言葉

マインドはいつも騒ぐ

これもエンタメ

マインドはいつも騒ぎます、、この自分が居るという前提で動きがあるのがマインドですから悟りに関しては特に騒ぎ立てます、、、悟りとはこの個人が実は居ないというメセージですから、、とりわけ騒ぐわけです。マインドの最後の抵抗です、、、。自分を守るため、維持するためにマインドは徹底的に抗戦します。悟りという言葉がいつまで経っても市民権を得ない、ゲテモノ扱いされるのは当然といえば当然なのです。

マインドの抵抗こそが証拠

悟りに対しいマインドは異常に騒ぎ立てるわけですが、、これこそが悟りを過剰意識するマインドの仕組みが理解できます。マインドにとって悟りとは自己の解体、自己の終焉、、、マインドが守ってきた存在の終焉を意味します。マインドはここに徹底的に歯向かうわけです、、、ですが事実として真実として自己は存在しませんから最後は降参するわけです。

マインドが騒ぎ立てるからこそ

マインドがこれだけ騒ぎ立てるからこそ、、、そこには何かがあるのです。その何かとは、、真実です。マインドが隠しておきたい真実がそこにあるのです。この自分が居て、、、居ません、、、そこを隠しておきたいわけです、、マインドは、、、だから過剰に反応する、、、、最後は明け渡すことも分かっている、、、気づきの意識が個人が居ないということに気づくが起きるまで、、、これが続きます。

解釈の世界

我々は解釈の世界に生きている

どんな言葉を覚えたかによって我々は生きている世界が全く違います、、、例えば小さな子供にとって最初見える世界に独立した存在は皆無でした、、、ただ揺れ動く神羅万象があるのみ、、、例えば公園に行ってもそこに何か独立した存在など居ないわけです、、、母親は必死になって、、、チョウチョという名前を連呼することで、、、次第に子供の世界にチョウチョという独立した存在が浮かび上がったのです。

名前がなければ存在しない

会社に入って間もない頃、、、会社の中の言語が全く分からないですから、、視界にはPC,デスク、チェア、、窓、人間ぐらいしか存在しないはずです。ですがそこで徐々に社内用語を覚えていきますと社内にあらゆる物が溢れていきます、、、PR用〇〇、営業用〇〇、、、など、、、つまり言葉を覚えることでそこに何かしらが突如現れるのです。

便宜上の名前が、、、

究極を言ってしまえばこの私も、、、名前を覚えるまでは存在しなかったのです、、名前を親から連呼されることで、、、この世に現れたのです、、、、信じられないかもしれませんが事実です。。。ですから、、この私は方便、便宜上の存在なのです、、、、この便宜上の存在は便宜上であることが分かっているうちは苦しくないのですが実在しているという大勘違いに入っていきますと突如深刻さが湧いてきます、、、なぜならば本当は実在しないからです。

便宜上の存在は分別ある大人になる??

便宜上出現したこの「私」が今度は分別ある大人になるよう、、導かれていきます、、、もう苦しい世界です。。嵐に巻き込まれていくようにこの便宜上の「私」は「社会」というものに飲み込まれていくわけです、、、想像するだけでしんどいですよね、、、そうです、、、しんどいんです、、、、便宜上名前を付けまくって便利な生活をするだけのつもりが、、、便宜上が、方便が、、、、リアリティであるという大勘違いが起き、、苦しい世界になってしまったのです。これはリアリティでは絶対にないのにこれをリアリティであると信じるから苦しいのです。

これはリアリティではない、という事実に戻る

我々が見ている世界はリアリティではありません、、、言葉を覚えることで後天的に作り出した世界です、、、この世界は便宜上のものであり、、、事実ではない、、、だからこの事実ではない世界に真剣に入り込むのはおかしなことです、、、、勝手に後天的に作り出しておいてなぜそこに入って真剣に生きなくてはならないのか????入る入らないは自由でしょう。ノンデュアリティに生きるとは本来の世界に戻りましょう、ということです。便宜上作った後天的な世界に巻き込まれず、、あくまで便宜上の世界であることを見抜き、、上手く利用していけばいいのです。

