思考を意識して放置する、思考は無意識だと取り込まれる

思考が湧いてきたら意識して放置してみる

ニュース番組を観ればあらゆる思考が湧いてきます、、、この瞬間に無意識にしているとそのまま思考に取り込まれていきます。今日友人と会うという約束をする、、、するとあらゆる思考が湧いてきます、服装をどうするか?時間は守れるか?どこで食事をしよう、、、、そこから思考に取り込まれていきます。これが思考に対し無意識の状態です。非常に苦しい状態です。なぜならば今こそが至福、歓喜、平和であって、、思考の場所はそこから離れた場所、過去、未来です。

思考に対し常に意識的であれ

思考というものを我々は無条件で受け入れています、思考が湧くことを悪いことだと思っていません。勿論思考=悪ではない、、、ですが思考に取り込まれると苦しいのは事実です。なぜならば今、非二元、全体から離れるから。そこで思考に対し意識的になってみます、思考が湧いたら意識的に放置します。これを何度も何度も行っていきます。もう思考の無意識取り込みには絶対に付き合わないと決めます。

今とは平和、歓喜、安堵

今にある時、、、平和、歓喜、安堵が襲ってきます。今とは無我、無心のこと、、、そこは神が住む場所、全体が全体である場所です。そこに意識的に入り込みます、、、無心、無我、神に意識的に入っていきます。思考を意識的に放置して無心、無我に意識的に入ります。五感の経験に意識することそこは今、無心、無我です。五感とは体の感覚であり、体は今にしか存在できません。

五感と思考の綱引きに勝つ

五感は常に神に導く

体を使った五感に触れることは神に触れることです。体とは今にしか居ることができません、今とは全体のこと、神のこと、ワンネスのことです。五感に触れ続ければそのまま今、神、全体、ワンネスにあることです。ところが五感を感じると必ず思考が湧いてきます、この料理は新鮮だろうか?この香りは何の調味料だろう?このワインはフランス製か?あの看板は昨日見たっけ?どの五感からでも思考が割り込んできます、、、この思考の割り込みに乗ってはいけません。この思考の割り込みに乗れば、、、そのまま過去、未来へと連れ出され引っ張り出され、、、今、神、全体、ワンネスから離れていきます。

思考は過去、未来に意識を引きずり回す

思考が存在する場所とは過去、未来です。思考に意識を向ければそのまま過去、未来に意識が引っ張り出されます。過去、未来とは今、神、全体の波動が薄れた場所です。この場所に居続けると居心地が悪くなっていきます、酸欠になっていきます。一日中思考フルスロットルの人間は一日中酸欠状態にあります。思考の罠に引っかかったら直ぐに五感の感覚に戻ります。そこは今、全体、神です。

五感と思考の意識の引っ張り合いは思考に軍配が上がり続けてきた

五感と思考の引っ張り合い、、、多くの方は思考に引っ張られ続けてきたはずです。今、全体、神から、、、引き摺り下ろされ、、、酸素が薄い場所に連れて行かれていたはずです。それが思考が存在する場所、過去、未来です。何かを見てば思考が湧き、何かを食べれば思考が湧く、何かに触れれば思考が湧き、、、と一日中今から過去未来へと連れて行かれてきたはずです。もう思考に関心をもたない、、、思考が湧いてきても放置です。

探求をやめない限り全体は見えない

先ずは探求をやめる

自分とはこの居心地の悪さを常に解消すべく動き回る存在です。自分とは孤独感、喪失感の根本を見ようとはせず常に何かしらの行為でこれを解消しようとする存在です。自分に行動、探求を許せば自分はひたすらにこの行動を続けていくことになります。なぜならば今というここにただ居るのは非常に苦しいからです。だかこそ先ずは探求、行動を辞めなくてはなりません。いかに苦しくても先ず行動を止めること、ここがスタートです。

行動の先に真実がない

先ずは動け、、、これを人間は真理のように言います。ですが全体は自分の行動の中では絶対に見えないようになっています。なぜならば自分が動けるのは時空間の中だけだからです。目を見開いて全開で行動すればそこから時間、空間が生まれ出し、、幻想の世界にどっぷりと浸かることになるのです。そこには全体、神は居ません。

全体は個人が動くのを辞め、個人を解体すると現れる

全体とは個人が動くことを諦め、個人という構造を解体することでそこから現れます。個人という存在が全体を隠しているのであってその個人が全力で存在を探すのがギャグになります。個人という存在が抜け落ちた時こそ全体が出現します。個人が実は幻想であることを見抜くことで見える世界も幻想であり、、ゆえに動くことでは何も掴むことはできず、そしてそこに気づくしかありません。

全体から突如現れた個人は全体に飢える

個人は実は全体に飢えている

この全体しかない世界において個人が突然生まれるわけですが生まれてきたわいいがなぜ生まれたのか?なぜ生きなくてはならないのか意味がわかりません。全体でしかなかったのが突然個人になってしまったわけです、寂しいし、居心地が悪いし、絶望感が湧いてくるしで苦しくて仕方がありません。そこで個人はこの世界の中に何か自分を満たしてくれるものはないか?と日々貪るように生活していくのです。

