自分

各指は自分が一番正しいと言い張る

指も居ないし、自分もいない

なぜ各指は自分が一番正しいと議論するのでしょうか???腕全体(神)から指だけが独自の進化を遂げ「自分」という思い込みに完成した各指はそれぞれが一番正しいと意見を言い合います。我々が見ている世界には絶対的に正しい答えというのが間違いなく存在しその答えを出そうではないか!!こうなります。タケシのビートタックルでは何十年間もこれをやっていますね。ですがこれが答えです、、などという絶対の答えが出た試しがない、、、、そろそろこの事実に気づかなくてはなりません。

各指ごとに別々の世界がある

結論をお伝えすれば各指が生きている世界が全く違うということになります。全員が違う世界を生きているのです。実際には腕本体しかなく、、全く同じ世界なのですが、、、各指は自我が完成されることで各々の思考、価値観を形成するようになりその価値観というフィルターを通じて腕全体を眺めるようになるのです。これによって本来は腕でしかないこの世界が全くの分離した世界に格下げされてしまうのです。これが指こと人間が生きている独自の世界です。だからこそ我々は何十時間の議論を重ねても一つの答えに辿りつかないということになるのです。

議論も争いも無駄ではあるが、、

議論も争いもそういう意味では全くの無駄ということにはなります、ですがあえてそこに意味を無理くりつけるならば、、議論の末に答えが出ないという答えを見つけることに価値があるでしょう。結局正解なんてものはない、、これに気づくきっかけこそが議論や争い、紛争です。そういう意味では世界に無駄な争いはないのです。無駄な夫婦喧嘩も無駄な職場トラブルもないということ。この圧倒的な事実に気づくヒントになります。

今から5分前までの行動に自分がいたか?

5分前から遡ってみる

5分前から遡ってみて果たして「自分」という存在が自覚的に行なった行動はあるでしょうか??もしも食事をしていたとして本当に自覚的に箸を動かす自分はいたでしょうか?箸の動きの細部にわたって自分が自覚的に動かしてきたでしょうか??間違いなく自覚がないはずです。自分というのは思考ですから自分が何かを自覚的に行うのは不可能なのです。「自分」がやったという後付けぐらいしかできません。

自分が思考ならば、、自分が何かをやるなど不可能

自分という確固たる存在がこの世界に居るわけがなく、、、自分とは思考です。そうなると自分が何かをするって不可能ですよね???自分がいないのですから、、思考はありますよ。私は仮面ライダーだ。。。こう真剣に信じていてもそれは思考ですから、、、何かを行う仮面ライダーは実はいないのです。仮面ライダーがやったという錯覚は常に作れますが、、、

自分は仮面ライダーと一緒

子供の頃は小さい頃仮面ライダーになり切って何かをしたりしますが、、、何かをする仮面ライダーは実際にはいません。何かをした仮面ライダーが居るという錯覚を起こすことはできます。これは自分も同じです。何かをする自分は存在せず、、何かをした自分が居るという錯覚を起こすことしかできません。本当は全部全自動で起きていますがそれを自発的にやったと思う「自分」が居るだけです。落ち込む仮面ライダー、悩む仮面ライダー、楽しむ仮面ライダー、全部思い込み、錯覚、偽りです。ですが本気で自分を仮面ライダーと思い込むことはできます。それでも。

自分とは外部情報の集積

両親や友人の反応で自分を決めている

自分とは外部情報の集積です。友人や両親から言われてきたこと、、名前、性格、性別、年齢、、、ETC 、、それらの情報を集めて「自分」を形成します。全情報の集積が「自分」になる、ということは自分とは外部情報の集積ということになります。内部情報ではない、、、外部情報のみ、、、自分とはつまり実態がないモノなのです。

全く違う環境に生まれていたら

おかしな話ですが、、、全く違う両親に育てられ、全く違う友人に囲まれていたら、、、自分とは全く違う存在になっている可能性があります。名前、性格、長所、短所、特技、髪型、、、全部違うのです。そうなると「自分」とは本当に実態のないモノであることが理解できます。自分とは外から決められた情報をかき集めたに過ぎないということです。

