自我

自我は「苦しい」以外は最高のプログラム

「この体、この思考、この感情は自分」というプログラム

自我とはこの体の防衛システムです。この体の中の自分という存在がいると信じることで「体+自分」の二つを守ろうとシステムが起動します。例えば三食しっかりと食事を出してくれる家に住んでいて、、「学校に行くと悪口を言われるから嫌だ」と家に籠もれば、、、、体は絶対に家で守られていますからこれで体を安全保持できます。悪口を言われたは自我であり、、その自我の防衛システムが働き家に閉じこもれるのです。もしも体だけの存在ならば悪口を言われても学校に行くでしょう、、するとリスクは上がります。

安定した就職先

晴れて大手企業に勤めることができたとしましょう、、、この体この思考この感情を自分とする自我が、、、これで体を保持できる、これで社会的評価を保持できる、、、と満足という感情が生まれます。私は大安泰だ、、という思考が感情が生まれます。そしてそれを失いたくはない、、という思考感情も生まれますから、、この体にとっては最高のシステムが完成するわけです。

「苦しい」だけが残る

自我システム唯一の問題点は、「苦しい」これだけなのです。ここだけが大問題なんです。この体の中に自分が居るという思考感覚は、、このストーリーの中でこの自分をリスクから避けるために非常に強力に働くのですが唯一の弱点が「苦しい」なのです。なぜかといえば、、自分、私というのは嘘なので、、ひたすらに本当は誰だ????が止まらないのです。憤りがひたすらに起こるのです。ここだけが自我システムの問題です。

大いなる存在は

この自我システムを発生させたのは大いなる存在です、、そしてこの苦しいを読み込み続けるのも大いなる存在です。だから「私がなんとかしなくては!!!」が起こり続けこのストーリーは続きますが、、でも消えないんです。「この体この思考この感情が自分」が完全なる嘘であることに気づくまでは消えません。

自我の拒絶反応

否定に怯える人々

考えを否定されることに対して極度に怯える人々がいます。これは考え方=自分自身としっかりとなっている方々です。例えば本などで考え方について学ぶことを習慣にしていない人々は自分の考えは経験が確実に支えているわけです。ですからその方にとっての真実そのものですから「考え方」が血と肉レベルになっているのです。その考え方を否定されてしまうとなると、、、自分の内臓を否定されるレベルの感情が湧き出し苦しいわけです、事実として。

感情が湧き上がる

思考観念価値観の否定が、、そのままその人自身の否定になり、、空に閉じこもると、、、、どうなるか????空の中も苦しいわけです、閉じこもったところでそれもまた苦しいとなります。なぜ苦しいのか???「この体この思考この感情が自分」という思考感覚そのものがそのまま「本当の自分は誰だ???」という疑問を起こし、、憤りを感じています。ですから空に閉じこもっても苦しいのです。最終的には空の中が苦しいので外に出ようとする動きが始まります。

否定されても肯定しても苦しい

思考を否定されても苦しく、、思考を肯定されたところで苦しいのです。金メダルを取った選手は出版社から「あなたの考え方」を本にしませんか???とオファーがきます、、まるで自分が本当に認められたような錯覚を感じます。そしてその本が大ヒットします、、そしてこれも自分が大きくなった気がするんです。そして事実自分が大きくなっているんです、なぜならば自分の思考=自分だから。その思考が多くの人に認めらられる=自分が認められるだからです。

ですが

ですがどこまでいっても「自分」とは完全に虚構、嘘、偽りです、、、結果嘘が大きくなることで逆に「苦しい」が湧き出してくるんです。周囲は全くもって嘘とは思っていませんよ、「自分」の奥にある何かがその嘘に気づいているんです。だから周囲から認めらえれば認められるほど、、、同時に「苦しい」が湧くのです。嘘を重ねて大成功した詐欺師が、、夜になると怯えて寝る、、、みたいなことです。

エゴの無意識の活動

エゴに対して意識的というのはない

エゴとは「この体この思考この感情が自分」という思考感覚が完全強固になった状態です。ですから思いついたアイデア=自分、、傷つた感情=自分ですから、、、「誰かに傷つけられた=自分」、、、じゃあ「やりかえしてやれ!!!というアイデア=自分、、、、の流れを止める方法がありません。やりかえしてやれ!!!がアイデアとして湧いてきた時に、、、それはあくまで湧いてきたアイデアに過ぎない、、、という俯瞰した感覚があれば、、、辞めとこう!!が湧きますが、、、、、それがないんです。

