幻想

空(0)から色(数字)が現れた

空とは0(零)

この現象界は数字で現せる世界です。りんごが1個、2個、、、人間が1人、2人、、となります、、、そしてこの現象界を起こしている全体(空)はカラという漢字からも分かりますが、、ゼロです、0です。そうですこの世界は零から現れているのです。本当はゼロ、0ですから1、2、3、4は幻想、蜃気楼、空想なのです。その証拠に空をこの現象界で現すとどうなるか、、、1(現象)✖️0(空)=0(空)です。2個(りんご)✖️0(空)=0(空)です。この現象界に空を巻き込めば、、、空になります。空と色は相入れない関係なのです。もしくは1(現象・色)✖️0=0(空)ですから色と空は一つということでもあるでしょう。

本当は0だから、、、

10000円(現象)✖️0(空)=0(空)ということは、、、この現象界でどれほどお金を得ても本当はゼロですよ、、とも取れます、、、本当はゼロだったということを知ることが悟りです。この現象の世界は物に溢れ、数字に溢れ、物質があるように見えてしまいますいからどうしてもこの物質に囚われてしまうのです。私は一時霊的真理探究の旅に出ましたがそれだけでも本当に気持ちが軽くなったのを覚えています。物質しかない、、この認識は完全な誤解であり苦しみを生み出すのです。

魂という概念でどれだけ救われたか

私は魂という概念によって本当に救われました、、、今世(概念)に全く縛られなくなったのです、、それまでどれほどこの今世というものに縛られていたのか、、、です。そして今は前世、今世、来世すら概念に過ぎないことを知っています。概念ですからそれは思考です、幻想です、空想です。事実ではありません。事実は今この場所に全部がある、、今この場所に空(ゼロ)があり色(現象)が全部あります。そこには自分という個別独立した存在は現象以外では居ません。この個人を認識する意識(全体)がただ在るだけです。

あんな人にならないように注意しなくては

TVニュースの犯人を見て

女性をストーキングしてそのまま部屋に侵入、レイプをして捕まる、、、そんなニュースを見れば誰でも、、、絶対に俺はそんなことをしないようにしよう、、、こんな感情が起こるはずです。ですがこの心配は完全な杞憂、無駄です。なぜならばそのような行為をするかしないかは全体が決めるからです、というよりも全体からそのような動きが「私」という蜃気楼を通じて起こるかもしれないし起きないかもしれない、、からです。ですから人の振り見て我が振り直す、、ということをできる「私」は居ないのです。「私」とはどこまでいっても五感フル活用蜃気楼、現象、幻想です。

TVニュースを見る意味はないのか???

ないです、はっきり言ってしまえば、、、全ての現象に意味など全くありません、、もっとハッキリ言ってしまえば自分という蜃気楼すらも蜃気楼ですから、、何も起きていないのです。事件も蜃気楼、人も蜃気楼、自分も蜃気楼、、、です。蜃気楼という言葉の意味は実在しないにも関わらず実在しているように見える現象です。ですがそれでも「私」という蜃気楼は毎日生きれいかなければなりませんからニュースを見るのもいいでしょう。

実際には、、、

実際のところニュースを見れば見るほどに、、、「私」という蜃気楼はそれを「自分」ごとに捉えていきますから、、絶対幸福(全体)からは離れていくとは思います。「自分」ごとに捉えるということは自ら分けるをすることなのです、自らを全体から分けるのです、、これが孤独、分離感を生み出すのです。そうではなくTVニュースを、、全体が今日も色々起こしているなー程度に見れれば、、、面白いかもしれません。

人を判断するという罠

人を判断するとしっかりとこのファンタジーに取り込まれる

友人との食事会、、友人が1時間遅刻をしてきた、、、頭に来てしまい、、、1時間遅刻するのは失礼だ、大人がやるべきではない、、、この発想が頭から離れなくなります。家に帰ってもあれは失礼だ、、、、二度と会うべきではないのでは???思考の渦にがっつりと取り込まれていきます、、、この状態をほくそ笑んでいるのは誰でしょうか???全体です、全体がこの起こりをほくそ笑んでいるのです。面白い、面白いと、、、全体総指揮人間泥沼劇場です。

