仕事

限界(体)を所有することで無限を開く

この人間ゲームの醍醐味は限界(体)から無限を見つけること

なぜワザワザこんな小さな体の中に意識を植え付けたのか?真我はなぜこんな小さくひ弱で低脳な体の中に自我(独立意識)を育てたのでしょうか?それはそうでなければならない理由があったからです。人間というのがひ弱で弱小でなければ広大無辺な自身(真我)を見つけた時に感動がないからです。それと自身(自我)が弱小無能であるからこそ自身(真我)をいつか探し当てるからです。広大無辺の本当の自分への憧れがなくなることがないのは自身(自我)が弱小無能だからです。

12歳ぐらいで気付く、、自分はキムタクにはなれない

中学校に入る頃には自分はメッシにも、ロナウドにも、キムタクにも、大谷翔平にもなれないことを知っています。生まれて10年もしないうちにこの体ではスターになれないことをなんとなく分かります。これは一種の絶望ではありますが同時に内面開発のスタートでもあるのです。形でスターになれないのであれば内面で充実になるしかないということです。これがこの人間ゲーム、自我ゲームのセオリーです。形でスターになれないならば形でないモノでなるしかないということです。とは言え人間は諦めが悪く、、では学歴で、では偏差値で、ではお金で、では収入で、では安定で、ではファッションで、、、と形を変えて形にこだわっていくのです。ところがこれらを追い求めてもどこまで行っても心の穴、欠乏感、違和感は埋まらない、、、

限界(体)を自分自身と思うことからの脱却

この限界(体)がなんかしらのアイテム(限界)や何かしらの無形のアイテム(名誉や地位、社会的評価)を得てもどうやら満足は来ない、、、これが素晴らしい絶望なのです。キムタクにもなれずスタープレイヤーにもなれない、では無形アイテムで勝負だ、、地位名誉、社会的評価、安定、、、、、これでも真の満足は起こらない、、ということでこの自分は絶望の果てにこの自分というものを疑うようになるのです。悪いのは社会や才能、周囲の人間ではなく、、、この自分ではないか?そうです、この自分という存在こそが負の感情を湧き出し続ける原因であり、そこを見つめそこから無限に入り込む道具だったのです。有限という体を持ちながら無限に開いていく道具、これが実は体なのです。目に見えるものは全て幻、幻想でありこれを求めるうちは真の幸福は見つけることができません。そうではなくこの体を真我、大いなる一つ、神の通り道であることにいかに気付くかが鍵になります。

何かに集中して無我になり、感情を観察して無我になる

自我は常に忙しく常にあれやこれやと忙しい、、、これをやってあれをやってと思考フル回転、、これが自我全開状態です、苦しみの段階。無我全開状態とは、、、、全作業に集中してこれを行います、全作業を無我に入る入り口にするのです、、、掃除、料理、仕事、睡眠、、、全作業を無我に入る道具にします。茶道、花道、剣道、武道の所作はこれに当たります、思考を一切介在させません。そしてもしも負の感情が湧いてきたならばそれを集中して観察します、その感情によって思考をフル回転するのではなくその感情を観察することで無心、無我に入り込むのです。負の感情すらも悟りへの入り口にします。つまり起きている間中を無心、無我、真我にしてしまうということです、この状態は対象のいらない平和、歓喜、安堵、愛です。

負の感情と形あるものへのしがみつき

負の感情解消を思考は形に向ける

人間から負の感情が湧いてきた際に思考は形あるモノを求めます、例えば食事、、、食事を食べると負の感情を一掃できます、勿論一時的ですが。食事を食べて食べて負の感情、ストレスを解消します。この際に思考はなぜ食事がストレス発散になるかを考えません。なぜならばそこを突き詰めると自我の存続に関わるからです。実は負の感情の発生源は自我であることに気づかれてしまいます、そのためそこは考えない。食事などの形あるモノがなぜ負の感情を解消するか?それは大いなる一つの代替品の確保だからです。形あるモノは全て大いなる代替品になる可能性があります、これを手に入れた瞬間思考の回転が止まり自我が解消され負の感情が抹消されます。実はこれが起こっています。手に入れたその瞬間思考が抜け落ち自我が抜け落ち負の感情が解消されるのです。

