言葉

土砂降りの雨

ツイてない私

外は土砂降りの雨、、、ツイてない私、、、、もうこれはストーリーです、、、私も雨も、、、、人間が作り出した言葉、、これはイメージです、、このイメージの世界に直ぐに入り込もうとする動きが慣性の法則で働きます、、、この慣性の働きを止めなくてはならない、、、本当はただ起こっただけ、、何かが、、、そこに「私」という巻き込まれた存在は居ない、、それはイメージです、、

ツイテル私

パチンコで5万円稼いだ、、、ツイテル私、、、、もうストーリーです、、、パチンコも、五万円も、私も言葉が作り出したイメージです、、、このイメージ、ストーリーを経験することで、、「嬉しい」が湧く、、、ストーリーの中で、、、、ですが嬉しいは一瞬現れ、、、直ぐに消える、、、この世界、このストーリーの世界の最も怖いところ、、、嬉しいは直ぐに消えるのです、、、だから焦る、、、もっと嬉しいを欲しい。。。ストーリーではこんなことが起きます。

「私」に興味がなくなる

ツイテいようと、ツイテいまいと、、、結局意味が無いのならば、、じゃあ明日から何をすればいいのか???この私は、、、、先ずはこの私はイメージ故に本当の幸福を継続することができないことを理解します、、一瞬の幸福、一瞬の歓喜、一瞬の安堵、一瞬の快楽、、、しか経験できない存在(イメージ)だと理解します、、あぜならばこの「私」はイメージ故に、、、ストーリー上の出来事に対し何も得ることができないのです、、、そこを理解するとイメージとしての「私」に興味がなくなります、、、そこを満たしても意味がない、、、コスパが悪い、、、

私への興味が減り、、真実をすることしか興味がなくなる

このイメージとしての「私」は継続した幸福を獲得できないのならば、、、もうこのイメージとしての「私」に関わる必要がない、、、関心を捨てていいのです、、関心を向けるべきは、、本当の幸福、持続可能な幸福です、、、、ここに関心の全てを向けます、、、、それが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。本当はこの現象の全てを引き起こす真我こそが自分です、、この夢を作り出し、私物語を作り出した張本人が自分です。

宝の場所はどこだ?

見ている世界全て

我々は一生懸命、、お金、地位、安定、信頼、友情、、、、あらゆるものをこの世界のこの体の外に求めます、、、凄い人と思われたい、、人格者と思われたい、、、信頼できる人と思われたい、、外に外に何かを求めます、、、ですが本当はその外そのものが我々です。。。この体だけでなく全部が全部我々なのです、、、最初から自分だったのです、、、、、最初から自分だったものをワザワザ分離独立して見えるように作りこみ、、、この体だけが自分だという勘違いを起こし、、、周囲からの評価に飢えるのです。

宝しかない

この世界は宝でできています、、、宝が姿を変え独立分離したように見えているだけ、、、その宝こそが自分自身であって、、この体はその極一部、、、、そうなりますと、、、、この体に対して失礼ブッコク輩が現れてもそれも自分です、、姿を変えた宝です、、、何が起きようとも、、それは宝が姿を変えたものです。。。失礼極まりない人間が目の前に現れてもその人間の行動の全ては宝の表現の一部です。ここを見抜きます、、すると何の感情も湧いてこない、、

失礼な宝とは会わないだけ

もしも失礼な人間(宝)が現れたら、、次はもう会わなければいいのです、、、そしてそれでも会いに来るようならば警察(宝の表現)に通報すれば終わり、、、宝のたから活動に感情を沸かす必要がないのです、、、するとどうなるか、、、この世が天国になります、、、静寂になります、、プレッシャーが抜けます、、、、この体から湧いてくる行動、言葉、思考も全て宝の表現です、、変な感情(宝の表現)が湧いてきても無視すればいい、、、そのぐらいで宝は何も失わない、、、

このゲームを現実と信じるとよりリアリティー感が増す

普通のマリオカートが、、、

最初は普通のマリオカートでした、、、しかし、、、これをゲームではなく現実だと信じるようになりますと、、まさかこのマリオカートがガンガングレードアップして、、、詳細な雨の感じ、エンジン音、落雷、タイヤの滑り、、全ては超現実的な作りに変わっていきます、、もうゲームなのか現実なのか区別が付かない、、、、このような変化が起きます、、、「これが我々がこのたった一つのエネルギー上でやっていることです」