ノンデュアリティがデュアリティを作った

この世界はノンデュアリティそのもの

この世界はノンデュアリティそのものです、、、もしも大脳が破壊されてしまったら、、、一瞬でノンデュアリティそのものの世界に入れます、、つまり独立分離した物など本当は存在しないということです、、言葉によって、そして記憶によってこのノンデュアリティの世界が独立分離しているように見える世界に七変化しているだけです。ということでこのデュアリティの世界はノンデュアリティから急遽出現した脳によって七変化したように見えている世界だということになります。

言葉とは音と記憶のこと

相手が「ありがとう」とこの自分に言った時になぜそれを認識できるかといえば、、、、音を察知し、、それを瞬時に記憶していったからです、、、これは大脳が発達していなければ絶対にできません。。。。この音と記憶によってその言葉が聞き取れ、、人間ドラマに入れるのです。本当はこの一瞬しかない世界に、、連続性があるかのような錯覚を作り出したのです。記憶と言葉によってこの瞬時に現れる現象界に、、、独立分離したような錯覚物を作り出すことに成功しました。

デュアリティの世界に疲れたら、、ノンデュアリティに戻る

デュアリティの世界が疲れるのは、、ノンデュアリティが、、デュアリティという仮想空間に閉じ込められてしまうからです。ノンデュアリティという生命そのものが、、仮想空間に閉じ込めらているという感覚が苦しいのです。閉じ込められてしまったのですから、、閉じ込められてしまった原因をしっかりと把握し、、無意識に閉じ込められないようにするしかありません。

覚者の書籍が読めるようになる

自我の抵抗の終わり

悟り系の書籍は、、、興味があってもなかなか読めない、、、こんな時期は私には長い期間ありました、、、これだけ悟りに興味があるにも関わらずです、、、、それがあることがきっかけでいきなり読めるように、、、それが糖質制限です、、、炭水化物、糖質を一切取らない生活をしてみましたら、、、急に気分が落ち着き、、、書籍が読めるようになったのです。マトリックスのNEOが選んだカプセル、、、こっちを選べば今までの生活が、、こっちを選べば新しい世界が待っている、、、、私にとって糖質は今までの生活を続けるカプセルだった気がします、、、

馴染むように体に染み込む

それからというもの、、覚者のメッセージが、、、馴染むように体に染み渡るようになりました。。。。そして書籍を読むと自動書記のように私自身もこのメッセージを伝えたくなりました、、、現在のこのブログはそのように書いています、、、、覚者の言葉が呼水になって自身の中から湧き出してくるのです。。。。書かずにはいられない、、そんな気分です。

書けば書くほどに静寂に、、、

このブログを書いていて様々な不思議な体験が増えていきます、、、先ず静寂に常に在るということ、そして外に出ると輝いているのです、太陽の光が、、、、さらに気温が心地よいという感覚を超え、、感じたことがない体感があるのです、、、為すべきことはなにもない、、、この不思議な感覚が腹落ちした時に、、これらの感覚が気づくと湧いていました。

大御所が不幸に見えてくるのは???

大御所芸人、大御所歌手、、、これらが不幸に見えるのはなぜ???

才能をフル発揮して生きてきた人々、、大御所芸人や大御所歌手がしかし不幸に見えてしまうのはなぜでしょうか?????彼らは頑張ってきた、、努力してきた、、、、一心不乱に、、、仕事に打ち込み、、、そして圧倒的成果を獲得した、、、、、にも関わらず周囲からは腫れ物に触るように扱われる、、、なぜ????

周囲への判断が始まる、、、、

結果を出してきた社長、、、結果を出してきたスポーツ選手、、、みんな周囲の判断を始めます、、、俺はこれだけやった、、、お前はどうだ????と。。。。これぞ自我の延命戦略、、、、自分を全肯定できても周囲はできないだろ???です。。。周囲との関係の中で自我は延命措置を図るのです。。。。残念!!!!周囲の動きの全て、、、周囲の言葉の全ては、、、、神羅万象の動きです、、、、ただそれだけ、、、完璧な神羅万象の動きがあるのみです。否定できる存在など居るわけがないのです。

この自分の言動も神羅万象の動きでしかなかった

この自分の言動すらも、、、実は神羅万象の現れでしかなかった、、、、これだけの努力、苦労、、全部、、神羅万象の現れ、、、、え?????じゃあ自分が成し遂げたというのは勘違い????そうです、。大勘違いです・・・・・。高らかに周囲に振りかざしてきたこの功績は自分の功績ではないのか????その通りです。