思考に解決を求めればひたすらに形に依存する

思考が行うことは基本短期的解決です。とにかくショートスパン、その場が取り持てばそれでいいのです。だから負の感情が湧いたら思考は即座に何かしらの形を求めるのです、子供が泣いたら即座にオモチャを探し出し子供に与えます。これを大人になってもひたすらに行うのです。何か負の感情が湧いたら形を探すのが思考の定石です。ちょっと疲れたら即カフェに入る、ストレスが溜まったらお酒を手にする、退屈が湧いたらTVを見る、、、これを一日中やっているのです。思考をフル回転させればさせるほどに自我は強固になっていき負の感情発生量が徐々に増えていきます。このメカニズムが破綻する時まで来ると人は目覚めに興味を持つのです。

負の感情は目覚めるまでひたすらに続く

負の感情の根源は自我ですからこの自我が主導権を真我に明け渡すまで延々に続きます。人間はいかに恐ろしい存在をこの体の中に構築してしまったのか?です。ですがこの自我構築は真我の遊びです、大いなる一つの遊びです。ですから深刻なことは実は何もないということです。真我の中に自我という独立した存在を作り出しこの自我から負の感情が延々と湧き続けそれを解消し続けるというゲームです。自我が王座を真我に譲ればその瞬間に負の感情は湧かなくなるのです。徳川幕府が天皇に王政を戻したのと同じです、これを無血で行うのか流血で行うかです。

自身の事業が完成しても負の感情が湧いてきた時に諦めた

私がなぜこの分野の研究に打ち込んだかと言えば、、、20代に仕事でストレスが溜まり、好きな仕事について世の中の役に立てればストレスはなくなると決めていたからです。ところが実際にそれを成し遂げた時に喪失感が湧いてきました、もう人生で何かチャレンジすることはないのか?とです。自己実現さえすれば自分の人生は終わりと思っていました、だからこそ全てを捨ててこれに当たっていたのです。ところが違った、喪失感が無くならない、、、これは大変なことになった、、、悟りを開くしかない、、こういうことです。

good dreamかbad dream の違い

人間の思考が見せる世界

我々は思考が見せる世界に住んでいます。世界を見渡せば物や人物、風景で溢れていますが全てに名前がつけらえていて実は我々はその名前が付いたものだけを見ています。名前がついていない物はこの世に存在していないと同じ我々はそれを感知できません。これが分離の世界の定石です。この世界の始まりは自我というものが目覚めていき先ずは自身の分離がスタートです、これによってその自分が見る世界が広がりました。だからこそ我々が望む生活とはその世界がグッドなモノ、そして避けたいのはバッドな世界です。ですがそれらは全部分離の世界という枠から逃れられないという特徴があります。

ブッダは言った「この世には苦しかない」

分離方法を変えていけば確かにこの世はグッドな世界になるかもしれません、ですがそれも分離の世界であるということに違いはなく、、結果自身からネガティブな感情が湧き出し続けます。こに分離の世界に住んでいる状態でネガティブな感情が湧かないということは絶対になく常にその処理に追われ続けます。ではこの分離の世界の枠から抜け出すにはどうしたらいいか?先ずは自身の分離の罠から抜けることです、自身が実は思考によって分離した存在であるというこの罠から抜けるのです。思考によって独立した自分が居るという洗脳にかかっておりこれを見抜くことです。

