至福

現実だと信じてきたからこその全行動が無駄になる

悟りのメッセージの限界点

人生を長く生きてきた人ほどに、、、私の人生には何か意義があった、、この現実を生き抜くための信念を貫いてきた、、、と人それぞれにこの現実と私という戦い、向き合いに意義を見出しています。。。。ですが悟りとはこの全てを全否定します、、このストーリー、この私が居るという大前提が錯覚ですよという究極のメッセージです。何十年間の努力を無駄にされたようなメッセージなのです。だからこそ多くの方はこの悟り系のメッセージに対し拒絶反応を起こします。

それでもいい

それでいい、、これまでの努力が全部無駄になったとしても意味が無かったとしても本当の幸福にたどりつきたいんだ、、、そのような心境にたどり着いた者が悟りのメッセージを受け入れます、、、ただ今が苦しいだけ、、では難しい、、、なぜならば、、、自我を信じている状態は、、、これまでの努力を必ず報われるようにしたい、、という衝動が働くからです。

身も蓋もない

この私がイメージに過ぎず、、実在していない、、、みんなでイメージを共有しあい、、、そのイメージが実在しているという前提でドラマを作り上げていた、、、これが事実です、、この事実を認めて初めて、、至福に至ります。自己意識が現れるということは同時に集団との共存を強く意識しますから、、そこを捨てるなどというのは大変な恐怖心が湧きます、、、ゆえに、、、そのメッセージを遠いどこかに閉まっておきます。

悟れば全部上手くいく???

悟れば上手い下手が無くなる

上手くいく人生、上手くいかない人生、、、この判断こそが苦しみ根源です、、、何をもって上手くいっている「判断」するのでしょうか??完璧のその人の価値観に照らし合わせています、、、起きる現象全てが中立、、、その中立な現象が見かけ上の私、イメージとしての私に有益か有益ではないか、、、が判断です。。この判断を下すという動きが、、苦しみを生み出すのです。

私にとって、、が無くなる

悟りとは、、私にとってという発想が無くなることです、、、周囲の状況に私は確実に影響を受けます、、、ですがこの影響と幸福が全く関係がないという気づきが起きます、、、例えば給料が二倍になるのはこの見かけ上の私に影響を確実に与えるでしょう、、、ですがその出来事と、至福とは何も関係がない、、、「わたし」というイメージを歩むストーリー上は、、嬉しい!!が一瞬起きるでしょうが、、その嬉しいは継続可能では全くない、、、と直ぐに気づくでしょう。そして収入が増えようと不平不満は相変わらず起き続けます、、見かけ上の私には。ですが悟りが起きればこの「私」はイメージに過ぎないという気づきが起きますから、、、収入が二倍になろうと二分の一になろうと、、もう私ありきの思考に取り込まれなくなります、、、この状態が至福なのです。

あるがまま、なすがまま

起きる現象が見かけ上の「私」に影響を与えようと、、与えまいと、、、基本的に常に至福です、静寂です。。。。この私に悪意を持って近づく存在は皆無であり、善意で近づく存在も皆無です。。。。ですからただ淡々と起きる現象と共に生きていきます、、、この状態が至福、静寂、平和です。これはストーリー上の楽しいとは違い、、、ただ気楽なだけ、、重くないだけです。。。ですがこれこそが我々が心から求めていた感覚なのだという実感が確実にあります。

時間の中では至福になれない

時間こそが苦しみを生み出す

明日幸せになろう、、来年こそが幸せになろう、、、この発想が既に不幸の中にいます、苦しみの中に居ます、、、時間軸の中で幸福になろうという試みが既に苦しみを生み出すのです、、、「じ・か・ん」という言葉はイメージです、、事実として時間が存在し、、その存在する対象に、、「時間」という名前を当てたのではありません、、時間という言葉を覚えることで時間というイメージを創造し、、、時間がこの世界に現れたのです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、時間はその人には全く存在していなかったのです、、

つまり、、時間はイメージ、幻想

時間という言葉を覚えることで見かけ上のその人に時間が誕生しました、、時間の中で私が生きるというイメージが誕生したのです、、、これが苦しみを生み出します、、、時間の中で私は至福に至る、、これは不可能なのです、、なぜならば至福は時間や私というイメージの外にあるから、、、時間の中の私が生きるは、、イメージであり、、イメージの中は苦しいのです、、、頑張って明日から死ぬまで至福でいよう、、これは不可能なのです、、、人類全員が。

