偽りの自分

願いが叶ったその瞬間

何も得る必要がない状態

受験勉強に成功し志望校に受かった瞬間、就活に成功し志望企業に受かった瞬間、最良のパートナーを得た瞬間、、これらの瞬間人は、、、もう何もいらない、、という満足感を得ます。お腹がいっぱいという感覚よりも真の安らぎをその瞬間に垣間見るのです。その感覚が忘れられないがために人は次の目標に進むわけです。ですが実はこの手に入れた瞬間の苦しみから開放された感覚こそが開放性、真の自己の感覚なのです。

何も心配ない

多くの人は次々と目標を叶えていくことでこの真の開放性に出会う経験を実はしているのです。その経験は絶対に忘れることができない経験なので人は中毒になり次を追いかけるわけです。ですがそれは対象を手に入れるというやり方では常に一瞬、一過性のものであることも徐々に気づいていきます。すると人は対象ではなく真の自由、真の安らぎ、真の平和はどこにあるのか????という疑問を持つのです。

未来ではなく

未来に常にその対象を求めてきたのですが、、そのやり方では当然一過性の幸福を追いかけるだけであり、、そこに答えがないことに気づきます。すると初めて「悟り」という言葉を思い出すのです。そういえばそのような言葉があったなーです。関心が手に入れるではなく手放すに行くようになります。するとこのドラマ上でそれらに関する情報が集まり始め真の探求が始まるのです。

開放性が私(非開放性)を再吸収する

質問が消えるまで

この世界は開放性の中で繰り広げられる閉鎖性(自我)ゲームです。この舞台は間違いなく開放性でありですが自分とは閉鎖性、非開放性の存在です。開放性の中で非開放性(自我)が活動するのは矛盾しています、そのため非開放性(自我)は常に常に異分子扱いを受けるのです、この開放性の中で。つまり存在をイメージした瞬間に(お前は誰だ???)が湧いてきてそれがこの体に反応し違和感、憤りとなって発生します。その憤り、違和感を非開放性(自我)はこのストーリーの中で何を手に入れることで解消するという旅にでるのです。これが開放性が作り出した非開放性ストーリーです。

開放性が開放性に目覚めると

このカラクリが溶けて非開放性である自我が開放性の中に溶けてなくなった場合(開放された)、、質問が出なくなります。それまではなぜ?????がお前は誰だ????がエンドレスいに開放性の中で起こり続けるわけですが、、これがもう起きないのです。開放性が非開放性(自我)を認識できないからです。すると小さい子供のように真の安らぎの中でただ遊ぶが始まるのです。

開放性はいつ私(非開放性)を再吸収するのか????

私はこの開放性の中で存在する自体が苦しいのですから、、開放性を探しまくるわけです、、どこにあるのか???です。そしてどうやらこの世界(非開放性のドラマ)には存在しないことに気づきます、この気づきは開放性の中から起きます。すると関心が開放性に向かいます、、このドラマは関心が投影された世界ですから、開放性に関する情報が出現し始めるのです。そして開放性が開放性に関する情報を読み込み続け、、非開放性の自我の存在に関心が行かなくなることで非開放性の自我は感覚が薄れていき最終的には忘れ去られます。

開放性として、、

そこからは開放性の中でこの見かけ上の体が、、真の安らぎの中で活動します。そこにはかつての非開放性はこの体の中には存在せず周囲の非開放性に見える人間関係の中で生きていくのです。真の安らぎ真の平和の中で子供が遊ぶような活動が始まります。

全ての構成要素としての私

私のパラダイムシフト

なぜ人は評価されたり多くを得たり、、あらゆる向上を得ようとすれば、、、、全構成要素全てが、、この体の中に居る自分であるという勘違いを起こしたからです。この勘違いは凄まじく、、違和感どころではないのです。自我がまだ曖昧だった頃にはその違和感は少ないのですがその個人に責任という大きな十字架を背負わせた瞬間に急激にストレスは高まります。動物園全体の私が、、猿一匹にの中に閉じ込められて「私」と勘違いが起きた状態です。狭い、おかしい、苦しい、がエンドレスに出るのです。これが人間の苦しみの本質です。

