自由意志

どこかで全部知っている

全部

「自由意志はない」「全部が全部幻想」「意識は一つ」「時間も空間もない」このような真実に触れた時、、どこかでなんか知っている、、、という懐かしい感覚に襲われます。その話今は聞きたくない、、なんか頭がおかしくなりそう、、になります。本当はそれ分かっているきがするんだけど、、今は今でやることがあるからちょっとその話は聞きたくない、、が起こります。

当たり前

当たり前と言えば当たり前すぎます。だってこの世界、分離した世界って存在しようがないんです。完全分離の世界がどこかに「収まって」存在するためには「収まるべき場所」が必要になり、、その「収まるべき場所」はさらに「収まるべき場所」が必要になり、、、さらにその収まるべき場所が存在するにはその「収まるべき場所」が必要になるんです。「必要になる」ということが起こる時点で、、、この世界は無限の「必要」を作り出すのです。。「無理」なんです、、この世界が存在するのは。。。。

悟り

悟りとはどこかで全部知っている真実を「今」ここで知ることです、思い出すことです。本当は知っていることを今ここで思い出すことです。世の中には本当のことを全く思い出せていない人と少し思い出している人とかなり思い出している人と完全に思い出している人が居るんです。記憶障害者とちょっと記憶が戻った記憶障害者、かなり記憶が戻った記憶障害者、完全に記憶が戻った記憶障害者、、が居ます。悟りとは記憶障害者の催眠を解くことです。

嫌い

過剰反応

私こういうタイプ大っ嫌いなんです!!!!ありますよね????こういう発言。。。。ケチな男だけは許せない、、最初のデートで奢らない男だけは許せない!!!!!あります、こんなやりとり。。。。この過剰反応の裏には「ケチな自分」がありありと存在することを分かっています。「ケチ」という展開がこの私にもあることを100パーセント知っているから、、そこに嫌悪感が芽生えるのです。自分の中に「ケチ」がなければ「ケチ」に関心が持てないのですから。

恐れ

自分が「ケチ」と思われるかもしれない「ケチ」になっちゃうかもしれない「ケチ」な自分もいつでも登場する可能性がある、、、、、この恐れこそが過剰反応を起こします。そして「ケチ」な自分は100パーセント自分にも起こる可能性があります。なぜならば「自由意思」がこの世界には存在しないからです。自由意志がない以上「ケチ」な自分になる可能性は徹底的にあるのです。そしてそのことをどこかで知っているので過剰反応が生まれます。

認める

本当は誰しもそうなる可能性があることを認めます、徹底的に認めます。周囲から非難される全ての要素を自分が持っていることを徹底的に認めます。すると「恐れ」が消えます「拒絶反応」が消えます、、だって認めてしまったから、もう頑張って嘘をつかなくていいのですから。自由意思がないことを認めれば、、、何だってこの自分に起こることを認めることになります。

悟り

悟りとは全可能性が「自分」に起こることを認めちゃうことです。全要素が自分に起こり得ることを認めちゃうことです。その時「嫌い」という過剰反応が消えます。全部自分も持っている要素の一部が他人という姿を通じて起こったのだと俯瞰します。自分にも100%起こる可能性があることが他人を通じて起こったことを100%認めます。その時好き嫌いが消えます。

数字

エゴ

エゴは数字が大好きです。結果結果結果、、結果が全てですよね??????理屈より結果でしょ!!!!です。結局のところいくら年収があるんですか?????結局のところどんな結果を出したんですか????です。だから「結果に徹底的にこだわる」が起こり、結果に向かった行動が起こり、結果が出るが起こる、、結果さらに結果至上主義になっていく。。。結果にこだわるから結果がでて益々結果至上主義になる。ところがところが、、どこかでは「自由意思」はないことを知っています、、心の奥の奥では「自由意思」がないことを知っている。そしてどこかで「結果を出せなくなる」ことを知っているからこそ、、「結果を出せない人」になることを常に常に過度に恐れているのです。

だから

「結果を出せない人」を徹底的に嫌います。それは「自分がいつかそうなる」可能性を知っているからです。だから怖くて怖くて過剰反応するのです。明日は我が身明日は我が身という大大大プレッシャーを抱えながら生きるのです。「自由意志」が実はないことが分かった時「結果」に対する執着が消えます。数字に関心がなくなります。だって全部偶然の賜物ですから。全部が全部勝手に起こった結果ですから。だから人が作り出した結果に関心が湧かないのです。