人間とは考える葦である

誰が言った言葉かはわかりませんがこれが人間の共通認識です。人間、私とは考える葦である。この体の中に考える私が居る。。これで自身の分離はスタートしたのです、ですがこれはアイデア、発想の域を抜けることができません。実際には考えることによってこの私は確実に居ると信じ切っているのです。でも時々この嘘に人間は気付いています、大震災や、大事故、大怪我、大ハプニング、、、自分のことなど完全に忘れ去って事にあたっている時に恐ろしいほどの安堵が襲ってくることを。絶対絶命のピンチになぜか心が穏やかになることを、、、このことを人は実は知っています。これらの経験が積み重なり人はこの大嘘に気づくようになります。

ネガティブな感情が湧いてきたら、、、自分ごとににしないで観察してみる

先ほどのようなハプニングは人生で何度もないために人はすぐに自分というモノに引き戻され普段の生活に戻ります。普段の生活はまたネガティブな感情が湧き続ける生活です。仕事も辛いのが当たり前、家事も辛いのが当たり前、人間付き合いも面倒で当たり前、金銭事情を世知辛くて当たり前、、、これが人間のデフォルトです。ですがこの感情を使って悟りを開く方法があります。このネガティブな感情が湧いてきたらそれを自分ごとにしないでそれを他人事のようにじっと観察します。湧いてきた瞬間からその感情を誰のもにもしないでただ観察するのです。この感情を観察する事に没頭してみてください、、、するとその感情が消えていきます、むしろそれを通じて平和が湧いてきます。意味がわかりません、、、、辛いを観察していたらそのまま平和に切り替わる???意味不明、、、これが人間を騙し続ける自我のカラクリです。

自我は全感情を自分ごとにして自我を存続させているだけ

自我の策略を解説します。自我は湧いてくる感情を全部自分ごとにします、そして多くのそれらのネガティブな感情を思考を使って解決します。この人間としての当たり前の行動、これが自我の策略です。当たり前に湧いてくるネガティブな感情、これをまず自分ごとにしなくてはこの自我システムは維持できません、そのため湧いてきた感情を全て解消します、、そしてしれを思考(自我)が解決するのです。思考とは自我のことです、自我を作っている大親分が思考です。思考がネガティブな感情処理に活躍すればするほどに自我は大きく肥え太っていきます、結果ネガティブな感情もより肥大化していくという流れです。ネガティブな感情が発生するには仕掛けが必要でありそこには大きく自我が関わります、というよりも自我というシステムこそがこの感情発生装置なのです。このメカニズムを打ち砕く一番効果的な方法、それは湧いてくる感情に反応しないということです、、、信じられないかもしれませんがこの感情に思考でもって解決を図ると自我が肥大化するというとんでもないカラクリが働くのです。これで人間は自我システムから逃れられなくなります。悟りを開くなど夢のまた夢、、となるわけです。でも実はこんな簡単なカラクリを見破るだけで自我システムは発動しなくなるのです。この自我が解体した状態、思考がただの思考に戻った状態こそを悟りと呼びます。

ポジティブシンキングの危険な罠

自己啓発の定石

30代になって仕事で独立した際に売上げ、利益、収益、、、何でもが自己責任にシフトしました。そのため多くの自己啓発本を読み漁り成功を夢見て邁進しました。全部自分の責任ということは成功すれば全部自分の実績ということです。これほどに涎が出るチャレンジはありません。その時に読んだ本、ナポレオンヒル、本田宗一郎、中村天風、斎藤一人、松下幸之助、、、、事業家で成功した人間の多くが説くポジティブシンキング絶対肯定論に強く惹かれたのを覚えています。そしてこれらの考え方で事業に向かうと確かに成功に近づきます。ですがどれほど成功し利益を出し、あり得ないほどの自由を手に入れても一向になくならないのが不足感でした。おかしい、、これほど上手く行きすぎているのに何も変わらないこの焦燥感、、、絶望、、、とりあえず見ないようにしよう、、、