自分とは幻想である

ここまで来ると理解できると思いますがこれこそ「自分」が幻想と言われている所以です。実態がないのです。外部情報をかき集めただけの「自分」中身がないのです。自分とは幻想であり、、そして見ている世界もまた幻想です。自分という幻想が所有する思考、価値観がこの見える世界を作り出し実態があるかのように見せてくれます。この事実に気づくと急に重さがなくなります。

自分とは「絶望」の意味

自分とは絶望

自分とは絶望です、なぜか???神はこの体、思考、感情のみを「自分」と意識することに成功しました。その際に何を失ったか??全体としても、神としての自分です。これだけ偉大で壮大で広大な自分を捨てて、、、この「自分」になったのです。これはもう絶望でしかありません。さらにこの「自分」はそのことを忘れていますから絶望がどこから来ているか既に分からないというおまけがつきます。

この絶望感はなんだ????

全体としての自分、神としての自分、大いなる存在としての自分を完全に忘却し、、この体、思考、感情のみを「自分」とする行為は絶望でしかありません。完全忘却はこの絶望をややこしくします。この絶望の真意が分からないのです。この「自分」は常に絶望を抱えながら日々生きていくことになります、この絶望感を忘れるようにひたすらに気晴らしを求めるようになるのです。

気晴らしではこの絶望感を解消できなくなる、、

全体であること、大いなる一つであること、神であることを完全忘却し、、この体、思考、感情のみを「自分」とするのは絶望です。この絶望感を感じたくないから人間は日々気晴らしに精を出すのですがそれでも限界があります。どれほど気晴らしをしても一切無くならない絶望感に気づいています。体力が落ちてきてもう逃げきれない、、この絶望感と対峙するしかない、、そういう危機にどこかで陥ります。これは人間にとって危機ですが私からすれば自我の消滅、自分の解体の絶好のチャンスでもあります。

自分の一番の恐怖は自分の消滅

神はこの人間の体に閉じ込められさらにこれを消滅したくない

神とは本当に矛盾を秘めた存在です。この体に閉じ込められ非常に苦しい思いをしているにも関わらずこの自分を消滅させたくないと思っています。苦しいにも関わらず自己を存続させたいと願っています。なんという自己矛盾、ドM体質と言っていいでしょう。アメリカ南部で奴隷解放運動が起こった際にそこから奴隷を積極的に辞めた人間が少なかったという事実があります。つまりこの自我とはどれほど苦しくても今存続できているならばそれでいいのです。

コンフォートゾーンはそれを完璧に説明している

苫米地式コーチングのコンフォートゾーンは自我のこの働きを完璧に説明しています。自分に成り切った神はその状況がどれほど苦しくても「自分」が存続できているならばそれを維持したいのです。だからこそ進化することを嫌います。進化とは今までの自己の消滅だからです。自分が進化を継続していけば行き着く先は自分の消滅です、なぜならばこの自分は錯覚だからです。

自分のセルフイメージを上げ続けていく

自分とはこういう人間だ、このセルフイメージを常に進化させていきます。「自分」という存在をなくすのではなく「自分」を進化向上させ続けていきます、するといつの間にか「自分」=「神」になります。マズローの欲求五段階説のように自身の欲求を進化させていき、、最終的に「自分」は神であったという境地までセルフイメージを上げていくのです。このやり方ならば「自分」の消滅を極端に恐れる自我を上手くコントロールできます。

自分は全体を知った時に再び全体の王になろうとする

自分が無くなると全体になるにも関わらず

自分とは面白いもので悟った後もこの自分が悟りの王になろうとします。悟った自分としての覇権取得です。ですがこの自分が居なくなった状態こそが悟りであり再び主権を奪い返せばもう悟りではありません。これを苫米地式コーチングで説明すると面白い。神のコンフォートゾーンが人間になった状態が「自分」です。そしてこのコンフォートゾーンがシフトして神が神であることがコンフォートゾーンにシフトした状態、これが悟りです。この時点で人間としての自分は居ません、コンフォートゾーンがずれてしまっているからです。ところがコンフォートゾーンがシフトする前にこの状態を垣間見てそのままコンフォートゾーンが人間に戻った状態こそが自我、自分が理想とすることなのです。自我は絶対に自我を消滅させたくないので手が込んでいます。