最初は「蝶々」「バッタ」「ママ」が居るだけだった、、、

幼少期を思い出してみてください、、こんなに深刻な世界ではなかったはずです、、もっともっとフワフワしていた世界、、軽い世界だったはずです、、、ところが言葉を覚え、、。名前を覚える度に、、このフワフワした世界にあらゆる登場人物、登場物が増えていき、、、なんかこの独立分離した存在こそが、、、本物だと信じるようになった、、、するとこの独立分離した風の登場人物達が全くフワフワではなく、、超現実的に見えるようになったのです、、つまり観念が書き変わっていったのです。たった一つのフワフワした世界から、、、独立分離こそが真実という世界に生まれ変わっていったのです、見かけ上。

「これって幻想ですよね」、、精神病に入る

そして最後には、、、これって幻想ですよね、、、などと言えば、、、精神病院に入れられてしまうぐらいになります、、、この世界を見かけ上の「私」の観念が作り出したのです。ですがこれって夢かも、、、という観念が定着していきますと、、、それを支える現実(夢)が起きますから、、そこの気づきが助長されていきます、、、一旦振り切れた、、、超独立分離世界が、、、まあまあ独立分離世界、、、夢かも世界、、夢だ世界、、、に変わっていきます。

幻想と見抜いて幻想を活用する

幻想と見抜くと観念が崩れ落ちる

我々はこのたった一つのエネルギーワンネス常に言葉を生み出し、、分離独立したように見える世界を築き上げました。これがこの夢の登場です、、、分離独立したものが最初にあってそれに名前をつけたのではありません。音を組み合わせた「名前」を覚えることでそれをイメージ化し、このたった一つのエネルギーの世界に、、分離したように見える「物体」を登場させたのです、、これはマジックです、イリュージョンです。この気づきが起きても、、、目の前に鳥は現れます、、、このマジックを見抜いたところでこのマジックは目の前で登場します、、、ですが今までとは全く違うこと、、それはこれがマジックだと知っているということです。

「私」の「物語」というマジック

私の物語は完全にマジックです、、言葉が作り出したイメージ、イリュージョン、幻想です。そこに気づいてしましますと、、真剣にこのマジックに付き合う気はもうなくなります、、、マジックで起きたことに汗を垂らす、、、ないです。ラスベガスで見たマジックを見てその後1週間寝込んだ、、、、聞いたことがありません。つまりマジックと見抜けば、、、もう深刻になれないのです。

マジックを楽しむ

マジックは楽しむものです、、つまり我々は今後この人生というマジックを楽しんで生きていくことができるのです、、マジックと見抜いてマジックを楽しんで生きていきます、、、このマジックの世界は化学反応(縁起)の世界ですから、、何かアクションを起こせばストーリー上、マジック上、、何か反応が起きます、、この反応を楽しんで生きていく、、、

「私」という絶対的現実存在というマジック

「私」という絶対的超現実存在、、これがマジックだったという気づきはこれまでの観念、価値観を根底から崩してくれます、、このビルの崩壊が起きますと、、、急激にこの人生(マジック)は楽になります、、重さが取れます、、、人生こうあるべきが壊れます、、暑苦しさが消え落ちます、、、深刻さが壊れます、、、

真我の勘違いを前提にした自動反応=自我

自我という言葉の功罪

自我という言葉をハッキリと理解する、、これはもう悟りの全てです、、、ここが理解できてしまえば、、もう人生は苦しむことができません、、、ですがこの自我、覚者によって説明が曖昧ゆえに、、、混乱を究めます、、、、、そして自我に対応する言葉、、真我、無我があることで益々混乱が起こるわけです。。ここを整理したいと思います。。。

自我は実在はしない

自我という、、、物質はまず完璧に実在しません、、、この体の中に自我があって、、、自我は物質ではない、、、この体の中に「私」という存在が在ってこの私が言動の全てを行っているという勘違いが起き、、その勘違いを元にした全ての反応を自我と呼びます、、、要は人間の発言、行動はほぼ自我そのものです、、これを自我がやっている、、、という表現が出ることで、、、自我という、、実態がないものがまたここで生まれます。。ここが悟りを非常に難しくします。