成功など何の穴埋めにもならない

ポジティブシンキングは確かに成功に近づく定石です、どれほどまでに失敗してもチャレンジを続ける、、、何度も立ち上がりチャレンジを永続すればどこかで結果は出る、、その通りです。確率的にもそうなります。全失敗を成功の種と捉え続けることで必ず結果はどこかで出るものです。それは間違いありません。ですが埋まらない不足感、焦燥感、、、、結果が出ているにも関わらず埋まらない不足感を味わった人はどれほどいるでしょうか?おそらくあまりいない、、、だからこそ誰にも相談できない。。募る焦り、孤独、、、反比例するように上がる自尊心、特別感。

ポジティブシンキングを所有するのは自分

ポジティブシンキングというぐらいですからこれは考え方の話です。思考ですね、この思考こそが自分自身から負の感情を湧き上がらせているのです、、、びっくりします。松下幸之助、ナポレオンヒル、中村天風がこんな引っ掛け問題にやられますかね、、人間の思考、観念、哲学こそが不足感を湧き起こしている、、、これでは人間は至福に至るわけがないのです。なぜならば人間とは考える葦ではないか、、、つまりこういうことです、この自分を自分と思い続ける限り真実の幸福は絶対に来ないのです。自分がポジティブシンキングを所有している限りそのシンキングこそが不足感、居心地の悪さを生み出すという仕掛けです。

負の感情が湧いてきたら、、、

負の感情が湧いてきたら、、それをポジティブに捉え直し、、、、これがポジティブシンキングですが、、、これをしている限り、、負の感情が湧き続けます。そうではなくその感情を観察する存在になる、その感情から逃げずにその感情をじっと観察する、、観察することに集中する、、観察することに無心になる、、、観察することに無我になる、、観察する大いなる一つになる、、、観察から歓喜、安堵、平和に入って行きます。人間活動としては当然湧いてくる負の感情を観察することから悟りに入ります。

負の感情から逃げるという生き方から負の感情を使って悟るという生き方へ

これはポジティブシンキングとは全く違う

私は基本快楽主義です、ですから嫌なことは大嫌い、やりたくないことはしなくていい、我慢など愚の骨頂、常識世間体糞食らえで生きてきました。これをしないために仕事に打ち込んで結果を出すことでこの生き方を継続してきました。仕事技術達成のための負の感情はルーティンという反復作業で無思考に持ち込みむしろ楽しんでこれを達成してきました。だからこそなおのこと「やりたくないことはしない」こう決めて生きてきました、エックハルトが説く感情観察から悟りに入る方法は知ってはいましたが自分には関係ないとタカを括っていました。ですがどうしても気になる、どうしても避けて通れない、、負の感情から逃げるという癖がついた自身のエゴがこれを強烈に避けているところに悟りのヒントがあることは分かっていました。感情観察はポジティブシンキングとは全く違います、ポジティブシンキングとは観念書き換えです、ですがこの観念こそが負の感情を生み出しているというのが悟りです。観念はポジティブだろうとネガティブだろうと負の感情を生み続けます。その観念を支える思考というエネルギーこそが偽りの自分を作り出しているからです。

負の感情は見なくていいと決めていた

私は究極の快楽主義です、ですから負の感情とは見なくていいものと決めていました。とはいえ一日2時間以上のエクササイズを自身に課し、1日2時間以上パソコン作業に向かい、さらに仕事もする、、、ネガティブな感情が湧かないわけがない、、、ところが作業に集中する、無心になる、無我になるという感覚を習得した私にとってこれらはネガティブな感情を沸かす要因にはならなかったのです。もしもあるとするならば対人関係で嫌なことを言われる、軽い態度を取られる、、恩を仇で返される、、、などでした。そしてこれらが起こった際には冷静なNOで対処してきました。ですから負の感情を味わうことがほぼほぼ無かったのです。

これからはしっかりと観察していく

1日のほとんどの時間を無心、無我の状態で過ごすことができる自分にとって嫌な感情と向き合う時間はほぼなくそしてそれを気にもしませんでした。ですがエックハルトトールの思考観察、感情観察を読み返していくうちにこれは今後積極的に自分の人生に取り入れていくことを決めました。自分自身から湧いてくる思考、感情を観察するということは難しいことではありません、なぜならば人とのコミュニケーションではこれを冷静にする自分がいるからです。なぜ自分の思考、感情を観察するのが難しいと感じているのか?これぞ自我の策略、自我の延命措置に間違いないでしょう。

