至福

今沖縄が大変なことになっている???

行かなければいい

例えば、、今沖縄が大変なことになっているというニュースを読んだとしましょう、、沖縄が〇〇国に侵略されてしまった、、、、このニュースを聞けば日本中が騒然とし毎日TVのニュースはこれを取り上げるでしょう。ですが事実は何も起きていません、、、「私」という蜃気楼が居ない場所では何も起きていないのです。何も現象化されないのです、私という蜃気楼が居ない場所では。

でもTVでは毎日動画映像として流れているぞ

そうです、動画映像のみが現象化しているのです、、、動画映像のみです、、これが事実です。そんなことはない毎日何千人という人が爆破で死んだという数字まででているぞ、、、違います、、その情報のみが現象化したのです。私という蜃気楼が存在しない場所には何も現象化できないのです。逆にいえば「私」という蜃気楼が沖縄に行けばその瞬間そこは現象化し戦場化するのです。。。現象化というをしっかりと読んでください、、かたち(象)が現れているように化けている、、です。しっかり漢字に答えがでているのです。現象、、かたち(象)が現れると、、、現れるのです、「私」という現象が行く場所に、、、

目の前の現象にただ淡々と向き合う

私という現象がいく場所にはあらゆる現象がそれでもこれから現れ続けるでしょう、、、そこにのみしっかりと淡々と向き合っていきます、、目の前の現象は本当に緻密で素晴らしいのです。そこに集中して向き合えばそこから無我に入りその場で全体(至福)にもなれます、、、もしくはその現象をただ見つめるということに無我になってもいいでしょう、もしくは目を閉じて現象を消してしまい、、、音という現象に触れてみてもいいかもしれません。もしくは私(蜃気楼)が行く場所が次々に現象化するのを楽しんでもいいかもしれません。

熟睡がいいか?ハッピードリームがいいか?

熟睡は悟り、ハッピードリームは成功

毎晩皆さんは寝ますが、、熟睡から起きた時、凄い楽しい夢を見て起きた時、、どちらが好きでしょうか???私は断然熟睡です。ハッピードリームにはほぼ興味がありません。夢の中でどんなに良い思いをしてもそんなに幸せではなく苦しさが常にあるのを感じるのです、なぜ次から次へと夢の中で幸福を求めるかといえばこの苦しさから逃げたいことをなんとなく分かっています。熟睡はこれとは違い完璧な至福であったと分かります、中途半端な熟睡はなく、、ただ至福だけがあったと気づきます。

現実でも全く同じ

この現実世界現象世界でもこれは全く同じで成功を何度も繰り返し、周囲から羨ましいと思われてもどこか苦しい、、幸せな家庭、幸せな会社、幸せな人間関係に囲まれても常に不安が襲ってきます。これはハッピードリームを見てる状態と全く同じことです。この現実生活の中で熟睡してしまう、、これが悟りです。何も起きていないことに気付いてしまう、、私は思考するし私は行動するがそれが全部全自動で起きていることに気付いてしまう、全ては熟睡時に感じる至福から起きていてそれは現実に一見見えるが完璧に何もないことに気付いてしまう。私が全てを眺めていると思っているがこの私も至福から現象化した幻影に過ぎず、周囲の人間も至福からの幻影に過ぎない、、その中で私が生きているという錯覚がただ起こっている。

ハッピードリームが悪いことではない

ハッピードリームは善でも悪でもありません、ただハッピードリームが熟睡時に感じる至福から湧き上がり、、私を中心にした私ストーリーが起こっているのです。ですがこの私の存在を絶対的に信用しますと同時に苦しさが湧いてきます。そしてこの苦しさをなんとか解消しようと私が次から次へと目標を達成していくのがハッピードリーム、成功と呼ばれる状態です。ハッピードリームはもううんざりだ、、これが悟りへの誘いです。

