばないのか????

今十分に学んでいます、、これまで失敗し、反省してきたというこのメカニズムが一体どういう裏事情で行われてきたかを、、、裏事情というよりも真実、事実がこうなっていて、、それによって失敗、反省が行われてきたことが分かったのです。失敗、反省というこのサイクルを全体が引き起こしていたのです。じゃあ今までそんなことをしてこなければ良かったのに、、、違います、、そのサイクル自体を全体が起こしていたのです。ここに個人は全くもって関与できないのです。

あの時こうしておけば、、、

あの時、あの人と結婚しとけば良かった、、、、違います。。個人に選ぶという力など全く与えられていないのです。個人はただ全体からの起こりに身を委ねるしか選択肢がないのです。選択肢というものは全体が持っているものであって個人には選択肢はないのです。今コーヒーを飲む、、、これですらも全体からの起こりです。今トイレに行こう、、これすら全体からの起こりです。大きな決断をしよう、、それすらも当然全体からの起こりです。

ほどほどの幸せでいい、、?

特に欲しい物ないから、、

悟り世代問という言葉がありますが、、、特に何も欲しい物ないし、、特別何かなりたい職業もない、、別段お金持ちになりたいとも思わない、、といった感覚、、これが今多くの方の正直な気持ちでしょう、、一生懸命頑張ったて、、それに見合うような幸せになれるわけじゃないし、、、その通りです、、、まさに真実、、ですがこの状態も苦しいのです、、ほどほどに執着しているのです、、まーまーに執着しています。

今私は「ほどほどだろうか??」を終日気にする

私は今ほどほどかなー、私は今まーまーかなーこんなことを実は日々気にすることになっていきます。子供がテストで100点を取ると、、、これはまずい、、ほどほどから外れてしまう、、、子供が学校でモテまくるようなイケメンであったならば、、、これはまずい、、ほどほどじゃない、、、こうなるのです。頭で考えるほどほどは、、全然「ほどほどの幸せ」じゃないのです。

本当の悟りは違う

悟りとは「ほどほどでいい」みたいな中途半端な感覚では全くありません。悟りとは全部が自分の所有物であったことを肌感覚で掴むことです、、目の前に居る、秀才もイケメンも、美女も、金持ちも、、全部自分の表現だったということです。この時に目の前で起きる現象にいちいち反応できなくなるのです、、周囲かた大称賛されようが大批判されようが、、、反応できないのです、、だって称賛する周囲も批判する周囲も自分自身、自分の表現、自分の現象そのものですから、、そこから本当のほどほどが生まれます。

悟りをしっかり閉じる

超現実的な子供はしっかり悟りを閉じる

悟りを開くには悟りを閉じるこが重要です。しっかりと悟りを閉じればしっかりと悟りが開きます。このギャップが最高起爆剤なのです。悟りを閉じるとは究極のリアリスト、超現実的になることです。現実的、、、実が現れるこの世界にどっぷりと浸かることです。現れるこの現象にしっかりと騙されて、、しっかりとこの現象に巻き込まれ、しっかりと七転八倒するのです、八方塞がりを何度も繰り返し、酒池肉林、餓鬼畜生に染まるのです。するとこの現実の世界に中に真実を見ることができるようになります。

現象をしっかりと見つめる

この現象は、、中途半端に見つめてもそれが幻想、3D映像、蜃気楼であることを見抜けません、、しっかりとしっかりとこの現実を眺めるのです。すると、、、事実がボコっと現れます、真実に入っていきます、そこから無我に入り込みます。中途半端のこの現象と向き合ってもそれほど苦しくもないし、それほど辛くもない、、その通りです。大人になってもなんか子供っぽいよね、、ていうのは悟りが閉じ切っていないのです。これでは人生が中途半端になってしまいます、、ぬるま湯での苦しみが続くわけです。

とはいえ全て決まっている

とはいえそれすらも全部川の流れ、決まっています、、どのぐらい苦しむかが決まっていないことが決まっているのです。そこに個人の判断、力は全く関与せず、、全て大元からの川の流れにこの個人は委ねるしかありません。そして強制的に八方塞がりに入り、強制的に七転八倒に入る可能性もある、緩い緩い川の流れになっているかもしれない、、そして最終的には全員が悟りに入ります、なぜならば真実は一つしかなく、、真実に流れ着くしか道は無いからです。

分別ある大人とは地獄の状態

分別

分別ある大人になりなさい、あの人は分別ある人だ、、、、分別とは大人としての判断能力があることを意味し、立派な大人、自立した大人、道理をわきまえた大人であることを意味します。ですが真実を伝える立場から言ってしまえばこの状態こそが地獄の状態、苦しみの状態、悟りが完全に閉じた状態です。なぜか???判断こそがこの現象界をファンタジー化し生き辛くするからです。あの人は分別がある、あの人は良識がない、あの人は節度がない、あの人は狂っている、、、こうなります。これは真実からすると全くの見当違いなのです、