負の感情観察から無我に入る

負の感情観察から無我に入る、、、これは矛盾を抱えた表現にも思えます。負の感情を生み出しているのは紛れもなく自分自身でありそれを観察することで無我に入るとはどういうことでしょうか。負の感情を生み出しているのは自分自身であるのですがそれが偽りの自分自身だということです。偽りの自分が居るからこそ負の感情が湧き起こっているのです、これを真我、無我で観察します。大いなる存在としてこの感情を観察することでそのまま歓喜、安堵、平和になります。負の感情が湧くということは偽りの自分がそこにはあり、だからこそそれを真我で眺めることで偽りの自我が消滅します。負の感情発生とはそこから悟りに入る大チャンスだったのです。

女性は受容から悟りに入り、男性は集中から悟りに入る

女性と男性では悟り方が異なっていい

女性は男性に比べて受容的です、子育てという弱い人間を育てる立場からか受容力が男性よりも高いです。言葉が喋れず、思考が未熟で、判断能力がない子供を受容する包容力が男性よりも高く作られています。子供のワガママ、子供の喜怒哀楽、子供の癇癪に対して女性は忍耐強くそれを受け入れます。女性が子供を産むと波動が変わるというのはこのためかもしれません。女性は自身から湧いてくる感情を見つめ観察しそこから悟りに入れる可能性があります。男性は女性に比べ攻撃本能が高いので自身から湧いてくる攻撃的な感情に振り回されてしまう可能性が高い、ですが女性は受け入れるという受容性が高い分、他人からの攻撃から湧いてくるネガティブな感情を観察しそこから悟りに入るということができます。子供の暴言、子供の泣き言、友人の悪口、友人のヒステリー、、、あらゆる感情の揺さぶりを観察することでそこから悟りに入っていきます。

男性は集中から悟りに入る

男性は本来狩に出る役割がありましたから、ジャングルに入っていき集中力を駆使して獲物を捕獲します。敵を攻撃するために集中力を極限まで高めていき獲物を確保します。この集中力とは同時に無我の境地でありそこから悟りに入ることができます。集中して集中して集中し尽くしていくことで自分という偽りの自我を完全に排除していきます、その状態は大いなる一つ、無我、無心、悟りです。獲物を捕獲するためにそのまま歓喜、平和、安堵になっていきます。男性の職人さんが多いのはこのためです。男性は何かに集中し尽くすことでそこから悟りに入れます。

悟という状態を知ることでどこからでも悟りに入る

女性は子育てを通じて受容から悟りに入り、男性は仕事などで集中し尽くすことでそこから悟りにはいります。そして一度この悟った状態を経験すると人はどこからでも悟りに入ることができます。悟りとは遠いどこかにあるのではなく常にここに悟りがあるわけでそれを邪魔しているのは常に自我です。思考によって構築されたこの自我こそが悟りを見えないようにしている張本人であり自我のシステムエラーが負の感情です。この負の感情を受容し観察することで悟りを開くこともできれば、その感情から何かに集中することで悟りを開くこともできます。

人間の自我が負の感情を生み出すことを理解すれば、、

人間の自我こそが負の感情を生み出していることが理解できれば人はどこからでも悟りを開くことができます。その負の感情をじっくりと観察することで無我に入ることもできれば、その負の感情から何かに没頭して集中し尽くして悟りを開くこともできます。どちらにしても人はこの負の感情から思考を使って逃れ続けることは困難でありいかにこの負の感情と向き合う癖をつけていくかが重要になります。思考は常に思考を使ってこの負の感情を解消しようと企てますがこの作戦は常にその場しのぎです。そうではなくこの負の感情こそが悟りに入る入り口であるという俯瞰した視点が重要です。