では友人の遅刻1時間をどう捉えればいいか

答えは上記のみになってしまいますが、、、つまり友人の行動、1時間の大遅刻は、、、友人(蜃気楼)が起こしているのではなく全体が友人(蜃気楼)を通して起こしているのです。1時間遅刻した友人(蜃気楼)が居るというのは100%事実です。ですがそれが起こったのであって、それを起こした友人(蜃気楼)は居ません。友人にはその日の行動をコントロールする力はないのです。力とは全部全体の所有物です。全体のものではない力は存在しません、全体の知らないところで勝手に友人が1時間遅刻という大決断をしてしまったら全体は全体ではなくなってしまう、、、全体風全体になってしまう、全体っぽい全体になってしまいます、全体を気取る全体になってします。

では友人の1時間遅刻を許せばいいのか????

違います、、友人にしっかりと次は遅刻しないで欲しいと伝えます。ですが真の犯人は全体であることをしっかりと認識した上でです。友人にしっかりと遅刻しないで欲しいと伝えれば、、、遅刻の可能性は減っていくかもしれません。ですから一応伝えるのです。ですが次に友人が遅刻するかしないかは全体が決めます。ですから真の犯人をしっかりと認識した上で伝えるのです。そして一般的出てくる「怒り」が湧いてこなくなることに気付いてください、、真の犯人を分かった上でなぜ目の前の友人に対し真剣に怒れるのでしょうか、、

テロリストすらも

残虐なテロリスト、、、絶対に許してはいけない、、、その通りです、、、ですがここでも真の犯人を見抜くのです。真の犯人は全体です、、、、全体が誰か(蜃気楼)を使ってテロ行為を起こしたのです。ここが最重要ポイントです。それが理解できますとそれに対して感情が湧いてこないのです。なぜなぜ????が湧いてこない、、これも先ずは受け入れなくては、、に変わります、そして真の犯人が全体であることを把握した上でテロ防止を図るのです。

真の犯人が誰かが腹落ちすると、、、怒れない

飼い猫が大好きな洋服をグチャグチャに引き裂いてしまった、、、、この時に怒りが湧いてくるでしょうか、、、あまり湧きませんね、、、、なぜか???飼い猫に悪意が全くないからです、、、というより善意もありません。自由意志がないのです。猫はただ意味もなく洋服で遊んだだけなのです。そこに真犯人がいないのです、といよりも猫の動きも全部全体が起こしただけです。実は全体は人間を困らせようなどの悪意もありません、ただ全体は動きているのです、この動きが人間にとって都合が悪い場合があるということです。

津波もただ全体が起こした

津波もただ全体が起こしました、、この際に人間をこらしめてやろうなどの意思はありません、、ただ全体(自然)が動いたのです、、ただそれだけ、、それを人間は二度とこんな惨事は起こしてはいけない、、と捉えます。人間も自然現象ですから、、人間の行動の全てはただ起こったのです。これを個人は都合が良い、悪いで判断を起こします(全体)、、、全体が動けば、、個人はファンタジーに取り込まれていきます(それも全体の起こり)

幻想に取り込まれて何が悪い????

全体の動きに個人が反応しファンタジー幻想に取り込まれることは悪いことなのか???そんなことはありません、、、それすらも全体の起こりですから悪いわけがない、、、悪いならば、、最初からファンタジーなど作るわけがないのです、全体が。このブログはただ淡々とどういう事実が起こっているかを解説しています。幻想上の「私」が事実を整理するためにただ淡々と日々の気づきを書き綴っています。

コンプレックスでは感情回収できなければ見かけ上成功させて試してくる

コンプレックスの次は成功

コンプレックスでは一切落ち込まなくなった見かけ上の「私」が次に狙われるのが見かけ上の「成功」です。女性に本当はモテたい、、とコンプレックを抱えていた見かけ上の「私」はもう女は要らない、、そんなことではどうせ満足できない、、と良い意味で諦めると、、、今度はモテることを起こし、、そこで逆に苦しめます。モテる自分は、、もっと評価されたい、仕事でも評価されたい、、ともっともっとが湧き起こるのです。こうして欲求の渦に全体は私を陥れるのです、見かけ上。

これだけ達成したのにおかしい

コンプレックスは解消し仕事で大成功めたにも関わらずなぜこんなに苦しいのか???むしろどんどん苦しくなっている、、こうして見かけ上の私は精神的飢餓状態に陥っていくのです。どこまで成功すればこの精神的飢餓は解消されるのか????もう願望実現は終わりにしよう、、、こうなると次は精神世界での霊的向上が待っています。霊的向上こそがこの精神的飢餓を克服できるのでは???ところがここも最短速度で登っているにも関わらずまた苦しい、、、

