言葉

下北沢

この言葉にイメージを作る

見かけ上の私は下北沢という街に住んでいますが、、やはり見かけ上の他人にそれを話しますと、、「下北沢って古着の街ですよね」「下北沢ってオシャレですね」「下北沢って汚いですよね」「下北沢って若者の街ですよね」「下北沢って美容院ばっかりの街ですよね」と各々のイメージを話してきます、、この下北沢という言葉に全員がイメージを持っている、、つまり言葉とはイメージなのです。

イメージとイメージの擦り合わせ

下北沢にできた「ターリーズ」行きました????広いですよね!、、なんか明るすぎじゃないですか?店員さんがまだ慣れていないですよね、、、各々が「ターリーズ」というイメージを伝え合い、、すり合わせをしています。これが言葉の力です。。。。そしてそのイメージをしながらそのお店に行くと、、、そう見える、、これが言葉の威力です、、イメージ力、、、

イメージの世界に居るのが苦しい

世界中に対して良いイメージを想像し、、その想像の中で生きていようと、、、例えば「私は世界一運は良い」というイメージを持っていきていようとも、、、この「私」をイメージしている時点で本当は苦しいのです、、なぜならば「私」はイメージであって本質ではないからです。。この本質の世界の中にイメージのストーリーを作り上げ経験を作るのが苦しいのです、、本質でしかない絶対幸福(神)がイメージの世界に閉じ込められています。

トムクルーズがミッションインポッシブルをやり続ける

トムクルーズがミッションインポッシブルの映画の役をやり続けるのは大変です、、、あの役ができるのはトムクルーズ本人があの役に成り切れるからなのですが、、、これは大変なこと、、、イメージの世界に居続けるのは大変なのです、、、、これは神も同じで、、、神がイメージの世界に入り込むと、、苦しいが同時に湧いてきます、、これを感じるのは勿論神です。。。この苦しいを終わらせたいという衝動も湧いてきます、神から。この衝動を感じるのは勿論神です。

時間は言葉

言葉は全部イメージ

時間という言葉を覚えるまでは、、、子供は時間という存在は全く存在していない世界に居ました。。。子供は自分が時間を過ごした、、など感じたことがなかったのです、、、、ところが「じ・か・ん」という言葉を覚えたことで時間というイメージができました、、、移り変わる世界に「時間」が登場したのです、、、、これによって「私」が時間の中を生きている、、、というイメージが完成しました。。時間というのがそもそもあったのではなく、、、時間という言葉を覚えることで、、、時間というイメージが想像されたのです。創造といってもいいでしょう。

「わ・た・し」

私という音の組み合わせを覚えることで、、、この世界に「私」というイメージが登場しました、、、この体を現象界の中で見つけると、、、この「私」も一緒に登場します、、、『あ、わたしだ!!』です。私って絶対に居るよね、、、となります、、ですがこれはイメージです。。イメージが現象界と重なり合っているのです。この私は道を歩けば、、、私というイメージが、、、動き、、景色が変わり、、私が歩くというストーリーを創造しています、、、この想像は神が行い、、そしてこれを神が感じます、、、、

私をイメージし、私が感じているというイメージをし、それを神が感じる

唐揚げを食べている時、、、唐揚げというイメージ、、をこの私というイメージが、、食べるというイメージをします、、そしてこの唐揚げを食べた瞬間に味が起きます、、これを神は感じ、同時に私が食べたというイメージが起きます、、次に美味しいが湧きます、、これを神が感じます、、次に「私は美味しい」を感じたというやはりイメージが湧きます、、これを神が感じます、、神は私をイメージしながら全経験を感じているのです。。これは神の一人芝居です。

作り、イメージし、感じる

この現象界は

この現象界はたった一つのエネルギーの変幻自在の活動が先ずあります、、これはたった一つであるゆえに、、、独立分離した存在はこの中では存在できません、、、もしも可能とするならば、、、この世界の中でイメージをするしかない、、これを可能にしたのが「言葉」です。。音の組み合わせを使って、、、この世界の中に「独立分離した風」の作品を作っていきました。この見かけ上の私も全く同じやり方です。これでこの世界には私が居て、親がいて、兄弟がいて、家があって、、学校があってと、、、分離物体が急増していくわけです。