湧いてくる思考全部=自分

やり返してやれ!!!!が湧いてきた時、、、それがそのまま自分、、、、、であれば、、そのアイデアを疑うということはありません。ですからそのまま動くになります。多くの方は湧いてくる思考を自分が湧かせたとお見込んでいます、、、ところが実際は思考、アイデアは勝手に起こっているのです。。。思考になれ愛着があるかといえば「私の思考」だからです。だからそのアイデア思考に執着します。

私の思考が粗末にされた

約束事が守られなかった場合、、、なぜ人は怒り出すのか????それは「私の思考」が粗末に扱われたと感じるからです。「私の発言」が忘れられて粗末に扱われたと感じたからこそ怒るが勝手に起こったといくことです。エゴに同一化し無意識で生きている人々が性格が悪いとかそのような話では全くなく、、感情が自動反応で起こるということです。

考え方の否定

エゴと同一化、自我と同一化している人々に対して、、、、その考え方を否定しようものなら、、とんでもない拒絶反応が起こります。それは思考=自分ですから、、思考の否定は、、、自分の否定だからです。自分が消え去ってしまう自分が殺されてしまうような感情が自動反応で起こるのです。ですが「自分」を守るという点では非常に優秀な動きであり生物としては問題ないのです。

苦しい

自我との同一化、エゴとの同一化は生物としては非常に優秀でシンプルな行動でしょう。ところが問題は「苦しい」のです。「思考、感情は自分」という思考感覚は真実でないんです、嘘なんです、、、ですから、、、真の安らぎ、真の平和から一番遠いところに居るんです、、、この思考を信じると、、「痛み」が発生します。だから生きているのが辛い、、、となります。生物としては自身を否定することに拒絶反応を示し安全ですが同時に苦しいからは逃れられないのです。

今理解できなくていい

悟りに関する理解

自由意志はないんですよ!!!これを聞いてそうなんだ!!とは絶対になりません。自我がこの手の話を聞いて満足して受け入れるということは絶対にないのです。まぜか??????自分の存在を大きく見せるために何千万円のマンション、宝石、高級車を買ってしまうような動きが、、、、自由意志はない!!を素直に受け入れるわけがないんです。自分を守るために全国中継の記者会見で嘘をつくようなエゴの動きが「自我は存在しない」を簡単に受け入れるわけがないんです。

ですが

ですが、、自由意志はない、自我は偽り、、、、この話を聞いている、読み込んでいるのは誰でしょうか??????私ではありませんよ、自我ではないんです、エゴでもないんです、、、大いなる存在です、、、全部大いなる存在が聞いている、読み込んでいるんです。頭に入らないと思っていますが、、違います、、読み込み拒否をしているんです。この内容を内容通りに読みこんでしまったら、、エゴシステムが消えてしまうんです。自我システムが上手く機能しなくなってしまうんです。だから拒否します。

「私」は年度末で終了です

この会員証は年度末まで、、この免許証は年度末まで、、この「私」は年度末までしか使えません。。。焦りますよね、困りますよね、、、、待ってよ!!!この感情が大いなる存在から湧き上がるのです。「この体この思考この感情が自分」という思考感覚が体に反応しちょっと待ってよ!!!!が起こるんです。だから読み込みエラーが続きます、悟り関係の書籍は読み込みエラーがしばらくは続くんです。

少しずつ大いなる存在の読み込みが始まる

ところが大いなる存在はビビリではありません、大いなる存在は臆病じゃないんです、、、ですから少しづつ確実に読み込みエラーが解けていきます、、、自我のシステムが徐々に緩み始め、氷解し、柔軟になるに従って、、真実の内容を大いなる存在が読み込んでいきます。救われるには、苦しみを終わらせるには、、、真実に戻る以外にないことは大いなる存在が一番分かっているのです。

完璧の概念

過去を振り返って

過去を振り返ってみます。生まれてきて自我が形成されるようになり小学校に通い、、、あらゆる経験を重ねて今があります、、、、過去にはあらゆる選択ミス、後悔もあるでしょう、、、ですがその全てにおいて自由意志は一切ありませんでした、、すると過去は完全に人任せで行われてきました。。。人とは誰か???大なる存在です。大いなる存在の完全完璧な映画を我々は歩んできたんです。

今後の未来

今後の未来も、、、完全に自由意志がない状態で人生は進んでいきます、、では誰の人生なのか?????大いなる存在によって完全完璧な自動反応による人生です。これからも大いなる存在による人生を歩んでいきます。つまり私たちは私により私のための私の人生を歩んできたつもりであって、、、本当は完全な大いなる存在の映画を生きているだけなのです。