ですが何にも満たしてくれない

突然全体から個人になっても何が苦しいのかさえ分かりません。全体だった記憶は全く消え失せてしまいないのでただ苦しいだけ、ただ寂しいだけ、、、何が起きたのか全く分からないのです。これが大人の真の姿です。どこまで行っても何がこの苦しみを解消してくれるのか見えてきません。友達をたくさん作っても、恋人を作っても、ゲームをたくさんやっても、スポーツに興じてもいつもどこかで不安を抱えています。これが人間の真の姿です。

神仏に頼る

大人になってもこの居心地の悪さの真意が見えないことで人は神仏に頼るケースもあります。この心の大きな穴を埋めてくれるのは神や仏ではないか?ということです。ですがこの「自分」という大前提を壊さない限り、、この大きな穴は絶対に埋まらないのです。なぜならばこの自分という存在が全体を真っ二つに引き裂きそれこそが苦しみを生み出しているからです。

残念な社長(私)同士の世の中

実は全部部下が決めている

残念な社長って世の中にいます。実は部下が全部決めているのですが表向きは社長が絶対的に決めていると装っている社長、、、部下言いなりになっているが表では自分がしっかりと決めていると言い張る社長、、これが人間の姿です。この私(自分)が全部決めていると思い込んでいますが本当は何も決めていない、、、神(潜在意識)が決めたことを私が決めていると錯覚させられているだけ。これが私です。

本当は全く決めてないのにいがみ合う社長同士

なぜあなたの会社はこんな決断をしたんだ???私がこんな決断をしてしまい本当に申し訳ありません、、、こんな茶番が日々繰り返されています。本当は全く誰も自分では決めていないのに。大喜利、コント、落語の世界の話です。誰も何も決めていないにも関わらず決めているという大前提で人間同士、残念な社長同士が罵り合うという悲劇がこの現実です。

誰も何も決めていないのだから、、、

誰も何も決めていないのだから、、、いがみ合うのは無意味です。かと言って何も相手に責任を求めないのもおかしい、、相手を残念な社長だと理解すれば、、、(本当はあなたが決めていないのは知ってるけれど、、、)このようにお願いします、、、と大人の対応ができるようになります。残念な社長を相手するように全てを対応していけば万事平和にことは進みます。

顕在意識(私)は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたと錯覚を起こす

顕在意識はただひたすらに錯覚を起こす

顕在意識とは私のことです、この私は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたとひたすらに錯覚を起こし続けます。本当は全部潜在意識が決めているにも関わらずただ健在意識はそれを私が決めたと錯覚を起こします。全部が全部このパターンで行われています。だからこそ無自覚であっても料理、掃除、食事、トイレなどの日常生活の行為は勝手に遂行されます。今私はタイピングしていますが自分が打っているという自覚は後付けでしかありません。

顕在意識が私が決めたと錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めている

ということは顕在意識がこの錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めているということになります。大変面白い事実です。結局のところ「覚者は全て自作自演であると言う」のはこの事実からです。潜在意識から昇ってきたきた衝動を顕在意識が自分が決めたと錯覚を起こし続けるメカニズムが人間(私)です。

何も決めていないならば何も反省できない

このメカニズムを知ると、、顕在意識(私)に決定権は何もなく、、、決定権が何もないにも関わらず慢心したり、反省したりするのは無茶苦茶な行為です。人間(顕在意識)に決定権が何一つないならばこの世界で行われている責任の擦り付けに何か意味はあるのでしょうか。ただしこの責任の擦りつけすらも潜在意識が決めてそれを顕在意識が錯覚を起こしているだけですのでそれすらも顕在意識には関与できません。この世は神の遊び場というのはどこまで行っても本当のようです。

全ての価値観はトリック

全価値観はトリックである

価値観とはこの体、思考、感情が「自分」でありその自分が体験した経験こそを土台に構築されています。人は信用できない、、、という価値観を強く持った際にはそれが土台になりますし、その思考で世界を分離して見ますから街を歩けば信用できなそうな人間ばかりが目に入るようになります。ですがこれはその人がそのような思考を通じてこの世界を見ていることによって成り立ちます。ということで全価値観とはトリックです。本当はこの世はたった一つのエネルギーしかなくそれゆえ分離は一切ありません。価値観を所有する個人は実はいないのです。

では価値観には意味がないのか??