悟りの学びすらも自我は利用する

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝てない

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝つことはできません。パワフルな人は負の感情が自身から発生した時に臨機応変に無我に入り込むことでその場で大いなる一つになることができます。仕事、掃除、勉強、読書、TV、エンタメ各種、何にからでも無心、無我に入り込みこの負の感情を解消してしまいます。ですがこのやり方だけでは自我、自分の存在から一向に逃れることができません。なぜならばその行為が終われば必ずまた自分に戻ってしまうからです。自分に戻ればそのまま負の感情が湧き出してきます。

感情を観察する存在になる

逃げる行為から無心、無我に入ることができるならば、、、感情を観察することから無心に入ることもできるはずです。感情を観察することから無我に入ることもできるはずです。逃避行動から無我に入れる人間がなぜ感情の観察から無心無我に入れないか?という話です。辛い、苦しい、退屈、孤独という感情が湧いてきたらその感情をしっかりと観察しそのまま無我に入っていきます。そこで思考は出しゃばってきますがその思考に主導権を委ねてはいけません、思考は俺に任せろと言わんばかりに主張してきますがそれを無視して観察という行為に入り込みます。今自分から退屈が湧いている、孤独が湧いている、辛いが湧いている、、、、それを観察する大いなる存在になるのです。そこから自我のカラクリを見破り真我に入ります。

全ての感情から悟りに入る

人間から生まれてくる感情はそれがどれほど快適な感情であろうとそれは既に苦しみの始まりです。楽しいは退屈の始まり、嬉しいは悲しいの始まり、刺激的は退屈の始まりです。人間という存在から湧いてくる感情はコインのように両面の感情がセットで湧いてくるのです。楽しいを追求すれば退屈がセットで付いてくるわけです。この感情から逃げるのではなくその感情を徹底的に観察します。その感情から悟りに入ってしまうのです。その感情から大いなる一つになってしまうのです。その感情からワンネスになってしまうのです。

思考と感情の繋がりから悟りに入る

感情から逃げない

パワフルな人は負の感情が湧いた来た時点で思考ではなく行動、アクションを起こしてこの負の感情からの逃避を図ることができます。私などはその一人で負の感情が湧いてきたら筋トレ、仕事、ブログ制作、断捨離、読書と何かに集中してこれを取り除いてきました。この行動は無心、無我、大いなる存在と一つになることを可能にしますから積極的にこれを行ってきました。ですがやはり負の感情から逃げてきたという事実は間違いなくそのため私は悟りというモノに対する関心興味が尽きることはなかったのです。覚者、悟り人はどうも自分とは違う、この確信だけが私をそこに貼り付けにしたわけです。エックハルトトールの書籍を読むと何かに集中すること、そして思考、感情を観察すること、この二つを大いなる一つになるやり方と提案しています。

感情が湧いたらそれをただ観る

パワフルであればあるほどに負の感情が湧いたその瞬間に何かしらのアクションを起こしそれを回避できます。ですがそのやり方だけでは負の感情の根源を見つけることはできません。特に集団で一緒に居る時など何かしらのアクションを起こせないですから非常に苦しい時間になってしまうのです。その点思考、感情を大いなる一つになって観察するというのは素晴らしいアイデアです。思考、感情と一緒になってしまうのではなく思考、感情を観察する気づきの意識、大いなる一つにその場でなる。これが私にとっても新しい大きなチャレンジになりました。

感情が湧いたらそれを消し去るのではない

感情が湧いた時にそこから逃げる、この時逃げる自分という存在は継続されます。負の感情が湧いた瞬間にその場から立ち去れば確かに負の感情を味わうことを避けることができますが逃げる自分の存在は付いて廻ります。そうではなくその感情をしっかりと観察する、その思考をしっかりと観察する、、、その観察する存在とはまさに大いなる存在、気づきの意識です。今自身から負の感情が湧いてきている、その感情を徹底的に観察してやろう、、、この新しいメカニズムが自身から自我を抜け落としその場で大なる一つになれます。このメカニズムが新しい自分、大いなる一つを出現させます。その場で歓喜、平和、安堵が訪れます。