助けなくてはならないピーチ姫は居ない

両親が瀕死の状態

突然両親が瀕死の状態になってこのまま二十年間は寝たきり状態、、多くの場合これは地獄、地獄絵図です。周囲からなんと不幸な、、なんと不運な、、という状態です。ですが事実だけを伝えればその両親は五感で感じる蜃気楼に過ぎず、そしてその両親がどんなに苦しんでいるように見えても(蜃気楼)そこに苦しみは実在しません。そしてそのように見える私も蜃気楼ですから実在しません。全てが現象、蜃気楼です。それが腹落ちした時に、、苦しい、しんどい、辛いが果たして湧いてくるでしょうか、、この「自分」ありきの思考感情は全く湧いてきません。この状態は八方塞がりでしょうか、、常に至福に包まれます。

八方塞がりは蜃気楼

八方塞がりとは全方位を困難で囲まれてしまった、障害で囲まれてしまった、、状態です。人生においては絶体絶命の状態です。ですがこれも事実を突き詰めていきますと全く困難ではないのです、、先ず八方を塞ぐ多くの場合は人間です、この人間が完璧な蜃気楼なのです、ですがそれを見抜くことでどうでも良くなります、上司も部下も、友人も妻も、旦那も子供も、、全部蜃気楼です。どう扱っても何一つ深刻なことは起こらない、、起こったように見えてもそれは見えただけです。深刻という感情はあくまでこの私が居るという前提で湧き上がるのであって実はそれ以外では実在できないのです。

八方塞がりから学ぶこと

八方塞がりから学ぶチャンスは大いにあります、、、周囲は「私」の感情思考とは何も関係なく「私」に危害を加えるということです。七方位が閉ざされてしまっていれば同情が周囲から入りそこは甘く見てもらえるのでは??よいう思考も湧きますがそんなこととは一切関係なく周囲は「私」に危害を加えることがあります。そうです、周囲の行動は「私」とは何も関係なく起こるのです。これぞ悟りです。こちらの事情は周囲の行動と何も関係がないということ。そして「私」の思考、行動も周囲の人間に関係なく次々に起こり続けるのです。誰一人「自分」に関係なく言動が起き続けるだけです。この状況で何を期待し何に失望するというのでしょう。

マリオには自由意志も自由行動も一切ない

マリオを通じてただ思考、行動が起きている

マリオは3D画像です、そしてこの3D画像には五感が備わり、、このマリオゲームに臨場感が加わります。そしてこのマリオの中からは思考や行動がわき起こっていきます。マリオ自身には一切思考を生み出す力も行動を生み出す力もありませんからただ全体を通じてこれが起こっているのです。全体から思考も行動も浮かび上がり、、失敗すれば今度は悔しいが湧き上がりこれを全体が全部回収していきます。全体から全てが湧き上がり全体が全てを回収します。マリオは3D映像に過ぎず、、そこが最重要ポイントになります。

全体から思考、行動、感情がわき起こり全体が回収する

マリオ(私)のゲームの中で感情思考が湧き上がっているのがマリオだけという理由は、、、全体から思考感情が湧き上がり、、全体がそれを回収していますから、、、視界に何人のキャラクター(他人)が居ても、、もしもキャラクター(他人)から思考感情が湧いているならば全体が全回収しますから今ここで全部を感じることができるはずです、マリオの同様に。ところがそれは起きない、、つまり、、、マリオしか感情、思考が起きていないということになるのです。

全員の感情を今全体が回収しているが、、マリオののみを感じているようにしているだけでは??

この理論は最もな意見なのですが、、そうすると、、、ピーチ姫、クッパ、ノコノコの感情はどこに行ってしまったのでしょうか???全体は全部であるから全体なのであってここに全体があるのならば、、全体が回収する感情も全部ここにあります。ここ以外に感情が存在してしまったらここは全体では無くなってしまうのです。これが答えです。ここが完璧なのはここに全部があるから完璧なのです。ここ以外に感情の存在が確認されてしまたらここは全体、至福では無くなってしまいます。だとするならばここでは絶対に全体(至福)は見つからないことになります。ですが我々は毎日熟睡時に至福に戻っています、それがここに全体(至福)がある証拠です。だからこそ今起きている思考、感情が全体の全てなのです。

