至福

江戸時代に将軍様に褒められる

今で言えば億万長者

江戸時代に最も名誉なこととは将軍様に褒められることでしょう、徳川将軍から直に褒められるとなればそれは国民栄誉賞並みの永栄です。仮にそれが叶ったとしましょう、、その人はその後一生幸福なのでしょうか????なわけないのです、、、嬉しいは一瞬です、その時だけ。。当たり前です。ですがこの状況とは現代日本においては億万長者になるようなもの、、ということはそんなことでは幸福にはなれないのです。

人間が思う名誉、評価、賛美など

人間が思う名誉、賛美、評価など、、、所詮は思考が作り出したものです。。このようなもので一生の幸福が約束されることはない、、なぜならば幸福とは一瞬ではなく一生を叶えたいものだからです。思考が作り出したそのような栄誉が人を至福に至らしめるなど構造上不可能でしょう。では人はどうしたら至福に至れるのか???それは人を辞めることです、自分を辞めるしかありません。なぜならば苦しみとは自分がこしらえたものだからです。

自分を辞める

この世界で至福に至る方法はたった一つしかないのです、、それは自分が何かを手に入れるのではなく、、自分を辞めることなのです。自分を辞める以外に至福に至れる方法はないのです。自分は様々なこと、ものを手に入れて一瞬だけ幸福になることはできます、ですがそれは一瞬です、自分とはそういうものなのです。逆に言えば自分を辞めてしまう以外に至福はないのです、自分という状態を維持した状態で至福はありえないのです。

桜木花道の中には自我が確実にある

人気漫画の登場人物には自我が存在する

なぜ人気漫画は泣けるのか?なぜ人気漫画は興奮するのか???それはキャラクターの中にしっかりと自我を認識できるからです、、こんな時桜木花道だったらこんなこと言うよね!!です。これが確立しないアニメは全く人気がでないのです、、、キャラがブレブレで、、全く信憑性がない、、、そもそも漫画のキャラに自我など存在しえないわけですから言動で自我があるかのようにやってくれないと困るのです。

自我があるかのように無意識に行動していく

矢沢永吉は矢沢だったらこんな時どうするか???と考えて矢沢を確立していきます、、本当は居ないのです、、、ですが世間が求める矢沢を一生懸命演じるのです、、、まるでスター矢沢永吉が実在するかのように。これをみんなやっているのです、、親が求める自我を育てていくのです、両親が期待する、仲間が期待する自我を育て上げていくのです。これを人間はやっていくのです。

仕事場では仕事場の、仲間内では仲間内用の自我を作る

両親が期待する自我と就職した職場が求める自我が全く異なる時、、苦しいが際立ちます。そんな自我用意していないんですけど、、です。ですが家に居ても家用の自我は100%存在しますから結局は苦しいのです。自我は本当は無いのですから、生き延びるために方便として成長させてきたこの自我をどこかで見抜かなくてはならないのです。

矢沢永吉を辞めた矢沢永吉は楽になる

矢沢永吉が矢沢永吉を辞めると楽になるんです、だって本当は存在しないんですから。そして自我が自我を辞めると楽になるんです、だって自我って本当は無いんですから、思考の産物ですから。このことが分かってくると人生ってシンプルになるんです、だって死ねば自我は消えます、最終的には全員が至福に帰るんです。どうせ死んだら至福に戻れるならば、、今ここで至福に帰ってもいいんです、自我って100%存在しないよね!!が分かれば至福です。

素晴らしい人生?

人生がなかった!?