最後に残ったのが悟り

最後に残されたのが悟りです、、悟りとは精神的成功、物理的成功をする「自分」が居なかったという全く違うメッセージです。この私は3D映像、幻想、蜃気楼で実在を全くしていなかったという気づきです。「自分」に成り済ましていたのが全体でこの全体が全ての感情を回収していたのだと、そしてまだ半信半疑の自分が起こり続け揺さぶられ続けていきます、見かけ上。全体総指揮「自分」ストーリーの完結に向かいます、完結とはこの「自分」が実は幻想だったという大気づきです。

この体が蜃気楼ならば今この目で見ている景色はなんだ?

あなたは今何を見ているのか???

この体が蜃気楼で友人の体も蜃気楼、妻の体も蜃気楼だということは分かった、ではなぜこの蜃気楼であるこの私の体はしっかりとこの目で景色を見ることができるのか???蜃気楼ならば見ることが出来るのはおかしいではないか???答えをお伝えします、、この体が蜃気楼なのだからこの体が景色を見ることなど絶対にできません、そうではなくただ今目の前に広がる現象(蜃気楼)をこの蜃気楼(自分)が見ていると錯覚が起こっているのです。移り変わる蜃気楼をこの蜃気楼(自分)が見ているという錯覚が起こっています。自分が右を向いたから景色が変わったのではありません、景色が変わったから右を見ているという錯覚が起こっているのです。

歩いたから景色が変わったのではない

自分が歩いたから景色が変わったのではありません、景色が変わったから自分が歩いたと錯覚を起こしているのです。自分が走ったから景色が急速に変わったのではありません、急速に景色が変わったから走ったと勘違いが起きたのです。景色が変わるのは分かった、だがこの体の動きは確実に在るではないか???違います、この体という映像が動きているだけです。景色の映像変化とこの体の映像変化の合わせ技で歩いたり走ったりしているような錯覚が起きるのです。

これってグーグルグラスと同じでは?

そうですグーグルグラスの完全版こそがこの現実と呼ばれている世界です。グーグルグラスの中にこの自分の体、自分という存在が登場しているのがこの世界です。グーグルグラスの中にこの自分の体も自分も居ますから全部ファンタジーなのです。この体もファンタイジー、この自分というアイデンティティーもファンタジーです。悟りとはこのグーグルグラスを外して、、この体も自分も居なかったと気づくことです。では誰がこのグーグルグラスを外すのか??それは根源です。実際にはグーグルグラスを外すような行為はなく、、根源からこの体も自分も幻想だったいう気づきが起きるだけです。

経験以外全部嘘

お酒を飲んでいる時

俺はバーでお酒を飲んでいて、、酔っ払って良い気持ちになった、この状況において本当に起こったことは何か???これを五感で説明するとこうなります。俺の体は映像です、俺の体という映像が、、やはりバーという映像の中に入っていき、そのバーと呼ばれる映像の中で、、椅子と呼ばれる映像の上に座り、、その時にお尻の映像の部分に感触がしかっりと確認し、、ウイスキーと呼ばれる液体が入ったグラスを映像で確認する、、その映像グラスをやはり映像の手で触れたところ間違いなく感触があり、、口と呼ばれる映像の中に流し込んだところ、、口の中に感触が確実に在った、そして何かが香ったという経験があり、、、その後に気持ち良いを感じた、、五感を通じた経験が次々に起こり続けていきます。ですが物理空間で物質が在ったということを証明する経験は皆無です。経験以外は何も証明できないのです。バーという場所も、ウイスキーも、グラスも、椅子も実在することは証明できません。

経験は間違いなく在る

自分もバーも、ウイスキーの存在も全く証明できませんが、、、経験は間違いなく証明できます、、そこに嘘はありません。この世界は経験は確実に証明できますが、、物質は全く証明できない世界なのです。覚者がいう「何も無かった」はこのことであり「全部自分(経験)だった」もこのことです。この経験とは誰のものでしょうか、、、自分という物質を証明できない以上、、経験だけがあった、、で終わりです。すると経験=根源ということになります。ですが経験は物質ではありませんから「経験=根源=無」です。空即是色の色で在るこの世界は経験だけがある世界だった、、、だから空(無)でもある。色の中で空を感じることになります。