本当は今も一つ

本当は今も完全に一つのエネルギー場です、、、この中で言葉を使いイメージ活動をしています、神が、、神が言葉が作ったイメージをこの現象界に重ね合わせ、、、独立分離した世界にやはり独立分離した私が居るというイメージ活動をしているのです。。。このイメージ活動が上手くいきますと、、、孤独感すら湧いてくるようになります、、、完全な成功、、イメージがしっかりとできている、、、私が孤独だ、、、はイメージ力の賜物なのです。。。なぜならばそんな存在は、、、イメージ上のものです、、、イメージ上の私が、、、孤独感を味わう、、、凄いことです。映画を観て泣くのと全く同じ、、、これもイメージの世界です。

神の感じるという力

このストーリーは神の完全なるイメージの力です、、、、言葉を生み出し、、イメージを想像し、、この現象界を分断し(イメージ)、、その中のやはりイメージである「私」を登場させ、、全経験をこの「私」が所有し、、時間のある世界(イメージ)の中で生きている、、、時間も言葉、、これもイメージです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、、時間はこの世界には存在していません。神はたった一つのこの現象界に独立分離した「私物語」を作り上げ、、、感じています。

神が言葉を使ってイメージを見ている

この世界は言葉が作ったイメージの世界

「り・ん・ご」この三つの音の組み合わせで、、、りんごという果物がイメージできます、、、「ワ・イ・ン」この三つの音の組み合わせでワインという飲みものをイメージできます、、見かけ上の私は、、言葉を暗記して、、その言葉のイメージを想像し、、、その想像とこの現象の組み合わせの中に住んでいるのです。思考しているときは、、言葉を駆使して、、、イメージを作り上げ、、この見かけ上の「私」が織りなす、、イメージの世界のストーリーを制作しているわけです。言葉を暗記することでこの想像行為が可能になりました。

現象を眺める度に

現象を眺める時に、、、その現象が視界に入り、、次のこの現象がかつて覚えた「や・か・ん」というイメージと合致し、、、独立分離した「やかん」を見ることができています。言葉を覚えることで、、この現象界の中で、、分離したことになっている「やかん」が登場します。。この学びが無ければ、、見かけ上のその人の世界には「やかん」は登場しません。

この芸当はができるのは神だけ

この芸当ができるのは神だけです、、音の組み合わせ「み・か・ん」でみかんをイメージする、、これを感じているのは神です、、この音を起こしたのも当然神、、これを見かけ上の私が感じている、、という思考を津壽太のも神であり、、、そうイメージするのも神です。。。これがこの世が夢であると言われる所以です、、、神が言葉を駆使してこの一つでしかない世界に分離した「もの」が存在するというイメージを起こし、それを見ている「わたし」もイメージしました。。このイメージを感じているのは神です。神が作ったイメージで神はそのイメージを神は感じています、、どこまでいってもこれは神の一人芝居です。

個人を消滅させるメッセージ

個人という概念を消滅させる面白さ

個人という概念、感覚を消滅させることに興味がでる、、、これって実は凄いことです、、、例えばTV番組で悟りに関する番組が全くないのは、、これに興味が起こることが非常に稀であるからです、、、悟りの本を片っ端から読みふける、、、この衝動が起きているのが凄いんです、、、自我の収縮エネルギーと悟りのメッセージは真逆のベクトル、、、収縮とは自我であり、、解放とは悟りです。。

個人が悟りを避ける理由

個人は自分が居なくなってしまう状況を想像するだけで怖くなります、、なぜならばそれは死ぬことと同じだからです、、、死ぬのが怖いようにこの個人の終焉も非常に怖いのです、、、、ですがそれこそが大勘違いで、、、体の死も、、個人に終焉も、、どちらも「在る」という感覚とは全く関係がない、、この「在る」という絶対的感覚が如実になることであり、、、むしろ「在る」が強烈になることで究極の癒しが起きるのです。