目指すべきはコンフォートゾーンの完全シフト

目指すべきは自分の完全解消です。コンフォートゾーンの完璧なシフトです。人間であるというコンフォートゾーンから神であるということにコンフォートゾーンをズラすことです。神が神であることにコンフォートゾーンがシフトすると人間は神の一部になりますから人間の個別意識を維持できなくなります。これが自我の消滅、終焉です。人間の個別意識とはコンフォートゾーンが人間にあることを意味するからです。神にコンフォートゾーンがシフトすれば人間、元自分は神の表現に戻ります。ですがそれでも五感はあるし思考も感情も湧き続けます。それを所有する自分がいないだけです。元自分がそれを所有するのか、、所有したらそれは自分です。

神は苫米地式コーチングを使って人間になった

神はどうやって人間になったのか??簡単です、、、私は人間である、、ということを信じれるようになるまで情報を滝のように浴び続けたのです。。両親の声かけ、学校での暗記、、全部です。これって苫米地式コーチングでいうゴール側の情報を浴びるように収集しゴールに臨場感を持たせるというアレです。ゴール側に臨場感、リアリティーを感じ続けていけばゴールに親近感、コンフォートゾーンがシフトするというアレです。苫米地氏が口を酸っぱくするまで言っていることそのままです。赤ん坊は、、、両親から滝のような声かけを浴び続け、、私は人間であるというコンフォートゾーンを完成させたのです。神はこうして人間になりました。

一瞥体験は「自分=神」を垣間見ること

自分のコンフォートゾーンが神になった人は悟り、「自分=神」の体験は一瞥体験、覚醒体験

問答無用で我々はたった一つのエネルギーで構築されているにコンフォートゾーンがシフトしてしまった人は覚者です。実は自分は神だった、、、この体験を積んだ人は一瞥体験者、覚醒体験者、空感体験者でしょう。自分はいつでも神だ、、、ここにコンフォートゾーンがシフトしてしまったら全事件、全トラブル、全惨事をもう「自分ごと」にできない、、、この個人に起こる事件とは捉えることができなくなります。なぜならばこの個人、自分という感覚が圧倒的に思い込みであったことを知ってしまったからです。コンフォートゾーンがシフトしてしまえばそうなります。

それでもこの視覚、この聴覚、この嗅覚は機能し続ける

全五感が働き続け人間活動は今日も続いていくわけですが、、、、この感覚こそが神が人間にコンフォートゾーンがシフトしてしまった要因であることが腹落ちしますともうその手には引っ掛からなくなります。思考が湧き、感情が今日も湧き続けますが、、、これこそが神を人間というコンフォートゾーンに収めてきた要因です。神は人間に成り切れた要因こそがこの五感、思考、感情、体です。

神の人間ゲームは仕組を理解して終わる

人間というこの体が存続する以上、、この体は宇宙空間で機能し続けます。ですが神=人間、、、この感覚は日に日に薄らいでいきます。なぜならば神=神が本来だからです。神=人間はコンフォートゾーンがそこにフォーカスされただけの状態です。神の凄いところは神=人間を人間が生まれ死ぬまでやれてしまうことです、これぞ神です。ですが神=人間が実は偽りであることが分かってしまった今それを盲信し続けるのは逆に難しくなっていきます。

自分が神ならばなぜこの世はこれほど理不尽なのか?

自分が神でこの理不尽は意味不明

自分が神だとして、、、この理不尽に満ちた世の中は何なんでしょうか?犯罪が横行し、一部の富裕層に今もなお金が集まり続ける、、、こんな世の中を作ったのが自分なのか???という話です。違います、、、この世は完璧なのです、、完璧なのにそれに気づかない人間が富の奪い合いをしているだけです。その証拠に野生動物は食べれる以上の狩を絶対にしません。蝶が必要以上に花の蜜にたかることはありません。どこまで行ってもこの悲惨に写る惨事は人間が引き起こしています。