私の人生は良い人生だった、、誰でもそう感じて寿命を迎えたいものです、ですが実際には人生ってないんです。人生が存在するためには人生を歩む自我が必要になるんですがそれは実際にはありません、空想、妄想、幻想としては100%存在します。思考としては100パーセント存在するのが自我です。ですが真実においてはないのです、そんなエネルギーは存在しないんです、なぜならば世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

コーヒーカップも、時計も、自我も存在しない

コーヒカップという独立分離した存在は本当はないことを皆知ってますよね、、だって元々は陶器であり陶器の原料は土です、そして土の原料は火山灰だったりします。ですから無いんです、本当はそんなもの。時計も金属の集合体、金属は元々岩の中の材料でしかない、、だから時計なんてものは存在しません。つまりこの世界に独立した何かなどないんです。自我とはこの体の中にあるとされる想像物です、ないんです本当は。

だから人生はない

コーヒカップの人生、、、これはディズニー映画の話です。時計の人生、、これもアニメーションの話です。この体の人生、これもアニメーションの話なのです。コーヒカップの中に間違いなく思考を操る存在が居るはんずだ、、、となってもコーヒーカップ自体が本当は土の塊でしかないのでそれはファンタジーです。人間の体という本来は全く独立していない存在の中に思考が湧き出しこの中に自由意志が居るはずだというファンタジーを作り出したのです。

人生がないとして

人生がないなんてなんて空いんだ、、だとしたら何のために生きるのか????違うんです、、人生がないことが分かってしまったらこのような質問は出るはずがないのです。究極の至福からこのような質問は出てこないのです。空しさを作り出している自我が、、この質問を投げることで生存を図っているのです。我々は何も考えず真実に触れていけばいいのです、するとどこかで真実が思考のファンタジーを再吸収します。

多くの方が求める幸福は経験でしかない

成し遂げた瞬間(経験)を求めて

多くの方が求める幸福とは何かを成し遂げた瞬間(経験)のことです、結果その次の瞬間にはまた新しい成し遂げるべき何かに向かって走らなくてはなりません。これは本当の幸福ではありません。なぜならば一瞬の幸福だからです。本当の幸福とは瞬間(経験)のことではなく永遠のことです。つまり個人が成し遂げる何かではなく個人から脱却することこそが至福への道なのです。

個人は瞬間でしか幸福になれない

私が幸福になる、、、これを多くの方は求めるのですが、、、個人というのは実在しないので幸福になれません。実在しない存在を幸福に導くのは不可能なのです。だから私は幸福には絶対に絶対になれないのです。そうではなく私、自分が抜け落ちおた時、本当の至福が訪れます。私を主語にしている間は幸福になれないのです。

朝起きれば私をやるしかないですよね?

そんなこと言っても朝起きれば私をやるしかなくないですか????違います、私は実在しないのですから本当はやっていないのです、、、居ないにも関わらず居るという思い込みをしてやっているのです。とはいえ社会で活動する際には名前で呼ばれ名前での付き合いがありますから表面上はそれをやらなくてはなりません。ですがそれを真実であると思えば苦しみに襲われます。

思考は悪者ではない

思考が悪いのではなく、それを自分のものとすることで苦しみが生まれる

思考自体は悪くのなんでもありません、思考は泉のように湧き続けます、これからもずっと。重要なことは思考が湧いた際にそれを自分のものとする動き、感覚が、分離意識を強め結果苦しみを作り出すということです。思考を自分のものとすることが悪いことではなく苦しみを生み出すという事実を認識することです。寒いなー、暑いなー、楽しいなー、つまんないなー、、、、あらゆる思考が湯水のように湧きますが、、、それを自分のものとすることで分離意識が生まれ苦しみが湧くのです。

世の中の99.9999%の人が思考を自分のものとしている

この世界から苦しみが消えないのは思考を自分のものとする人がほとんどだからです。湯水のように湧き続ける思考を自分から湧いた、もしくは自分が作り出したと勘違いをしています。この勘違いが苦しみを生み出すのです。そして苦しいということも悪いわけではなくそれもあるがままの表現です、苦しいが本当にダメなことならば最初からあるがままは作り出しません。

死にたくなるような苦しみも

死にたくなるような苦しみすらもあるがままの表現です、これは至福の表現とも言えます。至福が死にたくなるような苦しみを作り出したのです、、これはパラドックスです。至福(あるがまま)自体は至福ゆえに至福がどのようなものか分かりません、それで作り出したのがマリオでマリオが死にたくなるような苦しみを感じることで至福の価値を再認識できるのです。これはあるがままの悪趣味です。我々はあるがままの悪趣味に翻弄されながら生きているのです、ストーリー上。