ありのままとは

ありのままとは起こりに任せる

ありのままとは何も特別なことではありません、今目の前に広がる現象はありのままです、そしてこの体も現象で在りありのままです。この体の中に自分が居るという錯覚を起こしますとありのままに「苦しみ」が湧いてきます。これが完璧なありのままの姿です。この体の中に自分が居るが抜け落ちれば「苦しみ」が湧いてこなくなります。これがありのままです。湧いてくる行動に委ね続けばそこに自分は居なくなり至福に包まれます。湧いてくる行動に「自分」が介在していると勘違いが起こり、もっとこうすれば良かった、次はこうしよう、、が湧いてきますと同時に「苦しく」なります。

「苦しむこと」が悪いことではない

苦しむことが悪いことでは断じてありません、「この体の中に自分が居る」という錯覚が苦しみを起こし、この苦しみを回避するためにあらゆる行動を取り続ける、、、これが人生の苦しみのメカニズムであるということだけです。苦しいからこそ、、高級車を買ってみたり、旅行に行ってみたり、暴飲暴食をしてみたりとここから逃げ続けようと動くのです。ですがこれらの試みが全て失敗に終わるのは「苦しみ」のメカニズムを誤解しているかです。

この体に閉じ込められた「自分」を解放する

この体の中に本当に「自分」という存在が居るならば開放は非常に難しくなります、ですがそのような自分は実在しないのですから本当は簡単なはずです。実際には接する人間のほぼ全てがこれを信じていますからそこが解放を難しくします。本当はこの体の中に「自分」など居ないのでは???その発想で事実を確認していきますと自分など本当に居ないことが明白になります。

いつだって現象そのもの

自分など居なくても何も問題はない

街を歩く時に「自分」が今歩いているという思考は一切無駄です、食事をする際に「自分」が今食べているなどの思考は何の役にも立ちません。つまり何かの行為をする際に「自分」など全く必要ないのです。つまり我々はいつだって現象そのもに戻れるわけです、そして戻っています。ここに安住の地が在ることを知っています。ところがなぜか人とのコミュニケーションではこの自分を強く意識します、自分が馬鹿にされた、自分が蔑まれた、自分が無碍にされたと、、ちょっと待ってください、、、自分など全く必要なく現象が進むのですから、、何もこの自分を取り出す必要がないのです。

馬鹿にされた時には

もしもこの体が馬鹿にされたとしても、、ただその現象が起こっただけです、何の意図もなく、何の策略もなく、、一見作為的に見えてもそう見えただけというのが事実です。現象に裏はないのです、現象は完璧な形でただ起き続けます。この完璧な現象に対して「自分」がしゃしゃり出ると最後、、苦しみが同時発生で起きるのです。これが事実です。馬鹿にされたと捉え、そこにやり返すという行為をするな、、というわけではありません。そこに自分を介在させようとすると「苦しみ」が湧き上がるということです。「なぜ自分が」「なぜ自分が」「なぜ自分が」が苦しみを自動的に湧かせるということです。

湧き出るままに動く

「自分は次に何をしたらいいだろうか?」「自分はこんな計画を立てたらいいのだろうか?」とこの自分の存在ありきの思考を回しても、、同時進行で苦しみが湧き上がります。「この体の中に自分が居る」ありきの発想の全ては「苦しみ」を湧き上がらせます。これが事実です。ですから「湧き上がるままに行動」これで十分です。「湧き上がるままに行動」は現象に委ねること、全体に委ねることになります、、、この現象、全体こそが至福の場所です。つまり全体(至福)に委ねて動くということです。

何かに集中している時自分など居ない

TVゲームに夢中になっている時に自分を意識している子供はいない

何かに夢中になるのが気持ち良いのは、、その時だけは自分を完全に忘れることが出来るからです。この体の中に自分が居るという錯覚が抜け落ちます。ではその時は誰がいるのか、、現象が起きているだけです、つまり現象の揺れ動きしかありません、もしくは手の感覚、足の感覚、肌の感覚はあるかもしれません、ですがこの「手」「足」「肌」という存在は忘れています、夢中になってゲームコントロールをしている子供がボタンを押す際に、、手が押しているなどの感覚はありません、ただ感覚だけがあります。

