紙一重

犯罪

私たちには自由意思が一切実はありません、ですから犯罪者になるのか奉仕者になるのか、一切の選択肢がないのです。週刊文春に載ってしまう芸能人とそうでない芸能人の違いは完全に紙一重です。明日何かをやらかす可能性は全員が100%全く同じ確率で所有します。ですからそのことを踏まえて対人関係を築いた方が賢明です。人格者ぶって大上段から物を言ってもその人も100%の確率で明日は我が身なのです。

とはいえ

とはいえお店で何か失礼をされても「黙っていろ」とは言いません。そのことを百も承知で発言する時そこに「慈しみ」が生まれます。私もやらかす可能性が100%あることを承知で発言するのとしないのでは全く異なるからです。常に常に自分もやらかす可能性を自覚した状態で人に意見を言うのは全く違います。極悪劣悪な手法で人を騙し続け一切の情もなく殺め続ける人と「私」は紙一重なんですか?????そうです、完全に紙一重です。なぜならば自由意志が100%ないからです。その上で誰も本当は「悪くもない」し「善くもない」のです。

じゃあ犯罪しまくっても問題ないのか?????

本当は本当は誰しも全く自由意志がないと分かった時「慈しみ」の感情が生まれます。本当は誰も悪く無いんだ、、本当は誰も責められるべきではない、本当は誰も好きで「嫌われ役」をやっていない、本当は誰も好きで「疎まれ役」をやっていない、、そこが理解できた時に「誰かに迷惑をかけよう」という発想が湧いてこなくなります。「被害者意識」が消え去った時「加害者意識」が消えます。

悟り

悟りとは「実は全員が紙一重」であることを理解することです。「覚者」と呼ばれる人々も完全に紙一重に「犯罪者」になる可能性を秘めています。自由意志がないことを理解した時に「ニュースの事件」を他人事とは全く思えなくなります。そして全可能性を認めた時「重さ、プレッシャー」から解放され皮肉なことに「悪事」がこの見かけ上の「私」には起きにくくなるのです。

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