我々の本質は

我々の本質はこの体が引き起こす五感を作り出す全要素です、このコップもコーヒーも、朝日も音楽も全部です。この全部とこの体が二人三脚で五感の全て経験の全てを創作しているのです。なんという奇跡、なんという偉業でしょうか。ところが突然その全てを所有する存在が現れます、それが「私」です。この私が誕生してからというもの、、常に「苦しい」が湧き上がるのです。全体全てがこの私に閉じ込められた瞬間です。私は常に苦しので、、ああやったら、こうやったらと日々動き回りもしくは部屋に籠り、、、この苦しみを少しでも解消するよう努めるのです。

この「私」も私の一部

勘違いしてはいけないのはこの「私」という感覚も全構成要素の一つだということです。私は決して全体の中に現れた突然変異ではなく、、、それもまた私の一部です。ですから突然の気づきとはこの「私感覚」が全体に再吸収されたことなのです。もしくはこの「私」を中心にした全てのストーリーが完全に虚像、ファンタジーであるという観念の崩壊が起こった時に気づきがおきます。

気づきの後

全構成要素、全構成因子こそが私であるという気づきが起きたのちも勿論この人生ストーリーは続きます。分離していたものは完全統合されたビジュアルに変わるわけではありません。ですが本当は一つであることが分かっています、ただ今たった一つのエンルギーが分離しているように見えていることがわかるのです。その時にこの体の中の「私」が何かを得て幸福になろう、何かを恐れる、、というドラマが起きないのです。何かに不安になるためには今ここに真の安らぎがない時にだけ成立するのです。

子供にもっと不安になれと言っても

小さな子供に、、もっと将来を心配しろ!!!と言っても無駄でしょう、、将来を不安に思うことができないのです。だって今真の安らぎの中に居て、、それがこのまま続くならば何を不安に思うのか???という話です。つまりこういうことです、、、自我というものが形成され、、、「苦しみ」に襲われ続けていない限り将来を不安に思うことも不可能ですし、過去を憂うこともできないのです。

自我は「苦しい」以外は最高のプログラム

「この体、この思考、この感情は自分」というプログラム

自我とはこの体の防衛システムです。この体の中の自分という存在がいると信じることで「体+自分」の二つを守ろうとシステムが起動します。例えば三食しっかりと食事を出してくれる家に住んでいて、、「学校に行くと悪口を言われるから嫌だ」と家に籠もれば、、、、体は絶対に家で守られていますからこれで体を安全保持できます。悪口を言われたは自我であり、、その自我の防衛システムが働き家に閉じこもれるのです。もしも体だけの存在ならば悪口を言われても学校に行くでしょう、、するとリスクは上がります。

安定した就職先

晴れて大手企業に勤めることができたとしましょう、、、この体この思考この感情を自分とする自我が、、、これで体を保持できる、これで社会的評価を保持できる、、、と満足という感情が生まれます。私は大安泰だ、、という思考が感情が生まれます。そしてそれを失いたくはない、、という思考感情も生まれますから、、この体にとっては最高のシステムが完成するわけです。

「苦しい」だけが残る

自我システム唯一の問題点は、「苦しい」これだけなのです。ここだけが大問題なんです。この体の中に自分が居るという思考感覚は、、このストーリーの中でこの自分をリスクから避けるために非常に強力に働くのですが唯一の弱点が「苦しい」なのです。なぜかといえば、、自分、私というのは嘘なので、、ひたすらに本当は誰だ????が止まらないのです。憤りがひたすらに起こるのです。ここだけが自我システムの問題です。

大いなる存在は

この自我システムを発生させたのは大いなる存在です、、そしてこの苦しいを読み込み続けるのも大いなる存在です。だから「私がなんとかしなくては!!!」が起こり続けこのストーリーは続きますが、、でも消えないんです。「この体この思考この感情が自分」が完全なる嘘であることに気づくまでは消えません。

