言葉

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、

起きる現象は観念、湧く思考は自動

身も蓋もない話

これはもう本当にジョークです、、完全なジョーク、、、起きる現象はこの私が積んできた経験から生まれた観念が映し出し、、、それに反応する「私」の思考は、、、勝手に湧く、、、、何これ????意味がない、、、全く意味がない、、、、「私」など完全に無力、、、操り人形どころじゃない、、、鳥籠、、しかもその鳥の反応は勝手に起こる、、鳥には自由意志もない、、、鳥籠の様子はガンガン変わっていく、、鳥の観念が変わるたびに、、、まさに無間地獄、、、

見抜く!!!

見かけ上の私には確信がありました、、、この世界は絶対に存在しないと、、だから情報を集めまくった、、、集めていくと観念が変わっていく、、あれやっぱりないかも、、、あれやっぱりないかも、、が経験として起こる、、、なぜならば観念が書き換わっていくから、、、だからよりこの世界は絶対にない、、は確かになっていく、、、このサイクルに入ったら止まらない、、なぜならば毎日その感覚が増していくから、、、この感覚が観念を書き換えていく。

信じれば経験できる

「この世界は絶対に存在しない」この確信を得たら、、、もう何も考える必要はない、、他のことは後回し、、だって絶対にこの世界は存在しないのですから、、、あとは情報集め、、、その裏付け情報、、、覚者の言葉の数々、、、すると体験が起きる、、、分かってくる、、、あれ???本当かも、、、が起きる、、起き続ける、、、そのプロセスは完全に無限、、、無限こそがこの世界、、、そしてどこかで全部が繋がる、、、全部の整合性が取れる、、、、なるほど!!!の連発、、、

天使も悪魔も

本当に居ると思えば

天使も悪魔も妖怪も、、、本当に居ると確信すれば、、観念のレベルまでもっていけば、、、それが見えます、、この現象界でそれが姿を現します、、、、見えるということはそれが観念化したということです。見えないということはそういう観念ではないということです。この現象界は「無限」の鏡の世界です、、観念化すればそれが現れます。

だからもう追いかけなくていい

天使が現れ、悪魔は現れ、妖怪が現れ、河童が現れ、、、信じれば出現する世界、、これが現象界です。。。重要なことはこれは観念を映し出す鏡の世界だということです、、、これは「無限」の姿見の世界です。。この観念の世界を観念と見破らない限り、、、終わりがない、、、無限です、、、いつこの無限を終わらせるのか???いつこの無限の世界の表現(私物語)を終わらせるか????今です。

空想を出る

「天使をはっきりと見たんです」、、、事実でしょう、、、ですが天使を見るには「天使」という言葉を絶対に知っている必要がある、、、先ず「天使」とそのイメージを持っている必要がある、、、この大前提が無ければ、、、天使は絶対に現れない、、、、、なぜならばこれは観念が映し出す世界だからです。ここを完全に見抜くことが悟りです。

何を焦って成し遂げることがあるのか??

究極の安らぎ

今ここに究極の安らぎがあって、、、何を一体焦って叶えることがあるというのでしょうか???今ここに完全な至福があるのに、、、なぜ焦って何かを掴もうとするのでしょうか????これは完全なジョークです、、、人間は脳が進化することで、、その脳が言葉を生み出し、、言葉がイメージ、幻想を作り出し、、、その言葉を絶対的なものであると信じたことから、、、我々は幻想に閉じ込められました。。。。この幻想の中でなんとか幸福になろうともがくのが我々の本質です。

言葉を盲信しない

小説では、、、妄想で10人以上を作り上げ、、、楽しむ、、、、小説を人間が楽しめるのはイメージ力、、、これしかありません、、、このイメージ力が、、、、今目の前の現象にそのまま加わります、、、何かを見れば、、その物には名前がありますから、、、名前に不可されたイメージ、意味ががっつり加わります、、、目の前の現象が、、しっかり意味のある現象に切り替わるのです。。。だから全く同じような現象が起きても全く異なった意味が生じ、、、全く異なった感情が生まれるのです。

そして意味を選べない

ではその意味をハッピーな意味に変えちゃえば、、、全部が全部ハッピーになりますよね、、、、となりますがそうではないのです、、、、この世界において、、個人は幻想で居ません、、ですから意味をコントロールできる個人が実在しないのです、、、勝手に思考、感情、行動が湧き上がりますから、、、、どういう意味が付くかは、、、完全に非コントロール状態です。

我々ができることは、、、

つまり、、だからといってこの我々は能動的に意味づけを変えるなど不可能なのです、、、、できることは、、、、この事実に気づくだけです、、、この事実、、、この事実に触れて、、、今この「私」を取り込む状況を確認するしかありません、、、するとこの環境を変えなくては、この状況を変えてやる、、なんとか這い上がってやる、、、、みたいな思考、感情が湧かなくなっていき、、、観念が崩れてきます、、、、言葉が作りだした幻想が緩んでいきます。