至福に至ろうとするエネルギーがあるがままを隠す

探求の先にはない

どこに至福はあるのか??どこにあるがままはあるのか???この探求は自我のエネルギーの特徴です、探求者です。私がそれを見つけ出すんだ、、ですがこの見つけるというステージは確実に幻想の世界で行われるがために至福は見つかることはありません。マリオが必死になってスーパーマリオゲーム本体を探している状態です、画像の中で。画像の中にゲーム本体は存在しないのです、むしろ画像全てが本体の投影です。

探求を諦める

マリオが画面の中で至福(ゲーム本体)を探すのを諦めた時実は最もそれに近い状態にあります。マリオが必死になって探している間は絶対に絶対に見つからないわけです。探すという行為が自分(マリオ)以外を見てますからそれはもう分離のエネルギーしかないわけです。分離(マリオ)が分離を探している状態です。我々が唯一できることはこの仕組みを理解すること、ゲーム内での行為によって至るではなく仕組みを理解しゲーム本体にマリオが再吸収されるのを待つだけです。

あるがままへの誘い

今ここで感じる苦しみはあるがままへの帰還、誘いです。今苦しみを何十年間もこのゲーム内で解決しようと懸命に努力し、物理次元では解決できないと思うと情報空間、スピの世界で解決しようと努力しました。ですがそれらの努力は報われません、、この自分が何者かになろうとする努力自体がゲーム本体(あるがまま)への帰還を妨げるのです。この苦しみは自分という存在が起こしている、この事実に向き合うことです。自分という存在が苦しみを作り出すのです。

マリオの外に至福(ゲーム本体)を求めればそれは全体ではありえない

全体とはマリオも含めてのこと

至福とは全体のことです、至福とは大いなる一つ、至福とはゲーム本体です、、我々マリオはこの現象世界の中で名誉が、所得が、愛すべき人が、愛すべき仲間が、、、マリオを幸福に至らせてくれるのでは??と考えますが、、至福は全体のことですから、、マリオ以外に至福があったとしたらそれは全体では無くなってしまいます。つまりマリオが外に至福を求めた時点で至福は絶対に絶対に見つからないのです。

ゲーム内には至福はない

この現象世界は分離の世界ですから分離している「私」が至福に至るのは不可能です。私という存在自体が分離(不幸)だからです。つまりマリオとしてして至福には至れないことを悟り、マリオがゲーム本体(スーパーマリオ)に再吸収されるほか全体(至福)になる方法はないということになります。マリオ(分離)である限り、分離はひたすら続くわけでこの状態こそが苦しいのですからマリオは至福に至ることは絶対に絶対にないということです。

自分が熟睡する

熟睡時に自分(マリオ)を意識している人は居ません、、自分(マリオ)が抜け落ちた時に熟睡(至福)が訪れます。昨晩私は熟睡を味わい尽くした、、、、これは嘘です、、熟睡時には意識がないはずです。至福とはまさにこれで自分が抜け落ちた時に訪れるのです、、じゃあ我々は一生至福には至れないではないか????その通りです、「私」は絶対に至福に至れないのです。

時間ありきの表現は全てストーリー(ゲーム内)

アセンションが始まる、、

200X年、アセンションが起こり次元上昇が始まる、、、これ時間がないと成立しない表現ですよね???つまりこれはストーリー、ゲーム中の出来事です。ワクワクしたことをやるとラッキーが連続する、、、何かをすると、、次の瞬間何かが起きる、、、これも時間あって成り立つことです、、ストーリー、ゲーム内の話です。ついてる、ついてると連呼すると、、ラッキーが起こる、、、これも時間があってこそ成り立つ話ですよね、、これもストーリー、ゲーム内の話です。パワースポットに行くとラッキーが起きる、、これもストーリー、ゲーム内の話です。

ストーリー、ゲームの中は、、、

ストーリー、ゲームはあるがままの無限の表現ですから、、、ある決まった因果が成立することは絶対にないのです。決まっていたら無限の表現ではなくなってしまいます。こうやったら女性は必ず落ちる、、こうやったら絶対お金を稼げる、、こうやったら人気者になれる、、、法則が決まっているならばこのゲームは無限ではなく有限のアートになってしまうのです。ですがこのゲームは無限(あるがまま)の表現ですから決まったルールはありえないのです。