大谷翔平

常に結果を出し続ける男に多くの方が魅せられ、、そこのは称賛が生まれそこを目指すが生まれます。ですが大谷翔平すら全く「自由意思」なしにあの行動が生まれています。明日から全くやる気がなくなる可能性が完全均質に彼にもあるのです。そして彼のように輝く可能性も誰にも100%均質な確率で起こり得るのです。だからこそ「結果」というものは実はどうでもいいのです。

悟り

悟りとは「結果」「数字」が実は全部たまたまであることに気づくことです。マリオで高得点を叩き出す可能性と一点も取れない可能性が誰しも100%平等に持っています。自由意志がないという条件において結果ほど「どうでもいい」ことはありません。だから結果を手放していいんです、結果ってくだらないんです、、、恐ろしいほど下らないことです。。。そして「結果」ほど適当曖昧一時的刹那的なことはないと分かった時「結果」を楽しめるようになります。結果って面白いよね、、になります。

紙一重

犯罪

私たちには自由意思が一切実はありません、ですから犯罪者になるのか奉仕者になるのか、一切の選択肢がないのです。週刊文春に載ってしまう芸能人とそうでない芸能人の違いは完全に紙一重です。明日何かをやらかす可能性は全員が100%全く同じ確率で所有します。ですからそのことを踏まえて対人関係を築いた方が賢明です。人格者ぶって大上段から物を言ってもその人も100%の確率で明日は我が身なのです。

とはいえ

とはいえお店で何か失礼をされても「黙っていろ」とは言いません。そのことを百も承知で発言する時そこに「慈しみ」が生まれます。私もやらかす可能性が100%あることを承知で発言するのとしないのでは全く異なるからです。常に常に自分もやらかす可能性を自覚した状態で人に意見を言うのは全く違います。極悪劣悪な手法で人を騙し続け一切の情もなく殺め続ける人と「私」は紙一重なんですか?????そうです、完全に紙一重です。なぜならば自由意志が100%ないからです。その上で誰も本当は「悪くもない」し「善くもない」のです。

じゃあ犯罪しまくっても問題ないのか?????

本当は本当は誰しも全く自由意志がないと分かった時「慈しみ」の感情が生まれます。本当は誰も悪く無いんだ、、本当は誰も責められるべきではない、本当は誰も好きで「嫌われ役」をやっていない、本当は誰も好きで「疎まれ役」をやっていない、、そこが理解できた時に「誰かに迷惑をかけよう」という発想が湧いてこなくなります。「被害者意識」が消え去った時「加害者意識」が消えます。

悟り

悟りとは「実は全員が紙一重」であることを理解することです。「覚者」と呼ばれる人々も完全に紙一重に「犯罪者」になる可能性を秘めています。自由意志がないことを理解した時に「ニュースの事件」を他人事とは全く思えなくなります。そして全可能性を認めた時「重さ、プレッシャー」から解放され皮肉なことに「悪事」がこの見かけ上の「私」には起きにくくなるのです。

「しょがなくない」がない

しょうがない

男の浮気はしょうがない、なぜならば生物学的により多くのメスに種を撒くことが決まっているから。だが女性の浮気は「本気」だからしょうがなくない、、、と男は勝手な思考を持っています。女性のバッグ好きはしょうがない、なぜならば女性はいつまでも綺麗にしていたい動物だから。でも男の車好きはしょうがなくない、なぜならば男の車好きはエゴだから、、という女性は勝手な思考を持っています。

残念

しょうがいないの根底には「自由意思」を超えた完全な力が働くことを指します。男の浮気は自由意志ではコントロールできない、女性のバッグ好きは自由意志ではコントロールできない、、、だからお互いそこは諦めましょう!!!という大人の判断です。ところが、、、ところが本当は全部ノーコントロール、自由意思なし、完全自動運転なんです。女性の浮気もノーコントロール、男性の車の衝動買いもノーコントロールです。すると「しょうがない」しかない、、となります。

DV

じゃあ旦那のDVも自由意思ではなく勝手な勝手な自動運転だから、、それもしょうがない、、甘んじて受けろ!!ということでしょうか。。。違います、、彼の行動は「しょうがない」で済ます以外にない、、ですがその後の対応「警察に通報する」「弁護士に相談する」「別居する」は起こせます。そこに感情が要らないということです。家の土佐犬が暴れまくる、、ここには土佐犬の自由意志ではなく土佐犬の本能の動きだけがあります。その対応は千差万別、適宜判断が必要になるのです。

悟り

悟りとは「こう考えた方がいい」とか「こう考えると楽ですよ」という話ではありません。事実、真実はそうなっていますよ!!!というメッセージです。その事実をベースに其々が対応すると、、楽になるかもしれません、、という内容の話です。