自我の拒絶反応

否定に怯える人々

考えを否定されることに対して極度に怯える人々がいます。これは考え方=自分自身としっかりとなっている方々です。例えば本などで考え方について学ぶことを習慣にしていない人々は自分の考えは経験が確実に支えているわけです。ですからその方にとっての真実そのものですから「考え方」が血と肉レベルになっているのです。その考え方を否定されてしまうとなると、、、自分の内臓を否定されるレベルの感情が湧き出し苦しいわけです、事実として。

感情が湧き上がる

思考観念価値観の否定が、、そのままその人自身の否定になり、、空に閉じこもると、、、、どうなるか????空の中も苦しいわけです、閉じこもったところでそれもまた苦しいとなります。なぜ苦しいのか???「この体この思考この感情が自分」という思考感覚そのものがそのまま「本当の自分は誰だ???」という疑問を起こし、、憤りを感じています。ですから空に閉じこもっても苦しいのです。最終的には空の中が苦しいので外に出ようとする動きが始まります。

否定されても肯定しても苦しい

思考を否定されても苦しく、、思考を肯定されたところで苦しいのです。金メダルを取った選手は出版社から「あなたの考え方」を本にしませんか???とオファーがきます、、まるで自分が本当に認められたような錯覚を感じます。そしてその本が大ヒットします、、そしてこれも自分が大きくなった気がするんです。そして事実自分が大きくなっているんです、なぜならば自分の思考=自分だから。その思考が多くの人に認めらられる=自分が認められるだからです。

ですが

ですがどこまでいっても「自分」とは完全に虚構、嘘、偽りです、、、結果嘘が大きくなることで逆に「苦しい」が湧き出してくるんです。周囲は全くもって嘘とは思っていませんよ、「自分」の奥にある何かがその嘘に気づいているんです。だから周囲から認めらえれば認められるほど、、、同時に「苦しい」が湧くのです。嘘を重ねて大成功した詐欺師が、、夜になると怯えて寝る、、、みたいなことです。

思考の否定

宗教改変

これまでキリストを信じてきた人に明日からは仏教徒になってください、、と言ったら自害する人もいるでしょう。会社に全身全霊を注いできた人に、、明日から来なくていい、、突然首を言い放てば、、、その人は自殺すら考えるかもしれません。人間とはその人の信じること(思考)を自分自身と同一視するのです。ですから信念の否定は自身の否定です。信念が突然崩れ去れば、、自分が突然崩れ去るのです。

では何が「自分=信念」を支えてきたのか???

「自分=信念」を支えてきたのは誰でしょうか?????それは自分ですよ!!!!自分が信念を自分そのものと思っていたのならば、、信念がそこから崩れ落ちても自分は残りますよね!!!だったら、、自害しようなど思うわけないじゃないんですか????自分はしっかると残るのだから。そうなると自分が信念を抱えていたのではなく、、信念を自分と捉える思考がそもそもあってそれが崩れたのです。「信念がなくなる=自分がなくなる」という思考が芽生え、同時に恐ろしい喪失感が生まれ、、自殺に至るのです。

自分が居ないからこうなる

信念が朽ち果てようと、、思考が朽ち果てようと、、「自分」という存在が実在しているならば、、全く傷つくわけがないのですが、、、そもそも自分というものがないので、、信念が崩れ去った時にとんでもない感情が湧いたのです。自分が居ないことは誰かが知っています、、本当は居ないことは「自分」の奥の何かが分かっています。だからこそ「自分=〇〇」という思考で囲いその真実から目を逸らしていたのです。

私は頭が良い

頭の良さをアイデンティティにしている人は、、頭の良さを否定されると烈火のごとく怒るでしょう。美貌を自身のアイデンティティにしている人は美貌を否定されたら烈火のごとく怒るでしょう。キャリアを自身のアイデンティティにしている人はキャリアを否定されると怒ります。本当は自分なぞ存在しないからこそ社会的に評価される「何か」を組み合わせ「自分は居る」強く錯覚したいのです。だからそれを否定されちゃうと自分が居なくなってしまうのです。