色(現実)の中で色々やっていたが結局経験しかなかった

色の世界は現象界の世界、、あらゆる物が溢れた世界です。この世界で自分(物質)がこれらの物質に囲まれ人生を謳歌するのがこの人生、、、ですがどうやら経験以外何もない、、物質が実在していない、、、無だった、、、経験は確実に在るがこれを寄せ集めても無は無です。色は所詮幻想で色の中で経験だけをしていたんだ、、というよりも経験だけが在った、、、色即是空、空即是色

自由意志の延長線上に悟りはない

なんとか頑張って悟りたい、、の罠

自由意志の延長線上に悟りはありません、自由意志がなかったという気づきこそが悟りです。自由意志で切り開く人生の先に悟りがあるのではありません、切り開く人生が幻想であったことに気づくことが悟りです。自分という存在とは何も関係がなくただその気づきが起こります、というよりも自分という存在が明らかに無いことの気づきが起こるのです。

見える世界は映像

見える世界は映像です、PCもカーテンも、TVもやかんも、そしてこの体も、、なぜ映像と言い切れるか、、逆に言えばなぜ見える物が実在していると言い切れるのでしょうか??恐らくそれができないはずです。では何なのか??映像であるならばそれを証明できます。なぜならばしっかりとそれが見えるからです。見えるというのは事実です。香るというのも事実です。触れるというのも事実です。この事実だけが証明できる世界こそがこの世界です。五感を使った経験だけを寄せ集めると経験が在ったという事実に集約されます。だからこの世は何もないに繋がるわけです。朝起きて寝るまで経験しかしていません、経験以外何もないのです。

今日も俺は物理空間で頑張って働いたなーは嘘

残念ながらそのような事実は全く起きていません、俺という物質は存在していませんし、会社という物質も存在していません、同僚という物質も存在していません、電車という物質も存在していません、PCという物質も存在していません、、、五感を通じて映像を見て、手の感触で何かを触り続け、足の感触で何かを感じ続け、聴覚で何かを聞き続け、味覚で何かを感じ続けただけです、、、経験だけが起き続けたのです、、、これが事実です。経験=事実=根元です。これだけが確実に在りました。この世界は経験という事実、根源だけが在る場所です。そこに自分という物体は居ません。経験(根源)だけがあります。

時間の中で結果をだすということ

この感覚こそが自分感覚

自分という存在は時間の中で結果を出そうとします、来週の試験のために今から準備をしよう、来年の入社に向けて今から就活をしよう、20代で結婚するために今から美容に力をいれよう、、などなど、、、これが自分という存在の通常行動です。ですが実際には時間はなく今を記憶したものに過ぎません、そしてこの自分という感覚も記憶に支えられて湧いて来た感覚であり実在では絶対にありません。だからこそ自分という感覚は将来目標を設定しそれに自分がなると思考し安心するわけです。

夢とは自分維持ツール

将来は何になりたいの???こんな質問を何回されてきたでしょう、、将来の夢は?将来つきたい仕事は???とですがこれらは全部自分という感覚を強める装置になります。この自分が居るという前提でこの質問はされます、この夢の中です。そしてそれによって将来の夢はあった方がいいのかと思考し何か夢を探すのです、時間の中です。夢を持ってそこに歩んでいる期間は確実に自分を維持できますから安心です。安心してこの喜怒哀楽の夢を自分が歩むことができるのです。

ある時気づく、この夢こそが夢に安住するための道具だったと

将来の夢は???その夢こそが自分をこの夢の中に安住させていました、なんとも皮肉なことです、夢というのは自分が歩む最終目標のことであり、、この夢こそが自分を夢の中に閉じ込めて来たのです。夢も思考、夢の中も根源の現象に名前がつけられた幻想の世界です。この幻想の中でさらなる夢を見るという大変面白いことをしていたのです、自分が。

ではどうするのか?