言葉とは、、、

言葉がどう作用するか

悟りとは言葉のカラクリを解明することです、、、言葉という人類最大の発明は、、、実はこの意識を完璧にこの体の中に閉じ込めるというとんでもないことを起こしました、、、意識の中に全部が在るこの現象界において、、この意識が人類が作り出した言葉によって夢の中に閉じ込められるというミラクルが起きたのです、、、このミラクルを起こしたのは勿論意識そのものではありますから、、誰かが悪いという安易なことではありません。

言葉は変幻自在にこの現象界を作り替える

言葉とは、、音の組み合わせ、、、音の組み合わせですから、、本来何も意味を持ちません、、、ですが人類はこの音を組み合わせ、、それに意味を込めるという発明をしたのです、、、「う・み」「か・ぜ」「わ・た・し」「い・ぬ」という感じに、、、これによって言葉を自由に生み出し、、その言葉を覚えることでこの現象界に意味を持たせたのです。。。

「わ・た・し」という存在

その過程で「わ・た・し」という言葉も作りました、、、これによって初めてこの世に「わ・た・し」が誕生したのです、、、、この言葉の発明以前には「わ・た・し」は存在しません、、、言葉が生まれ、、「わたし」が生まれたのです。。。この世界が夢だと言われる理由はここにあります、、「わたし」とは言葉が生み出した存在なのです。

作ってはみたものの

「わ・た・し」という言葉が発明された結果、、私が誕生したのは良かったのですが、、この私の存在をいつの日か、、実在するという勘違いを起こすようになったのです、人類は。。「私」の人生、、、私の幸福、、、私の敗北、、、などなど、、、、「私」とは言葉ですから実在しません、、ですがなぜか私は、、、幸福にもなれ不幸にもなれる存在になってしまったのです、、、これは事実ではありません。嘘です。

「わ・た・し」を再びラベルに戻す

私とは実在しないのですから、、この私が幸福になるというのは不可能です、、、実在しないのですから。つまり人類の不幸とは実在しない私を幸福にしなくてはならないという脅迫観念が生み出しているのです。私は不幸を感じる、、、不可能です、、実在しないのですから、、、でも不幸という感情は確実にある、、、、そうです、、勘違いはが生み出したこの私物語をやっているから不幸が生じるのです、、しんどいに決まってるのです。

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

言葉の脅威

落語を聞けば

落語を聞いたことがある人は分かると思いますが、彼らは、、一人で4役、5役と完全にやってのけます。聞いている方はその世界観に嵌まり込み、、、時に笑い、時に大泣きまでしてしまいます。。これはいったい何が起きているのでしょうか????言葉だけ、べしゃりだけで、、なぜこんなことが起きるのか????言葉とは実はただの音の違う形態をただ連呼しているだけです、、ひとつ一つの音には当たり前ですがなんの意味もありません。。。ところがこの音を組み合わせることで、、意味が生じ始めます、、、この音の組み合わせを利用して、、我々の脳は意味を作り出し、、その意味、イメージ、概念を想像し、、、その想像の中に閉じ込めることができるのです。

優秀な落語家とは

優秀な落語家とは、、音の違いを利用したこの言葉を駆使し、、、、言葉が作り出すイメージの世界、幻想の世界に聴衆を一気に引き込み、、その世界の中にさもいるかのように導くことができます。下手な落語家とは、、、本人がイメージする力が弱いがために、、、、イメージを相手に共有する力がないのです。聞き手もこれは同じで言葉をイメージする力がなければ、、、落語を楽しむことはできません。

一人落語をしている

我々は実はこの一人落語を毎日やっています、、、何か物を見れば、、その物に対するイメージが湧き上がってきます、、、誰かに会えば、、、、その人に対するイメージが同時に湧き上がります。。。。このイメージを実在と勘違いすることで、、、本当にそのイメージに沿ったコミュニケーションを展開する、、、、相手を大金持ちとイメージしていれば、、、大金持ち対応の対応をするのです。

真実などには生きていない

我々は現実の世界にしか生きることはできません、、ですがこの現実の世界の中でイメージをガンガン言葉で作り出し、、、一人落語をしているのです、、、その落語が喜劇ならば楽しいですが悲劇ならば辛い、、、全ては自身が作り出した言葉の意味がこれを生み出してします。人は皆裏切る、、このようなイメージを人に重ねれば、、、そのようなイメージの中で生きることになるのです。

これをしなくちゃ

劇の中で

朝起きて「これをしなくちゃ」が一番に湧いてきたら、、まだ劇の中にどっぷりです。劇の中で自分という主人公の役にはまっています。朝起きてただ衝動に従った生の動きだけがある時、、それは劇から目覚めています。もう成し遂げる何かは存在せず、そこには生の動きだけがあります。この動きが動きに気づきます。