体と体以外

全体

我々はこの体が宇宙空間の中にポツンと閉じ込められた物体であると真剣に信じています。ですが実際は見える世界の中の一部に過ぎません。?????そうです。、見える世界の中の一部です。つまり見えない世界はこの世には存在しておらず見える世界だけが今存在しているのです、その中でこの体が含まれるということです。この体は幻想として100%存在し、、この見える世界も幻想として100%存在します。この体という幻想を自由意志100%で動かす場合残る現象が外部環境になります。

この体

この体を主体として残る環境を客体として活動をしなければならない時もあります。ですがそれはあくまでもそう思考しての活動になります。実際には全部幻想であり、その幻想の中で五感という感覚が起こるのです。そして思考感情が起こり人間活動が行われます。全ては幻想ですから本当は五感しか起こっていません。ですがこの体を主体する活動が起こることも事実です。

マリオカート

マリオカート中はマリオに成り切らなくてはゲームはクリアできまません。ですから徹底的にマリオになりきります。ですがゲームが終わればマリオではなく全体に戻ります。五感は五感がただあるのみです。五感があるからこのマリオがあるという感覚を得ることはできますが、、五感は実は五感でしかありません。人間も五感があるから人間というボディが100%あるように感じますが、実際にはこれは幻です。五感があるからこの体があって体以外があるように感じることができますがこれは思考が為せる技です。本当は五感だけがあってあとは全部幻です。

個別体験

無限

ここは無限の体験の場所です。無限の体験を創造する場所です。空が色をそのままに認識し、、と同時に個別の側面を体験することもできます。マリオを体験する場所でもあり全体が全体を体験する場所でもあるのです。人間が人間を体験するとき完全な自由意志で全活動をコントロールします、そして起こる結果を招きます。ですが同時にこれは勝手に起こる現象でもあるのです。個別体験を起こすと共に全体として結果を観察もできます。

F1ドライバー

F1ドライバーはドライバー中完全に自由意志を行使してハンドルを握ります。勝手にハンドルは回せるなど悠長なことを一瞬でも思ったら事故を起こすでしょう。ですから思考を回転し全意識をハンドルに注ぎドライビングをします。どこまでいっても自由意志は完全にあるしそう感じます。まさに幻、この幻想の世界同様にどこまでもあるように感じる世界です。自由意志もこの太陽もどこまでもあるように感じる世界なのです。

だが

実際は完璧に自由意思はなく、なぜならばこの体も完全に幻なのです。どこまでもあるように見える感じる存在です。太陽もあるように見える感じる存在なのです。全てがあるように見える感じる存在なのです。ですから思考を自由に操る存在はないですし、行動を自由に操る存在もないのです。つまりここはそういう体験を詰める場所だということです。

個別体験の卒業

徹底的に自由意志で全思考全感情全行動をコントロールできると活動をしようと、、実際にはこの体は幻想なのでそれは不可能なのです。どこまでもあるように見えるし感じることはできますが実際には不可能なのです。そこに視点を置けば我々は完全に自動操縦で動いています。これは紛れもない事実です。ですが太陽が100%あるように見えるように、、そう感じれることは間違いありません。

人間と神を交互にやる

ありえない

人間と神を交互にやればいいんです!!!と言えば何をこいつは言っているんだ????アホか、、の世界です。でもこれって簡単に簡単にできます。マリオカートをやっているときに、、私はマリオじゃないし、、と俯瞰してゲームをやれるでしょうか????完全にマリオになり切ってゲームの中に没入しなければミリ単位のコントロールができない、、コンマ0.1秒のタイミングを合わせられない、、のです。ゲーム中は完全にマリオになり切るはずです。ですが、、、、もしも途中でゲームオーバー、、死んでしまったら、、急にプレイヤーに戻ります。マリオからプレイヤーに戻るはずです。

それでいい

ゲーム中は完全にマリオになり、、結果が出たら、、プレイヤーに戻ります。マリオとして優勝したとき、、他のキャラに勝つことしか考えていなかったマリオ視点から、、一緒に戦った仲間に戻ります。視点が変わるんです。つまり人間から神に変わるのも全く一緒、、人間視点が必要なときは自由意志をフルに活用し人間に専念する、、しかし結果が出たときは神に戻り、、全結果を受け入れるのです。マリオカート中にマリオじゃないし!!は上手くいかない、、、でも結果が出たときにマリオだったら、、死んでることを受け入れ泣かないといけない、、おかしい。。人間と神はこのようなもの、、、、神とは全結果を神として受け入れる視点を持つことです。