ではどうしたらいいのか???ほぼ全員からこの質問をもらうわけですがどうかできる自分という存在は感覚でしかなくその感覚も根源から起こっているだけです。どうかできるような自由意志がある自分など居ないのですからとにかく諦めるしかありません。もしも根源に触れるという衝動が起きるのならば自分から覚める根源の動きがこの体を通じて起こるのでしょう。

木が悟っている

悟りが木をしている

木は悟っています、そして悟りが木をしています、木は悟りの表現そものです、一本の木を見ているとそこに悟りがあることを確認できます。誰が確認しているのか?悟りがです、悟りから確認が起きます。禅問答のようになってきました、禅問答が意味不明なのは主語が入れ替わってしまうからです、「バチン」という扇子がなった音、、、この音は何か?と和尚は聞きます、多くの人は扇子が閉じる音です、、と答えます。事実はただ音が在るです、それを聞いた「自分」は思考です、「扇子が音を作った」も思考です、目を閉じればただそこに音が在ったになります。

木はただそこに在る

木はただそこに在ります、何を当たり前のことを言っているのか?ですが多くの方は本当の木を全く見ていません、「私」が見るみんなの「木」を見ています。これは本当の木ではないのです、本当の木は悟りそのもの、静寂そのもの、至福そのものなのです。同じ木を見ているにの関わらずそれがこの世から分離した物質に写るか、悟り、静寂に写るかは大違いです。そしてその違いは「自分」が作ることができません。この違いは起こるのです、悟りからそれが起きます。木も悟り、その悟りを感じるも悟りです。木を見ても何も感動が起きないも悟りです。

ファンタジーから事実への切り替え

ファンタジーとは悟りが作り出した悟りの表現です、そしてそのファンタジーが消えた時に悟りが残ります。この世界に悟りでない場所はないのです、悟りが作り出したファンタジーを感じるが起こるという悟りがあり、そのファンタジーが消え去って悟りが残るを感じるが起こるという悟りもあります。最初から悟りしかなかったが起こる場合もあります。答えが最初から決まっているからこそそれに気づかせないよう思考が次々と湧き続いていきます、悟りから。悟りしかないが分かるが起こればもうファンタジーにドップリ浸かるは起こりません。なぜならば事実を分かって再び幻想に戻るのは無理ゲーだからです。これが偽物だということが分かって再び本物だと思い込むのはほぼ不可能です。

東京という桃源郷に住む

多くの方は桃源郷に住んでいる

桃源郷とは幻の街のこと、東京とは事実多くの方にとって桃源郷です。何を言っているのか??東京は超シビアな街、現実剥き出しの街ではないか??違います。桃源郷だからシビアなんです、桃源郷だから苦しい街なのです。田舎から出て来た若者が東京って楽勝だよねってあまり聞いたことがないのです。それは桃源郷だからです。人間は名前が付いた物を目にした時にそれが視界に入り込んできます。椅子という名前が付いた物を見れば椅子が入り込んでくるコップという名前が付いた物をみればコップが視界に入り込んできます、渋谷駅に行けば人間という名前がついた物、男と名前がついた物、ビジネスマンと名前が付いた物、学生と名前が付いた物、、これらが次々に入り込んできます。本当はそれらに名前など全くなくただの生命現象です、揺れ動く生命現象にも関わらずしっかりした独立した物であると認識し入り込んできます。朝起きて寝るまで名前がついた物に囲まれさもそれが実在するかのうに錯覚しながら起きています。そして眠りについても夢の中でまた名前がついた世界に居ます。

本当はただ生命が揺れ動くだけ

本当の本当はただ生命の揺らぎだけがあります、大自然に囲まれれば分かりますが名前が付いていないものばかり、、、これが静寂、至福です。大都会は全部名前が付いていてそれが実在するかのように「自分」に迫ってきます。この中で「私」はいかに幸福になれるかを真剣に考えています。名前という「思考」の世界が自分に入り込んできてその中でいかに生きるかを考えている、、、一日中実は思考の世界に居るのです、これが本当の桃源郷です。

じゃあ東京を離れよう

だから東京に居ない方が良い、そんな単純な話ではありません。東京を再び桃源郷から事実、根源に戻してしまえばいいのです。名前が付いた物が視界に入って来てもそれこそが幻想の入り口であることを見抜き、自分もそこに参加させない、、幻想ゲーム、妄想ゲーム、思考ゲームに参加しない、、、そしてこの体を通じて湧き上がる思考も行動も勝手に起こっていることを見抜く、すると今まで重くのしかかっていた何かが取れているのに気づきます。桃源郷独特の息苦しさが軽減しているのに気づくのです。