悟り(非二元)解説

空には時間はない、だから色にも時間はない

現象の大元

これは空の影です、、空にもしも時間がないのならば影にも当然時間は存在しません。そして空には実際には時間はありません。空に時間があるとしたら空は時間の中で進む何かになりますが空は最初から完璧であり不動ですから空には時間は存在しないのです。すると影である色にも当然時間は存在しないのです。時間がない空の影に時間が存在したらおかしいわけです。

ですが

なぜ我々は実際に時間を感じることができるのでしょうか????それは空の影であるこの現象界に記憶が現れそのによって時間という思考が生まれたのです。「時間が進んだ」この思考が現れた瞬間だけ「時間が進んだ」というイメージの認識が生まれるのです。記憶が現れでなければ時間という概念が絶対に絶対に生まれないのです。記憶という現象が生まれなければ生まれない「時間」は現れでないのです。時間とは夢の中にだけ存在します。

お金がない、苦しい

「お金がないことと、、苦しいは全然関係がないんです」見かけ上のこの私がこう言えば「何を言ってんだ!!!!今日の食費、ガス代、家賃が払えないで苦しくないとはふざけんな!!!!」という反応が起こります。答えを言いましょう。。その「思考反応」が苦しみを起こします。「食費、ガス代、家賃が払えないのは事実」です。ですが「私が食費、ガス代、家賃を払えない」というのは思考です。なぜか?????「私」は思考が作り出した産物だからです。この思考で苦しむのです。

その証拠に

「隣人の家でお金が盗まれた!!!!」この強烈な事実でも「あなたは夜ぐっすり寝れます」当たり前だろ!!!!!人の家と自分の家では事情が違うのだ。。。。。まあそうなんです、「人間業界のこれが常識」です。人間業界のそれが常識であろうと「私の」という思考をくっつけることで全部が苦しくなるのが「事実」です。

「私の」を取ればいい???????

間違いなく私の家賃、私のガス代金、私の食費、、、でしょう。そうでなければこの人間業界では生きていけませんから。ですのでそこを無理くり頭で考えて「私の」を取っ払うなんて作戦は無意味です。不可能です。そうではなく『「私の家賃、ガス代、食費」というのは思考の中にしか存在しない』ことに気づいてください。「私というのは思考が生み出した存在でしかない」ここに気づくと、、、「苦しむことが不可能」になるのです。

多くの方

多くの方が苦しむことができるのは「私は思考の産物だと思っていない」からです。だから苦しむことができているのです。つまり「私は思考の産物」と気づいた瞬間苦しむことができなくなるのです。目の前に一匹の犬がいるとしましょう、、、彼に苦しみを与えるにはどうしたらいいか??????犬が理解できる翻訳機を発明し「あなたはその体の中に実際に居る」と洗脳しない限り苦しませることは不可能なのです。つまり嘘を信じ込ませない限り苦しませれないのです。

分離の解放

最初からないことに気づく

最初から分離などないのです、最初から個人などないのです、、、最初から、、、、、ないにも関わらず「ある」という思考がしっかりと記憶されたことによってひたすらに「個人がある」という思考だけが自動的に湧いていたのです。本当はないのですからこれはギャグです。本当はない中で「個人がある」という思考だけが起こる続け、、いつか個人は悟りたいが起こり続け、、、どこに行けば解放が起こるのだろうか????が起こり続けますた。いつ目覚めれるのか????が起こりますが、、、最初から最後まで個人は存在しません。

だから

解放、目覚め、悟りとは、、、個人が実は概念、思考でしかなく、、、よって最初から解放されていたということに気づくことです。「個人の悟り」とは当然概念でしかなく、、よって個人が概念の中で生まれ概念の中で悟るのです。ですが悟った個人が概念の中で存在するのならばそれはまだ夢の中です。解放とは「個人が生き抜く世界」が思考が作り出した夢に過ぎないことに気づくことです。

それでも

私物語が完全な概念、思考に過ぎないことに気づいても、、、、その概念思考がまた湧くことは十分にありえます。ですが仮に湧いてもそれに気づいていれば、、、「私物語」に夢中になることはないでしょう。夢と気づいて夢に夢中になれますか?????なれませんね。もしもまだ夢物語、私物語に夢中になっちゃうならば、、それは夢だと気づいていないのです。だから夢中(夢の中)なのです。

個人的経験

ない

この世界には個人は存在しません、よって個人的経験も個人的見解も存在しません。あるのはただ存在だけです。あらゆるものが何でもないものから現れでて認識だけが起こるのです。だから個人的経験というのは現れるのではなくそのような思考概念だけが現れては消えていきます。五感だけが直接現れては消え、それ以外は思考、感情として現れて消えていきます。ですが個人的経験というのは思考として現れては消えるモノです。

経験は??????