エゴの無意識の活動

エゴに対して意識的というのはない

エゴとは「この体この思考この感情が自分」という思考感覚が完全強固になった状態です。ですから思いついたアイデア=自分、、傷つた感情=自分ですから、、、「誰かに傷つけられた=自分」、、、じゃあ「やりかえしてやれ!!!というアイデア=自分、、、、の流れを止める方法がありません。やりかえしてやれ!!!がアイデアとして湧いてきた時に、、、それはあくまで湧いてきたアイデアに過ぎない、、、という俯瞰した感覚があれば、、、辞めとこう!!が湧きますが、、、、、それがないんです。

湧いてくる思考全部=自分

やり返してやれ!!!!が湧いてきた時、、、それがそのまま自分、、、、、であれば、、そのアイデアを疑うということはありません。ですからそのまま動くになります。多くの方は湧いてくる思考を自分が湧かせたとお見込んでいます、、、ところが実際は思考、アイデアは勝手に起こっているのです。。。思考になれ愛着があるかといえば「私の思考」だからです。だからそのアイデア思考に執着します。

私の思考が粗末にされた

約束事が守られなかった場合、、、なぜ人は怒り出すのか????それは「私の思考」が粗末に扱われたと感じるからです。「私の発言」が忘れられて粗末に扱われたと感じたからこそ怒るが勝手に起こったといくことです。エゴに同一化し無意識で生きている人々が性格が悪いとかそのような話では全くなく、、感情が自動反応で起こるということです。

考え方の否定

エゴと同一化、自我と同一化している人々に対して、、、、その考え方を否定しようものなら、、とんでもない拒絶反応が起こります。それは思考=自分ですから、、思考の否定は、、、自分の否定だからです。自分が消え去ってしまう自分が殺されてしまうような感情が自動反応で起こるのです。ですが「自分」を守るという点では非常に優秀な動きであり生物としては問題ないのです。

苦しい

自我との同一化、エゴとの同一化は生物としては非常に優秀でシンプルな行動でしょう。ところが問題は「苦しい」のです。「思考、感情は自分」という思考感覚は真実でないんです、嘘なんです、、、ですから、、、真の安らぎ、真の平和から一番遠いところに居るんです、、、この思考を信じると、、「痛み」が発生します。だから生きているのが辛い、、、となります。生物としては自身を否定することに拒絶反応を示し安全ですが同時に苦しいからは逃れられないのです。

今理解できなくていい

悟りに関する理解

自由意志はないんですよ!!!これを聞いてそうなんだ!!とは絶対になりません。自我がこの手の話を聞いて満足して受け入れるということは絶対にないのです。まぜか??????自分の存在を大きく見せるために何千万円のマンション、宝石、高級車を買ってしまうような動きが、、、、自由意志はない!!を素直に受け入れるわけがないんです。自分を守るために全国中継の記者会見で嘘をつくようなエゴの動きが「自我は存在しない」を簡単に受け入れるわけがないんです。

ですが

ですが、、自由意志はない、自我は偽り、、、、この話を聞いている、読み込んでいるのは誰でしょうか??????私ではありませんよ、自我ではないんです、エゴでもないんです、、、大いなる存在です、、、全部大いなる存在が聞いている、読み込んでいるんです。頭に入らないと思っていますが、、違います、、読み込み拒否をしているんです。この内容を内容通りに読みこんでしまったら、、エゴシステムが消えてしまうんです。自我システムが上手く機能しなくなってしまうんです。だから拒否します。

「私」は年度末で終了です

この会員証は年度末まで、、この免許証は年度末まで、、この「私」は年度末までしか使えません。。。焦りますよね、困りますよね、、、、待ってよ!!!この感情が大いなる存在から湧き上がるのです。「この体この思考この感情が自分」という思考感覚が体に反応しちょっと待ってよ!!!!が起こるんです。だから読み込みエラーが続きます、悟り関係の書籍は読み込みエラーがしばらくは続くんです。