このことが絶対肯定

自分の言動も他人の言動も全て、、、、神羅万象の現れであるならば、、、全肯定するしかない、、、批判すべき周囲も批判する自分も、、、もう居ない、、、、、だって全部神羅万象の現れだから、、、、全部神羅万象の現れならば、、、もう自分なんて存在意味ないですよね????ある意味そうです、、、、自分と他人との差なんてないのです、、、神羅万象には。神羅万象をもしも引き裂くことが出来るならば、、、それは大脳の中だけです、、、

大脳で便利になり大脳から脱却して至福に至る

大脳とは生活を便利にする道具

大脳はこの体を保持するために発達しました、、、あらゆる物に名前を付けて、、、生活を便利に便利にしたのです。そしてこの体にも名前をつけることでこの体の生存確率を確実に上げたのです、、、人類80億人には名前が付けられていますがこれはこの生物の生存確率を上げるために他なりません。

だが同時に苦しくなった

この体に名前を付けることによってこの体の生存確率は確実に上がったわけではありますが、、、なぜか苦しいも同時に湧き上がるようになってしまいました、、、便宜上付けたこの名前によってこの名前にはあたかも確固とした自我が生存するような勘違いも横行し、、、途端に苦しさが湧くようになったのです。。。便宜上のこの名前に確固とした人格、魂が宿っているというところまで発展してしまったのです、思考上。

本当は居るわけがない

名前さえ付けなければ、、、、そこに個別分離した存在などあるわけがなく、、、、名前をつけることで、、、言葉を覚えることで、、、この分別した存在が居るという想像行為がスタートしたのです。だから苦しい、、本当は居ないのですから、、、、じゃあこの苦しみを終わらせるにはどうすればいい????このメカニズムに気づくしかありません、、、、便宜上名前を付けただけという本質に戻らなくてはならない、、、

名前に使われる人生の終了

便利にするために名前を付けてきたにも関わらず、、、その名前が実在するかのようになるまで信じ込み人は不幸になりました、、、、ただしこの世界で生きていくには名前を捨てるわけにはいきませんから、、名前が便宜上であることを再び認識し直すほかありません。本当は名前が付いた個別分離した存在などないことを悟るほかありません。

ツイテル??

つ・い・て・る

ツイテル、ツイテル、、、、引き寄せの方法、、、、ありません、、、ツ・イ・テ・ル、、、、、、ク・ル・シ・イ、、、、、両方ともただの音の並び、組み合わせです。どの言葉も完全平等、、完璧平等、、、全部神の表現、気づきの意識の表現、神羅万象から発せられた音、、、です。では引き寄せの方法ってないの???個人が何かを引き寄せるという現象はない、、、ただし観念が書き換わることで見える世界が変わることはあるでしょう。

ただし苦しみが終わるわけではない

観念が書き換え、価値観変更が起これば見える世界が変わりますから居心地が良くなることもあるでしょう、、ですが、、、この個人が居るという大前提が変わらない限り苦しみが終わることは絶対にありません。この個人こそがあるという価値観が消え失せなければ、、苦しみの終焉にはならない、、、

ポジティブシンキングが、、この夢を快適にする要因はある

人の悪い部分を探し続けるよりも良い部分を探し続ける方が、、、一時的には快適な夢になるでしょう、、、ですがこの状態も個人は飽きます、、、快適が快適ではなくなるのです、、、その時に絶望します、、こんなに前向きで、、こんなに努力家で、、こんなに性格が良い私の人生が苦しいとは何事か?と。。。。どんな考え方であろうと、、、事実ではなく、、思考の世界に住んでいるから苦しいのです。。。脳が作り出した第六感の世界に閉じ込められているから苦しいのです。

「ば・か・や・ろ・う」に反応するって??