時間も私もイメージ、幻想

時間も、この私も言葉が生み出したイメージ、幻想です、、、この言葉を覚えるまでは時間も私も存在しないのです、、無人島に生まれ住んでいる人は、、時間を感じたことがないのです、、、時間とは生物が誰しも感じることではなく、、時間という言葉を覚えた者だけが感じるイメージです、、真実ではないのです。これが腹落ちしますと、、時間、私というイメージから抜け出せ至福、静寂の世界に入れます。

努力には何の意味もないという気づき

努力は報われる

努力は報われる、、この言葉の意味は、、、努力の結果として、、成果を期待する、、、ということになります。。これは決して間違いではありません、、種を撒くから、植物が育つ、、、疑いようがない事実です。。ですが人間がこの言葉を使う時には、、、私が幸せになるために「努力してこういう結果を出そう」という意味が含まれます。。人間とは幸福を追い求める生き物だからです。。ですがこの最終目標幸福という観点からすれば努力は一切関係ない、、ということです。。。なぜならばこの体の中の「私」はこの世界では本当の幸福には至れないからです。

条件付き幸福

この「私」が得ることができる幸福は、、、条件付き幸福のみです、、、良い家、良い奥さん、良き子供、良き会社、、、全部は対象があっての幸福です、、これらは、、対象ゆえに得れる時もあれば離れてしまうこともある、、常に不安定な幸福なのです、、、それゆえ常に「私」は頑張らなくてはならない、、条件を揃え続けるために、、、これが苦しいのです。

条件付き幸福ではない

本当に欲しいのは条件付き幸福ではないはずです、、何もしなくても幸福、、これが欲しいに決まっています、、ではどうしたらこの幸福を手に入れることができるのか???簡単です「私」がイメージ、概念、幻想であることを見抜くことです。。。私などそもそも実態はなく、、生命現象の一部、、、この思考も行動も情も全部が全部生命現象の一部だったということを思い出すのです。。。主語が私から大我、真我に変わり、、、今までの私は言葉で作ったイメージであったことを思い出すのです。

それでも「私」の生活は続くが

それでも見かけ上の「私」の生活は続きます、、、ですがこれが見かけ上であることに気づく、、見かけ上「私」はやっていきますが、、全部が全部真我からの起こり、言動は全部真我からの起こりです。これが見かけ上の「私」にただ起こっているだけ、、、すると私の人生の不安、後悔は吹き飛びます。。この見かけ上の私の人生の不安、後悔が吹き飛んだ時に、、無我、真我としての自分が頻繁に現れ本当の至福を感じます。

ありのままなど誰も見ていない

作り上げたイメージを見ている

言葉とはイメージです、、言葉を覚えるとはイメージを覚えることです。。 イメージですからそこには意味が加わります。。例えば「ロレックス」という言葉を覚える際には「高級、海外、高く売れる、ゴツい」なども意味を加えます、、、そしてロレックスをつけた男性を見る際に、、、人はこのイメージをそこに見ます。ですから、、、人はありのままでは人を見ていないのです、、、そこにイメージを重ねて見るのです。

この「私」もイメージ

この「私」も言葉だから完璧にイメージです、、、このイメージにあらゆる経験が加えられていきレイヤーが何十層にもなっているのがこの「私」というイメージです。。あらゆる経験を重ねた「私」としてのイメージです、、「私」というイメージにとんでもない意味が加えられれば加えられるほどに苦しみは大きくなっていきます。「私」の肥大化は「苦しみ」の肥大化です。なぜか?「私」と思っている「存在」は本当はこんなに小さくないからです。

「存在」は「存在」で居る時に至福になる

存在とは存在そのものであることが完璧な至福です、、存在が「私」というイメージに焦点を当てると、、苦しくなり、、なぜばらば「私」というイメージではないから。存在が存在そのものである状態を無我と呼びます、、つまり「私」というイメージに焦点が当たっていない状態。「私」というのがイメージ過ぎないことを思い出しますと、、存在は「私」への焦点を緩めます、、、この「私」に焦点を当てると苦しいという気づきが起きますと、、焦点が「私」から外れます、、、これが悟りです。

「在る」という感覚はどこから湧くのか?

