思考は直ぐにストーリーに持ち込む

全ての現象を

思考は何でもストーリーに持ち込みます、、、例えば雨が降る、、、という情報が起きたときに、、、では明日は傘を持って行こうか、、辞めとこうか、、そういえば明日は残業が、、、などなど、、、全部の現象の私のストーリーに持ち込み、、善悪、良否、損得の判断でもってこれを迎えます。本人はそのことで本人の得るメリットが向上すると思っているのですが、、そのストーリーの中こそが苦しいのです。重要なことはこの場所はストーリーの場ではないという気づきです、、、その時その時何が起きるか全く分からない超現実、、それが真実です、、、超現実に住むと、、そこは静寂、平和が漂います。

現実という幻想に住まない

多くの方が思っている現実は幻想です、、この幻想の中に、、私というやはり幻想を作り出し、、、私(幻想)が存在する場所(幻想)を作り上げました、、、その中でなんとかこの私は安全に楽しくそれなりに生きていこうと、、頑張っています、、、、だから全ての現象は私ごとに捉えられ、、、進んでいきます。。。これが苦しみの歩みになります。本当はこれを幻想と完全に見抜き、ゆえにこの体も幻想であり、、ゆえに私と呼ばれるこの存在も完全な幻想であることを見抜きます。この幻想の世界に、経験と呼ばれる感覚だけが真実としてあり、、、その経験がただ毎瞬毎瞬起こっている、、、この経験を全部集めた存在は真実、神、大いなる一つと呼ばれます。

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、

友人の話

内容は何も変わらないが、、、

友人との会話、、、、普段と何も変わらないやりとり、、、でも何かが完全に違う、、、それはその話が神様の会話に聞こえる、、神が自分というこの見かけ上の「私」に話しかけてくる、、、ただ話をしているだけなのに感動が起きてくる、、、神が私の会話に反応を起こしてくれている、、勿論、、、こちらの反応も勝手に起こる、、、、もう当事者はそこには居ない。。。。でもそれが気持ちが良い。

ただの会話

会話に中身を求める、、、ただの世間話では絶対に嫌、、、とれは当事者意識の強化が生み出している可能性がある。。。完全なる分離意識が、、、何かメリットのある会話をしたくなる、、、得をしたい、、が湧いてくる、、、、ですが真実に触れてしまうと、、、、会話は神のキャッチボール、、得をする神も損をする神も存在するわけがない。

会話が起きているというただそれだけ

会話が起きている、、ただそれだけが気持ちが良い、、、起こる現象に神を感じる、、、静寂(神)から相手の声が起こるのをはっきりと感じる、、、内容ではなく、、その声の起こることが気持ちが良い、、、現象そのものを気づくだけでそれでいい。。。こんな平和な、、日常が実はすぐそこにあった、、、ただこれを隠していただけ、、、完全なる曇りガラスで、、、終わらせていた、、、曇りガラスで覆っていただけの真実が、、白い光のように輝きだす、、、

仏の中で遊ぶ

仏像を拝む

仏像とは、、拝むものではありません、、、実は仏像は、、我々の本質の象徴です、、、我々が仏像という無限の存在であるという気づきを得るものです。。。仏像という無限の存在の中で今はこの体を遊ぶという行為をしているという体感を得る場所です。仏とは対象ではなく、、、まさに自身が完全な仏であり、、これは仏の鏡の姿であり、仏の鏡の姿の中で、、体験だけが存在しています。

無限の体験をできる

一人の人物を大勢で写真を撮ります、、、、一人100枚の写真を撮る、、、、100枚が完璧に違った写真になる、、、たった一人の人物が全く違った絵になる、、、、これがこの世界が無限である証拠です、、、この世界が無限の鏡、仏の鏡の世界である証拠です。鏡の世界の中でなぜ経験が積めるのか????おかしいではないか???感じているのは無限そのもの、仏です。。。無限の経験が起きることで、、無限は自身が無限であることに気づくのです。

本当の神は???