「誰かの経験」というのは思考です、、ですから思考として現れては消えていきます。経験=五感とするならば、、経験は直接現れては消えていきます。見える、聞こえる、、感じる、、、誰かは存在しませんが、、、それは現れては消えていくのです。そしてこのことは突然理解が起こります。。。本当に経験はあっても経験者はいないんだ、、、という理解です。経験者が現れるのは「思考」の中だけです。

どんな思考の渦に巻き込まれても

大丈夫

思考がグルグル回ります、、勝手に回ります、、過去のこと、、将来のこと、、、今の問題????何でも起こるでしょう。すると思考はそのままに認識されます。。イメージされます。そこには「私」「誰か」そして関係性、、加害者被害者?????なんでもあります。それ全部思考が起こすイメージ、私物語というイメージが上映されるのです。

私物語

注意深く注意深く観察すれば、、、思考が起こる時以外に「私物語」は上映されません。思考が起こった時のみ「私物語」は上映されます。つまり私物語は「思考」です。思考の中身です、以上。これらの思考は、、、起こる現象、見える、聞こえる、香る、味わえる、、などにくっ付いてきた「モノ」に過ぎないのです。だから真実に立ち戻れば、、「私物語」の中では何も起こっていないのです。「私物語」=思考が起こった時だけ上映されるモノです。

五感

真実ではこの五感だけが起こり続けます。朝起きて寝るまでひたすらに五感だけが起こるのです。そこに思考感情も重ねて起こります。思考、感情だけが起こるのではなく、、「五感」に思考感情が重ねて起こるのです。思考感情とは「五感」にくっついてきたオマケみたいなものです。オマケだから価値がないとか価値があるとかの話ではありません。ただそうなっているという事実の話です。

これって何ですか?????

これだけが現れる

これだけです、、、、これだけが現れは消えていきます。これを伝えれば、、、「これって何でできているんですか???????」という質問が起こります。ここ最重要、、、これはこれです。これ以上でもなくこれ以下でもない、、これを「作り出す要素」、、、そんなものはないのです、、「これ」は今「これ」としてなんでもないものから現れでたのですから、、、、これが何でできている??????という質問は起こらなくていいのです。「これ」とはなんでもないものから現れた、以上です。

グラス

見かけ上の私が「このグラスコップ」を持って今これが現れました。。。と説明すれば「グラスコップ」は何でできているのですか?????という質問が起こります。ではグラスコップを落とせば粉々になりガラスの破片が飛び散るでしょう。「グラスコップはガラスで出来ている」これ人間業界の常識です。違うんです。今現れた「これ」とはこのグラスコップを持ったこの見かけ上の私を含む「画像」のようなものです。この画像のようなものが現れでたのです。

グラスを割れば

グラスが砕け散った画像のようなものが、、そこに現れ出るのです。変化する「これ」だけが起こり続けます。そして今「変化」という言葉を使いましたが、、、異なった「これ」が起こるから結果的に「変化」という概念が生まれたのです。変化も概念、言葉です、、「変化」は起こりません。「変化」という概念、思考は起こります。だから「時間」も起こりません、、、「時間」も言葉概念に過ぎません。「時間」という言葉概念は現れては消えていきます。

死んだ方がマシ????

その思考が現れる

「人生なんて何にも良いことないし死んだ方がマシです」その思考がなんでもないとこからただ現れました。なんのために生まれてきたんでしょうか???その思考がただ今現れでたんです。私なんて思考の中の「わたし」としてしか現れていませんよ。じゃあ「わたし」は居なんですか?????「わたし」は思考として現れては消えていきます。私の人生に私は登場しないんですか?????「わたし」という言葉、思考が現れた時だけそこで認識されます、、そして消えます。

消えている時は居ない?????

居なくなるも居るも、、、、「わたし」という言葉、思考がなんでもないところから現れ出た時「認識」だけが起こるんです。この体という現れも、、、現れて認識されて消えていきます。じゃあ生きるも死ぬも「私」はそもそも居ないんですか??????思考として言葉として現れ出る「わたし」は死ぬも生きるも、、そことは全く関係ないということです。

意味づけ

「この私はこの体の所有者で思考感情行動をコントロールする存在である」これは事実ではないんですか??????その思考が現れ認識された、、それだけが事実です。この世界の現れに「意味」なんてものはないのです。。。ただ現れそして認識されます。「この私はこの体の所有者でもなく、思考感情行動をコントロールしない存在である」この思考が現れればそのままに認識され消えていきます。思考とはそういうものです、だからわたしもあなたも彼も彼女も「思考」として現れて消えていきます。

何をしにここに来たんですか????