つまり人間の動きは自我そのもの

あの人の自我が、、、というよりも、、勘違いを前提にしたその動きが自我です、、、悪口を言ったら、、、相手が怒り出した、、、、この動きが自我です、、、全ては真我、根源から言動が自動的に起こっている、、この理解が起きていない、、真我から起こる動き、、これが自我です、、、逆に言えば周囲の見かけ上の人間全ての動きが自我です、、、、自我が居て、、、この表現が混乱を招く気がします。

スマホが手放せない

苦しいが孤独

言葉が作り出したイメージの世界、ストーリーの世界に閉じ込められますと、、スマホが手放せなくなります、、なぜならば、、、孤独だからです、、分離感全開、孤独感全開になり、、スマホで友人からのLINEを待ち続けます、、、ですがストーリーの世界に閉じ込められたままでは苦しいは全く解消されない、、友人から連絡がきても苦しいままです。本当は苦しい、だけど孤独感を解消するためにLINEを待ちます。

私というイメージ

私というのはイメージですから、、意識しなければ、、存在しません。。意識することで私というイメージが現れ、、孤独感が湧いてきます、、、つまり私というイメージを意識しなければ、、、孤独感も湧いてこないということになります、、、ですが多くの方はこのことを知らないので、、、一日中私というイメージを意識し続け、、孤独感解消のために人にLINEに奔走します。

私というイメージを意識しない

私とはイメージであり、、意識しない限り存在しない、、このことに気づきますと、、、あえて私をイメージする必要がなくなります、、、完全な真我として一日中過ごすことができます、、、過ごすというのもイメージですね、、、真我としてそこに在ることができます、、、この状態が静寂、平和です、、

音が鳴った瞬間

音は音が起きた瞬間に、、存在が気づきます、、、ストーリー上は、、鳥が音を作り、、それを人間が鼓膜で広い脳で認識する、、になります、、、ですが真実はその場で音が起こり、その場で音に気づきます、、、存在が。人間が鳥の声を聞く、、これはイメージの世界の話です。。人間というイメージが、、鳥と声というイメージの音を聞くというイメージです、、、本当は独立した人間も独立した鳥も存在しません、、なぜならばこの世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

味が起きた瞬間

味が起きた瞬間、、、私が今ステーキを食べました、、、というストーリーが起きます、、本当は美味しいという味が起きただけです、、それしか起きていません、、、人間もイメージ、ステーキもイメージです、、、たった一つのエネルギーにイメージを当て込み、、そのストーリーをでっち上げたのです、、だから本当は味覚が起きただけ、、、イメージを削ぎ落としていきます、、イメージを削ぎ落とすと味が鮮明になっていきます。

風を感じた瞬間

風を感じた瞬間、、、、私が自転車を漕いで風邪を感じた、、、というストーリーが起きます、、本当はただ風が起きた、、です。。私もイメージ、自転車もイメージ、、私が漕ぐもイメージです、、この現象界に独立分離したものなど一切ありません、、言葉でイメージを作り、、そのイメージでこの現象界を切り抜きました、、結果としてこの私が自転車を漕ぎ風を感じる、、というストーリーが生まれたのです。本当は風を感じる感覚しか起きていません、、、経験以外実は何も起きていません、、経験以外はイメージがでっち上げたストーリーです、、

ここを見抜く

経験以外の全ては完全にイメージ、幻想、ストーリーです、、言葉で切り抜いたイメージをこの現象に当て込み、、イメージ同士が動くことで、、、経験のみが起きました、、、この動きでストーリーを信じるという動きが起き、、このストーリーに閉じ込められます。。ですが冷静に観察すると経験しか起きていません。悟りとはイメージをイメージと見抜き、、経験しか起きていないことに気づくことです。経験しか起きていない時見かけ上の私は何も経験に参加していないことに気づきます。経験だけがただ起き、、それに気づく気づきの意識があります。

時間の中では至福になれない

時間こそが苦しみを生み出す

明日幸せになろう、、来年こそが幸せになろう、、、この発想が既に不幸の中にいます、苦しみの中に居ます、、、時間軸の中で幸福になろうという試みが既に苦しみを生み出すのです、、、「じ・か・ん」という言葉はイメージです、、事実として時間が存在し、、その存在する対象に、、「時間」という名前を当てたのではありません、、時間という言葉を覚えることで時間というイメージを創造し、、、時間がこの世界に現れたのです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、時間はその人には全く存在していなかったのです、、

