悟り(非二元)解説

神の顔

誰も知らない

我々には確かに目、鼻、口、耳、、があるんです、、、触っていけば、、それらしきものがありますよね????この手でこの顔を触っていけば目、耳、鼻、口があります。ただしそれは鏡に映ったそれじゃないんです。鏡にはあくまでも神のミニチュア模型が描かれます。ですが実際にはそれは、、模型を完全に超越した存在んです。この目、耳、鼻、口は、、、科学が証明した機能を遥かに超えた存在です。

模型の機能ばかりを調べた

そうです、我々はこの模型を、、視界に存在するこの模型の機能を調べ尽くしてきたんです。その結果脳科学が生まれ全五感は脳に帰着すると学びました。あーそーなんだ!!!!この体は結局は脳で完結するのだ!!!!と学んだんです。ですが残念!!!!!!!!それって客観的事実を証明しただけです、、、主観的事実は全く全くノータッチです。

ダブルスタンダード

主観的事実では我々は完全に神です、、、今ここ、この視界が神の鏡の姿であり、、この現象は神が直接認識します。ですからこの体は、、、私たちが知っている体では全くなく、、全現象を全現象のままに認識するものです。本当の目は、、現象を現象としてそのままに認識し、、耳は、、全音をありままに認識し、、、鼻も口も同じです。

つまり

つまり我々はこの現象をありのままに認識しながらも、、、鏡にはこの肉体を持って二元で認識する存在として写されます。本当は一元、非二元に現象をそのままに認識しておきながら、、、鏡に映った幻想としては、、二元的に認識を行うという矛盾を抱えた存在なのです。

時間も空間もない

これは神の鏡

これって神の鏡です、、ひたすらに神の映像が写っています。ただそれだけ、、だから時間はあるわけがないし、、空間もないのです、、、だって神の鏡に写った映像がただここにあるだけですから。どうしたら空間や時間が存在しえるのでしょうか。しかしながら鏡を目の前に持ってくれば、、何やら「人間」らしき映像が映り、しかもこちらの動きに反応する動きをするではないか!!!!そこで我々はこの鏡に移った人間こそが自分だと信じたんです、、このミニチュア模型を自分と信じたんです。神のミニチュア模型を自分と信じることをしたんです。

本当はこの目の前の視界

本当はこの目の前の視界こそが我々の鏡に映った姿です、、、体はミニチュア模型です。目の前の景色全部が鏡に映った姿でさらにその中にミニチュア模型も写ったり映らなかったりします。周囲からはミニチュア模型だけが認識されその模型に周囲は話しかけますから益々このミニチュア模型を自分と信じる動きが起こるのです。

勝手に自己評価を下げ

我々は勝手に自己評価を極限まで下げ、、自身をミニチュア模型であると信じ込み、、よってとんでもない自己卑下を行っているのが真実です。ですが真実ではいつだって神は神以外にはなれずそのためこの勘違いによって日々違和感を感じているのです。この違和感こそが「苦しみ」と言われる根拠です。

混乱

いつから

我々は神です、、人間には実はなったことがないんです、、常に神活動をしています。神が神として活動を日々続けています。この視界で起こることは全部神活動です。全クリエイションは今ここでそのままに起こります、、これをやっていない神はいないんです。

ところが

周回から見ればこれは人間活動なんです、、そう見えるんです、、真実とは全く異なった絵面に写るんです、、、ただこの人間という動物が動きているように見えます。そして我々はその絵面を信じました、、絵面こそ真実であると信じたんです。よってこの人間の中には自我が芽生えたんです、当然です。

学校に行けば

学校に通えば通うほどに、、、私は神ではなく人間として扱われます、そして自分でもそう扱います。学校とはそういう機関です。人間である自分の完成です。この神活動は所詮は人間活動であり、、であるならばこの人間の中には私が居る、、、となります。ですが神が人間になることは不可能です、、よって私は人間であるという信念体系が構築されます。この信念体系が、、、エゴ、自我システムです。

神と人間

我々

我々は周囲から見たら100%人間なんです、、ところが主観で見ると完全に神です。客観的に見れば100%人間です。ですが主観的に見れば神です。ダブルスタンダードです。二つともに真実です。神であり人間なんです。友人が食事をする姿は100%人間です、体という物質が食事という物質を食べています。それは真実です、そう見えるのは100%真実です。ですが同時に主観で見ると、、神の目で神の口で神の耳で神の鼻で食事という幻想を経験しています。肉眼を用いず、肉耳を用いず、肉鼻を用いず、肉口を用いずに食事という経験を積むんです。

全員が神

人類80億人は全員が神です、、神ですから、、この肉体などを用いずに、、全経験を積みます。と同時に周囲からは人間です、、100%人間に写ります。神が神の行為をしている姿は、、、周囲からは人間活動に写ります。。真実は神の神活動しか起こりえないのですが、、その活動が幻想上は、、人間活動に写るんです。全人類は周囲に映る姿を真実と勘違いしたんです。だから自我とかエゴとかが起こるのは当たり前なんです。