経験自己所有の法則

人間とは経験を自分のモノにしていく生き物

色即是空、この色の世界に実は独立したモノなどありません。この色の世界を構築しているエネルギーはゼロです。ですからこの色の世界はゼロエネルギーで構成されています。ゼロエネルギーがまるで生命が現象しているかのように見せています。だから色なのです。ゼロエネルギーですから例えば鳥が空を飛んでいてもそれを構成しているエネルギーはゼロです。ゼロが集まって鳥に見えている、鳥の感触がある、鳥の泣き声があるだけです。人間はこの色の世界において脳を所有すことでこの体の経験を全部自分のモノとして記憶します。この体が多くの経験を積めば積むほどに自分の経験が増えていくという流れです。これによって色の世界に全く別物の物語が作られました。人間ストーリーです。覚者がこの人間ストーリーのカラクリを発見したときに夢から覚めた感覚だと称するのは人間が勝手にストーリー仕立てにしていたと気づくからです。このストーリーは作り物です。

自分の人生は作りモノ

自分の人生とは作りモノです、なぜならばこの体が経験することを勝手に自分が所有したとしているだけだからです。本当はただ体に経験だけがあります。この経験を脳が記憶して積み重ねてこの自分の歴史だとしたのが人生です。人間の記憶機能がなければただ経験だけがある、そしてその経験は全体の経験です。これを人間が勝手に自分の経験だと言い張り楽しんでいるのです。ですがこの人間勝手経験所有ストーリーは全体が行なっていますからこれは全体の遊び、神の遊びです。遊びは遊びですがまあまあ苦しい遊びですからこの神の悪趣味に付き合う必要はないんです。

経験の全てを全体に戻す

この体の経験を全部この自分のモノにすることもできますし、この体の経験を全て全体のモノにすることもできます。体の中には自分は実はいないので当然です、記憶を起動しなければ経験はそのまま全体の経験になります。音楽が聞こえる、食事が美味しい、お腹が空いた、仕事を辞めたい、、全部全体のからの起こりであり、全体の認識です。自分が所有しなければ。後付けの自分に経験を所有させればエキサイティングで楽しいですが苦しくもあります。自分が欲しがる経験は積めないか、もしくは積んでも直ぐに不足感が襲ってくるからです。

後付け機能を全て外す

芸能人がメディアで叩かれる

芸能人が不倫でメディアから叩かれるとしましょう。その芸能人はなぜか反省しなくていけないような強制圧力が周囲から起こります。ですがこれを自分の経験として所有しないことです。ただこの体がメディアから叩かれた、それだけ。それが起こっただけ。そしてこれからはそれをしないと決めるだけです。これを自分が言われたのだと自分がこの経験を所有しますと反省や後悔、苦悩が襲ってきます。

もしも仕事で干されたら

スキャンダルでメディアから叩かれた経験を自分が所有しなくてはならない、、、こう多くの人は思います。ですがこれは後付けです、人間が勝手にやっている後付けゲームです。これに参加しない。ただ不倫を今後はしない、それだけ。だがそれでももしもそれによって仕事が干されたら、、、自分の経験として所有しようと、しまいと起こる現象は同じです。もしも干されたらこの体ができる仕事を探すだけ、、、それだけです。全部は自分がこの経験を所有すらから苦しくなるのです。

自分ごとと捉えなければ仕事などできるわけがない、、、

これは嘘です、マリオゲームをやっているときにマリオになり切らなくたってゲームはできます、むしろ冷静に明晰にそれができます。マリオになりきればあらゆる感情、情動が湧いてきて苦しくなります、楽しいですが。もしも自分経験所有ゲームに疲れたならばこれをお勧めします。全部の経験を自分が所有するのは実は後付け、これは人間に備わった機能の一つです。これを手放しますと明晰さが湧いてきます。