その人をその人たらしめているのは、、、

その人の中に何か人格というものがあってその人格がその人を動かしている、、こレが多くの人が認識している人間の姿でしょう、もしくは魂が宿りその魂いがその体を突き動かしていると、、、ですがこれこそが思考。空想、妄想なのです。事実はただ全体からの起こりがあるだけです、現象があるだけです。磨いて磨いて磨きあげる人格、魂は存在しません。これこそが想像、思考です。

そんなことはない江原さんはしっかりと認識している

違います、江原さんという現象が起き、魂が見えるという発言が現象化しているのです。三輪さんという現象が起き魂が存在しいているわよという発言が現象化しているのです。それすらも全体の表現、アート、現象です。何度も伝えますが現象とはかたち(象)が現れると書きます、、現れているのです。そして現れるという漢字を見てください、、見えると書いてあります。。つまり形が見えているのです。蜃気楼です。

全部起きている

今は分からなくていい

結論から言えば全部起きています、全体から。ですがこれを個人に説明しても分かるわけがないのです。起きるという感覚は分かる時が来れば必ず分かります。ですが思考全開で生きている時はこれが理解できません、それでいいのです。思考とはこの体が存在するという前提でこの体をサバイブするために湧き上がっています。これが悪いわけがないのです、この体をサバイブするための思考は素晴らしいのです。ですがこの思考こそが全体を遠ざけ苦しみを作るのです。

分離最高、苦しみ最高

分離感覚は大人感覚です、大人とは分別がある存在、、、分別とは別れる、分かれるということ、、、、全体しかない世界において分別という錯覚を作り出すことを素晴らしいと勘違いするのがこの人間なのです。分別がある大人になることを素晴らしいとしですがこの状態は苦しみマックス状態ではありますがそこからどうしていいか分からないのも大人です。真実を言ってしまえば分別こそが苦しみです。

分別を超える

分別ある人間になりたい、、、これは苦しみに生きたいと宣言しています。別れ分かれ、、全体が分断された状態は苦しいのです。ですがこれを発揮すれば大人の仲間入りです。仕方ないから分別ある大人にさっさとなってしまいそこから分別を壊してしまう、分別をリセットしてしまう、、分別を辞めてしまうのもひとつです。分別を止めるとは全体に戻る、至福に戻ることです。

見かけ上の個人は常に不安を持つ

不安の本質は分離感

見かけ上の個人は必ず不安を持っています、どんなに楽しそうに見えても、完璧な人生を送っているように見えても、、そんなことでは絶対に埋まらない不安を抱えているのです。それはなぜか?それはこの個人というアイデアに牛耳られた者特有の苦しい、分離感の原因を発見できていないからです。「自分は個人である」このアイデアはアイデアであって真実ではないのです。このことを一番分かっているのは全体そのものでありそれゆえこの誤解はエンドレスに苦しみを発生させるのです。その苦しみの出所を個人が突き止めうことは不可能でありそれゆえ不安が自動発生的に湧き出るのです。

分離が悪いわけではない

分離は悪いことではありません、根源全体から起きる動きに善悪など全くありません。ただこの個人という分離が起きているという思考が湧き上がりますとそれと同時に苦しいが湧き上がるシステムになっているのです。ここは最重要ポイントになります、全体が朝起きて個人であると勘違いが起きますと同時に苦しいが生まれます。個人が朝起きてキムタクだと勘違いすれば嬉しいが起きます、勘違いには副産物がついてまわるのです。この副産物が何かを気づかないが起き続ける間は苦しい、そしてこの苦しいの理由が分からず不安が起き続けるのです。

分離錯覚のメカニズムを悟る

分離錯覚メカニズムを理解すればあとは日々の生活の中でこれを腹落ちさるだけになります。個人はゲーム上のマリオ同様に動き回ることが出来ると思っていますがこれが完全錯覚で、、マリオが動いているのではなく全体(3D画像)が動きているのです。そしてこのマリオの体も3D画像として動きますから合わせ技でマリオが自由自在に動いているという錯覚が起こります。触る物、香る物、見える物、味わえる物全てが3D画像でありこれは現象です。マリオという3D画像が動き回ることで五感が感じ続けそれがマリオがリアルに居るという錯覚を起こし続けるのです。すると全体からこのマリオの中に居るという錯覚が起き同時に苦しいが起きます。この苦しいを全体が感じますが「マリオの中に居る、そして苦しい」がこのゲームのデフォルトになるのです。何を感じても何を味わっても、何を画像確認しても、何を触っても、何を香っても、、この苦しいは消えることはなく、、このマリオの中に自分は居なく、現象の全て(色)であり現象を湧き上がらせる存在のもの(空)という実感に戻るまでこの苦しみは続きます。

