解釈の世界

我々は解釈の世界に生きている

どんな言葉を覚えたかによって我々は生きている世界が全く違います、、、例えば小さな子供にとって最初見える世界に独立した存在は皆無でした、、、ただ揺れ動く神羅万象があるのみ、、、例えば公園に行ってもそこに何か独立した存在など居ないわけです、、、母親は必死になって、、、チョウチョという名前を連呼することで、、、次第に子供の世界にチョウチョという独立した存在が浮かび上がったのです。

名前がなければ存在しない

会社に入って間もない頃、、、会社の中の言語が全く分からないですから、、視界にはPC,デスク、チェア、、窓、人間ぐらいしか存在しないはずです。ですがそこで徐々に社内用語を覚えていきますと社内にあらゆる物が溢れていきます、、、PR用〇〇、営業用〇〇、、、など、、、つまり言葉を覚えることでそこに何かしらが突如現れるのです。

便宜上の名前が、、、

究極を言ってしまえばこの私も、、、名前を覚えるまでは存在しなかったのです、、名前を親から連呼されることで、、、この世に現れたのです、、、、信じられないかもしれませんが事実です。。。ですから、、この私は方便、便宜上の存在なのです、、、、この便宜上の存在は便宜上であることが分かっているうちは苦しくないのですが実在しているという大勘違いに入っていきますと突如深刻さが湧いてきます、、、なぜならば本当は実在しないからです。

便宜上の存在は分別ある大人になる??

便宜上出現したこの「私」が今度は分別ある大人になるよう、、導かれていきます、、、もう苦しい世界です。。嵐に巻き込まれていくようにこの便宜上の「私」は「社会」というものに飲み込まれていくわけです、、、想像するだけでしんどいですよね、、、そうです、、、しんどいんです、、、、便宜上名前を付けまくって便利な生活をするだけのつもりが、、、便宜上が、方便が、、、、リアリティであるという大勘違いが起き、、苦しい世界になってしまったのです。これはリアリティでは絶対にないのにこれをリアリティであると信じるから苦しいのです。

これはリアリティではない、という事実に戻る

我々が見ている世界はリアリティではありません、、、言葉を覚えることで後天的に作り出した世界です、、、この世界は便宜上のものであり、、、事実ではない、、、だからこの事実ではない世界に真剣に入り込むのはおかしなことです、、、、勝手に後天的に作り出しておいてなぜそこに入って真剣に生きなくてはならないのか????入る入らないは自由でしょう。ノンデュアリティに生きるとは本来の世界に戻りましょう、ということです。便宜上作った後天的な世界に巻き込まれず、、あくまで便宜上の世界であることを見抜き、、上手く利用していけばいいのです。

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