ブログ

悟りに興味があってこのブログに辿り着きました。一体全体私はどういう流れでここに今居るんでしょうか?????ただそれが起こったのです、ただ「悟りを開きたい」という衝動がなんでもないところから現れ、、検索するという動きが現れ、、ここに辿り着くという現れが起こったのです。そして今「私はなぜ????」という思考が現れでたのです。「では今この話を聞いているのは誰ですか?????」まさにその認識だけが起こったのです、現れとして。そしてそこから「では今この話を聞いているのは誰ですか?????」という思考が現れ出ました、なんでもないところから。

私なんてものはでてこない

注意深く注意深く観察すれば、、、私なんてものはどこにも出てこないのです。思考としてはなんでも現れます、わたし、あなた、彼、彼女、、、ですがそれは全部思考です。そして現れては認識されます。明晰に明晰に観察すれば、、、「認識」に主語はありません。音の認識に「主語」が存在しなことは明白です。「冷蔵庫のブーンとする音」これを認識する時「私」なんてものは現れましたか??????

シンプル過ぎる

公園を歩きます、、、地面を感じる、花を感じる、花の香りを感じる、、、川のせせらぎの音を感じる、、、どこに「私」は出てきたでしょうか?????ただ何でもないところから何でもあるものが現れたはずです。今このPCでタイピングをする時、、私なんてものは全くどこにも現れませんよ。ただこのタッチする感覚が現れ、打ち込む思考が現れ、、画像に気づきが現れています。全てこうなっています。

何でもないもの

何でもあるもの

ここは何でもないものから何でもあるものが生み出されます。見かけ上のこの私が東京からアフリカに旅たてば、、とんでもないほどの景色が広がっていきます、ここに現れる何かは急変していきます。この体の周囲は変化し続けます。これが何でもないものから何でもあるものが生み出されていることです。見かけ上のこの私は生まれてから死ぬまで、ただここに何でもないものから何でもあるものが現れるのを認識するのです。そしてこの体、この私もまさにその現れる一つです。

私は長生きしたい

私は長生きがしたいんです、、、この思考、この私物語がまさにあらゆるものの一つとして現れでて認識されます。「長生きしたい私」とはまさに思考としての現れです。そして現れたものは100%認識されます。「私の人生は辛いことばかりだから、、60歳ぐらいで死んじゃいたい」この思考が何でもないところから現れ認識されます。これは思考です。私物語が今現れ出たのです。

「なんでもないもの」は「なんでもないもの」を認識するのか?

なんでもないものから何でもあるものが現れでて、、ただそれが認識されます。それだけです、、、それ以上のことは起こりません。ただしあらゆる気づきの中で「なんでもないものから何でもあるものが現れているんだ」という気づきも起こります。ではそのことに気づいたのは誰だ??????ただ気づきだけがおこるのです。気づきという現れが何でもないものから現れます。

相乗効果

体から入る

体にはネガティブな感情が蓄積されます。エックハルトトールはこれをペインボディと表現しますが、、このネガティブエネルギーはエゴの維持に働きます。ネガティブエネルギーを通じてエゴを保持しようとするわけです。不幸な「私」恵まれていない「私」悲しい「私」憂鬱な「私」怒っている「私」などなどです。体には全感情が溜まっていますからこの感情を消去することでエゴ解放をしやすくします。

ネガティブな感情がエゴをホールドする

イメージとしてはこうです、ネガティブエネルギーがエゴをホールドしています、牛耳っています。人間ドラマ、私物語にネガティブエネルギーを通じて入り込みます。「あの被害を受けた私」に入り込むのに「怒り」のエネルギーが利用されます。つまりネガティブエネルギーが初動になって私物語が起こり、、私物語が起こることで「ネガティブエネルギー」が発生するという相互依存システムなのです。だから人は本能的に運動をすることがそれを緩和することを分かっているのです。

ペインボディとエゴ

悟りを開く上でエゴとペインボディの関係を見抜くことは重要です。私物語の主人公「私」「エゴ」「自我」はその物語を保持しようとする動きを強化するために「負の感情」を利用するのです。不幸こそが「自我」を強固にします。だからネガティブなストックされた感情を直接マッサージ、ヨガ、ストレッチなどで緩和することで自我が緩むことを感じるのです。私物語の屋台骨が体にストックされた「ネガティブエネルギー」です。