コンフォートゾーンを「自分」から「神」に

この世はから犯罪をなくすためには自分が神であったことを思い出す以外にありません。コンフォートゾーンを「自分」から「神」にシフトさせます。例えば日々何かに集中すると集中している期間はなぜ幸福なのか?なぜお酒を飲んで記憶が曖昧な時に幸福感があるのか?なぜ絶対絶命のピンチ、火事の状態で心が穏やかになるのか?何かを完璧に諦めた瞬間に安堵に襲われるのはなぜか???全部「自分」というコンフォートゾーンが抜け落ちたからです。

「自分」というコンフォートゾーンは最強

自分が成功者になる、自分が有名人になる、自分が大出世する、、、これらのコンフォートゾーンはできても「自分」を「神」にコンフォートゾーンをズラすのだけは難しい、、、なぜか?この五感、思考、感情が完璧なまでにこの「自分」に縛りついています。五感、思考、感情がこの「自分」をこの世から完全に分離させ分離体験を可能にしているのです。この嘘、仕組みを見抜くのは至難の技です。そしてこんな情報、メッセージはマスメディアに載ることは絶対になく、だからこそ受け身で情報を取る人間には一生届かないということになります。

自分のコンフォートゾーンを全体にシフトする

コンフォートゾーンを自分から全体にシフトする

自分が神であった、、この気づきは自分というコンフォートゾーンが神にシフトした瞬間です。我こそは自分であるというコンフォートゾーンが、、我こそは神であるにシフトすればそれは悟りです。覚醒体験ではなく悟りです。この体、思考、感情を自分としてきたコンフォートゾーンを神=自分にシフトさせます。自分自身が実は神であるという事実を常に自身に突きつけていくことでコンフォートゾーンがシフトする可能性があります。

あなたとはこの体、思考、感情であるという洗脳を受けた幼少期

一万回の呼びかけであなたはこの体、思考、感情であるという概念が受け付けられました。これが幼少期の洗脳です。コンフォートゾーンがこの体、思考、感情になったのです、それまではコンフォートゾーンは全体でした。そして我々の多くはこの体、思考を自分であるというコンフォートゾーンを一生変えずに生き続けるのがほとんどです。ですがそのコンフォートゾーンはエキサイティングですが苦しいものです。

自身は神であることを思い出すまで情報を浴びてみる

結局のところ自分は神であることを思い出すまで思い出すような情報に触れる以外にコンフォートゾーンをシフトする方法はありません。いかに浄化してもいかに行をしてもこの個人に絶対的なコンフォートゾーンが敷かれていればシフトはしません。自身が神であることを思い出した人の書籍やブログなどを読むことでその感覚にリアリティーを作り出しコンフォートゾーンをずらしていきます。このブログもその一つです。

自分とは自ら分かれたと書くが全体から分かれるなどできない

自分とは自己矛盾

自分とは自ら分かれたと書くが全体から分かれるなど実際にはできません。なぜならばこの世界を構築するエネルギーはたった一つでありたった一つのエネルギーは分離できないからです。にも関わらず自分という存在は文字通り自ら分かれたとなっておりこれは矛盾を抱えています。実際には自ら分かれたと錯覚しているというのが正確です。たった一個のエネルギーの中に「自分」という形状が異なる存在が登場したというのが正解です。

自分は自己矛盾全開

自分とは自己矛盾全開ですから常に苦しい存在です。例えばたった一人で生きていれば孤独感を感じます、完全に全体から分離できているならば完成しているわけで孤独感を感じる必要はないのですが実際には常に孤独感を感じずにはいられない存在なのです。この点も自己矛盾を抱えている証拠になります。そのそもが全体から形状を変えて存在しているだけですから全体に触れる機会を得ることで「自分」は徐々に崩壊していく運命にあります。

自分は全体に触れていく

自分とは全体から形状を変えた存在であるので常に全体に触れる機会があります。例えば熟睡時、大惨事の無心時、何かに集中して無心になっている時、何かを達成した瞬間、何かを手に入れた瞬間などです。これらの機会には「自分」は瞬間消えてなくなるので自分を取り戻した際に全体を思い出さずにはいられません。こうして自分は徐々に徐々に全体への帰還を夢見るようになっていきます。