言葉

人間ゲームの製作過程が面白い

人間だけが自分の人生を歩む

「我が人生に悔いなし」これは人間ゲームとしては最高の言葉、、ですが悟りの観点から説明すれば「自分の人生はなかった」これが答えです。マリオの人生はなかった、、、これがマリオに訪れた悲劇の気づき、、、でもこれでマリオは救われます。もうクッパとの格闘で胃酸過多にならなくていい、円形ハゲにならなくていい、、ストレス性アトピーにならなくていい、、、嘘だ、、これだけ壮絶な戦いを続けてきたこの人生(マリオ)が作り物だったとは、、マリオという全体と完全に分離した存在が誕生したことでいきなりマリオの大冒険が始まったのです。クッパもプヨプヨも、ノコノコも全部敵、ヨッシー、ルイージなど仲間はいるがみんな分離した別々の存在ということ。マリオが断固として確実に存在するのだというこの間違いが全てを起こします。

この体は確実にある。。。

この体は確実にあります、ナイフで刺せば痛い、抓れば痛い、くすぐれば耐えられない、、ですがこの中に「自分」がいるというのは記憶をベースにしたアイデアです。マリオの中に人格があると錯覚するのと同じです。この体の中に別個の人格がありその人格向上こそが人生、、これがこの人間劇場を作ります。人格も個性も記憶に基づいたアイデアです。もちろん、クッパ、ルイージ、よっしー、このボディーによって活動、性質が異なるのは間違いありません。ですがこの中に人格があると考えると途端にその人生がスタートしてしまうのです。経験を記憶できることによって経験者(マリオ)が誕生しマリオの人生がスタートしたに過ぎません。

それでも周囲は皆我が人生を生きている

自身がマリオであったと気づき全体が作り出した一部に過ぎないと自由奔放に生きていても周囲は皆自分の人生、我が人生を生きています。周囲は皆人生を考えろ、老後の人生を慎重に考えろとアドバイスをしてくるでしょう。どんなに周囲が「自分の人生」を生きていてもそれは思い込み、錯覚であることを知ってしまいますともう真剣に聞くことはできません。地球が回っていることを知ってしまった後に、天動説集まりの会に参加しづらいのと一緒です。どんなに周囲が人生を生きていても、人生とは記憶が作り出したストーリーであることに違いはありませんから事実に向かって全体は動いていきます。

人間ができる前は全体だった

全体の起こりがただある世界

この世に人間ができる前の世界はただ全体の起こり、生命現象がある世界が広がっていました。全体から何かしらの生命現象が起こりそれをただ全体が認識する世界です。花が生まれ、鳥が羽ばたき、虫が動く、、ただそれだけ、、そこに人間という脳を持った生命現象が起こりました、その生命現象は脳を持ち、思考を操り、まさかこの生命現象の中に独自の意識を完成させました、それが今の人間のデフォルトです。言葉という言語で意識を作り出したのです。全体は初めて全体ではない感覚を手に入れることができたのです。この人間という感覚は後付けの感覚です、そのため人間は個別意識と熟睡時の全体意識の両方を所有します。朝起きて人間活動をする時は人間意識、熟睡時は全体意識というわけです。

この人間意識は後付けであり居心地が悪い

この人間意識の特徴は基本居心地が悪いということです、試しに家で一人きり何もしないでボーと外だけを見ていてください。強烈な退屈感、孤独感が襲ってくるはずです。この人間意識は何かをしていないと苦しくて苦しくて仕方ないのです。そして何かしらの行動をとると色々な経験を詰めて充実感が湧いてきます。不足感、充実感、退屈、刺激的、、、このようにこの人間意識活動はどこまで行ってもマイナスとプラスを行き来する世界なのです。釈迦はこれを苦しみの世界と表現しました。全体によりこの人間意識体験は大変エキサイティングで自我はこれを必死になって維持しようとしますが同時にこれは全体という歓喜、平和、安堵がこれを体験しているという自己矛盾を抱えています。そこに帰りたい衝動を抱えています。

人間がプールを楽しむ感覚に似ている

人間はなぜプールという呼吸がしにくい環境で運動をするのか?身動きが自由に取れない中であえて負荷をかけて運動を楽しんでいます。呼吸ができないこと自体は非常に苦しいこと、ですが同時にこの不自由さこそがエキサイティング、楽しさの要因でもあります。これぞまさに全体が人間をやる理由です。人間は苦しい、だからこそ面白いという感覚です。

プールで遊び疲れたら陸に戻るように人間を遊び疲れたら全体に戻る

プールで遊び疲れた人間が陸に戻るように、人間に遊び疲れたら全体に戻ればいいのです。人間という感覚は人間であることに集中するからこそ人間活動ができます。もしも自分から意識を逸らし他に集中でこることを見つけると人間意識が外れ全体に戻れます。没頭できることを見つけていきます。もしくは悟り、ノンデュアリティーというこの究極のメッセージに耳を傾けることです、すると人間であることが後付けであることがはっきりと分かり人間活動が緩んできます。緩めば緩んだ分だけ呼吸ができるようになります。