ボールを夢中で蹴っている少年の場合

サッカーに夢中になるのが楽しいのは「自分」を忘れることができるからです。サッカーに夢中になりながら自分をしっかりと意識するのは難しいものです。自分が今ボールを足で蹴った、自分が今敵を抜き、相手からボーールを奪ったなど思考が湧くことはありません、、ただボールの感触、地面を踏む感触があるだけです。世界から名前が消え去ります。この時少年は現象そのものになっています、感覚そのものになっています、、色そのものです。

活躍すると自分がそれを所有する

サッカーをしているだけで楽しかったのに、、活躍して周囲から褒められたら最後、、褒められた「自分」がにょきっと登場します。全体、現象、感覚に溶け切っていた状態から「自分」に戻ってしまいます。すると一緒に苦しみが湧いてくるのです。サッカープレイ中は至福そのものだったのがインタビューを「自分」を受けた瞬間この体の中に閉じ込められ牢屋に打ち込まれ苦しみが同時発生で起こるのです。至福から孤独への強制返還です。

もう自分に戻らない

サッカーで活躍しインタビューを受けるならば、、、先ずインタビュアーのことを現象と見抜くことです、そしてインタビューを受ける際は「自分」をしっかりと演じるという自覚を持つのです。どれほど褒め称えられても「自分」を演じそこにのめり込まないことです。ただ役割としてこの現象界を乗り切ります。そしてインタビューが終われば自分など忘れてしまい現象と共に在るようにします。つまり全体に戻るのです。

私以外の全ての人間はエージェントスミスになってしまう

周囲の人間関係は全部エージェントスミス

エージェントスミスとは映画マトリックスで主人公NEOを攻撃してくる適役です。彼らの真の目的はNEOを覚醒させないこと、、NEOをNEOの体の中に閉じ込めておくことです。NEOが覚醒に近づけば近づくほどに彼らは束になってそれを阻止しようと企てます。この体の中に「私」が居るというのは全体の大いなる勘違いなのですが、、この勘違いを引き起こす大きな要因が周囲の人間関係です。周囲の人間はこの体に向かって間違いなく話しかけています、この体の中に「私」が居るという前提で話しかけてきます、、すると思わず全体は「私」になり切って話をするわけです。私に成り切る千本ノックが始まります。星一徹ばりの猛練習です。

話かけられると全体から「私」に戻る

我に返るとは面白い言葉で何かに集中してうると我を忘れて物事に打ち込んでいます、この我を忘れるというのが全体に帰っている瞬間です、、ところが人から話しかけられると、、、「私」に瞬時に戻ります。我に返ります。周囲の人間関係はどうしてもこの作業の連続になります。集中して小説を読んでいたら「お客様、ご注文は何にしますか?」で我に返ります。集中して映画を見ている時に「ピンポーン」のチャイムで我に返ります。本当の私は全体なのだという感覚が芽生えてきますと、、「我に返る」のが面倒になります、我に返る苦しさを強烈に感じます、、人間関係こそ苦しさの原因であることを悟ります。

では人間関係から逃げるのか???

では人間関係から逃げるのが正解なのでしょうか??違います、、人間関係をエンタメに変えてしまうのです、人間関係を遊んでしまうということです。周囲の人間はこの体の中に「私」に話しかけるというお遊びをしかけてきていると捉えます。その瞬間私を演じて楽しむのです。人間関係とは所詮3D映像同士の戯れ、蜃気楼同士の遊び、と感じていきます。その関係の良し悪しは絶対幸福、至福とは何も関係がないことを悟るのです。帰る場所は全体です、ここを強烈に意識します。我に返るのではなく全体に返るのです。