そうか「在る」を求めてたんだ、、、

生まれてこの方、、ずっと一緒にいた存在、、「在る」という意識、、、、何をしていても何を感じても、、TVを観ても、、、小説を読んでいても、、、、「在る」というこの感覚だけは絶対に失ったことがなかった、、、「意識」と表現してもいいでしょう、、、この「在る」「意識」この中であらゆることがただ起きていただけだったんです、、、この中でこの体が現れ、、思考も現れ、、感情も現れ、、、お金が現れ、、友人が現れ、、、言葉の意味が現れ、、、、この私が体の中に居るという思考が現れ、、、ていただけ、、、自分が求めていたのって、、、、この「在る」「意識」だった、、、、というか最初から全く隠れずに、、ここにあった、、、私というイメージが、、究極の幸福を求める旅にいる、、、というやはり概念、イメージが湧いていただけだった、、そして最後にたどり着いたの究極の幸福は、、、この「在る」「意識」だった、、、私だと勘違いしていた存在はこの存在だったんだ、、、

自分とは誰だ?

自分とは誰か決着をつけよう

自分とは誰ですか????この体の中に居る存在ですよ、、、社会人をしっかりやって、、全ての決断を下している、、この私です、、、、名前もあるし、、友人からは〇〇とあだ名で呼ばれています、、、人によって若干キャラは変えますが、、、本当の自分はこんな性格だと思っています、、、、では答えを言いましょう、、、それはあなたの特性を伝えているだけ、、、その体に起こる特性です、、、その体に起こる、、、感情、思考の特性を伝えているだけです、、、、名前とはその体につけたラベルです、、、

でもしっかりと意識はありますよ

この私が居るという意識は確実にあります、、、私というよりも、、、存在しているという絶対的感覚は起きている期間は確実にありますよ、、、、そうです、、、その感覚こそが、、というよりもその感覚だけが、、、在ります、、、、それだけです、、、、事実はその確実に「在る」という感覚だけなんです、、、そして「私」というのはアイデアです、概念です、、、、名前も概念です、、、、「在る」という感覚以外は、、その瞬間瞬間に湧き上がっているのです。

私とは「在る」という感覚

ですからこの「在る」という感覚に集中してみてください、、、「在る」は集中すれば必ずそこにあります、、ない場合が絶対にないのです、、、、、、「在る」が私という思考、私が居るという思考、、怒り、妬み、嫉み、恨み、喜び、、、という全ての感情に気づき、、、思考に気づき、、人の動きに気づき、、、言葉に気づき、、意味を生み出し、、、ただそれが連続して起きています。。。私とは「在る」だったんです。

大人とはこの夢を現実だと信じる人たち

大人になる

大人というのは、、、この夢を現実だと信じて生きる人たちです、、それだけ、、、子供とはこれは夢だと見抜いている人たちです、、、、子供から大人になるとは、、、夢を現実と勘違いすることです、、、、悟りとは再びこれは夢だったという気づきが起こることです、、、この体は夢の中の登場人物に過ぎない、、、たったこれだけ、、、、神、大いなる一つ、ユニティー、ワンネス、、、、言葉で出てくる偉大らしき存在の数々、、、なんのことはない、、、、、この夢を見ているこの私のこと、、、という大オチ、ギャグ、残念な結末、、、

こんな簡単なトリック

簡単すぎる、、、これが夢だった、、、集団洗脳、、、これは現実ですよ、、、という集団洗脳、、、騙された、、まんまと騙された、、、、、、この目の前の視界以外、、、何も起きていない、、夢だから、、、、さっきまで一緒に遊んでいた友人は、、、家に帰れば存在していなかった、、、騙された、、、こんな簡単なトリックに、、、やられた、、、

夢は完璧

この夢は完璧なのです、、、本当は家に帰ればクラスメイトは存在していないのに、、、次の日に学校で会えば、、、一人一人が家での活動を教えてくれる、、、この夢で、、、、完璧すぎる、、、これでは騙される、、、試しにこっそり一人の友人の家に押し掛ければ、、、ちゃんとそこに居る、、。騙される、、、この夢は完璧過ぎて騙されます、、、、集団催眠に全員でかかっている、、、

言葉を超えた世界

これは言葉を超越する

我々は言葉を覚えることで便利な生活をしています、、ですが言葉を覚えることで概念の世界に閉じ込められました。。言葉を信じすぎることで、、言葉で全部を理解できると本気で信じてます、、ですが真実は言葉を超えた世界です、、、言葉では理解ができない世界であるという理解が必要になります、、、言葉はあくまでも真実を指し示す指でしかない、、

コーヒの味を言葉で説明する

コーヒーの味を言葉で説明します、、、限界がる、、不可能、、、宇宙人にコーヒーの味を聞かれても、、、不可能、、完璧な説明は無理、、、です。真実もまさにそう、、言葉では説明ができない世界、、、だからコーヒーの説明を聞くよりも飲む方が早い、、、体験、実践が最重要、、、

悟りを実践?