ゼロエネルギーがこの世界を作っている

ゼロはどこまでいってもゼロ

この世界を構成しているエネルギーはゼロです。ゼロエネルギーでこの視界に広がる世界は構築されています。ゼロというエネルギーが様々な形状を作り出しさもこの現実があるかのように見えているのがこの世です。どこまで行ってもゼロはゼロですからこの世は虚像ということになります。ですがこのゼロエネルギーで構築された体が体以外と交わることで経験が生まれます。体を作り出すエネルギーもゼロエネルギー、そして体以外もゼロエネルギー、ということは経験もゼロということになります。どこまで行ってもゼロはゼロです。

色即是空

色即是空、空即是色という言葉があります。空とはゼロです、このゼロが色を生み出しました、色とはイロ(シキ)とと読みますが、、、空がゼロですから色も当然ゼロです。この世界は様々な形態を見せ多様な世界を構築しているように見えますがこれを構築しているエネルギーはゼロです。ということはこの目に見える世界に在るものは全てゼロエネルギーでできています。にも関わらず人間の体(ゼロ)が食べ物(ゼロ)を食べるときに感じる味覚は確実にあります、これは何なのか?ということです。これは大変重要なポイントでして経験は確実に在るのです、経験という形にならないもの(ゼロ)だけは確実に在る世界、これが色(ゼロ)の世界です。

空の世界はゼロ、色の世界は経験(ゼロ)

経験というのは形のない世界(ゼロ)です。これが色の世界の正体です。我々は間違いなく形状を持っています、ですがこの形状はゼロエネルギーでできています。この私の体は確実に在るように見えます(色)そしてこの体は確実にあらゆる経験を積むことができます、、、ですがこの経験とは証拠を出せないモノ(ゼロ)だということです。我々は経験を積んでいるからこそこの体の存在に疑いを持ちませんが、、、この体の存在証明を経験(ゼロ)に委ねているというところが面白いところです。

我が人生に悔いなし

我が人生は本当は無い

我が人生に悔いなし、、、自分劇場、人間ゲームとしては最高の言葉です。ですがこの我が人生、、実はありません。マリオの人生も、この体の人生も実は存在しない、なぜならばマリオにも、この体にも自由意志は存在しないからです。自由意志は存在します、ですがマリオ、この体の中はその自由意志を所有しません。所有するのはマリオであればプレイヤーであり、この体であれば神、全体、気づきの意識です。いやそんなことはない、、今も自由意思がこの体の中で起こっている、、、それは違います。その自由意志は全体、神、気づきの意識から起こっていてそれをこの体の中で起こったという思考が同時に湧いているのです。マリオの中でどんなに自由意志が湧いていると認識が起きても自由意志を発動しているのはプレイヤーです。

自由意志が発動していると錯覚し続ける各身体

自由意志は確実にあります、そしてその自由意志は全体から湧き続けています。そしてそれをこの体の中で起こってるという思考も湧き続けます。これがこの体のカラクリです。この体はこうして自由意志を所有し続けるという認識を維持し続けます。最終的には「我が人生に悔いなし、、、」という名言が生まれる始末です。マリオの人生が錯覚のように我が人生も錯覚です、、、マリオには実は時間が存在しません、そしてこの体にも時間は存在しないのです。だから人生はありようがないのです。

我が人生にはだいたい悔いがある

我が人生は本当は無いのですが、、、、もしも我が人生があると信じると、、この人生は悔いだらけです。この体の中に自分というものが在ると信じますと、、、突然居心地の悪さが湧いてきます、それは全体がこの体の中に存在するという誤認識こそです。全体は全体です、その全体がこの体であると誤認識をするわけですから苦しいのです。プレイヤーがマリオに成り切ると途端に苦しくなるのと同じです、マリオは戦うしかできないのでその時点で苦しいのです。ということで全体がこの体が自分であると勘違いをすると途端に苦しくなり人生には悔いがたくさん残るようになります。

全体にとってこの自分は退屈すぎる、、

マリオがもしも敵と戦わなかったら、、、

もしもマリオが敵と戦わなえないゲームに変更されてしまったら、、、大変退屈なゲームになります。マリオが通る道を全キャラが素通りにしていってしなえば退屈極まりないゲームになります。なぜか?マリオには戦うという機能しか用意されていないからです。マリオは歌を歌うことも、スポーツをすることも、ビジネスをすることも何もできません、ただジャンプして走るという機能しか用意されていないのです。これは人間も同じです、全知全能の神がこの無知無能の人間ゲームをしています。もしも人間が何もしなかったら退屈なのです、神が、気づきの意識が、全体が、、、です。人間は活動してくれて初めて気づきの意識は安心します。