つまり、、時間はイメージ、幻想

時間という言葉を覚えることで見かけ上のその人に時間が誕生しました、、時間の中で私が生きるというイメージが誕生したのです、、、これが苦しみを生み出します、、、時間の中で私は至福に至る、、これは不可能なのです、、なぜならば至福は時間や私というイメージの外にあるから、、、時間の中の私が生きるは、、イメージであり、、イメージの中は苦しいのです、、、頑張って明日から死ぬまで至福でいよう、、これは不可能なのです、、、人類全員が。

時間も私もイメージ、幻想

時間も、この私も言葉が生み出したイメージ、幻想です、、、この言葉を覚えるまでは時間も私も存在しないのです、、無人島に生まれ住んでいる人は、、時間を感じたことがないのです、、、時間とは生物が誰しも感じることではなく、、時間という言葉を覚えた者だけが感じるイメージです、、真実ではないのです。これが腹落ちしますと、、時間、私というイメージから抜け出せ至福、静寂の世界に入れます。

私という概念が完全矛盾

私という言葉の意味

私という言葉の意味は、、、「この世界から独立分離したこの存在」という意味です、、ですがこの意味は完全に真実と矛盾しています、、、私の体という時、、、この世界から独立分離した存在の体という意味になります。。この「私」に含まれる意味、「自分」という言葉に含まれる意味が真実とかけ離れている、、ここが苦しみを生み出す原点です。

自分は、、、、

自分という意味、、自ら分かれる、、、世界かわ分かれた存在、、自ら。。。この言葉は真実はかけ離れています、、自分はこの現象界には絶対に存在しない、、、なぜならばこの世界はたっは一つのエネルギーの移り変わりしかないからです。たった一つのエネルギーの移り変わりの中に、、なぜ「自分」という意味の存在が存在しえるのか???存在できない、、、つまり自分、私は、、、、このたった一つのエネルギー上に現れたアイデアです。

「私は〇〇です」、、苦しみが湧く

私は〇〇○男です、、、この意味はこの世界の中で独立した存在である私は〇〇○男です、、、という意味になります、、、これが真実とかけ離れているので、、、苦しい、、、そうではなく見かけ上独立分離しているように見える存在、私は〇〇○男、、、が真実です。全ては全て独立分離した存在を見かけ上、、、であるいう深い気づきが苦しみを解消します。。。

努力には何の意味もないという気づき

努力は報われる

努力は報われる、、この言葉の意味は、、、努力の結果として、、成果を期待する、、、ということになります。。これは決して間違いではありません、、種を撒くから、植物が育つ、、、疑いようがない事実です。。ですが人間がこの言葉を使う時には、、、私が幸せになるために「努力してこういう結果を出そう」という意味が含まれます。。人間とは幸福を追い求める生き物だからです。。ですがこの最終目標幸福という観点からすれば努力は一切関係ない、、ということです。。。なぜならばこの体の中の「私」はこの世界では本当の幸福には至れないからです。

条件付き幸福

この「私」が得ることができる幸福は、、、条件付き幸福のみです、、、良い家、良い奥さん、良き子供、良き会社、、、全部は対象があっての幸福です、、これらは、、対象ゆえに得れる時もあれば離れてしまうこともある、、常に不安定な幸福なのです、、、それゆえ常に「私」は頑張らなくてはならない、、条件を揃え続けるために、、、これが苦しいのです。

条件付き幸福ではない

本当に欲しいのは条件付き幸福ではないはずです、、何もしなくても幸福、、これが欲しいに決まっています、、ではどうしたらこの幸福を手に入れることができるのか???簡単です「私」がイメージ、概念、幻想であることを見抜くことです。。。私などそもそも実態はなく、、生命現象の一部、、、この思考も行動も情も全部が全部生命現象の一部だったということを思い出すのです。。。主語が私から大我、真我に変わり、、、今までの私は言葉で作ったイメージであったことを思い出すのです。

それでも「私」の生活は続くが

それでも見かけ上の「私」の生活は続きます、、、ですがこれが見かけ上であることに気づく、、見かけ上「私」はやっていきますが、、全部が全部真我からの起こり、言動は全部真我からの起こりです。これが見かけ上の「私」にただ起こっているだけ、、、すると私の人生の不安、後悔は吹き飛びます。。この見かけ上の私の人生の不安、後悔が吹き飛んだ時に、、無我、真我としての自分が頻繁に現れ本当の至福を感じます。