本当の神は???キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、、、、無限です、、、神の本質は無限ですから神は無限の表現をできます、、、、八百万の神、、、無限という意味です。。。どっちが本物か論争は無駄です、、無限の神の表現ができる世界がここだからです。

イメージを着る

ブランド品の数々

ブランド品とはイメージです、、、エルメス、グッチ、ディオール、、これらはイメージの世界です、、、エルメスには歴史があり、、その歴史の全てがイメージを支えます、、、ブランドにはゆえに時間が必要なのです、、時間という絶対的な概念がブランドを支えます、、、時間がなければブランドは存在できません。ブランド=時間です。

ブランドには意志はない

エルメスというブランド名には意志は存在しません、、、ですが意志があるかのような物づくりをします、、エルメスならではの作品を作ります、、、エルメスらしくないことはしません、、、ですが実際にはエルメスというのは名前であって実在ではない、、意志は全くないのです、、、、ですがまるで意志があるかのうようなブランド展開に成功することがこの幻想の世界での一つの在り方です。

人間の自我も全く同じ

人間には「名前」というブランドが付いています、、、これはただの名前です、、、ですがこの名前を持つ自我という存在が確実に居るという大前提で人は動きます、、エルメスと全く同じです、、、私にふさわしい行動をとります、、私にふさわしいパートナー、私にふさわしい会社、、私にふさわしい友人、、私にふさわしいマンション、私にふさわしい子供、、、です。。。。ブランドが大きくなればなるほどに苦しくなっていく、、、ブランドに耐えきれなくなっていく。

本当は居ないに気づく

自我など本当は100パーセント実在しません、、ブランド同様、、、周囲の反応がまるで居るかのような反応をするから勘違いが起きたのです、、、自我など100パーセント居ない、エルメスという実在、自由意志がある実在は100パーセント存在しません、、、この現象界は、、たった一つの実在、、、空、神、絶対の鏡の世界です。

全てはただ起こるという認識が起こすドミノ

最後の答えは決まっている

最後は決まっています、、最後の最後の気づきは、、「私が神だった」という気づきです。。。この気づきは必ず最後には起きます、、ですがその前に片付けなくてはならない観念があるのです、、それが後悔です、、あそこでこうしとけば、、あの時ああいう選択肢があったはずだ、、、となります、、、これを毎日毎日毎日繰り返すわけです、、、これを止めます、、、真実の力で止めます。

全ての思考、行動はただ起こった

全ての思考、行動は完全にただ起きましと、、、、最後に気づくこと、それが「私が神だった」から逆算すれば明白です、、、神が起こしたのです、全思考、行動を、、、、そして神は自由意志でこの80億人の意思を管理するなどするわけがない、、つまり全部が全部化学反応です、、、、因果、縁起、カルマ、ダルマ、、なんでもいいんですが、、つまりは化学反応がただ起きたのです。。。

ここに気づくと

反省が湧いてこない、後悔が湧いてこない、、将来に悩まない、、期待がないが安心だけがある、、、ただの傍観者という気楽な立ち位置、、、会社で言えば、、何も責任を追わず、、何も責められない、、社長のようなもの、、、最高のポジションがいきなり用意されている、、、、今までそんなポジションが無かったのではない、、、気づきなかっただけ、、、ここからドミノが崩れます、、全くの能天気、形崩れ、、期待も不安も何もない人生が始まります。

全く疲れないから、、、

この能天気な無責任ポジションに座りますと、、、とにかく疲れない、、全く力みがない、、、すると元気が湧いてくるのです、、子供時代の朝から晩まで遊べる元気が湧いてくる、、、、、だから動ける、、仕事も楽しい、プライベートも楽しい、、、となります。。。。これがドミノです、、、そして悟りの理解が進む、、、個人の不在に気づく、、他人の不在に気付く、、、全部が全部の現れに過ぎない、、に気づく、、、神に気づく、、、

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

攻めの急所

自我の消滅

ワンネス、大いなる一つ、ブラフマン、アートマン、真我、神、、、なんでもいいのですが、、これらの言葉についてどれほど詳しくなろうと、、どれほど理論的に理解しようと、、、悟りに至らないのは、、、個人が居るというこの感覚をどうしても手放せないからです。。。。理屈としては分かるんです、、、ですが、、ハッキリとこの個人という意識を所有している、、、、、そこを抜け出せない

それは無理だろ

この体というのはあまりにも巧妙にできていて、、、この体の中に「自分が居る」と思い込めてしまう仕掛けが盛り沢山、、これが盛り沢山すぎて全人類が騙されるのです、、、、経験を積めばあらゆる思考、感想が勝手に湧いてきます、、、この店は嫌な店だな、、店長は愛想が悪いな、上司は今日は機嫌が良いな、、、、とこの間違いのない思考が、、、、この「私」を絶対的なものにしていきます。思考が湧くのは疑いようもない、、だからこの「私」も疑いようがないのです。