時間の中では至福に至れない

時間の世界の中では至福には至れません、、こうやったら至福になる、、、この法則に従えば至福に至れる、、全部時間のゲームの中の話です。至福とはスーパーマリオゲーム本体のことで画面の中に至福(本体)は落ちていないのです。時間の中には至福がないことをマリオが悟りこの画面からマリオ共々抜け出た時に初めて至福に至るのだという気づきが重要です。

どうやって目覚めるのか???

意図して目覚めるは絶対にない

自由意志は本質の世界には絶対にありません、ゲーム上自由意思があるように見えているだけで実際にはマリオに自由意志はないのです。ですからどうやって目覚めるのか???という疑問を持っている間は目覚めが起きない可能性が高い、なぜならばマリオが全力で悟ろうとしているからです。大勘違いが続いています。むしろ真逆でマリオが意図して悟ることはないのだから勝手に目覚め解放が起きるのを待とう、、このスタンスが解放に近い感覚です。眠ってやるぞ眠ってやるぞ!!と鼻息荒く準備するよりも眠りに落ちるのを待つ感覚です。

誤解を解き続けることで準備はできる

自由意志はない、それを主導する自分もいない、、、周囲の人間も実は自由意志はない、このゲーム上には至福(ゲーム本体)は落ちていない、、こういった誤解を解くゲームに夢中になっていきますとリラックスが起き始めます、緊張感が抜けてくる、、よく分かんないけど頑張るって無駄だよね、、よく分かんないけど放っておけば寝れる(解放)よね、、、みたいになっていきます。この段階は小さな気づきが起きやすくなります。もう周囲に振り回されて頑張り続ける、、から卒業できるはずです。

死ぬのが怖く無くなっていく

死の恐怖は大変わかりやすいポイントです、死に対する恐怖は自身の本質に目覚めているか否かが判断できます。本質に深く触れていきますと理屈ではなく死への恐怖が減ります、友人の死、親の死などに対してもネガティブな感情が起きません。どこまで本質として生きているかが大きく出るのです。野生動物が親の死を引きずらないのは冷徹だからではなく本質そのものだからです。原住民族が死をお祝いするのは本質的に生きているからです。

あるがままはなぜ今もこのゲームを続けるのか?

最初から完璧ならば、、、

最初からあるがままはそのままで完全完璧ならばなぜこの意味不明なゲームを続けるのでしょうか???必要ないではないでしょうか、完璧なんだから。そうではないのです、完璧完全ゆえに自分自身が完全完璧であるとういうことを体験できないのです、自分自身がそれを体感したいだからこそあるがままの中に不完全不完璧(マリオ)を作り出し完全完璧を追い求めさせ最終的にそれを味わいたいのです(解放)完全完璧を体験するには不完全不完璧にならなくては成れない、ただそれだけです。

最大の悪趣味

最強のイケメンが自身がイケメンであることを実感するには一度ブサイクになってそこからイケメンに成ってみないとイケメンの素晴らしさ、イケメンの重要さを体験できない。こんな悪趣味なゲームをあるがままはやっているのです。あるがままが無限の存在であるがゆえに無限を体感するには無限そのものでは無限を体験できない、そこで無限ではない形(マリオ)を作り出し無限を追い求め無限の経験を体感しているのです。

だから幼児は全てに感動している

自我が形成されるまでの赤ちゃんは全ての物に興味を持ち感動しています、触って遊んで目を輝かせています。これは自分(あるがまま)が自分(あるがまま)を味わっているのです、面白いのです、楽しいのです。自我が形成されるにつれて究極の不完全(思い込み)になるのですがその場所は苦しいからこそ自我は至福(あるがまま)を追い求め続けるのです。やがて対象(アイテム)には至福がないことに気づき対象でないのならば全体(ゲーム本体)が至福なのではと悟り(画面離脱)に興味を覚えるわけです。