完全完璧

ですから、、、本当は全員の人生が完全完璧なのです、、完全完璧じゃないと思って後悔するのも完璧なんです、、そして実は完全完璧でそれに気づいていきていくのも完全完璧です。完全完璧じゃないと思って後悔しながら焦りながら生きていく完全完璧な人生と、、既に完全完璧であることに気づいて生きていく完全完璧な人生があるのです。

自由意志があるという感覚は残る

全て受け身の感覚で生きていけばいいんですね???違います。。。どれほど積極的に生きても、、その選択は最初から用意されていたということです。受け身で生きよう、積極的に生きよう、、というこの選択が実は用意されていたということです。自由意志を選択しているという感覚はこれからも変わらないでしょう。ですがその最終選択は用意されていたということです。これによって後悔、焦りという感情が湧かなくなっていきます。後悔、焦りは「私には自由意志がある」という思考が生み出したものだからです。

色が空に気づくことはない

色は空の中に出来た幻影

この体もこの自我もこの思考もこの感情も即座に気づかれるのはここが空の中だからです。空は色に気づくという動きは起きないのですが空の中、幻影の中では気づくが起きます。色とはつまり気づく、気づかれるの世界です。そして空では何も起きていません。空の幻影の中でこれらは起き続けます。空から幻影が起こりその中であらゆる現象が気づかれるわけですから何かが空の存在に気づくというのは不可能です。ですが空の幻影全体が全体に気づくこは可能です。

この自己感覚は

この自己感覚は現象の一つです、この体の中に自分が居るという感覚が気づかれているのです。ですがこの自己感覚は色の現象ですから消えることがあるわけです。その時に、、空の幻影全体に戻るのです。それが悟り、解放。目覚めです。ですがこれは空そのものになるということではなく空の幻影全体に気づく全体に戻っただけなのです。小さい子供はまさにその状態で生きていますから将来不安とは意味不明なんです。

空の幻影全体(色)が

空の幻影全体(色)としての感覚に戻った時に、、寂しいとか苦しいとかあるわけないんですね。そこはもう真の安らぎでしかない、、ただこの体は現象として起こり続け見かけ上あらゆる成功失敗をしますからあらゆる感情は起こり続けます。それは小さな子供が感情豊かなのと同じです。

色は空の中で起きる

投影は絶対の中で起きる

私たちは今どこに居るのでしょうか????たった一つのエネルギーの外でしょうか内でしょうか???たった一つのエネルギーの外にこれがあるならば、、ここはたった一つのエネルギーと分離していることになります。間違いなくここはったったひとつのエネルギーの中にあるはずです。そしてこの幻影、投影、映像はたった一つのエネルギーの中で起こっているのです。

自我が消えた瞬間

なぜ無我夢中で何かに没頭している時、、真の安らぎの中にいれるのでしょうか???なぜ絶対絶命に危機の時に、、真の安らぎの中に入れるのか????それは、、ここがたった一つのエネルギー内だからです。そしてその中に自我という分離感覚を作ることができますと、、「本当は誰だ???」が同時に起こります。なぜならば「この体この思考この感情は私だ」という思考は即座に読み込まれイメージ化されるわけですが、、それは真実とは異なるから、、憤りが生まれます。この憤りを消すためにさらにあらゆる思考が湧き上がっていきます。これが苦しみです。ですがこれらは全てたった一つのエネルギー内で起きているのです。

どんなに孤独でも

どんなに孤独でも、、、今居る場所はたった一つのエネルギー内です。そしてここは真の安らぎが漂う場所です。にも関わらず孤独を感じているのは、もしくは孤独感が起こっているのは「この私」がこの体の中に起きたからに他なりません。人が自殺をこの場所で図るのは、、自我が消えればこの場所(たった一つのエネルギー)に戻れることを知っているからです。まさかのこの場所は絶対安全領域です。

悟ると経済的な成功者にもなれるのか???