大人とは騙された人々

子供は朝起きても義務感や、ノルマは湧きてきません、、全くもって自由です、、これが悟った状態、、大人は朝から晩まで目的、義務、ノルマに踊らされ続けるのみ、、、劇の中にどっぷり浸かっています、、そして周囲と同じことをなんとかこなして生きていく。外に見える対象には救ってくれる何かは何もないことを本質では知りながら。

繋がる

この体の中に何かパワーのようなものが湧く場所があることを知ると大人の関心は内側に向いていきます。この内側に何か偉大なパワーがあるのでは???本当はこの体の内側なのではなく、、この3D映像そのものの奥にあるのですが、、そこにある何から直接パワーを貰う感覚が起こりますと、、、大人の関心は目に見える何かではなく、、その真相に行くのです。これが悟りの一歩です。

繋がりを利用する主人公

なんか繋がったぞ、、この感覚を主人公は周囲に見せびらかせ、罵り、またこの劇にのめり込んでいきます。。。繋がった「自分」を生きるのです。これが悟りの副作用です、、、繋がった「自分」は凡夫ではない、、これです。才能がある天才の悲劇の99%はこれでしょう。

主人公は居なかった

次の段階、最終段階、、、主人公は疲れ果て恥をかきまくり、、、もう何もかもを手放そうが起きた時に、、、悟りのメッセージが入ってきます、、、、もう何もないやるべきことは!!!の境地になると、、、入ってくる、、、、悟りのメッセージ、、、、「自分は居ない」「あの人も居ない」「全員がただの幻想」これが入ってくる!!!言葉がこの自分をぶっ壊す、焼き尽くす、完全燃焼。

我が人生の終焉

我が人生に興味なし

我が人生、、に一点の悔いなし、、、、という言葉がありますが、、、残念ながら、、、我が人生は、、、苦しみの連続、、悔いしかないのです。。。。我が人生は実は無かった、、これが真実です。。。我が人生と思っていたこの物語が、、、実は実在していなかった、、物語という幻想以外。

我が人生が終わると

我が人生が実は無かったという気づきが起きますと、、、本当に気楽になります、、、なぜならば心配しないといけない個人が完全に居なくなるのです、、、、この体も、家族も、全部が全部その体の中には個人が居なかった、、、なんという真実、これは完全なジョークです。

誰を心配するのか???

個人という存在が居ないのですから、、、誰を心配する必要があるのでしょうか????全くありません、、、これはとんでもなく気軽な世界です、、、そして孤独???な世界にも見えます、、、ですが、、孤独も何も全体しかなく、、、この全体は無限の全体です、、、、これは孤独とは全くの逆、、、広大無辺な世界、、それが我々の本性です。

攻めの急所

自我の消滅

ワンネス、大いなる一つ、ブラフマン、アートマン、真我、神、、、なんでもいいのですが、、これらの言葉についてどれほど詳しくなろうと、、どれほど理論的に理解しようと、、、悟りに至らないのは、、、個人が居るというこの感覚をどうしても手放せないからです。。。。理屈としては分かるんです、、、ですが、、ハッキリとこの個人という意識を所有している、、、、、そこを抜け出せない

それは無理だろ

この体というのはあまりにも巧妙にできていて、、、この体の中に「自分が居る」と思い込めてしまう仕掛けが盛り沢山、、これが盛り沢山すぎて全人類が騙されるのです、、、、経験を積めばあらゆる思考、感想が勝手に湧いてきます、、、この店は嫌な店だな、、店長は愛想が悪いな、上司は今日は機嫌が良いな、、、、とこの間違いのない思考が、、、、この「私」を絶対的なものにしていきます。思考が湧くのは疑いようもない、、だからこの「私」も疑いようがないのです。

勝手に湧く

ということで悟りの攻めの急所、、、、「思考は勝手に湧く」ここです、、、これだけです、、、ここが腹落ちするとドミノが倒れ始めます。。。思考が勝手に自動的に湧いていることを認める、気づくと、、、もう自分が信用できなくなります、、、おい、何もしていないぞ!!!です、、自分とは何もしていない、、、既得権益、、、何もしていないのにお金を全部持っていく既得権益、、それはこの自分、自我、私の正体です。

既得権益を滅ぼす

実は何もしていない、、この私が、、、最高権力者にのさばっているのがこの自分という存在、、こんな存在を許容して、、幸福になるわけがない、、、ありえない、、、全く存在していない存在を勝手に作り上げ、、これありきの思考がガンガン湧き、それに右往左往する生活、、、ありえない、、、冗談じゃない。。。ということで、、、ここが悟りを開くための絶対的急所です。