現象とは形が現れてること

現象ってつまり蜃気楼

この世界を現象界と表現しますが、、現象とは象(かたち)が現れたということ、、まさにこれは仏教用語で色のことです。かたちが現れた、、、我々は漢字で既に真実を表現していたのです。事実のことを現実と呼びます、、実が現れる、、と書きます。実とは何か物質が詰まったような存在、これが現れるのです。どこに、、空から色が現れたのです、蜃気楼として。3D映像として、、色即是空とは、3D映像是インターネット空間、、空即是色とは、、ネット空間即是3D映像です。我々が使っているこのネット空間はどこに在るのでしょうか、、これぞ空、、、そして目の前のPC、タブレット、スマホに現れる動画は、、3D映像、、これが色です。

この体が自由に動くことで勘違いを継続できる

この体だけは自由に動かすことが一見できます、この体だけは自由意思で動かすことができる、、一見そう見えます。だからこそ我々はこの自分ゲームに完全に騙されます。素晴らしい自分、守らなくてはいけない自分、ししてそれ以外の環境、他人、敵、味方、、、です。ですが実は全部蜃気楼、3D映像であり、、この自分の体も蜃気楼、3D映像です。そして自由のままに動くと信じ切っていたこの自分の体もマリオ同様に完全にマリオの外から操作が起こっていました。マリオの動きをマリオが操作しているという勘違いが起きていたのです。

3D映像が動くことで自分が動いているという錯覚が起こる

街を歩く時に感じてみてください、、実は景色が動いているということを、、景色が動いていることで自分が前に進んでいるということを、、歩くとは3D映像全体を動かす行為だったのです。走るとは3D映像を凄まじく早く動かす行為だったのです。地面を踏み込む足の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。吹き抜ける風の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。街ゆく人々との挨拶はこの錯覚をリアルなものにします。

実は何も起きていない

映像、音、香り、触れるのみ

覚者の言葉で何も起きていないんですよ、全ては無です。という言葉がありますがこれは真実です。私たちが今見ている光景は映像です、映像だけがあります、いやそこに雲があるがそれは水の塊ではないか??違います、雲という映像があるだけです。水は存在しません、今は。ですがヘリコプターに乗って雲に接近しそれに触れればその瞬間水の映像と触れたという感覚が生まれます、これは事実です。そしてこのコップの映像、ですがコップは実在しません、ですがこれに触れた時に触れたという経験だけが起こります。これは事実です。

何もないも本当

この五感を使って見たり、聞いたり、嗅いだりしない限り、、この世界には何もありません。五感が感じた瞬間根元が現れます、経験として。バナナを食べるまではバナナは映像です、映像だけが確実にあります。そして食べた瞬間噛んだという経験が起こります、これは根源の現れです。そしてバナナの香りがします、この香りは根元の現れです、この瞬間だけ起こります。お風呂に入る時それまでは映像だけです、入った瞬間、お湯を感じる瞬間その感じるという経験だけが起こります、これが根元です。

何かが在ると思っているけど経験しかないぞ

何かが在ると思っていますが実際には経験しかないではないか、、そうです、映像を見るという経験、触ったという経験、匂ったという経験、聞こえたという経験、この経験だけが事実です、根元です、自分自身です。これ以外は全部思考想像感情です、これは事実として起こります。これだけです。友人Aの映像があり、その中には感情が湧いている、、これは嘘です、感情を感じていません、、体験として、、、これで分かってきました、、この世界は間違いなく在りますが私たちが思っているような在り方は全くしていない、、在るだろうという想像以外は何も起きていないのです。

今ここに対する違和感

今ここどころじゃない

今ここに全てがある、、、それを聞いた時に多くの人は幻滅するはずです。今ここなど何の価値があるのかと、、これによって悟りへの興味が逆になくなる人も居るでしょう、つまり多くの人にとって今ここは全く価値がない景色でしかないわけです。ですから今ここに全てがありますよというインフォメーションは多くの人にとっては残念なメッセージになってしまうのです。

今ここに全てがある

今ここに全てがあるというのは情報ではありません、伝えて納得できるものでもない、これは体感して初めて 伝わるものであり言葉で伝わるものではないのです。ですが覚者はこれを言葉で伝える際にこの言葉を使わざるをえないのです。なぜならばいまここに全てがあるのが真実だからです。美味しいワインを飲んだ際にもう他に何も要らないという気持ちになります、それこそいまここに全てがあると感じる証拠です。これは言葉では伝えることができないメッセージです。

全体を感じる以外に全体を知る方法はない

今ここに全てがあるのは事実ですがこれを知るには本当に全てがあることを感じる以外に方法はありません。この事実をメッセージで聞いたとしてもこれを感じる以外に知る方法はないわけです。知るためには五感を使って感じるしかありません、悟りのメッセージの確認方法は五感を使った経験で完結します。今ここに全てがあることを五感を通じて確認していきます。