ばかやろうは、、、ただの音の並び

ばかやろう、、こんな言葉を会話中に向けられれば誰でも頭に来ますよね、、ですがよーく考えてみてください、、ば・か・や・ろ・う、、、これってただの音の組み合わせ、並びです。。???ここに人は意味が込められていると信じるから、、、怒りがこみ上げてくるのです、、だってそれはそうだろう先方はそういう意味で使った言葉だから当たり前では???違うんです、、先方からは実はただ現象として気づきの意識から湧き上がっただけなのです、そこに意味を込めた相手の人格は無いのです。

ばかやろうも、、ただの生命現象

ばかやろう、、という音の並びが、、、ただの生命現象、、これが真実、事実です。え???じゃあそこには意味はないのか???ないです。。。。じゃあ会話自体が完全に意味がないではないか???そうです、、、相手の発言に意味があると信じて行う遊びが会話です。ということでこちらが「ばかやろう」と先方に放てば相手は怒るでしょう。

いつまでこのゲームにハマっていますか???

相手の言葉に実は意味がないならば、、、コミュニケーションには意味がないでしょう、、そうです、、ただの生命現象である言葉に意味は全くないのです。。じゃあ今後何を目的に会話をすればいいのか???そういう遊びとして会話をすればいいのです、、、逆に言えば相手の言葉に深刻になる必要がないということです。だってただの生命現象です、花、植物、木々、と同じです、、そこに意味がないのです。

真実を知るか、何かを信じるか

何かを信じなくてはならない理由

この人の言うことを信じる、、この教団を信じる、経験を信じる、、これは事実を知らない人が何かを信じるというパターンです。事実は信じるものではありません、、事実とは真実そのものです。では何かを信じることに意味はないのか???そんなことはありません、、その人の人生ストーリーにおいて何かを信じることが重要な時期があるだけです。ですが真実知ればそれは終わります、、信じるという個人が何かにすがるという構造が終わるのです。

真実は信じるのではなく気づくもの

私はこれが犬であることを信じる、、、そんな言葉はありませんね、、事実とは事実です、信じるものではないのです。事実を知ると今までの信念が消えていきます、、今までの思い込みが消えていきます、、、実はこの信念こそが自身のストーリーを重くしていたことにも気づきます。信念の人生に疲れてきたら事実に向き合うことです。事実はどこにも隠れずにいつでも我々の前に鎮座しています。

何かを信じるという個人のプロセス

この世にこの自分という分別された存在が居るという大前提は非常に寂しい、孤独、心細いものです、、ですから多くの方は何かに常にすがりたいのです、これは当たり前のこと、、、だからこそ無頓着に何かにスガっている人を見ると人は脅威を覚えるのです、、なぜならばこの心境が痛いほどに分かるからです。何かを信じて生きていなければ心が破滅してしまいます。ですが事実を知るとその脅威が無くなります、事実を知れば孤独も錯覚であったことに気づきます。事実は信念を木っ端微塵に燃やします。

エックハルトトールに人が癒される

文章全体が気づきの意識から湧いてくる

悟り系の書籍で世界で最も売れた本はエックハルトトールの書籍でしょう。彼の本は気づきの意識そのものが彼を通じて描かれています。思考の仕組み、エゴの仕組みをエンドレスに描き続けています、、一度表現した文章が何度も手を品を変え描かれ続けています、、、これは気づきの意識そのものに帰るトレーニングのようです。彼は一貫して思考を観察せよといいますが、、一貫して気づきの意識の立場になれば直ぐに分かるということを示唆します。

文章を読んでいるとなぜか癒されている自分に

文章を読んでいますとなぜか癒されている自分に気づきます、、気づきの意識が織りなす様々な文章に触れ続けることで自身が気づきの意識であったことに気づくのです。気づきの意識の視点からの様々な人間活動が説明されているのです。揺るぎない気づきの意識からのメッセージが続きます。ピカソの絵が気づきの意識からエンドテスに描き続けられてきたようにエックハルトは気づきの意識の視点での描写が続くのです。

彼は言葉と言葉の間に空白を入れる

実際の彼の講演では、、言葉と言葉の間に無言が作られます、、、意識的な空白の時間が作られます、、これぞ気づきの意識そのものの時間、、本当の我々はこの空白の時間、気づきの意識であるという示唆です。自我は彼の言動にイライラします。自我のメカニズムが終始バラされてしまっているからです。この本に対し興味深く読める方は、、もう自我の終焉プロセスに入っているかもしれません。自我がこの本を拒絶する場合はもう少しこの夢を見ていたのかもしれません。それも良しです。