守ろうとする動き

人間がこの体を守ろうとするのは当たり前なです。なぜならば、、この神活動が、、人間活動だと信じているからです。こんな小さな小さな人間活動しか起こっていないと信じ切っています。大変です、大災難です、弱小です、、、、本当はこの視界で神が神をやっているしそれしかやっていません。ですが、、人間活動だと信じています。だから守ろう、守ろうという動きが起こるんです。

災難

神活動しかしたことがないんです、、神活動しかできないんです、、、ですが周囲からは人間活動に見えるがためにその事実を真実とする動きが起こったんです。これがエゴ、自我です。神のとんでもない活動が、、ただの人間活動だと誤認識され、、その人間活動の主人が自我とされました。悲劇のヒロインです、悲劇の主人公です。にも関わらず自我否定、エゴ否定をしても意味がないんです。

神の目

我々の本質

周囲からは我々はマリオに見えます、周囲からは我々は一人間なんです。ですがそれは幻想です、幻です、マジックです。本当は本当は、、我々はマリオではないんです。。だから今目の前に映る視界は、、マリオの目では見ていないんです。今神の目で視界を見ています。映る全てを、、、そのままに見ているのです。例の肉眼ではなく、、神の目で見るんです。つまり映る景色をそのままに見ているのです。景色を景色のままに見ています。

神の耳

神の耳は、、鼓膜を使ったあれではなく、、、音を音のままに感じます、、音を、、その場所で、、そのままに感じます。これが神の耳です。神の鼻は、、、香りを香りのままに感じます。神の舌は味を味のままに感じるのです。食べ物を舌から脳に伝えて、、などはしていません。そのままに感じます、認識します。マリオの五感からの脳細胞というプロセスを使わずに、、、そのままに認識します。これが神の認識です。

周囲からは

今我々は現象を現象のままに感じていますが、、、これを周囲から確認すると全く異なった結果になります。人間は五感を使い脳細胞に伝達し、、が始まるんです。ですがこれは周囲から見た実験結果です。本当は神が現象を現象のままに感じます。これを周囲の科学者が観察すれば、、、目、耳、舌、鼻、肌からの脳細胞での人気であるという結果がでます。ダブルスタンダードです。どちらかが嘘ということではなく結果が全く異なるのです。

周囲からの

我々は周囲からの実験結果を信じました。だからこの体は五感を使って外部環境を認識するという味気のない、、実験結果の信者になったんです。自我とはこの実験結果に基づく主人公です。ですがこれは周囲から見たマリオのことであって、、本当は神が現象を現象のままに認識するという真実があります。

旅行の前日

体調不良

旅行の前日に限って、、、体調不良、、楽しいパーティーの次の日、、体調不良、、、全部ペインボディです。不幸依存症です。みんなが楽しい飲み会、、嫌い、、、みんなが楽しいコンサート、かったるい、、、全部全部ペインボディです。不幸依存症です。自分の中にどのぐらい不幸依存症が居ますか?????この不幸依存症体に気づいてください。

気づかせない

ペインボディが活性化している人の特徴、、、私が今調子が悪いのは、、花粉、季節の変わり目、食生活、残業、生理、、、、たくさんの理由を常に常に用意しているんです。半端なく大量の要因をストックし、、それを話すのが日常生活と化しています。これです、これがペインボディです。ペインボディが少ない人は、、体調不良の話すらしません、、どこかでそこに気づいていて、、そこに関心を寄せないのです。

ペインボディ

体調が悪いということを実はエゴがどこかで喜んでいます。体調が悪いと言えば、、周囲は少し優しくしてくれます。体調が悪ければ、、休憩ができます。。実は実は体調不良は意図的なんです。だからペインボディを手放さない、エゴ、ペインボディ同盟は最強なんです。

見抜く

私はペインボディに乗っ取られた人生が嫌いです、だからペインボディを減らすことばかりをします。マッサージ、ヨガ、ストレッチ、水泳、悟り本、、、興味を常に真理に置くことで、エゴ、ペインボディに餌を与えないようにします。そしてエゴ、ペインボディの動きを楽しむのです、観察の対象にします。するとエゴ、ペインボディの活性化すらも、、本当の自分に位置するための道具になります。

勘違いを維持しようとする動き

ペインボディ

多くの方の人生は実はエゴとの戦いの前、、エゴを維持しようとする動き、、、これとの戦いで始まり終わります。それがペインボディです。普通に考えたらこれはやらない方が良い、、でもやってしまう。普通に考えたらこれはやった方が良い、でもできない。。。この動き、、これが不幸依存症ペインボディです。どうしてもその動きを見切れず、解放できず、消滅できずに終わるんです。

なんか疲れる

なんか疲れる、なんか元気がない、なんか覇気がない、、これペインボディです。人の人生を超低速モードで安定させる動き、、、こんなもん、生きていれればいい、目立たなければいい、人に迷惑さえかけなければいい、、という俗にいうネガティブモードです。ここで安定させようとする動きがペインボディです。