分からない

先のことがどうなるか????こういう条件が揃うとどうなるか????これらは全部無知から来た質問です。全ての現象は「異次元の何か」から起こるのでそれをコントロールできる自分というのは存在しません、コントロールできると思っていた自分が実は居なかったという気づきが悟りです。ですからこの見かけ上の世界でのこの体が大きなお金を取得するかどうかは全く分からないのです。

ただし

先ず第一に悟るとは「異次元の何か」からこの現象が起こりその中にこの体が起こりただこの体を通じて体験が起こることに気づくことです。この時自我ありきの感情である「苦しみ」が起きないのでそれだけで真の安らぎを得ることができます。その安らぎの中でも勿論この体の活動は続きますから世間的には失敗成功が続くわけです。ですがこれが真の安らぎの中で起きるというのは重要なところです。その時にビジネスに集中するが起こるかもしれないし全く仕事に関心が向かないかもしれない、、、ということです。

真の安らぎの中で

小学生が遊びで株をやっていたら面白くて大金持ちになってしまった、、、こういうケースは稀にあるわけです。楽しんでやっていただけなのにお金まで得てしまった、、、これは十分にありえるでしょう。ですが悟りが開いた後に、、無料での講演会が楽しくて仕方がないというのもあり得ます。そうなれば真の安らぎの中で世間的には貧しい生活をすることになります。

重要なこと

収入を得ること、地位を得ること、リア充の結婚をすること、、、この先に求めることは真の安らぎなんです。これは絶対に間違いないんです。毎日ハラハラドキドキしたい、、は嘘なんですね!!!なぜならばそれは疲れるんですよ。毎日高級シャンパン飲み倒していても翌朝疲れますから。。その先には間違いなく真の安らぎを求めているんです。それを最初から叶えちゃうのが悟りです。その後にやりたいことはクラスメイト全員違うのです。

許すとは見抜くこと

子供同士の喧嘩

子供同士がお菓子の取りあいで喧嘩をしたりします。自分のお菓子だ、相手のお菓子だ、、お菓子の所有権で争うわけです。大人はそれを見てお菓子ごときで競い合って可愛いねーとなります。大人にとってはお菓子が些細なものであると見抜いているのです。ところが大人も金銭トラブルでは争うのです。10万円という金額で争いますね。これを高い視点で見れるようになると10万円という金額で争うということがなくなります、先ず解決できないようでしたら警察、弁護士に相談して法廷で争えばいいとなります。このように相手に対して許せない、、という感情がでるのは見抜けていないからです。

大人同士が争う時

大人同士の争いはエゴが絡みます。先ず自我というものを形成すると「苦しい」が常にあります、ストレスを常に抱えている状態です。この状態でミスを犯しますと、、、そのミスに腹を立てるという状況になるのです。大人は基本「苦しい」に侵されていますから、、それを前提に争いが起きるのです。そのことを理解しますと実は相手には非はなくとも争いは常に起こり得ることが分かるのです。

争いの原因が自我

争いの原因が自我であると、そして自我は実は存在しないと。つまり人間は全く存在していない存在を存在していると思いこみそしてそのことで苦しみを抱えトラブルを起こしているのです。相手の行動は実はきっかけでしかなく本質的には偽りの自分が作り出した毒を食らっているだけなのです。これが分かってきますと人を恨むのは無駄であり何の解決にもならないことから許せるということになります。

善悪がないのならば人殺しは???

起きることが起きるならば

この現象界ではニュースなどで人殺し、殺人事件などがあったという現象が起きます。全ては起こるのだけなのだから人殺しもただ起こるのか???ということです。分離感覚を持った社会では基本人々は苦しいので、、、その苦しさゆえにトラブルが起こり、、最終的に人を殺めるという展開まで起こることはあるでしょう、現象として。ですがそれは分離意識がそうさせるのであって分離感覚が削ぎ落とされた場合には「苦しみ」がないのですから人を殺そうという動機が起きにくいのです。三億円の宝くじが当たった後に人の悪口を飲み屋で朝までした、、がありえないのと同じです。

世の中の悲劇は

世の中の悲劇は自我が起こした分離感覚が大きな原因です。先ず最初にここなのです、分離感覚がなく苦しみはない状態で人を責めようとか、攻撃しようとか発想が起きない。お腹いっぱいのライオンがシマウマを殺さないように必要がまったくないのです。だから我々は何も恐れず自我を俯瞰し自我を解体することにすればいいのです。この苦しみを終わらせたという衝動が今あるならばその衝動の根源に向かえばいいのです。

何でも起きうるのは確か

この世界は完全なノーコントロールですから勿論自我抜け落ちた後に犯罪に走るということは見かけ上起こるかもしれません。それをコントロールする誰かが居ないのですから。ただし自我が形成されていたとしてもノーコントロールは同じなのです、、、ですからやはり何でも起き得るのです。苦しみのない状態でも何でも起きえますし苦しみがあっても何でも起き得るのです。