神の視点

神の視点とは、、「神って、、ただ俯瞰してるだけでしょ!!!」じゃないんです。。。本当は本当は自由意志はないんです。。。。だから結果に右往左往するって全くもって事実に反するのです。結果が出たときは、、真実に戻って黙々と結果を受け入れる、、、そしてプレイ中は、、人間になり切って徹底的に勝負に没入するのです。そうです二つの視点を完全にやっちゃっていいのです。この体を貰ってしまった以上、、体モード全開は生きている上で必然的に求められます。サッカー選手が、、自由意志を意識しないでプレイするなど不可能です。だからそこは方便です。

人間としてプレイし神として受け入れる

ボクサーはプレイ中は相手をダウンすることしか考えない、コテンパンにやっつけることしか考えない、、ですが、、、試合が終われば人間同士に戻り、、抱き合って健闘を称えます。人間も全く同じプレイ中は自由意志を完全に使い倒し、結果を出すために健闘します。ですが結果が出れば、、、神としてこれを受け入れる、、本当は自由意志も自由行動もない、、ここに視点を戻すのです。すると勝っても負けてもどちらも同じ、、ただ平和の中で安堵の中で愛の中で結果を楽しみます。

人類皆兄弟

全員

この世界の全員が自由意志がなく自由行動がなく自由感情がないんです。。。これって凄いことじゃないですか?????にも関わらず全員が自由意志があって自由行動があると信じています。だから争いが絶えない、喧嘩が絶えない、妬み嫉みが絶えない、恨み怒りが絶えないのです、、これを全部解消する事実、、それが人間には自由意志も自由行動も自由感情もない、、という真実です。

今ここで悟る

自由意志があるから過去の実績過去の人生の全ては自分に背負わされます。すると、、いや正直自分の人生なんてこんなもんですよ、、、という投げやりの気持ちが芽生えます。だって今更成功者にはなれないし、有名人にはなれないし、こんなもんですよ!!!の話です。ですがそれでいいのです、、それがいいんです。何もかも全部自分で決めていないし勝手にやらされてきただけなんです。この究極の投げやり、それが解放です。全ての責任がぶっ飛びます。

しょうがない

この言葉で全部片付きます、、全部が全部勝手にやらされたのだから起こった事実は「しょうがない」で受け入れるだけです。これ以外の方法がありません、本当はこうした方が良かったよね!!!はないんです。人生には。これしかない選択肢を延々と選ばされてきただけなんですから。そしてそれはこれからもそうです。いつ死のうと、いつ寝たきりになろうとも、、それを回避できる方法はなかったのです。

悟り

悟りとは、、、この真実を受け入れることです。何もかも今の現状以外の選択肢はなかったという究極の気づき、、です。本当は他の人生があったのでは、、はないのです。それはこの友人の人生にもありえないし、この友人もあの友人も、周囲でこの人生以外を選ぶチャンスは絶対的になかったということです。もっと素晴らしい地球があったのでは???ないんです絶対に。これしか選ぶチャンスはなかったのです。

自由意志がないという瞑想

完全な瞑想

自由意志がないという事実を理解することはそのまま瞑想になります。ここからでてくる思考を観察者として眺めることができるのです。何がここから出てくるだろうか???という観点になって思考を眺めることができます。実際にそのようにしますと「ここから出る思考」は面白いとなります。今日はこんな思考が沸いたな、明日はどんな思考が湧くのだろう???という観点です。まるで他人事です、、ですが一方でこれを観察する視座は究極の愛です。

他人事で完璧

この体から湧く思考、行動、感情をまるで他人事として観察する視座を持つことは、、、究極の安らぎの中でこれを見守れるようになります。すると他人周囲の発言、行動に対しても究極の愛でこれを見守れるようになるのです。誰も彼も自由意志で思考し行動していないのです。完全な自動運転自動操縦です。それを究極の視座で観察します。これは虚無主義でしょうか???違います、軽いんです、軽いから好き勝手な思考感情行動がここから起きます、それを楽しみます。

一人無双

結局のところ人間は自分を責めるか他人を責めるかして人生の多くの時間を無駄にします。自分を責めて落ち込み、人を責めて怒りに狂う、、自分の行動に悩み、人の行動に悩みます。ですが真実を理解すればそれは不可能なんです。誰も彼も自身の行動意思感情をコントロールできないのです。これが分かってどうやって人を責めれますか???どうやって自分を責めれるのか????どうやって悩めるのか????という話です。これが一人無双です。敵が居ない、自分も敵にならない、、、完全無双です。