空、絶対から

この世界で確実に存在する「在る」という絶対感覚、、この感覚は何をしていても存在します、、この現象の回の全ての動きに気づく存在「在る」という感覚です、、ではこの感覚はどこから生まれたのでしょうか。。この感覚こそが、、空、絶対という場所から生まれました、、「在る」という感覚を生み出す存在がある、、このことでしか空、絶対を感じることはできません。この空、絶対を感じることこそが究極の感覚、色即是空を感じることになります。

「在る」を生み出す存在としての自覚

空という絶対の場所、全てはここからスタートします、、ビッグバンを生み出した根源、この根源に我々の滑っては在ります、、、この場所に感覚を覚えることは最終段階、究極です。。空即是色を感じれる段階です。色即是空は、、この在るという存在を自覚することから気づきが起きます、在るが全部を起こし、それに気づいている、、、、その「在る」を生み出す存在、、「空」「絶対」という場所、、

これが分かったから何なんだ??

この質問が出ている時点で分かっていないんです、、ここに気づくのは絶対幸福、至福、静寂に気づくということ、、もう何も求めないということ、、、我々が現実の世界で探し求めていたのは全部これらの代替品であったという気づきが起きます。万物を生み出す存在が本当の私ならば、、この物理世界であらゆる種類の幸福を探すのは当たり前。この気づきが起きます、、、

ラベルの世界からの脱出

人間たるものこうこう常識を重視して、、、

人間たるもの、、こういうことはやらない方が良い、、これは従おう、、常識を少しづつ覚えて、、、とまあこのイメージの世界では、、社会人としての嗜みが求められます、、、ですが何であろうと、、この私も、、相手も、、全部が全部言葉で支配された世界の住人ですから、、イメージでしかありません。。言葉で決められた物が全部が全部イメージです、、、このイメージの世界で、、この私というイメージを向上させようとい試みは、、イメージの社会で多少は役に立っても、、、至福とは全く関係がありません。。至福とはこれがイメージあるという気づきが起きる以外にないのです。

イメージ同士の強化

他人と一緒に居るのがなぜ苦しいかといえば、、、その他人がイメージする役柄を演じ続けなくてはならないからです。相手も見かけ上の私がイメージする役柄を演じ続ける、、、これが辛いのです。。。本当はこの私も相手もイメージでしかないのです、、、、イメージという創造行為をエンドレスに続けていくのは苦しいのです、、本質ではないから。本質は本質の時に至福になります。本質はイメージになり切る時に同時に分離感が生まれます。

木を見ても木とは思わない、、不可能

我々は、、、木を見ればもう自動的に、、木というイメージが湧くように設定されてしまっています。コップを見ればコップというイメージが即座に湧く、、ですからこれを止めるのは不可能です、、、ですがこの仕組みを理解することはできる、、、、今見かけ上の私は、、、木という生命現象を見て、、木というイメージをそこに重ねた、、、だから木という独立分離した(見かけ上)存在に気づいた、、、となります。。全部はイメージ、、イメージのというレイヤーを現象に重ねただけ。。。。だからこの世には何の意味もないですよ、、と覚者は言います。。。たった一つのエネルギーにラベルを貼り付けまくり、、イメージを創造し続け、、、この私というイメージが、、この独立分離した世界を旅するというイメージを作りあげます。そこに意味はないです、、意味とはまさにこの言葉の世界が作り出したファンタジーです。

イメージの住人

言葉の世界

見かけ上の我々はイメージの世界の住人です、、、この体も、この木も、このコップも、この椅子も、、、全部が全部言葉で成り立っている時点で、、、その言葉のイメージが想像され、、、そのイメージをこの現象に照らし合わせて生きています、、私というイメージが。便宜上言葉を覚えた我々人類は言葉の力の偉大さに気づいておらず、、、言葉にすっかりと飲み込まれているのです。