少しずつ大いなる存在の読み込みが始まる

ところが大いなる存在はビビリではありません、大いなる存在は臆病じゃないんです、、、ですから少しづつ確実に読み込みエラーが解けていきます、、、自我のシステムが徐々に緩み始め、氷解し、柔軟になるに従って、、真実の内容を大いなる存在が読み込んでいきます。救われるには、苦しみを終わらせるには、、、真実に戻る以外にないことは大いなる存在が一番分かっているのです。

悟ると経済的な成功者にもなれるのか???

分からない

先のことがどうなるか????こういう条件が揃うとどうなるか????これらは全部無知から来た質問です。全ての現象は「異次元の何か」から起こるのでそれをコントロールできる自分というのは存在しません、コントロールできると思っていた自分が実は居なかったという気づきが悟りです。ですからこの見かけ上の世界でのこの体が大きなお金を取得するかどうかは全く分からないのです。

ただし

先ず第一に悟るとは「異次元の何か」からこの現象が起こりその中にこの体が起こりただこの体を通じて体験が起こることに気づくことです。この時自我ありきの感情である「苦しみ」が起きないのでそれだけで真の安らぎを得ることができます。その安らぎの中でも勿論この体の活動は続きますから世間的には失敗成功が続くわけです。ですがこれが真の安らぎの中で起きるというのは重要なところです。その時にビジネスに集中するが起こるかもしれないし全く仕事に関心が向かないかもしれない、、、ということです。

真の安らぎの中で

小学生が遊びで株をやっていたら面白くて大金持ちになってしまった、、、こういうケースは稀にあるわけです。楽しんでやっていただけなのにお金まで得てしまった、、、これは十分にありえるでしょう。ですが悟りが開いた後に、、無料での講演会が楽しくて仕方がないというのもあり得ます。そうなれば真の安らぎの中で世間的には貧しい生活をすることになります。

重要なこと

収入を得ること、地位を得ること、リア充の結婚をすること、、、この先に求めることは真の安らぎなんです。これは絶対に間違いないんです。毎日ハラハラドキドキしたい、、は嘘なんですね!!!なぜならばそれは疲れるんですよ。毎日高級シャンパン飲み倒していても翌朝疲れますから。。その先には間違いなく真の安らぎを求めているんです。それを最初から叶えちゃうのが悟りです。その後にやりたいことはクラスメイト全員違うのです。

許すとは見抜くこと

子供同士の喧嘩

子供同士がお菓子の取りあいで喧嘩をしたりします。自分のお菓子だ、相手のお菓子だ、、お菓子の所有権で争うわけです。大人はそれを見てお菓子ごときで競い合って可愛いねーとなります。大人にとってはお菓子が些細なものであると見抜いているのです。ところが大人も金銭トラブルでは争うのです。10万円という金額で争いますね。これを高い視点で見れるようになると10万円という金額で争うということがなくなります、先ず解決できないようでしたら警察、弁護士に相談して法廷で争えばいいとなります。このように相手に対して許せない、、という感情がでるのは見抜けていないからです。

大人同士が争う時

大人同士の争いはエゴが絡みます。先ず自我というものを形成すると「苦しい」が常にあります、ストレスを常に抱えている状態です。この状態でミスを犯しますと、、、そのミスに腹を立てるという状況になるのです。大人は基本「苦しい」に侵されていますから、、それを前提に争いが起きるのです。そのことを理解しますと実は相手には非はなくとも争いは常に起こり得ることが分かるのです。

争いの原因が自我

争いの原因が自我であると、そして自我は実は存在しないと。つまり人間は全く存在していない存在を存在していると思いこみそしてそのことで苦しみを抱えトラブルを起こしているのです。相手の行動は実はきっかけでしかなく本質的には偽りの自分が作り出した毒を食らっているだけなのです。これが分かってきますと人を恨むのは無駄であり何の解決にもならないことから許せるということになります。