勝手に湧く

ということで悟りの攻めの急所、、、、「思考は勝手に湧く」ここです、、、これだけです、、、ここが腹落ちするとドミノが倒れ始めます。。。思考が勝手に自動的に湧いていることを認める、気づくと、、、もう自分が信用できなくなります、、、おい、何もしていないぞ!!!です、、自分とは何もしていない、、、既得権益、、、何もしていないのにお金を全部持っていく既得権益、、それはこの自分、自我、私の正体です。

既得権益を滅ぼす

実は何もしていない、、この私が、、、最高権力者にのさばっているのがこの自分という存在、、こんな存在を許容して、、幸福になるわけがない、、、ありえない、、、全く存在していない存在を勝手に作り上げ、、これありきの思考がガンガン湧き、それに右往左往する生活、、、ありえない、、、冗談じゃない。。。ということで、、、ここが悟りを開くための絶対的急所です。

迸る情熱

情熱はこの体には無い

情熱はこの体には存在しません、、、情熱は、、存在そのものから湧き上がります、、、情熱は自我防衛システムとは全く関係のないところから生まれます。。。情熱とは、、、自我防御システムが起動していない時間かもしくは自我防御システムを俯瞰している時間、、、その時間に起きます、、、時間、、、とはこの自我防御システムが起動している状態のことであり、、、これが起動していない状態は、、時間から実は抜けます。自我防御ソステムを俯瞰すると、、、時間から抜け出し、、、そこに情熱が在るのです。

自我を形成するOS

自我とは記憶をベースに作られた、、プログラムです、自我というプログラム、、そして自我が在るという前提で起こった経験の全てが記憶されたデータが存在し、、この二つがリンクされることで、、思考、感情、行動が常に湧き上がってきます。この動きの中には情熱はありません、、ただのプログラムの起動に過ぎないのです。このプログラムの起動時間は基本苦しいので、、人は、、、、癒しを求めるわけです、、それが温泉だったりパチンコだったり読書だったり、TVだったりです。感じるというのは自我防御システムにはできないので、、その瞬間、この起動を安ませれるのです。

自我防御システムを起動させない

自我防御システムはこの体を守るために形成されました、、ですから、、この体を守る必要性が起これば、、このシステムは必要なくなります、、、ならば、、、さらに優秀なプログラムを作り直すことで、、ここから脱却できます。ではそのプリグラムとは???その偉大なプログラムとは何でしょう??それが、、、宇宙というプログラムです、、この宇宙全体を引き起こすプログラムに同期してしまえば、、いいのです。神というプログラムでもいいでしょう。。。これが起これば、、自我というプログラムは消えます。

真我というプログラム

自我というプログラムから真我というプログラムに同期させるには、、真我というプログラムを理解しなければなりません、、そのために我々は真我を学んでいます、、今このブログもそのために書かれています、、ヨガは体を感じて、、真我を感じ、、真我そのものが感じ、、自我から真我への自動シフトを起こすメソッドです。瞑想も思考を感じ、真我を感じ、、真我が感じ、、自我から真我への自動シフトを起こすメソッドです。

知りたい

何を知りたいのか?

人間はなぜ学びたいのか、なぜ知りたいのか???小さい子供はなんでなんで????と一日中聞きます、、、なぜか?????知りたいのです、、、全部を、、、なぜ?????自身の本性が全部だからです、、、そしてこの欲求は終わることがありません、、、なぜか????自身の本性が無限の存在ですから、、知るべきことは無限に広がるのです。

新しい経験

個人が新しい経験を積むと、、、嬉しい!!が湧きます、、、これは神から湧きます、、、なぜか???神(無限なる存在)が新しい経験を獲得したからです。。。。家で本だけを読んでいても楽しくないのは、、、読んだ思想、価値観を経験する場所こそがこの世界だからです。無限なる存在は無限の体験を回収したいのです。

全ては無限の経験のために

自分自身が全く何も経験を詰めていない、、そのように思えても反省の必要は一切なし、、、その経験こそがただ起こったのです。。「この私が確実に居る」という思考が起こっている時、、、これは真実ではありませんから必ず極限の苦しみまで入り込みます、、ゴールがない道を歩けば人は必ず途中で諦めます、、、この諦めがおきるから大丈夫なのです、、、自我の性質上、、これしかない、、、究極の諦め、やぶれかぶれ、山頂がない山を歩き続ければ、、、絶対に途中で諦める、、、これが悟りの入り口です。