木が悟っている

悟りが木をしている

木は悟っています、そして悟りが木をしています、木は悟りの表現そものです、一本の木を見ているとそこに悟りがあることを確認できます。誰が確認しているのか?悟りがです、悟りから確認が起きます。禅問答のようになってきました、禅問答が意味不明なのは主語が入れ替わってしまうからです、「バチン」という扇子がなった音、、、この音は何か?と和尚は聞きます、多くの人は扇子が閉じる音です、、と答えます。事実はただ音が在るです、それを聞いた「自分」は思考です、「扇子が音を作った」も思考です、目を閉じればただそこに音が在ったになります。

木はただそこに在る

木はただそこに在ります、何を当たり前のことを言っているのか?ですが多くの方は本当の木を全く見ていません、「私」が見るみんなの「木」を見ています。これは本当の木ではないのです、本当の木は悟りそのもの、静寂そのもの、至福そのものなのです。同じ木を見ているにの関わらずそれがこの世から分離した物質に写るか、悟り、静寂に写るかは大違いです。そしてその違いは「自分」が作ることができません。この違いは起こるのです、悟りからそれが起きます。木も悟り、その悟りを感じるも悟りです。木を見ても何も感動が起きないも悟りです。

ファンタジーから事実への切り替え

ファンタジーとは悟りが作り出した悟りの表現です、そしてそのファンタジーが消えた時に悟りが残ります。この世界に悟りでない場所はないのです、悟りが作り出したファンタジーを感じるが起こるという悟りがあり、そのファンタジーが消え去って悟りが残るを感じるが起こるという悟りもあります。最初から悟りしかなかったが起こる場合もあります。答えが最初から決まっているからこそそれに気づかせないよう思考が次々と湧き続いていきます、悟りから。悟りしかないが分かるが起こればもうファンタジーにドップリ浸かるは起こりません。なぜならば事実を分かって再び幻想に戻るのは無理ゲーだからです。これが偽物だということが分かって再び本物だと思い込むのはほぼ不可能です。

東京という桃源郷に住む

多くの方は桃源郷に住んでいる

桃源郷とは幻の街のこと、東京とは事実多くの方にとって桃源郷です。何を言っているのか??東京は超シビアな街、現実剥き出しの街ではないか??違います。桃源郷だからシビアなんです、桃源郷だから苦しい街なのです。田舎から出て来た若者が東京って楽勝だよねってあまり聞いたことがないのです。それは桃源郷だからです。人間は名前が付いた物を目にした時にそれが視界に入り込んできます。椅子という名前が付いた物を見れば椅子が入り込んでくるコップという名前が付いた物をみればコップが視界に入り込んできます、渋谷駅に行けば人間という名前がついた物、男と名前がついた物、ビジネスマンと名前が付いた物、学生と名前が付いた物、、これらが次々に入り込んできます。本当はそれらに名前など全くなくただの生命現象です、揺れ動く生命現象にも関わらずしっかりした独立した物であると認識し入り込んできます。朝起きて寝るまで名前がついた物に囲まれさもそれが実在するかのうに錯覚しながら起きています。そして眠りについても夢の中でまた名前がついた世界に居ます。

本当はただ生命が揺れ動くだけ

本当の本当はただ生命の揺らぎだけがあります、大自然に囲まれれば分かりますが名前が付いていないものばかり、、、これが静寂、至福です。大都会は全部名前が付いていてそれが実在するかのように「自分」に迫ってきます。この中で「私」はいかに幸福になれるかを真剣に考えています。名前という「思考」の世界が自分に入り込んできてその中でいかに生きるかを考えている、、、一日中実は思考の世界に居るのです、これが本当の桃源郷です。

じゃあ東京を離れよう

だから東京に居ない方が良い、そんな単純な話ではありません。東京を再び桃源郷から事実、根源に戻してしまえばいいのです。名前が付いた物が視界に入って来てもそれこそが幻想の入り口であることを見抜き、自分もそこに参加させない、、幻想ゲーム、妄想ゲーム、思考ゲームに参加しない、、、そしてこの体を通じて湧き上がる思考も行動も勝手に起こっていることを見抜く、すると今まで重くのしかかっていた何かが取れているのに気づきます。桃源郷独特の息苦しさが軽減しているのに気づくのです。