活動して活動して活動して、、、もうこの退屈脱却ゲームに辟易したら、、、

神、気づきの意識、全体がこの人間活動をするのは、、、何もしなければ退屈極まりないからです。人は何もしないと退屈という感情が湧きますが、、あれは確実に気づきの意識から湧いています。そしてそれを人間は自分のものにする、、、「あー退屈だ、、、」となるのです。何もしないと退屈が湧いてきますが、、、気づきの意識は、、ただ人間が何もしていない状態、、、マリオが何もゲームに参加しない状態が、、、耐えられません。人間にとってマリオが戦うしか能がないように、、、神にとって人間とは活動するしか能がないのです。ということで人間は今日も活動します。ですがもしもこの活動地獄に辟易したら、、、ゲームのネタバレを探求するゾーンに興味がでてきます。自己実現からの自己超越です。

今日も私は自己超越活動をする

神は人間を作りましたが人間は神に比べ無知無能ゆえに何もしないでいると退屈になっていきます。そこで人間に活動をさせます、人間は食べたり飲んだり寝なくては生きていけないように設定されているのはそのためです、もしも人間が太陽光を吸収でき何も食べず、寝ず、飲まずに生きていけたならば何もしないでしょう。この状態は神にとって退屈極まりない状態なのです。このブログを書いている私は、毎日ブログを書くということをすることで活動しています。活動していると神が満足しているのが分かります。何もしていないと神は退屈になり退屈という感情が湧いてきます、それをこの私は感じ取り自分のものにすると、、退屈だなーという言葉が湧いてきます。

なぜ存在、大いなる一つを言葉で説明することができないか

言葉で説明できることは自我の説明

大いなる一つ、存在とは何かを言葉で説明するのがなぜ難しいのか。それは言葉を使っている存在(自我)自体が存在を見えなくしているからです。つまり存在とは自我がいない時に出現するもの、それを言葉(自我)を使って説明するのは至難の技なのです。ですから書道、茶道、剣道でも真髄は言語で説明できないところにあると説くのです。所作の中から存在、大いなる一つを感じるものであり言葉で説明できるものではないのです。もしもそれが可能ならば通信教育で事は足ります。

お味噌汁の美味しさを言葉で正確に伝えるのは不可能

外国人の方にお味噌汁の美味しさを正確に伝えることは不可能でしょう。外向人の方に納豆の美味しさを言葉で伝えるのは不可能です。あの味を正確に表現できる言葉などありません。つまり言葉には限界がありにも関わらず現代人はその言葉で至福に至る方法までも手に入れようとするところに苦しみが始まります。言葉で悟りを理解する、解放を理解できるのならば中学生は皆学校でこれを学ぶだけでいいはずです、ですがそうは簡単にいかにのはそれが言葉を超えた存在だからです。

マインドが必死に至福を探しても見つからない理由

マインド、思考、これを自分自身と絶対視することが自我の証明です。湧き上がるマインド、思考こそを自分自身と捉えることで苦しみが始まります。そのマインドを強化することで至福、存在、自由に至れると勘違いすることが苦しみです。マインドを自身と勘違いすることこそが苦しみの原因ですからこれを疑うこと、これを自分と勘違いしないことこそが至福に至る唯一の方法になります。

悟った人はいない、、という言葉の意味

夢から覚めるのはこの夢の創造主「I am」

この体は私だ、この思考こそ私だ、、、この発言の主は自我です。私の名前は山田太郎だ、、、の私こそ自我です。これは本当の私が見ている夢の中で主人公とされている人間が叫んでいる「セリフ」です。私はこの事件の被害者だ。私はこの建物の所有者だ、、、この夢の中、ドラマの中で繰り広げられる中での私は自我です。そしてそれをひたすらにずっと認識し続ける存在こそが本当の私です。私はただ在る。この夢そのものでありこの夢を認識し続ける、見続ける存在です。ですからこのドラマの中に悟った人は出てきません、自称悟ったと語る登場人物は出てくるかもしれませんが悟とはこのドラマが夢だと存在が気づくことであり、それは自我の開放、自我の欠落、自我の消滅でもあります。と同時に自我ドラマでの登場人物の欠落、消滅でもあります。

夢の中での成功に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味はあるのでしょうか?夢の中での個人の安定に意味はあるのでしょうか?答えを言えば意味なんて何もないということになります。夢の中での成功も失敗も豊かさも不便さも快適さも何もかもが夢の演出でしかありません。そもそもなぜ個人は何か目的のために動くのかと言えばこれが夢だと信じていないからです。この個人が見る世界がリアルな現実であるという確信のもとに日々動き回っています。静止をすれば苦しみが襲いかかってきます。

夢の中での失敗に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味が無いように、夢の中での個人の失敗も意味、価値はありません。ですが夢の中での個人の失敗を絶望を生み出す可能性はありこの個人の絶望はそのままこの夢からの覚醒になる可能性はあります。あなたが夜見る夢で悪夢と呼ばれる夢を見ている際に非常に怖い出来事に巻き込まれそのまま飛び起きた経験はあるのでは無いでしょうか。これがこの世、この現実からの覚醒です。そういう意味ではこの夢の中での大失敗は絶望へと繋がり夢の終焉に向かう可能性はあります。