経絡

東洋医学ではこれを経絡で表現し、、経絡に気の滞りが生じる時に、、こうなると現しました。その証拠に経絡はそこに対する感情が存在します。ただしまさかこの感情エネルギー体が、、エゴを維持する動きになっているとまでは気づきませんでした。ただ悪いことだから解消しようで終わっています。

不幸を維持しようとする存在を知る

人生を上手くいかせるための100メソッド、年収1000万円を超える100メソッド、、このような安易なメソッドに頼るよりも、、、ペインボディを小さくする方法、、これが最強です。ペインボディはネガティブな感情、思考が好きなんです。。だからこれらを生み出す映画、TV、漫画に触れない、、エンタメに触れない、情報に触れない、、、。。友人の愚痴に参加しない。。ストレッチで経絡を意識する、太陽の光を浴びる、塩風呂に入る、、などなどです。

幸福になろうとするよりも

幸福になろうとするよりも、、ペインボディを積極的に消すのです。ペインボディを消すことを優先します。幸福になろうとする動きは所詮「エゴ」ですからこれも全く報われません。ならば不幸依存症の程度を軽減する方が早いのです。

奇跡

全員が体を主人と決めている

これはもう奇跡です。人類のほぼ全員がこの体を主人だと信じて生きています。この体の中に自分が居ると信じていきているんです。ですが、、、居ません、、、実は違います、、、この視界これが私です。この体ではなく、、この体を含む視界が私なんです。こんなオチありますか????こんな罠あるでしょうか?????なぜこんな勘違いを全員がしているのか?????不思議です、奇妙です。。。ありえないのです。

今日から俺は

今日からはもうこの体を主人と決めるのをやめます。全人類がこの体を主人と決めていようが関係ないのです。私はもうこの体を主人とはしません、、この体を含むこの視界が私です。そして我々の体には目、耳、鼻、口はあのビジュアルとしては存在していないのです。私たちがよく知っているあのビジュアルとしてのそれらは実は存在しません。つまり機能としての五感は物質的な存在からは起こっていないのです。

よく知っている

よく知っているこれらの器官は実は存在していなくて、、、音、光、香、味、触は直接実は感知されます。空間から直接感知、認知されています。つまり我々は、、、、それをしてるはずの自分ではないんです。この体を通じての感知、認知ではなく、、、直接そのままに認識されているのです。だからもうこの体を過度に意識しなくていいのです。

悟り

この体

悟りとは一言、、、この体が自分だと思っていた思考が消え去り、、、この視界そのものが自身であるという認識のシフトです。この体はこの視界に現れ出る客人みたいなものであり、、、勿論これは運命共同体ではありますが、、、これは真実の一部でしかありません。真実はこの視界全てが自分です。この体はその一部でしかなく、、輝く太陽の光、植物、水、全部が私です。

過小評価

我々人類はただ単純にこの存在を過小評価してきたのです。この見える体を「自分」と認識し、それ以外を環境と消して生きてきたんです。ですが実際には、、この体を含む全部が私なんです。見える景色の全てが私です。逆に言えば、、見えない世界は私ではない、、となります。

辞めよう

過小評価をやめましょう、、我々はこの幻想としての体ではなく、、この体を認識する存在です、、そしてこの体以外、、花、カップ、光、音、香、、、この全てに気づく存在です。もうこの体だけを自分と認識するイジメを止めるんです。全部です、現れ出る現象の全てが自分なんです。だからここから神に戻ります、、体を含む全現象が私であり、、それを認識するのも私、、そしてその認識を作り出す「空」が本当の私です。

視界

まさか

まさか自分自身とはこの視界だったとは、、、、、アベシ、ヒデブーの世界です。この体が自分だと信じて我々は今まで頑張ってきたんです。しっかりとこの体を自分と信じてやってきました。人類の99.99999999999%の人々はそう信じて頑張ってきたんです。ですが違うんです、、半端なく違うんです、、仁義なく違うんです。この視界が我々の本質です、見える世界です、、、見える世界であり、、その見える世界を認識する存在であり、、、その認識を起こす存在こそが我々の本質です。

どうする????

この体ではなく、、この視界が自分自身であるという認識に落ち着いたとして、、、これから私はどうしたらいいんですか??????どうしようもないんです、、この画像が自分自身であるという認識は、、、私は神であるという認識です。私は神であるという揺るぎない認識が起こった後に、、、この体を評価して欲しい、この体を目立たせたい、この体を認識して欲しい、、この体を、、、、、が起きない。

神とは認識の変化です、、、この体が自分という認識先ずは起こり、、それ前提で思考感情が起こる、、この体思考感情を「私」とする時代があります。どっぷり人間世界です。その後に魂が自分だという認識時代が訪れます。体思考感情を超える魂の存在が「私」時代です。その次に、、この「視界」こそが自分であるという時代です。見える世界全てが自分自身であり、、それを認識する存在も自分であり、、その認識を起こす存在こそが真の自分です。