悟りを感じるには?実践することです、確認することです、、これは夢ですよ、、、本当に夢か確認します、、夢と同じ仕組みになっているか確認します、、これが夢ならば、、、鳥の声を聞いているのは、、この体ではない、、、確かにそうだ!!!この体が聞いているという証拠がない、、味わっているのは夢を見ている存在だ、、確かにそうだ、、、この夢を見ている自分が、、味わっているとしても何も矛盾がない、、、友人の話を聞いているのはこの夢を見ている自分だ、、、、確かに、、そう言われても反論できない、、、

登場人物とのズレ

自分は夢だと気づいても

この現実が実は夢だという突然の気づきが起きれば、、、この体の扱いが変わります、、感覚がどうしても変わる、湧いてくる言動が変わってしまう、、これはコントロールができない、、すると周囲との人間関係にズレが生まれます、夢の中で。周囲が焦る状況で焦ることができない、、周囲が怖がることを怖がることができない、、、何を考えているか分からないと周囲から思われる、、こうなるのです。。。価値基準が個人の幸福ではなく、、夢を観る傍観者の幸福に変わる、、夢を観る傍観者感覚での衝動が始まる、、、

私の場合は、、

私の場合は、、人間関係を大切にしようという感覚が無くなりました、、、この言葉は誤解を産むのですが、、慎重にしてまで付き合う興味がなくなりました、、、気を使ってまで付き合おうという気合いが無くなる、、なぜならば夢の登場人物は、、これを現実であるという前提で生きていますから、、価値観が合わなくて当然なのです、、無理をして合わせるのが一番辛い、お互いに、、となりました。ですからある程度の距離をとって話を合わせるだけの存在になっていったのです。

探求者

探求者とは話が合います、、探求者はこれが夢っていうのはなんとなく分かった、、だけど腹落ちしない、、このような状態の人々が多く、、ここには私は貢献ができる、、そして価値観も合いやすい、、、となりました。この現実って本当は夢なんですか???これには答えられる、明確に、、体に溜まった感情を手放し、、言葉からの理解が腹落ちできるように導くことができます。

今夢を見ているという実感はあるか

多くの人はない

多くの人はこれが夢だという実感が全くないでしょう、、それは当然そのようなことを言う人は全く居ませんから、、、そして悟りの覚者が言う「これは夢だ」というメッセージに出会っても、、、色々な修行を重ねるとそれが分かるようになるんですね!とその言葉を深読みし、、悟りを遠い未来の場所に設定します、、、ですがその思惑、戦略こそが悟りを遠ざけるための覚醒を遠ざけるための思考なのです。

これを夢だと思って生活してみる

これを夢だと思って生活してみてください、、すると直ぐに大きな気づきが生まれます、、誰がこの夢を見ているんだ????見ているとしたら一人しか居ない、、、それはこの自分だ、、、、でもこの自分が夢を見ているとしたら、、この体の中の自分は一体誰だ???この体の中で自分をやりながら夢を自分で見ているのか???確かに夜みる夢でも同じことをしてる、、、すると、、、この体の中の自分が本物ではなく、、、夢を見ている自分こそが本物だという気づきが起きます。

夢を見ている自分がただこの体の中に居るという勘違いをしていた

要はこういうことです、、、これは夢で、、私がこの夢を見ている、、そしてこの夢にはこの体が主人公として登場し、夢を見ている自分がこの登場人物であるこの体に成り済ましていただけだったんだ、、ということです。この夢の展開は、、夢を見ている自分には全くコントーロが起こらず展開し、、この体も例外ではない、、あらゆる思考が湧き、あらゆる行動が湧くが、、これはただ起こっているだけで実は誰もコントロールしていない、、ただし「自分がやっている」という思考も湧き上がるので、、そう信じる、、が起こっている、、この夢の中で。。