価値観は悪ということもありません、価値観を所有すればその価値観に沿った世界が分離をして見せそのような世界が広がるという事実だけがあります。それに良い悪いはありません。神はこのように人間体験をしているというだけです。人間は独自の価値観を構築しその価値観を通じてこの世界を構築します。その世界が苦しすぎる場合その人間は新しい考え方を取り入れていき価値観を徐々にシフトさせていきます。すると見える世界が変化をしていきます。それでもこの苦しさ、居心地の悪さが完全になくなることはないのでそこからも価値観は徐々に変わっていくということになります。そして苦しみが完全に解消するまでこの試みは続きます。

どんな価値観を所有するか、、その人の世界

どんな価値観を所有するかが、、その人の生きる世界になります。その世界はあくまで分離世界ですからどこまで行ってもそれは嘘、幻想です。世界はたった一つのエネルギーで構築していますから分離して見えている時点でそれは価値観に支えられた世界です。真実ではありません。真実はこの世は一つこれだけです。これ以外は全部幻想、妄想です。その人がどのような価値観を所有しどのような幻想の世界に今生きているか、というだけです。

価値観と事実は全く異なる

価値観とはこの人間の独自の体験でのみ成り立つ

価値観というのは事実とは全く異なります。この違いこそが苦しみ、孤独、喪失感、絶望感を生み出します。もっと言えば価値観自体が個人という自分が居るという絶対条件で成り立っています。ですがこれ自体が事実は異なります、個人という全体から分離した存在はいません。ですから個人という人間が体験したことによる価値観は常に苦しみを生み出す源泉になるということになります。

事実は「この世界はたった一つのエネルギーで出来ている」

事実だけを説明すればこの世界はたった一つのエネルギーで形成されていてそのエネルギーが変幻自在で動き回っている。その中に人間という現象が起こり、この人間は独自の進化を遂げ分離世界を構築しているということです。ですが実際には分離は起きるわけがなく分離している錯覚だけが起き続けるということです。この分離体験の総集編が価値観です。大誤解から起こったものが価値観です、この価値観こそが人間に苦しみの感情を湧かせ続けています。

価値観こそは人間を神に戻す道具になる

価値観が事実と同じになるまでこに苦しみは延々に続いていきます。なぜならば勘違いをすればそれは反映されるからです。ということで価値観は変わり続けていきますしその間は苦しみが湧き続けていくのです。価値観から発生する苦しみは人間に気づきのヒントを与え続け自身が実は全体だったという究極の気づきにまで誘います。

この世界では自らを殺める自由すら与えられている

間違えることができるのは愛

本当の意味では間違いというのはないのですが、、この人間ゲームでは間違うという自由すら与えられています。これはゲームですからどの行動も完璧です、ゲーム上で行える行動は全部許されているからその選択肢があるわけです。そうなれば我々の行動には一切間違いはありません、マリオゲームでのプレイに失敗は全くありません。クリアする上で非効率に見える行為があるだけです。この人間ゲームも同じ、このゲームでは自らを殺めるという自由すらも与えられています。

なぜそのような自由があるかと言えば、、

なぜそのような自由があるかと言えばそれこそが愛、神、ワンネスが舞台の大元だからです。この人間ゲームではあらゆる失敗をすることが完璧に許されているのです。そして失敗とは人間が考える価値観であり宇宙には失敗という概念すらありません。人間という存在が苦しむ自由が与えらえているので自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるということです。

苦しむ自由が与えられている、、

この人間ゲームの特徴は苦しむという自由が大前提にあるということです。神が人間になり切っているわけですから基本が苦しみです。あとはその苦しみをいかに回避しながらも苦しみの根源に迫っていくゲームです。ゲームの特質上、途中で自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるでしょう。ですがそれすらもそのような行動をとる自由が与えられているというゲームの寛容性なのです。

面白いも苦しいの一つ

TVゲームは楽しいの次の日に退屈が襲ってくる

TVゲームが好きな人は分かっていると思いますが昨日まで楽しかったゲームが次の日に全く面白くないということが起きることが多々あります。突然飽きて全く面白くなくなる、、、これ人間の本質を突いています。人間にとって楽しいはある日突然飽きるに変わる可能性があるのです。これは非常に辛いもの、苦しいものです。人間関係ではこれは顕著に出ます、、それまで楽しいの関係がある日突然苦しいに変わる、、、、絶対に誰でも経験したことがあるはず。人間の快不快は常にコインの表裏、快不快はどちらも苦しみの次元にあります。

人間の快不快が苦しみならば、、

芸能人の売れる売れないはどちらも苦しみです。自殺者が出ればそれは容易に理解できます。人間にとって他者評価の高低はどちらも苦しみです。人気者も不人気者も実はどちらも苦しみです。そうです「自分」という存在が引き起こす快不快はどこまで行っても苦しみにつながるです。これが人間の本性です。いかに早くこれに気づくかです。神が人間になり切ってこの人間ドラマを生きていますがこのドラマの卒業以外にこの苦しみを解消することは不可能です。

楽しいを追い求めるのではなく、、

楽しいを追い求める=苦しみの世界に移住です。そうではなく全作業から歓喜、平和、安堵に入れることを知ります。掃除、食事、仕事、エクササイズ、全作業が無心、無我に入る入り口になります。このことを知るのです。何かをしたら面白くなるかもではなく、、、全作業に集中して取り組みそこから無心、無我に入っていきます。全作業を花道、書道、剣道のように無我への入り口に使います。