一人一人が全く異なったイメージを持ち、イメージの世界に生きている

一つ一つの物は名前がついていて、、この名前について人は各々のイメージを作り上げます、、、このイメージをこの現象に重ね合わせることで、、分離した現象界が生まれます、、、イメージが全員異なるということは、、全くもって異なった世界に生きていることになります、、、、本当は本質のみ、一つのエネルギーのみです。ですがそこに重ね合わせた言葉のイメージが異なるために、、違う世界を生きるというイメージが湧きます。そしてどんなイメージの世界を私というイメージが生きようともそこは苦しいのです。なぜならば本当の静寂の世界、平和な世界、至福の世界を既に幼少期に体験しているのと、、本質はそのことを知っているからです。。つまり本当の体験者(真我)がそのことをいつも分かっています。

言葉というラベルの功罪

言葉が作ったこのラベルは各々に異なったイメージを作り出させ、、この体が生き抜く上で役に立ちます、、、この体は確実に楽に生き延びることができるようになりました、、、しかしどっぷりイメージの世界に閉じ込められてしまったことで、、、精神的にはいつも苦しい、、、なぜだ????となります。生きてはいるけど、、苦しい、、、このメカニズムを打破するには、、、この事実に気づかなくてはなりません。

真実に気づけば

真実に気づいてしまえば、、もうイメージに惑わされない、、、この見かけ上の私もイメージに過ぎず、、だからこそこの見かけ上の私の幸福を追い求めても意味がないこともわかります。本当の私とは、、この言葉を作り、、イメージの世界を作り上げ、、、その中での経験の全てを回収している存在だという気づきが起きます。

全員がピカソのように絵が描けたらピカソの絵には価値はないのか???

人類が苦しむ原因

人類が苦しいのは、、、この人類は比較の中でしか幸福を得れないと考えているからです。。。ピカソの絵を飾っていた家で、、、人類全員がピカソレベルの絵を描くことができるようになった時に、、、その絵にはもう価値はないのか???という話です。。。我々は本質が見えない世界に没入することで本質を求める代わりに他人との比較の中で幸福を得ようという努力をしているのです。

他人より収入が良いから幸福なはずだ

他人よりも収入が二倍もある、、だから俺は良い会社で働いている、、だから俺は幸せに違いない、、、全部イメージの話です、、、そういうイメージを作り上げイメージを感じているだけですね。。俺は幸せに違いない、、という思考(イメージ)を感じているんです。。。そうではなく、、、本質、絶対幸福、に今なってしまえば、、もうイメージの世界を感じなくていい、、、イメージの世界でもがかなくて良くなります。

イメージの世界から抜け出る

これは全部イメージ、、これことに気づくことが悟りです、、、言葉を覚え、言葉がイメージを作り、、そのイメージをこの現象に重ね合わせ、そのイメージの中で生きている、、、これを真剣に信じることで苦しみが生まれる。。絶対幸福、静寂、至福の世界に、、イメージを作り上げ、、イメージを感じていいます。。勿論それを起こす存在は神でありそれを感じるのも神です。。。私は実は神なのです、、この体の中の住人と思っていた(イメージ)この存在は神だったんです。

今この場所で悟りに入る

自我の無駄なお喋り

自我の無駄なお喋りに迷わされてはいけません、思考が次から次へと湧いてきてこれをこうしよう、あれをどうしよう、あの問題はどうなったっけ??あそこに連絡しなくては、、とエンドレスに湧いてきますが、、、、これらの思考と起こる行動、結果とは何も関係がありません、、、関係がないにも関わらず思考に取り込まれてもただ苦しいだけなのです。

これをする意味

何のためにこれをするのか???これをする目的は???何のメリットがあってこれをするのか???自我は何かしらのメリットがないとそれをする意味がないと考えます、、ですから行動の裏には絶対的な何かメリットが必要になります、、ところが本当の目的とは今にあることであり、、それ以上の目的など存在しないのです。

行動そのもの

今と一つにあるとき、、行動に目的など必要ありません、、、今と一つにあって何かをすることが一番価値があるのです、、それをこの行動には、、、この目的があるのだと、、その目的にフォーカスが当たれば、、行動の価値が一気に落ちてしまうのです、、、、今と一つになって何かをすることが最高の至福状態なのです。